天才とは
〈穀象蟲食の怨みの淺からず 涙次〉
【ⅰ】
テオは先日の「駄河馬」の一件と云ふ大きな仕事を終へ、谷澤景六としての作業に戻つて行つた。櫻林悌生ものゝ「人の親」なる小説、久し振りに(長らく詩に嵌つてゐたから)文藝誌での小説の仕事である- を發表。
親として、我が子の人格は認め、「あなた」と呼び掛ける作家。だが、裏では、酒・ドラッグに明け暮れる、碌でもない男... どことなく太宰の事を思はせる、そんな小説である。そして、自ら仔猫たちを抱へた、その覺悟が漂ふ佳品。
永田も、久方振りの(YM賞受賞後、初の新作である)仕事らしい仕事をした。『火鳥の事』‐愛慾にまみれた永田本人と火鳥との生活を、克明に描いた私小説である。谷澤も、「永田さん本質的には、私小説家だからね」と云つてくれたし、当の火鳥「あなた書く事やうやく見付けたのね、天才が羽搏く時が來たわ」などゝ詩的表現で、永田の二度目の門出を祝つた。連載先も決まつたし、これで当分原稿料で食ひ繋げる...
【ⅱ】
安条展典はまだ火鳥の事を忘れてゐなかつた。と云ふか、寢盗られた女は、忘れられないものである。第31話の「光學魔神」、第116話の鰐革男、そして先日の「レスボス魔」‐彼の許を去來した、様々な【魔】たち。中庸の精神が宿つてゐる彼の魂であつたが、そろそろ魔界堕ちが、見えてゐた。
永田が『火鳥の事』を書くと、彼の精神のバランスは、流石に大きく崩れた。ふと、カンテラ事務所を訪れる。「相談室」で、「僕がもし、魔道に墜ちたら、これで僕を斬つて下さい」と、カンテラに金一封を渡した。この期に及んで、自分の出來の事を考へるなど、なかなか人間、出來ないもの。カンテラは彼を憐れみ、また藝術の「魔」を思つた。
【ⅲ】
「レスボス魔」と云へば、例の、悦美×遷姫のレズビアン冩眞集、上梓されたのだが... 一番エグいところをカットしてあつた。だが、ディレクターズ・カットならぬ、撮影者のみ知る部分を、一部の好事家は、だうやつてか手に入れてゐた。彼らは、一様に、安条の天才を讃へた。このエロスを抽き出し得るのは、まさしく天才であらう。と、云ふ譯。たゞ、その賞讃は、彼の傷ついた精神には、良い作用は齎さなかつた。天才であるこの僕に、對抗する男は果たして天才か? その比較自體、狂者のそれだつた...
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〈かはづ鳴く長閑けし田には水滿ちて狂者ひとりが影を作れる 平手みき〉
【ⅳ】
安条の【魔】としての仕事、第一彈は、自分のスタジオに火を放つ事だつた。これは近隣の住宅地に、大きな被害を與へ、彼は警察に追はれる身になつた。その逃走を、カンテラは着けて行つた。永田を連れて。
カンテラが永田を連れ出した譯は、恐らく、「自分の藝術家としての業を知つて慾しい」の一言に盡きやうが、だからと云つて、永田に出來る事など、何もなかつたのである。
【ⅴ】
安条は放火魔と化してゐた。あちこちの路地裏で、彼の姿が確認されてゐる。その惡行の内に、自らを沈めてしまへば、哀しみ・淋しさなど、消えてしまふだらう、との考へだつたのだが...
そろそろ斬り時、潮時なのかな、カンテラはそう思つた。荒ぶる魂は、冷却する事が叶はなければ、斬るしかない。と、
「安条さん、だうか元に戻つてくれ! 被害者の事が考へられぬ、貴方ではないだらう!」永田は安条に詰め寄つた。だが、カンテラはそれを制した。【魔】に魅入られた人間と云ふものを、永田はもつと知つてゐて然るべきだつた...
「しええええええいつ!!」結果、カンテラは安条を斬つた。レクイエムには、どんな詩があり得るだらう、さう思ひながら。
【ⅵ】
さて、じろさんだうしたのか、讀者諸兄姉は氣になつたらう。別口で、もう一件、一味は仕事を請け負つてゐて、その方のケアに、じろさん、出向いてゐたのである。それはまた後日。
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〈夢幻なり鱒二太宰の宿浴衣 涙次〉
今回はちと悲しい、安条の自滅篇でした。なかなかな人生を送れた筈が、女の魔性(普遍的なものである)に引つかゝると、さうも行かなくなる。永田くん、肝に命ずる事。ぢやまた。