信じてはいけない
「ぅん……ここは?」
目を開くと、見慣れない場所。
真っ黒なタイルが敷き詰められている床に横になっていたようだ。
黒い部屋なのに、なんでなのか見渡すことができる。
ぐるりと見回すと、他に何も……有った。
たぶん、見てはいけないモノが。
私が起きたことに気付くとそれはゆっくりと立ち上がり、こちらに近付いてくる。
次第にその姿がはっきりしてくる。
天井すれすれの高さまである角の生えた頭。脚は明らかにヒトのモノではなく、背中にコウモリのような羽。
「今回のエサはお前か」
私を見下ろしている目は横に広がっていてまるでヤギのよう。
「だ……誰……」
「誰と知ったところで意味も無いだろう。お前に生きる機会を与えてやろう」
ゆっくりと腰を下ろし私と目の高さを合わせてくる。
大きな手を頭の上に乗せてくると、視界が影に染まってしまう。
「良いか、ここのルールだ。ここから先に話す者のことを信じてはいけない」
「それって、どういう」
「黙って聞け。ここから抜け出したければ右の扉を開けるな。左に進めば出口に繋がっている」
(右の扉?出口?なんのことを言ってるんだろう)
「もし抜け出せたのならその時点で解放だ。良いか?」
化け物はそれだけ言うとのっそり立ち上がり背中を向けて歩いていく。
「ちょ、ちょっと!」
声をかけてもすでに化け物は消えてしまっていた。
この先話す者を信じるな?
「いったい、何を信じちゃダメなんだろう……」
立ち上がって、歩き始める。
進む方向は前しかない。
後ろも、横も、黒いタイル張りの壁しかない。
あの化け物は言っていた。
出たければ右の扉を開けてはいけない、左に進め。
もしかしてこの言葉を?
しばらく進むと曲がり道に着いた。
「左……」
角で止まり、左を見る。
そして右の壁を見る。
その壁には扉が付いていた。
(出たければ、左。右の扉に入るな……)
少し迷ったあと、私は右の扉に手をかけた。
カギは、かかっていない。
ゆっくりと扉を開くと、その先は少しだけ明るい灰色のタイルに変わっている。
「やっぱり……!」
黒から灰色、少しだけ明るくなったことに安心して扉に入る。
身体を灰色の通路に滑り込ませると、ひとりでに扉が閉まり消えてしまう。
後戻りは、できない。
でも、答えが分かれば簡単だ。
左に行かなければならないところにある、右側の扉に入ればいい。
いくつあるのか分からないけど、こんな簡単なルールでよかった。
少しばかり、気持ちが軽くなった気がした。
灰色の通路をしばらく歩くとお腹が鳴ってしまう。
そういえばしばらくエご飯を食べていない。
早くここを抜け出して何か食べないと。
そんなことを考えているときに曲がり角にぶつかる。
その角の正面に紙が貼ってある。
-この先話す者を信じてはいけない-
「……わかってるって」
化け物に最初に言われたこと。
要するに『左に行け、右の扉を開けるな』を信じるなということでしょ。
ため息を吐きながら右の扉に手をかけると背後から音が聞こえる。
「にゃーん……」
その声で振り向くと床に倒れた猫が見えた。
なんでこんなところに猫?
よく見ると、赤く染まって見えた。
「……猫ちゃん!」
思わず脚を進める。
しかし、2歩進んだところで脚を止めた。
角の境、左の通路と言っていいところに筋が引かれている。
「……ここから、左ってこと?」
ごくりと唾を飲む。
「にゃー……」
猫が目を向ける。
つぶらな瞳を向けてくる。
でも、こんなところに猫がいるなんて……。
「ごめんね、あなたを助けられない」
目を伏せて振り向く。
「……ぎゅるる……」
目を背けた途端、後ろから唸り声が響いた。
振り向くとさっきの猫が身体が歪み、大きく膨らんでいく。
「ひ、ひぃ!?」
赤く光る目で睨まれて、ぺたんと腰を落としてしまう。
突進してくるケモノ、しかし床にある筋の部分で見えない壁にぶつかったように顔を押し付けた。
どうやらここの線を越えなければあっちはこっちに手出しを出来ないようだ。
「……絶対、越えてあげない」
元々猫の姿をした化け物を睨み付け立ち上がり、右の扉を開くのだった。
扉をくぐるとさらに壁の色が明るくなった。
壁が白くなることが出口に近付いているとは決まってないけど、心なしか気分は軽くなっていた。
お腹がくぅーと鳴る。
この場所に来てから時間の感覚はない。
どれほど時間が経っているのか分からなかった。
1度気付いてしまえば、お腹はうるさいくらいに鳴ってきた。
あとどれくらいで出られるのか。
そんなことを思っていると曲がり角にたどり着いた。
角の壁にはまた紙が貼ってある。
その紙を見る前に鼻に届いた匂いで左を向く。
……食べ物だ。
ハンバーガー、フライドチキン。
隠れて見えないけれど、カレーの匂いも漂ってくる。
目の前に食べ物が置かれていると、今までガマンできていたお腹が鳴りだしてしまう。
でも、食べ物があるのは左側。
足元にある線を越えてしまったら……。
越えてしまったら?
なんで越えたらいけないのだろう。
あの化け物が言っただけ。
もしかしたらあっちに行っても何も無いかも知れない。
前の猫は化け物になって襲って来たけど、目の前にあるのは食べ物。
襲ってくることは無い……はず。
そもそも、この線を越えたらどうなってしまうのか。
足元に転がっていた小石を左側に放り投げてみた。
石はこーんと音を立てて左の通路に転がっていく。
石が転がり込んですぐ、テーブルに乗っていた食べ物が崩れて緑のヘドロのように流れていく。
どろどろとしたそれは、どこから溢れてくるのか次々に床へとこぼれていく。
そのヘドロは、先ほどと同じように床に引かれた線のところで留まり、こちら側には流れ込んで来なかった。
「……もう、ヤダ……」
思わずその場に座り込んでしまう。
あの化け物に言われた通り進んで来た。
だけどこのまま進んでも、外に出られるとは限らない。
出口があると思っているのはあの化け物が言っているに過ぎないんだから。
気が付くと目の前のヘドロは天井にまで届いていた。
(進もう……)
ここに座っていても何も変わらない。
お腹が満たされることも、無い。
重い足を支えながら立ち上がる。
そういえば壁に貼られた紙を見ていなかった。
-この先話す者を信じてはいけない-
「……しつこいよ」
紙に手をかけるとそのまま下に降ろす。
簡単に引きちぎれる紙。
そんなことで気が晴れるわけはないけれど。
右の扉を開くと、その通路のタイルは真っ白に変わっていた。
関係ない。
お腹の鳴る音が止まない。
さっきのご飯が食べられていたら違ったのだろうか。
関係ない。
タイルの質が変わったのか、嫌に足音が響く。
耳障りだ。
曲がり角、貼り紙。
-この先話す者を信じてはいけない-
「いい加減にして……!!」
何度も!何度も!!
同じことの繰り返し!
どうせこの先の扉を進めばいい!
それで変わらない!
出られるわけが!
「やっと見つけた……!」
聞きなれた声が左から聞こえる。
走って、近寄って。
左に引かれた線の目の前で止まる。
「……お母さん?」
お母さん、お母さんだ。
「なんで、こんなところに……?」
「気が付いたらここに居て。角の化け物から逃げてたらあなたが見えてから……」
角の化け物……?
私だけじゃなくて、お母さんも?
「ねぇ、早くこっちに来て。ここから逃げましょ」
「……見つかったのか!」
お母さんの後ろから男の人が走ってくる。
お父さんも……?
「良かった……母さんがずっと心配してた。ほら、こっちに」
お父さんは泣いているお母さんを抱きしめながら手を伸ばしている。
でも、ふたりは線の向こう。
「私、行けない……。左に行ったら……」
そう、今まで左に進んだらたぶん死んでいた。
きっと、今回も……。
「化け物は嘘を吐いているんだ。今までずっと右の扉を開けてきたんだろう?」
お父さんは見えない壁に手を乗せる。
「どういうこと?」
「信じるなと言われて、逆のことをしてきた。本当は左側に行かれたらすぐに逃げられたんだ」
お母さんもこっちを見ている。
「で、でも、化け物とか、ヘドロとか……」
もし今まで、足元にある線を越えていたら……。
「それも直接触ったわけじゃ無いだろう?父さんも、母さんも、左側に来たからここに来れたんだ」
……これも、嘘だよね。
私を騙そうとしてるんだよね。
……あれ。
私、泣いてる……?
足が進んでしまう。
抱きしめて欲しい、撫でて欲しい。
私の好きなご飯を……ご飯を?
「ねぇ、お母さん」
「なに……」
嬉しそうな顔。
でも、その顔も。
「帰ったら私の好きなご飯、作ってくれる?」
「もちろん!」
お母さんは何度も、何度も頷く。
「何を?」
「えっ?」
そっか……。
「お父さん、私の名前は」
「……」
答えてくれないんだね。
名前も、私の好きなものもわからないんだね。
もう、どうでも良くなってきた。
ニセモノのふたりに背を向けると右の扉に向かう。
ぐしゃっと嫌な音。
目線を向けると、見えない壁に張り付いた赤。
「……え?」
視線の奥には半分赤く染まったお母さんと、最初に出会った化け物。
「ガキひとり誑し込めないとはな」
「た、助けて……!!」
仲間割れ、か。どうでも……。
「助けて!助けて!!大切なことが言えなくされたの!この化け物に!」
どしゃっと音が鳴る。
女の人の悲鳴。
脚が潰されてる。
「……あ」
「たったそれだけで切れる絆なら要らないだろう」
「……お母さん!!」
化け物が腕を振り上げる。
お父さんが、赤い染みがこびりついた腕を今度はお母さんに向けている。
足が動く。
向かってしまう。
左側に。
行ってはいけない左の線を越えてしまう。
お母さんの前に立ちふさがる。
少しでも痛くないように。
「来てくれてありがとう」
背中から、聞いたことのない声が聞こえた。
振り向くとお母さんがにこやかに、脚が潰れているのに本当に嬉しそうに笑っている。
どろりと。
赤い液体になったお母さんは目の前の化け物に吸い込まれていった。
「こんな単純な手に引っかかるなんて、ガキの絶望は最高のエサになるな」
そっか。
これで終わりなんだ。
私の目の前に映るのは、化け物の大きな腕だった。
白いタイルが敷かれた、迷宮のような通路。
そこに居たのは1体の化け物と、被害者。
化け物の腕が身体を貫き、赤い雫が床に垂れていた。
「……な、なぜ?なぜオレがお前のようなガキに……!」
口から血だまりと共に吐き出した怨嗟。
その赤を顔に浴びて、化け物は苛立ちからかこめかみを震わせた。
「ガキ?私はあなたより年上だけど」
ケモノのような体躯を貫いていた腕を引き抜くと汚いものを拭うように手を振った。
「げほっ……貴様、何者だ」
腹に穴が開いたケモノは床に這いながら化け物を見上げる。
「何者?あなたと同じだけど?」
絶望を与え、その魂を糧にする。
今床に倒れている存在と同じ。
ただひとつ違うのは、この化け物は同族も糧にするという点だった。
「まさか、あの言葉は……」
-ここから先話す者を信じてはいけない-
「そう、私があなたに伝えたの」
ケモノは口から血だまりを吐く。
「あなたも言ったでしょ?絶望はエサに……いけないこの姿ではご飯って言うんだった」
首を傾けて、這うケモノに微笑む。
すでにモノと化した存在には、化け物の言葉は届いていない。
大きく口を開けた化け物は、一瞬のうちにケモノを平らげてしまった。
「さて……次のご飯を食べないと。あれぇ?」
化け物は微笑むと”こちら”を向いた。
「ねぇ、あなた。助けて?ここに閉じ込められちゃったの」
ゆっくりと”こちら”に歩いてくる化け物。
「ここではね、繰り返し言われたの。『この先話す者を信じてはいけない』って。どういう意味かしら」
その言葉は、繰り返し、嫌になるほど掲げられた言葉。
「あなた、この言葉の意味がわかるかしら?」
もし”あなた”に時を遡る力があるのなら。
あの言葉が示された先に話していた者が誰なのか。
-この先話す者を信じてはいけない-
「……気付かれちゃった。良いわ、帰してあげる。でも、今度はもっと楽しい遊びを考えるから。また来てね」