魔王様、それは印鑑にございます!
ついに役所に採用された魔王ヴァルザーク。
初仕事は――書類への“印”を押すこと。
血判でも炎刻印でもなく、朱肉と印鑑。
その行為に“儀式の気配”を感じ取った魔王は、今日も全力で勘違いする。
「これは……魂を刻む呪具の儀――!」
紙の神殿(役所)を舞台に、魔王の社会適応バトルが始まる。
翌日。
我は役所から支給された作業服に袖を通した。といっても胸に名札が縫い付けられただけの灰色の上着で、覇王の衣には程遠い。角の失われた頭に風が当たるのが妙に心許なく、仕方なく麦で編まれた帽子を抱えて出勤した。……麦が我が角の代わりだと? いや、泣いてはおらぬ。おらぬからな!
受付で名を告げると、昨日対応してくれた眼鏡の女が現れた。
「ヴァルザークさんですね。配属は魔物登録課。基本は書類仕事になります。私は教育係のエリナです。ご案内しますね」
「よかろう。戦場が紙であろうと、我は退かぬ」
横を通り過ぎた青年が、ひそひそ声で言った。
「(なあエリナ、今日の新人……濃くない?)」
「(トーマ、気にしない。前にも似たようなのがいたでしょ)」
「(いたっけ……?)」
ふむ。過去にも“魔王”がいたのか。面白い。
案内された魔物登録課は、机と棚と紙の山で構成された牢獄のような場所だった。朱肉の匂いがわずかに漂い、職員たちは淡々と紙を操り、無造作に印を落としていた。蛍光灯の白い光は冷たく、紙面の上に冬の霜のような静けさを広げている。
エリナが小さな筒を差し出す。
「これがあなた専用の印鑑です。名前が彫ってありますから、大事にしてくださいね」
「ふむ……契約の呪具か」
「呪具じゃなくて印鑑です」
「名を刻み、魂を封じる依り代……」
「ただの認印です」
隣の席のトーマが笑いをこらえて肩を震わせた。
「まずは、この緑のマットを机に置きます。机が汚れないように」
「……祭壇を守る護符か」
「マットです」
「次に朱肉に軽く触れて……」
「血の泉に指先を沈めるように……なるほど、供物の儀式だな」
「血じゃなくてインクです」
ぽん、とエリナが見本を押す。
「はい、これで終わりです」
「……終わり!? 三息の呼吸も、魂を鎮める呪文も無いのか?」
「いりません。ただ真っ直ぐ押すだけです」
周囲の職員たちは無表情で書類を片づけ、ぽんぽんと無造作に印を落とす。
だが我の眼には違うものが映っていた。――整然と並ぶ赤い印影は、千軍万馬の旗印! 血に濡れた刻印を掲げ、無言で進軍する人間の軍勢……!
これが事務処理ッ――!
思わず机に手をついた我を、トーマが冷めた目で見ていた。
練習を始める。エリナは朱肉の蓋を上向きに置き直し、指先で表面を軽く撫でた。動きは小さく、音はほとんど無い。だがその無音こそ、儀の完成形に思えてならぬ。
「ここに垂直に。強く押しつけないで、離す時に紙を引っかけないように」
「垂直……天へ貫く槍だな」
「槍というより、スタンプですね」
我は印を落とした。ぽん。少し滲む。
「朱肉は“漬けない”。“触れる”。そうすると滲みにくいです」
「血は浴びるものではなく、触れるもの……なるほど節制の戒め」
「インクです」
午前の任務は魔物飼育許可の更新書類三十部。
「ここに“見ました”の印を押してください。相手からは“受領印”をもらいます」
「二重契約の巡礼……!」
「巡礼じゃなくて確認です」
紙にはさらに「受」「回」「決」「済」と小さな枠が並んでいる。
「この巡礼の果てに“決裁”の玉座があるのだな!」
「玉座じゃなくて係長の印です」
窓口に立つと、人間どもは列をなし、魔物の相談を繰り返していた。
「うちのスライムが膨らんで――」「火を噴く子なんですが保険が――」
魔物は眷属ではなく、もはや彼らの生活に組み込まれている。子が泣けば親があやし、職員は迷いなく“番号札”とやらを配り、数字が呼ばれれば一歩前へ。戦列歩兵のような秩序である。
「受領印を」「はい、こちらに」
ぽん、ぽん、と赤い影が紙を埋めていく。
それはただの印であるはずなのに、我にはまるで聖痕のように見えた。
昼。休憩室で紙コップの自販機に向き合う。金属の筐体は冷たい甲冑のようで、選択肢は多岐。珈琲、紅茶、コーンスープ。いずれも熱き液体の名が並ぶ。
「何にします?」
先ほどからちょくちょく話していたトーマと二人きりになる機会を得た。
「戦の前には黒き霊薬だ」
「コーヒーのこと?」
「こーひー? 豆をすりつぶして液を抽出した渋みを感じる飲み物のことだ」
「うん、コーヒーだね」
ボタンを押すと、中から軋む音、回転、湯気。機械の腹は小さな鍋の音を立て、やがて紙の杯に黒い液体を満たした。
ひと口。舌が焦げ、目が冴える。千年の眠りより目覚めた我には、新鮮なものだ。
「苦い……が、効く」
「砂糖入れればいいのに」
「薬は苦いから薬だ」
「いや飲み物だからね?」
午後、稟議書の記入を命じられた。備品購入の理由を書く欄だ。
「“魔王の威光に耐えうる印材が必要”」――そう記した瞬間、エリナのペンが止まる。
「だめです」
「なぜだ! 威光は真理!」
「稟議に必要なのは“業務効率化”“職員の負担軽減”。そういう言葉じゃないと通りません」
「冷たい言葉で呪を縛るのか……!」
「呪じゃなくてフォーマットです」
「では供物は?」
「見積書三社分です」
「三柱の神々に供物を捧げよという戒律か!」
「規則です」
紙という迷宮は、我が知るどんな魔法陣より理不尽であった。
廊下を走っていると、窓口から怒声が響く。
「なんでここにハンコが要るんだ!」
エリナがすっと前に出て、一礼した。
「説明不足でした。こちらに修正印をお願いします」
余白に二重線、小さな印。すると、男の怒りは紙に吸い込まれるように霧散した。
「……済まなかった」
「いえ。次からはここにお願いしますね」
赤い朱が、怒声を鎮めた。あれは呪術ではないのか……!?
「朱は怒りを鎮める……血の儀式ッ!」
「印鑑です」
トーマが通りすがりに囁く。「(でも赤いと落ち着く人、いるよね)」「(個人差)」
戻る途中、備品庫で印鑑を落とした。小さな筒は床を転がり、机の脚の下へ逃げ込む。まさしく小鬼のような動き!
「捕まえた!」
身を屈めたトーマがつまみ上げる。
「無くすと大変だから、紐つけときましょうね」
「魂の器に縄……器を縛り付ける呪いか……」
「落下防止紐です」
夕刻。最後の決裁印が戻ってこない。
「係長が会議中なので、代理決裁を順番に回してください」
「順路を間違えば振り出しに戻る……これは迷宮かッ!」
「ただの回覧です」
紙束を抱え、総務へ、財務へ、再び課長代理へ。紙は矢印で指し示された通りに動き、人々はその順路に縛られていた。壁の時計は冷酷に分を刻み、秒針は短剣のように我の背を刺す。
「新人、朱肉の蓋は必ず上向きにしろ。逆さにすると机が怒るぞ」
白髪のベテランが言う。
「机に魂が……!?」
「いや、インクが漏れるだけだ」
「理は無いが、効く。覚えた」
夜。最後の書類が戻ってきた。
小さな枠はすべて朱で染まり、最後に大きな円が鎮座する。
「完了」
その一言で部屋の空気が下がり、誰かが椅子を押し、誰かが水を飲み干した。ため息の波が静かに巡り、缶の触れ合う小さな金属音が遠い鈴のように響く。
我は紙に向かって深く一礼した。
「紙の神殿よ、今日も試練を与えてくれたな……!」
「普通に仕事終わっただけですよ」
玄関の自動扉が開き、夜の風が入ってくる。街の灯は星の代わりに地上で瞬き、舗道を歩く人々は疲れた背を互いに知らぬふりで通り過ぎる。
「明日は窓口業務です。ハンコに加えて“笑顔”もお願いします」
「笑顔……?」
「はい。口角は小さく、目は柔らかく、声は落ち着いて。そうすると市民が安心します」
「礼から始まり、笑みで終わる奥義……!」
「奥義じゃなくて接客マナーです」
我は確信した。角は失われた。だが印はある。礼と朱と笑み――この三手で、明日も紙の戦場を生き抜く。
夜空に麦わらの庶民の冠を掲げ、我は胸中で復唱する。三息、一礼、垂直、離す。ぽん。ぽん。ぽん。千軍万馬の旗印は、明日もきっと揺れる。
庁舎の外で、警備員が出入札に印を押しているのが見えた。出入口の台に置かれた薄い札に、淡々と押される小さな朱の点。ここにも門番、ここにも印。世界は印で閉じて印で開く。
宿舎に戻ると、洗面台の鏡がこちらを睨み返す。角のない額、日に焼けかけた頬。試しに口角を上げる。
「……こうか。いや、牙が出る。弱く、丸く」
目を柔らかく、声を一段低く。麦わらを被り直し、深呼吸。三息。わずかに笑む。鏡の向こうの自分が、ほんの少しだけ人間に見えた。
紙は世界を縛る鎖。そして印は、その鎖の留め具。今日、我は鎖の扱い方を学んだ。明日は、その鎖で人間の不安をやさしく留める番だ。
「征服とは、壊すことにあらず。留めることでもあるのだな」
自分で言って自分で驚いた。征服者の語彙に“やさしさ”など、あるものか。だがこの世界では、それが術理だ。認めねばならぬ。
麦の冠をランプに掛け、灯りを落とす。瞼の裏に浮かぶのは赤い小円の行列。千軍万馬の旗印が、眠りの底でなお進軍していた。
「人間の呪術“事務処理”……恐るべし。
あれほど小さな朱印が、これほど心を削るとは……」
次回――
『魔王様、それは“窓口業務”にございます!』
魔王、ついに市民と直接対峙。
子どもに“りんじのおじさん”と呼ばれ、
怒鳴り込んだ男を“朱の力”で鎮める!?
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