あの子
彼女をひと目見た時、息が止まるかと思った。
それくらい俺の大切な人に似ていたから。
親父の仕事の都合で明日からこの学校に通うことになった俺は下見も兼ねて見学に来ていた。
ある程度の話を終えたら親父は帰っていったけど、明日から通う教室の場所くらいは覚えておきたいなって思って。
まるで物語に出てくるような熱血教師の担任に教室の場所を教えてもらい、廊下を進む。
数年前に改修工事がされたとは聞いていたけどそれにしても綺麗な学校だな。
まるで映画のセットのよう。
「2-3…あった、ここだ」
他の教室の扉は閉まっていたのに何故かここだけは開いていて、不思議に思いながらも覗くとそこには一人の女の子が居た。
教室の一番後ろ、窓際の席で自分の腕を枕代わりにしながら眠っている。
誰も起こしてくれなかったのかな、そう思って彼女の元へと近づく。
はっきりと彼女の顔を認識した時、時が止まったような気がした。
眠っているから横顔しか確認できないけれど、俺の大切な人にそっくりだったから。
長くて綺麗な黒髪に真っ白な肌、触れたら壊れてしまいそうな華奢な身体。
瓜二つと言っても過言ではない位に目の前の彼女はあの子にそっくりだった。
「ねぇ」
気付いたときには声を掛けてしまっていた。
だけど何度か声をかけても目の前にいる彼女は起きる気配がない。
「もしもーし」
耳元の近くでさっきよりも少し大きな声で話しかけると、ビクッと少し揺れた身体。
「こんなところで寝てたら風邪引くよ?」
ゆっくりと上体を上げ、僕を視界に捉える彼女。
ぼーっと、寝ぼけ眼で俺を見つめる君はやっぱりあの子にそっくりで。
目の前の彼女があの子と重なって見えて、思わず手を伸ばしてしまった。
その瞬間。
「触らないで!」
教室に響き渡るほどの大声を上げ、椅子から立ち上がった彼女。
そのあまりの勢いにバンッと大きな音を立てながら後ろに倒れた椅子。
こちらには一切目もくれず、下を見る彼女はなんだか酷く怯えているようで。
突然知らない男から触られそうになったそうなるよな…
申し訳ないことをしてしまった、と自分の軽率な行動を後悔する。
だけど僕は足早に此処を立ち去ろうとする彼女を呼び止めてしまった。
どうしても君の名前が知りたくて。
「俺は青海 煌。君の名前はなんていうの?」
下を向いたままの彼女がぽつり、小さく呟く。
「…淡島 桜」
今君の名前を初めて知ったのに、まるで前から知っていたような不思議な感覚に陥る。
それくらいなんて君に似合う言葉なんだろうと思った。
美しいのに儚くて…触れてしまったら消えてしまいそうな、そんな君に"桜"という名前はぴったりだと思ったんだ。
だけど名前を言ったらすぐに君は立ち去ってしまって、ぼんやりとその背中を見つめることしかできなかった。
最後まで目を合わせてもらえなくて少し寂しかったな、なんて。
性格はあの子と真逆だったけれど、やっぱり容姿は本当に似ていた。
生まれ変わりなんじゃないかってそんな馬鹿げたことを考えてしまうくらいには。
…彼女のことをもっと知りたい。
分かってるよ、彼女はあの子と何も関係無くてただの他人の空似だって。
でも何かに縋らないともう僕も壊れそうなんだ。
あの子の生まれ変わりかもしれないって思わせてよ。
行き場のない感情が涙に変わっていく。
泣き崩れるようにその場にへたり込む姿は酷くみっともなくて。
どれくらいの間こうしていたんだろう。
気付けば窓から差し込んでいたはずの夕日の光はとうに沈んでいて、辺りは真っ暗になっている。
久しぶりにあの子と過ごした日々を思い出してしまった。
俺があの子と出会ったのはまだ俺が3歳の時。
「こんにちは!」
家の近くの公園の砂場で遊んでいると、屈託のない笑顔を浮かべながら駆け寄ってくる一人の女の子。
だけど極度の人見知りの俺はこの時何も言葉が出せなかった。
「いっしょにあそぼ!」
半ば強引に砂場から引きずり出されて、ブランコや滑り台に連れ回されている間にだんだんと俺も緊張が解けてきて。
身体中砂まみれにして笑い合ってたよね。
これが俺とあの子の初めての出会いだった。
あの日以来、俺はあの時の女の子に会いたくて毎週公園に行ったけれど会えなくて。
会えないまま数週間が経った頃、「今日も公園に行く!」と母親に駄々をこねて出発しようと玄関を出た時だった。
「パパ!」
あの日の女の子の声がはっきりと聞こえたんだ。
急いで玄関を飛び出して、キョロキョロと辺りを見渡すと一人の女の子が目に映る。
そしてそのまま俺の家の隣の一軒家に入っていく女の子。
「いきなり飛び出したら危ないよ!」
後ろから母親がものすごい剣幕で僕を追いかけてきていたみたいだけど、そんなことあの時の俺はどうでも良くて。
何も答えない俺を今度は心配したのか「どこかぶつけたの?大丈夫?」と俺に目線を合わせるように屈んで聞いてくる。
だけどごめんなさい、大丈夫のどちらでもなく
「あの子がいたの!」と興奮気味に答える俺に母親は戸惑いを隠せないでいた。
「あの子ってこの前の公園の子?」
「そう!あそこに入ってたの!」
そう隣の家を指差すと
「あっ、もしかしてお引越ししてきたのかな」と妙に納得した表情で零した。
それもそのはず。
今だからこそ分かるけどずっと空き家だった隣の家が改装されていたり、この日は大型トラックも駐車されていて引っ越し作業中なのは明らかだったから。
「この前は下見で来てたのかもしれないね」
「したみ?」
「新しく住むところを家族で見学しに行くんだよ」
そんな会話をしているとあの女の子が家から出てきて俺を視界に捉えた。
俺のこと覚えてくれてるかな。
そんな不安と、でもまた会えた嬉しさでなんだか胸がいっぱいになったのを覚えてる。
真っすぐこちらを見つめていたあの女の子は俺と目が合うと、あの日と同じ満面の笑みを見せてくれた。
その笑顔を見たらさっきまでの不安なんて消えていって、つられるように俺も笑顔になる。
あの子に声を掛けようとしたけれど、ふと思い返す。
あんなに長い時間一緒に遊んでいたのに、あの子の名前を知らない。
その事に気づいてしまった俺は言葉に詰まってしまう。
あの子は突然おろおろし始めた俺を不思議そうに見つめると、此方へと近づいてきた。
「この前一緒に遊んだよね?わたし、今日からここに住むの!」
そう言って俺の両手を掴み、その場で飛び跳ねるあの子。
その勢いある動きに俺の両腕はぶんぶんと音が鳴りそうなほどだった。
「わたしひな!あなたは?」
小首をかしげながら満面の笑みでそう問いかけられる。
「ぼくは、あき」
「あき?じゃあ、あきちゃん!よろしくね!」
またぶんぶんと俺の腕を揺らすからつられて俺も笑顔になって。
まだあの時3歳だった俺に"恋"という感情が備わっていたのか分からないけれど、これが恋じゃないなら何がそういうのか。
だからきっとこれが俺の初恋。
最初で最後の恋だったんだ。