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虚愛

作者: 中條真行

手塚治虫先生の名作「地球を呑む」にインスパイアされて書き上げた作品です。戦後まもなくの日本が舞台となっています。

1 

 

 俺は何度目かの、行く宛てなし歩きをしていた。

 気がつくとチラホラと雪が舞っている。

 もう年の暮れの準備を始める頃になっていた。

 ボロボロの軍服から入ってくる風が、とてつもなく寒く感じた。

 その辺にあったタオルや手拭いを適当に結んで首に巻き、軍帽の中にも一枚入れていた。

 何が入っているかわからない雑炊を売っている屋台や、痩せこけて堅いトウモロコシなどが並ぶ喧騒の路地を抜け、痩せこけた犬どもを蹴散らしてなお、俺は歩いていた。

 俺の名は伊那田三貴(いなだそうき)、この時は二十三歳だった。

 俺の実家である伊那田家はそれなりに歴史のある商人であって、江戸時代からの家系図もある。

 親父の為造は商人でもあったのだが、いわゆる侠客でもあった。

 長男の尽造、次男の弐吉と続き、三男の俺は侠客ではなくて高貴になってほしくてこんな名前をつけやがった。

 十歳も歳が離れた尽造兄貴は、何年か前にレイテ沖で沈んでいった。

 二つ上の弐吉兄貴は、おそらくソヴィエトに捕まったらしいけど、その後は行方が判っていない。

 というわけで、伊那田家を継ぐのは必然的に俺ということになった。

 だが、商人とは言いつつも侠客である。

 家にカネがあるわけでもなかった。

 親父はドブロクやカストリをあおりながら、毎日賭博。

 母親のトメは元遊女で、親父にベッタリで、気持ち悪いくらいだった。

 大陸から引き揚げてきて、兄貴たちのことを知ってからずっと気が重かった。

 俺がくたばっていれば良かったなどとも思っていたくらいだった。

 それほど俺は家にいたくなかったし、むしゃくしゃしていて暴れん坊だった。

 尋常小学校の頃なんて、あの子とは付き合うなと近所で言われていたものだ。

 それで何度血みどろの喧嘩をしたことか。

 必然的に俺の周りにはワルしかいなくなっていた。

 戦場で暇つぶしに彫り物を入れていたこともあって、馴染みのツレたち以外は一切近寄らなくなっていった。

 正直なところ、いつ死んでも良かったし、むしろ早く死にたかった。

 町のヤンチャな若いのを捕まえては喧嘩を吹っ掛け、買ったり負けたり。

 戦場という地獄を見てきた者は結構こうなっていたが、俺は別格に荒れていた。

 町の者たちは俺を遠巻きに眺めては視線が合わないようにしていたし、子連れの親たちは逃げるように去っていった。

 血は争えないな、と思っていた。

 使用人も昔はたくさんいたのだが、みんな戦争に行ったり、空襲でやられたり、田舎に帰ったりして誰もいなかった。

 クソ重い空気が家全体を包んでいるようであり、とてもじゃないけどまともに炭や七輪や干し芋を売る気にはなれなかった。

 やる気もなかったが、欲しがる客は多くて、それなりにやっていたつもりだった。

 ところが親父ときたら、客相手してるときにいきなり後ろから俺を殴ってきたりした。

 拳ならまだしも、木刀持ち出したことすらあった。

 どうやら親父にしか見えていない敵がいるらしく、そのたびにあしらってはいた。

 何度か嫌気さしてぶらぶらと家出しては、行くところもなかったので帰るしかなかった。

 ところが今日ばかりは我慢の限界を越えてしまった。

 泥酔していた親父は、俺を刀で斬りつけてきやがった。

 たまたま頭を客に下げていたので良かったが、刀を鼻先で振り回された客は激怒し、警察を呼んで親父は連行されていった。

 そりゃ当然なのだが、ついでに俺の何かがプチンと切れちまって、母親を残して家を出てきてしまったというわけだ。

 いくら戦後とは言え、ここまで荒れていては逮捕もされる。

 おそらく店はつぶれるだろうなと思い、未練もなかった。

 死に損いに、この世への未練はなかった。

 もう半日くらいは歩いていただろうか。

 戦地で散っていった戦友たちの顔が浮かんで来た。

 いい奴もいれば、殺してやりたい奴もいた。

 だが、ついさっきまで笑っていた奴の首がなくなっていたり、見たことある時計をつけた腕が転がっていたりする戦地にいたときが、妙に懐かしくも感じてくる。

 あんな地獄なのに、共に生死を分かち合った者同士にしか判らない世界がある。

 正直なところ、あんな濃密な世界にいて戻ってみたらスカスカの社会だったというわけだ。

 だがやはり地獄でしかない。

 思い出すたびにどうしようもない、重っ苦しいものがこみ上げてくる。

 そのたびに俺は立ち止まって首を振った。

 俺自身、疲れに疲れていた。

 もう何年も笑顔を忘れている。

 どんな風に笑うんだっけ、と思うこともあるくらいだった。

 ガキの頃に遊んだ小道、田んぼ、川・・・覚えてはいるだけで、全てが空虚に思える。

 まだ同じ飯の窯を食った戦友たちのところに行きたかったのだと思う。

 そんな俺自身がものすごく嫌になっていて、歩くことで忘れたかったようだ。

 俺はまだずっと歩いた。

 本当にどこに行っているのかもわからなかった。

 周囲の景色さえ全く覚えていない。

 どこをどう歩いてきたのか、記憶になかった。

 俺が何かに気がついたのは、足元に柔らかいものを感じて、一瞬倒れそうになったときだった。

 それまではどうやら記憶にないだけで、ちゃんと道を歩いていたようだ。

 だがその時には、足があったのは森の中だった。

 辺りを見回すと、杉があった。

 立っていたのは枯草が積もって腐ったところだった。

 空気が澄んでいて、気持ち良かった。

 もう夕方になっていたようで、人影も見えなかった。

「・・・寒い・・・。」

 凍えながらも、行く宛てもない俺は歩き続けるしかなかった。

 冬の森はとことん寒く、暖をとるものは何もなかった。

 ひたすら寒かったのだが、どこかで人生を終えたがっていた俺は、死に場所を求めていたようだ。

 でかい杉まで歩いたとき、もう限界だった。

 腹には何も入っておらず、動こうにも動けなかった。

 根の間に腰を降ろし、俺は持っていたタバコに火をつけ、ついでに枯草を集めて焚火を作った。

 少しの暖かさで気分が良くなった俺は、ここが最後の現世だと思った。

 思えば戦地でもこうして休み、砲弾で目が覚めていたものだ。

 しかしここは戦地ではない。

 砲弾が来ることもない。

 ということは、目を開ける必要もない。

 雪は少しだけ多くなっていた。

 俺は横になり、目を閉じた。

 焚火の暖かさが、ガキの頃に暖まっていた火鉢を思い出させた。

「あの時の餅・・・うまかったな・・・。」

 祖母が焼いてくれた餅にたっぷりの砂糖と黄粉をかけ、甘酒と共に食う快感が思い出された。

 ちきしょう、こんなときに・・・死ねやしねえじゃねえかよ・・・と、俺は呟いた。

 呟きながらも、段々と意識が遠のいてきた。

 焚火はもう消え、ふたたび寒さが甘い死の香を運んできてくれた。

 ただでさえ冷え切っていた身体はさらに冷え、目を開けていても何も見えない。

 指先の感覚はなくなり、足ですらもう自分の者とは思えなくなっていた。

 俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 そして俺は、ゆっくりと甘美な香りに誘われながら、暗闇の中に落ちていった。

 

2 

 

 俺は暖かい空気を感じた。

 とうとう極楽とやらに来ちまった。

 いや、地獄かも、とも思った。

 仏様でも閻魔様でもいいから、どっちか教えてくれと俺は思った。

 瞼の裏に、何か動くものが見えたような気がした。

 あれ、あの世でも目を開けないといけないのかなと思い、ゆっくりと目を開いた。

「うっ!眩しい!」

 俺は思わず手を動かして目を塞ごうとした。

 その時だった。

「まだ動かないで!」

 まだ若い女の声だった。

 同時に、猛烈な現実感が俺を包み込んだ。

 身体には温かい布団がかけられ、蕎麦殻の枕に頭を置いていた。

 動かそうと思った右手に痛みがあり、見ると包帯が巻かれていた。

「俺は・・・生きてんのか・・・?」

 身体を動かそうとしたが、優しく押さえられただけで動けなかった。

「死にかけてたもんね、あんた。」

 別の方から、違う女の声が聴こえた。

 今度は年配のようだった。

「さ、寝たままでいいから、これを少し食べな。」

 年配の女が俺の口元に、匙で何かを運んで来た。

 懐かしい匂いがした。

 間違いない、葛を湯で固めた匂いだ。

 俺はそれを口に入れた。

 甘い!

 黒砂糖が入っているようだ。

 女はまた匙で葛湯を口に運んで来た。

 俺は貪るように食べた。

 体中に温かさと生きる力が蘇ってきた。

 女はずっと俺に葛湯を食わせてくれた。

 なくなると、女は少し安心したようにため息をついた。

「良かった。何とか生き返ったみたいだねえ。雪、看病しておいておくれ。あたしは風呂を沸かしてくる。」

「わかった。」

 雪と呼ばれた若い女は、俺の横に座って、俺の顔を湯で浸した手拭いで拭き始めた。

 年齢は二十くらいだろうか。

 拭かれるたびに、顔が溶けてくるようだった。

「お前・・・俺を助けたのか?」

 雪は、俺より年下のように見えた。

「うちじゃない。お父さんが、あんたを見つけて運んで来たんだ。」

 俺は頷くのでやっとだった。

 恥ずかしい話だが、一度本気に死にかけた俺が、一旦生き返ると今度は生きていることが嬉しくて仕方なかった。

 情けないやら嬉しいやらで、涙が溢れてくる。

 だが、同時に安らかにさせる何かが俺を包み込み、本当に眠くなってきた。

 さっきは死にゆく眠さだったのだが、今度は本当に生きて明日を見るための眠さだった。

「すまん・・・。」

 そう言うのが精一杯だった。

「気にせんでいい。今は寝ることよ。」

 雪は俺の胸の辺りに、布団の上から手を置いた。

 ほんの少しの腕の重さが気持ち良く、俺は再び闇に落ちていった。

 俺が次に目覚めたのは、顔を冷たい風が通り過ぎた時だった。

 顔を擦りながら体を起こしたとき、そこは畳の部屋だった。

 そして雨戸を開けようとしていた雪がいた。

 雪は羽織を着ており、昨夜見たままのセーターを着てスカートを履いていた。

 よく見ると、面長で可愛い顔立ちだった。

「あら、起こしちゃった?ごめんね。」

「あ、ああ・・・もう、朝かい?」

「そうだよ。」

 言いながら雪は雨戸を開いた。

 外は一面の銀世界だった。

 そう言えば雪の中を歩いてきたのだった。

 俺は布団をどかして起き上がろうとした。

「キャー!」

 雪が慌てて逃げるように去っていった。

 まさかと思い、下を見た俺はまた布団を被った。

 スッポンポンだった。

「あ、あの・・・枕元に、弟の服置いて・・・早く着て!」

 雪が襖のところから腕だけ出して、俺の枕元を指さした。

「あ・・・あり・・・ありがとうよ、ねえちゃん・・・。」

 俺は雪の弟の服を取り、布団の中で着替えた。

 少し小さかったが、ちゃんと着れた。

 俺は再び布団から出て、部屋の外に出てみた。

 縁側があり、見えるのは柵と庭だった。

 吐く息が真っ白だった。

 俺はブルっと震え、戸を閉めてまた部屋に戻った。

 部屋は四畳ほどの小さな部屋で、押入れがある以外何にもなかった。

 俺の服は麻の服で、自前で編んだもののようだった。

 羽織もあったのでそれを着ると随分暖かくなった。

 靴下もあったのでとりあえず履いた。

 俺は部屋の襖を開いてみたら、そこは隣の座敷で、十畳くらいあった。

 そこには雪と年配の女性がいて、食事の準備をしていた。

 年配の女性は、長い髪を結いあげており、綺麗な人だった。

「おや、起きなすった?元気になってよかったねえ。ささ、ここにお座り。」

 俺は言われるが儘に、堀り火燵の中に座った。

 ものすごく暖かく、俺は雑煮の中の餅みたいに溶けていきそうになった。

「ちょいと待っていてね。あんた!ご飯だよ!」

 女性が声を張り上げると、奥の部屋から野太い声が聞こえてきた。

「おお、腹が減ったぞ。」

 のっそりと表れたのは、俺より一回りでかい男だった。

 短く借り上げた髪と、口回りの髭が印象的だった。

「おお、元気になったな。名は名乗ったか?」

「あ、いや。その前に・・・。」

 俺は正座して、この家族の前で頭を下げた。

「大層にお世話になりやした。死に損ないですが、お陰で助かりました。服まで・・・。」

 死にたがっていたはずなのに、なぜ俺は例を言っているのだろうかと不思議にも思ったが、なぜかスラスラと口から言葉がこぼれだしてきた。

 しかし、最後まで言う前に、どうやらここの家長と思われるでかい男が遮った。

「おい!俺らは腹ペコだ。俺らを殺す気か?とっとと食うぞ!」

 気は短そうだった。

 俺はとりあえず、火燵に向かって座った。

 やがて若い男も加わり、男たちが座った。

 女性二人はまず味噌汁と麦飯をよそおい、次に漬物と鳥を焼いたものを置いた。

「よし。では・・・いただきます!」

 家長の男が言い、そして俺を除く家族が続いた。

「いただきます。」

 そして皆一斉に食べ始めた。

 俺は自分の腹が減っているかすらわかっていなかったが、この何とも言えない美味い匂いに誘われては、腹の虫も騒がざるを得ない。

 ぐうううううう、とすさまじい音がした。

 世話になった家族全員が一瞬止まり、そして大笑いした。

「ねえ、もう食べなよ。お腹空いているんでしょ?」

 隣にいた雪が俺に囁いた。

 その声が終わる前に、俺は飯に突入していった。

 美味かった。

 とにかく美味かった。

 どうしようもなく美味かった。

 俺は飯と味噌汁を同時に流し込み、鳥を骨ごと食った。

 あっという間に飯はなくなっていった。

「あの・・・おかわり、する?」

 雪が呆れたように言ってきたので、俺は食いながら頷いた。

 戦後なのでまともな食糧があるはずもなく、雪はふかし芋を持ってきてくれた。

 これも美味かった。

 俺は芋を頬張り、詰まった。

「うっ・・・」

 詰まった胸を俺はどんどんと叩き、それでもまだ詰まっていると、あの家長が立ち上がって俺の背中を、ものすごく強い力で叩いた。

 死ぬかと思うくらいの強さだったが、おかげで芋は胃の中に落ちていった。

「呆れた。あんた、もうちょっと手加減しなよ。素人じゃないんだから。」

 素人じゃない?

 俺はそれが気になって年配の女性を見た。

「ああ・・・この人ね、元力士なの。なんせほら、玄人の張手だからねえ。骨が折れてなきゃいいけど。」

 冗談ではない。

 だが助かったのも事実だし、骨も折れてはいなかった。

「おうよ。俺は元東昇竜という四股名でな。戦争に行かなきゃ幕内だったろうな。俺は・・・森中(もりなか)・・・森中留義(とめよし)。こいつは美紀。女房だ。それで娘が雪で、弟が正義(まさよし)。お前さんは?」

「お、俺は伊那田三貴。家業の商人から逃げ出してきたところを道に迷って死にかけてやした。」

 みな軽く頭を下げた。

「まあそういうことだ。お前さん、いつ出て行ってもいいし、このままいてもいい。好きにするといい。俺らは・・・。」

 留義は少しの間を置いて続けた。

「あんたを歓迎するから。」

 

3 

 

 森中一家に救ってもらった俺は、今の家に戻ったところでロクなことはないと思ったので、しばらく厄介になることにした。

 俺は美紀さんに何をすればいいのか尋ねた。

 いくら何でも、タダ飯を食らっているわけにはいかない。

 少なくとも、何らかの稼ぎくらいはやらせてほしいと願い出た。

 美紀さんは別にいいと言ってくれたのだが、それでは俺の気が済まない。

 とりあえず、ベタに薪割りから始めた。

 こう見えて、戦地では薪担当だったのだ。

 集めてきて割るくらいは何てことなかった。

 俺は近くの森で大量の木を切ってきて、大量の薪を作った。

 さらに、野晒しだった森中家に簡単だが(ひさし)を作り、薪が早く乾燥するようにした。

「あんた、すごいのねえ。」

 美紀さんは驚き、留義さんに報告した。

「おう、そうき。お前さん、木こりの才があるそうだな。明日から俺を手伝ってくれるか。」

 留義さんは木こりであり、マタギでもあった。

 毎日木を伐り、狩りをしていた。

 長男の正義は身体が弱く、伏っていることが多かったので俺は大いに戦力になった。

 俺と留義さんは毎日木を伐りに行き、大半は近場の工場に卸に行き、残りは炭に加工して売っていた。

 家の近くには崖があり、そこの窪みを細工して炭焼き場にしていたので、もっぱら俺が炭焼きの仕事についた。

 びっしりと原木を隙間なく並べ、密封して焼いていく。

 その間に昼飯を持ってきてくれたのは雪だった。

 雪が作る握り飯は美味かった。

 雪は炭焼きの手伝いもしてくれた。

 留義さんの手伝いもしていたそうで、なかなか手際が良かった。

 俺と雪は、いつも一緒に昼飯を食った。

「ねえちゃんは、学校に行っているのかい?」

「うち、ねえちゃんじゃないよ。雪って名前があるんだよ。」

「おっと・・・こりゃいけねえ。雪ちゃん、でいいかい?」

「うちは尋常小学校までは行ったよ。でも戦争でね。途中で行けなくなっちゃって、今はどこにも行ってないんだ。」

「へえ、そうかい。俺もそうだけどな。じゃあ学校はあそこかい?」

 炭焼き場からは遠くに今が中学となった学校の校舎が少しだけ見えていた。

 雪は首を振った。

「ううん、ちょっとだけ遠いとこ。でもね、いい思い出ないから、もう学校の話はやめよ。」

「ああ、俺も里の話はしたくねえしな。」

「そうきさんってねえ・・・。」

「俺が、どうかしたのか?」

「えっとね、最初は少し怖い人かなって思っていたの。だけど、うちはだんだん、いい人に見えてきた。」

「俺が?いい人?冗談じゃねえ。俺みてえなヤクザで死に損ない、そんなもんじゃねえよ。」

 たぶん死にかけていたときに、雪は俺の彫り物を見たのだろう。

 鍾馗(しょうき)の彫り物は、死んでいった戦友の土産でもあったので、俺はそれなりに大切にしていたのだが、やはりいいものではない。

 父親のようではなかったが、荒くれ者の印象はあったことだろう。

 そんな俺をいい人などと言われるのも恥ずかしかったが、雪のような女に言われるのはもっと恥ずかしかった。

 物心ついた頃から、父親はごく自然に親分と言われていたし、俺の相手をしてくれた兄さんたちはみんな彫り物があった。

 一応は商売もやっていたので使用人たちは普通だったのだが、俺はなぜか侠客の息子として扱われていた。

 従って、俺の周りの女性の多くは、派手な化粧の女たちだった。

 雪のような女はいなかった。

 だから俺は、雪とどう話していいのか、よくわからなかった。

 俺が極道っぽい言葉を使うと、大抵の者たちはどこかビビっていた。

 戦地でもそうだ。

 俺の上官ですら、俺が睨んだらそれ以降相手しなくなったものだ。

 しかし雪は違った。

 俺を面白がった。

「それ、どういう意味?やる、って?」

 殺る、なんてのは当たり前に使っていたので、そう来られると俺はもうどうしていいのやら本当に困った。

 こんなところで暮らしていると、世間ずれしてしまうのだろうか。

 それとも俺のような町の荒くれ者を見たことがないのだろうか。

 これでも俺は、町中で文化のあるところで暮らしていた。

 多くの遊び場があり、派手な女たちがいて、誰でも派手にカネを使うところで生まれ育った。

 俺は逆に田舎というものを知らなかった。

 どちらかと言えば、小馬鹿にしていたくらいだ。

 町中で博打すること、カネを使うこと、女と遊ぶことが俺の生き方だった。

 しかしここでは、そんなものひとつも転がっていなかった。

 帰るに帰れないので仕方なくここで暮らしていた・・・それが正直なところだった。

 雪に限らず、美紀さんも留義さんも優しく接してくれた。

 俺は少しずつではあるが、田舎暮らしに慣れてはいった。

 しかし、息子の正義とだけは会えなかった。

 結構な病で伏せっているらしく、美紀さんと雪が正義のいる離れに入っていくところしか見たことはなかった。

 もう暮れも近くになっていた。

 美紀さんが正月の用意を始めていたので、それがわかった。

 実家では毎年、正月になると昼は表向きの宴会、夜は博打と決まっていた。

 しかしここにはどちらもなかった。

 町にあるはずの車も菓子屋も寄席も相撲もない。

 あるのはただ、この家族の生活していく匂いだけだった。

 俺はここで何をしているのか、時々わからなくなってくる。

 そんなとき、人というものは日常以外のことをやろうとする。

 俺は、まだ会っていない正義と無性に会ってみたくなった。

 家族が誰もいないとき、俺は離れに行ってみた。

 離れとは言っても、それはまるで蔵のようだった。

 家と続いてはいたが、重そうな戸があった。

 俺は戸の前に立ち、動かしてみた。

 驚くことに、てっきりあるだろうと思った南京錠のようなものはなかった。

 しかも戸はすぐに開いた。

 特に閉じ込められているというようなことではなかったようだ。

 俺はゆっくりと戸を開け、中に入っていった。

 離れには窓もあり、しっかりと採光はできていたので、中は明るかった。

 中はベッドと畳があり、粗末ではあるが机と椅子、スタンドや箪笥などが揃えられていた。

 ペンや本棚や多くのノートなどもあり、どうやら正義はここで何か書き物をやっているようだった。

 俺は中に入り、戸を閉めた。

「雪?」

 中から若そうな男の声がした。

 戸を閉める音がしたのだろう。

「あ・・・俺は雪ちゃんじゃ・・・。」

 ガタンと音がして、人が立つような音がした。

 そして奥から人が歩いてきた。

「え・・・?」

 その男は寝巻を着て、杖をついていた。

 そして右足はなく、義足を装着していた。

「あんた・・・誰?」

 男はまだ若く、おそらく十六歳か十七歳くらいだったろう。

 いい顔をしていた。

「ああ、すまん。俺は・・・こないだからここに世話になっている者でよ、伊那田三貴という者さね。あんた・・・正義だろ?」

 若者は俺を上から下までマジマジと見て、そして横の椅子に座るよう勧めた。

 俺が座ると、正義は机の横に置いてある火鉢に藁を入れて、火をつけた。

 そしてヤカンを乗せ、俺の前に座った。

 良く見ると、精悍でいい面構えをしていた。

「雪やおかあさんが言っていた人だね。林の中で倒れていたんだって?」

「あ、ああ。それで助けてもらってここにいるって訳だ。」

「どうして帰らないの?」

 正義は突然、射抜くような問いをしてきた。

 俺は驚きと軽い怒りを覚えたが、考えたらこれが当たり前のことだ。

「答えたくないなら言わなくていいよ。」

 正義はどこかつっけんどんだった。

 若者にありがちな反応ではあったが。

「いや、別にいいさ。俺は酔った父親に殺されかけた。だから帰りたくはない。それだけだ。」

 正義は俺を感情のない目で俺を見て、軽く笑った。

「素直な人だね。雪が気に入るはずだ。」

「は?雪ちゃんが?俺を?どういうこっ・・・。」

「おっと、湯が沸いた。」

 正義は俺の言葉を遮るように夜間を取り、洒落たカップに茶を入れてくれた。

 しかしその茶は赤かった。

「おいこりゃ、紅茶じゃねえのか?」

 この当時、紅茶など飲めるのは相当な者のはずだった。

 独特の香りが部屋中に広がった。

「ああ、紅茶だよ。これは父さんが作ってくれたんだ。イギリス人から教えてもらったみたい。僕はこれが大好きさ。」

「紅茶を、作ったあ?あの人が?」

 後に知ったことだが、緑茶を発酵させて作るのが紅茶なのだ。

 国内でも作られてはいたが、この時代には普及するほどではなかった。

「父さんは紅茶作りの名人でね。僕はこればっかりだよ。」

 正義が薦めてくれた紅茶は、俺が初めて味わう旨さと香りだった。

 紅茶には砂糖が入れてあり、まるで宝石のような味わいだった。

「気に入った?」

「ああ、うめえな。」

 正義は俺を見ながら初めて少し笑った。

「僕は、少し前に足をなくした。」

 俺は含んだ紅茶を吹き出しそうになった。

 こいつはいきなりズバッと切り込んでくる。

 そりゃまあ、見たらだれでも足がないことくらいは気がつく。

 しかしいきなりそれを口に出すこともなかろう。

 この時代、おおよその見当はつく。

「・・・聴くまでもねえか?」

「そ、空襲でね。」

 戦地なら当たり前だが、米軍の本土空襲は本当に酷かったようだ。

 引き上げてきた俺たちが絶望したのは、前に会った建物が全くなくなり、あるのは道路だけだったってことだ。

 この道は確かどこそこに通じたあそこじゃないか、という会話ばかりだった。

 その時に失ったのか。

「酷かったらしいな。俺はその時戦地にいた。」

「どこに?」

「大陸・・・。」

「戦場か。僕たちは赤紙で出ていった人たちが帰ってこなくて、泣いていた人たちばかり見ていた。辛かったよ。僕はそもそも身体が悪かったので行くことはなかったけどね。戦地ではどうだったの?」

 正義の真っ直ぐすぎる質問は、なぜか気持ち良かった。

 俺は戦場での悲惨な状況を話した。

 話しながら、柄にもなく涙が止まらなくなってきた。

 こんなことは初めてだった。

 周りは皆、多かれ少なかれ戦地を経験したか、聞きたくもない雰囲気だったから話さなかっただけなのだが、いざこうやって真っ直ぐな問いに答えていると、忘れようとしていた記憶が蘇ってきてしまうのだ。

 首がなくなっちまった戦友、腰から下が千切れちまった奴、顎がなくなった奴、俺の前で血を吹き出して倒れていった敵・・・地獄だった。

 しまいには俺は、嗚咽していた。

 そんな俺を正義は、ただじっと見ているだけだった。

 俺は泣くことは恥だと思っていたので、涙が許せなかった。

 俺は左頬を拳で殴り、それで涙は泊まったのだが、今度は鼻血が出てきやがった。

 正義は俺にタオルをくれた。

「ねえ、そうきさん。また話を聞かせてよ。」

「え?」

「僕はさ、戦場は知らない。だけど、そうきさんから話を聴いていると、気持ちが伝わってくる。新聞じゃわからない。僕は内地で傷ついた人たちのことしか知らない。残酷だけど、知らないじゃすまない。それに・・・。」

 正義は一息つき、何かを考えながらポツリと、漏らすように呟いた。

「僕たち、友達になれそうだ。」

 

4 

 

「え?正義に会ったの?」

 雪は意外そうに俺の顔を見た。

「ど、どうして?あの子は外には出ないのよ。」

 俺は炭出しをしながら、事のいきさつを雪に話した。

「そう・・・外には出なかったのね。そこは変わらないか。でも、良かった。」

「良かった?」

「だって、正義が友だちだって言ったんでしょ?あの子は誰にも心許さないの。だから、良かった。」

 やはり、あの空爆からなのだろうかと、俺は思った。

 引き上げてきた奴らにしても、喜ぶ奴もいたが、ほとんどは心身に傷を負っていたので身内以外誰とも口を利かなかった。

 戦争の傷跡は、一体いつまで続くのだろうかと思っていた俺は、正義の心情もなんとなく理解できたと思った。

「俺が言っても意味ないんだろうが・・・正義はいずれ出てくると思うぜ。」

「なんでそう思うの?」

 またど直球の質問だった。

 雪はそれでも気にさせない大らかさがあった。

 その証拠に、何の嫌味もない素直な目をしていた。

「俺も、引き上げ者だからな。傷だらけさ。戦地に行った奴ってさ、口利かない奴も多いんだ。空襲に会ったからだろ。正義も傷ついている・・・心がな。」

「ええと、あまり答えになってないよ。なんで正義が部屋から出てこれるって思ったの?」

「・・・わかんねえよ。何となくだ。」

 俺は、俺自身が素直に社会に溶け込みたいという欲求があって、たぶんその思いを正義に重ね合わせていたのだと思う。

 だが、それを口にするほど、俺はまだ回復していなかった。

「そうなのね。わからないけど、そう思うことってあるもんね。そうかあ。」

 雪はすんなり受け入れてくれた。

 俺たちは冷えた炭をかき集め、森中家に戻った。

 帰って休む間もなく、俺は風呂に水と入れて薪を竈に突っ込み、炭と藁を入れて火をつけた。

 さらに土間の竈にも同じことをして、火をつけた。

「あらあら、お帰りなさい。ゆっくりしていいのに。」

 美紀さんは俺に決して仕事をさせようとはしなかった。

 俺は美紀さんのような優しい女性に弱い。

 するなって言われても、どこかホッとした顔を見るだけで癒された。

 実のお袋は、ただ単に俺たちを産んだだけのような女だったので、自分の思い描く母親のイメージが美紀さんにはあったのだ。

「美紀さん、もうすぐ風呂が沸く。留義さんはいる?」

「ええと、たぶん裏で明日の準備してると思うけど。」

 この時代は家長から風呂をとるのは当たり前のことだったので、俺は留義さんを呼びに裏に行った。

 森中家には正義の住む離れと納屋があった。

 森中の稼ぎは、留義さんが獲ってくる獲物を町に売ることだった。

 それに、俺が今やっている炭も日銭を稼ぐほどにはなっていた。

 留義さんは雪が降る中、獲ってきた狐や山鳥などの皮を剥ぎ、肉にして氷室の中にしまいこんでいた。

 動物の皮は、ほとんどが森中家で何らかの材料になっていた。

 留義さんは月の輪熊の毛皮を仕立て上げたものを、服の上に着ていた。

「留義さん、風呂沸いたぜ。」

「おお、ありがとうよ。」

 留義さんは、最後の鹿肉を氷室に入れて、鍵をかけた。

 そして家の周りの雪を、なぜかぐるりと取り囲んだように置いた雪の山にさらに積み重ねた。

 家の周りに、雪の壁を作っているように見えた。

 俺が不思議に思っていると、それを察したかのように留義さんが呟いた。

「小降りになってきたな・・・。」

 留義さんは手を止めてスコップを置き、腰に下げていた手作りと思われる瓢箪の蓋を開けた。

「冷えるぞ。飲め。」

 中は酒だった。

 俺は好きな方だったので、四口くらい一気に飲んだ。

「うめえ・・・。」

 留義さんに瓢箪を渡すと、ニヤリと笑うと一気に干してしまった。

「飲めるな、おめえ。」

 俺は酒で温かくなった腹をさすった。

「戦地では、茶みてえに飲まされたもんだ。タバコもな。このくらい屁でもねえよ。」

「そうだったな。おめえのボロボロの軍服、洗濯はしてあるぜ。」

 俺はこの時まで、来ていた軍服のことなどすっかり忘れていた。

 思い出したとたんに、俺は不機嫌になった。

「・・・もう、いらねえよ。捨ててくれ。」

「・・・どうしたあ?」

「思い出したく、ねえんだ。」

 俺自身、思いもよらない言葉だった。

 口にした瞬間、俺はこの森中家で何らかの安らぎを感じていたのだと気がついたのだ。

 実家でも感じることがなかった、この何とも言えない安らぎ、俺は一家の一員なんだと森中家は実感させてくれていたのだ。

 実家では頑として軍服を捨てなかった俺だが、たぶんそれはイキがっていただけだったのだろうと思う。

 戦場帰りを舐めてんじゃねえって、いつも思っていた。

 そう突っ張ることでしか、俺はあの家、そして日本に馴染めなかった。

 俺の気持ちを察してくれたのか、留義さんは軽くため息をつくと、立ち上がって納屋から一升瓶を持ってきた。

「俺が作ったカストリだ。酒屋の酒粕を集めてな。ふかし芋をぶっこんで蒸留したものさ。2年寝かしてある。悪くはねえぜ。」

 この頃の酒はカストリ焼酎が主だった。

 本物の酒は高くて手が出せなかったので、どこの酒屋にも酒粕がなくなっていたものだ。

 俺は留義さんが差し出した竹を切っただけの器にカストリをついで干した。

「うっ・・・」

 俺は酒の強さに、むせてしまった。

 しかしその次に来たのは、本物以上の美味さだった。

「う・・・美味え!もう一杯くれねえ?」

 俺はもう一杯を留義さんにせびり、また干した。

 身体の芯まで染みわたる、生きてるんだと実感できる酒だった。

 五臓六腑を酒の力が走り回り、俺は一気に元気になった。

「留義さん、本当に美味いよ。あんた、何でもできるんだな。」

「なあに、大したこっちゃねえさ。生きてかなきゃいけねえだろ。どうせ生きるなら、楽しいほうがいい。そう思ってるだけさ。」

 留義さんの言葉には多くはいらなかった。

 単純すぎる言葉に、単純すぎる信条・・・それが俺の腹にドスンと来た。

 でかくて頼りがいがあって、面倒見がいい・・・この髭面の男に、俺はだんだんと惹かれていった。

 酔いも入ってはいたが、俺は今の気持ちを誰だかわからないが、心に浮かんでくる醜い奴にぶつけた。

「・・・そうなんだよ・・・そうなんだよなあ。俺たちは生きてるんだもんなあ・・・そして生きていかなくちゃなんねえ。でもしみったれたままで生きたくはねえ。楽しまなくちゃ、面白くねえもんな!そうなんだよ!俺は今、生きてる!酒を飲んでる!畜生!俺は生きてるんだ!ざまーみろ!」

 留義さんはずっと優しい目で俺を見てくれていた。

「戦争では、辛い事以上だったろう。お前さんは、俺よりも苦労してきてるようだな。じゃあその分楽しめばいい。」、

 俺は気分が高揚してしまい、酔いも相当に回ってきていたので、留義さんの方を掴んでカストリを呑んだ。

 そして喚いた。

「楽しもうぜ、親父さん!」

 留義さんは何も言わず、俺の酔いを止めもせず、笑っていた。

 俺はそのまま記憶がなくなった。

 気がついたらズキズキする頭で、森中の家で寝ていたことは間違いなかった。

 

5 

 

 俺はこの森中家に来てからずっと、留義さんと木を伐り、雪と炭を焼いて、たまに正義と話す毎日だった。

 美紀さんはいつも家にいて、あれこれと家事をこなしながら俺の話し相手になってくれていた。

 俺の母親はいつも親父しか見ておらず、元遊女だったこともあってか、てめえの化粧しか興味ない女だった。

 大嫌いだった。

 しかし美紀さんは、母親ってこういうものなんだなと思わせてくれる、優しくて時々厳しい女性だった。

 美しくて、留義さんが女房にしたかったんだろうなと、俺は勝手に思っていた。

 そういうことを簡単に聴いてはいけない。

 それに俺はいつまでここにいいていいのか、まるでわかっていなかったのだ。

 森中家のみなさんも、いつまでいるんだ、などとは一切言わなかった。

 本気で俺を家族の一員と思っているようだった。

 俺も心地よかったので、何かあるまで出ていこうという気にもならなかったのだが。

 そんなある日のこと、美紀さんが俺に声を掛けてきた。

「そうきさん、今日ね、町で市場があってるの。いつもならあの人が行ってくるんだけど、ちょいと風邪ひいちゃってね。」

 そう言えば、朝から留義さんの姿を見かけなかった。

 風邪をひいていたのか。

「それでね、わたしも行けないから、雪と一緒に町に行ってきてくれない?どこで何をすればいいのかは、あの娘が知ってるわ。お願いできる?」

 俺に異論あるはずもない。

「ああ、いいよ。町ってどこ?」

「あっちのね、神社があるところ。」

 俺は内心胸をなでおろした。

 そこは実家のある町の山を二つ越えた谷にある門前町だったからだ。

 俺の故郷は県境にあり、そこは県外にあるところなので、おそらくは知人には会わないだろうと思ったからだ。

 ということは、俺はどれだけ歩いてここまで来たんだろうとも思った。

 少なくとも山を三つくらいは越えてきていたと思う。

 死ぬために歩いた距離は、結構あったようだ。

「わかった、いいよ。」

「良かった。雪!雪ちゃん!」

 美紀さんは雪を呼び、毛皮と炭を売ってくるよう伝えた。

 雪は慣れているのか、母親の声だけで何をするのか察したようだ。

 返事すると、毛皮と炭を荷台に乗せ始めた。

 俺も慌てて飛んで行き、手伝いをした。

 準備が終わると俺と雪は荷台を馬につなぎ、馬の扱いに慣れている雪が手綱を握って町に向かって馬を歩かせた。

 馬車で移動するなんて、戦場で何回か砲弾を積んで行ったことくらいしかない。

 どこから弾が飛んでくるのかもわからない状況下では、生きるとか死ぬとかという概念など飛んでしまう。

 俺はなぜここで戦っているんだ、などという疑問すら起きない。

 思い出しただけで気分が重くなり、意味もない破壊への渇望が生まれてくる。

 この深々とした林の中を馬でゆっくりと進んでいく様、この状況だけでもぶち壊したくなってくる。

 俺ははっと正気に戻り、首を振った。

 本当に自分が情けなかった。

 いくら侠客の倅だからって、戦争に行くまでは普通に景色を愛せていたはずなのに。

 春夏秋冬の味わいを知っていたはずなのに。

 俺はどうなっちまったんだろう。

 つくづく戦争なんてあっちゃならねえ・・・。

「どうかした?」

 隣で馬を操っている雪が訊ねてきた。

「え?あ、ああ・・・ちょいと考え事してたんだ。」

「何を考えてたの?」

「何でもねえよ。」

「そっか。なんでもないんだ。ならいいや。」

 雪の屈託のない、素直な言葉を聴くと、俺の心は自然と落ち着いていった。

 俺の街では、俺に寄ってくる女、周りにいく女どもはみんな「すれっからし」だった。

 何かで汚れていたが、俺はそれを嫌とも何とも思っちゃいなかった。

 それが当たり前だと思い、同類の母親を嫌ってはいたが、ごく当たり前のことだった。

 雪のような女には出会ったことすらない。

 言葉を交わしたこともない。

 だから俺は雪と話す時には、全然俺らしくはなくなっていた。

 言葉を選び、少しでも雪を汚さないようにしていた。

 俺はいつの間にか、雪という女を大切にし始めていた。

 森中家にいると、あまりにも綺麗な環境にいるので、俺自身がとんでもなく薄汚ねえ人間のように思えてくる。

 俺は少しずつ、変わっていっていたようだ。

「ここを越えたら、もう町だよ。」

 雪が指さしたのは道を少し登ったところだった。

 そこには鳥居があり、小さな神社があった。

 俺はそこで降り、神社に手を合わせた。

 こういうことすらしなくなっていたのだ。

 俺も変わったなと、思った。

 しかし馬が多少へばってきたので、俺は荷台を押した。

 それを見た雪は驚いて俺に声をかけた。

「そうきさん、いいよ。馬は少し休ませたらいいんだって。」

「雪ちゃん、俺も早く町を見たいんだよ。」

 柄にもなく、ワクワクしていた。

 町なんざ珍しくもないはずなのに、無性に高ぶっていた。

 俺は雪を無視して押して行った。

 雪は肩をすくめて手綱を操り始めた。

 馬は楽になったのか、進みだした。

 少し歩くと、雪が手綱をひいて馬を止めた。

「そうきさん、町が見えたよ。」

 俺は一瞬身体が固まった。

 あんなに慣れていた町なのに、身体が動かなかった。

 俺は自分が緊張しているのがわかり、また驚いた。

 緊張?この俺が?

 俺は自分の頬を軽く張り、馬の先に向かって歩いて行った。

「うわ・・・。」

 峠の向こうに見えていたのは、空襲もされなかった地方の町だった。

 人が大勢住んでいて、人の息吹が感じられる町。

 それがすぐそこにあった。

 遠目にでも人々が動いている様が見え、家々から煙や湯気が立ち昇っている。

 今まで感じたこともない感情が腹の底からこみ上げてきた。

 意味なく心臓がバクバクと動いていた。

 俺は必死にその感情が何なのか探り、そして答えが出た。

 それは「懐かしさ」だった。

 引き上げてきたときですら感じたことのない、懐かしさという感情だった。

 何がどう懐かしいのか、そこまではわからなかったが。

「そうきさん、行こう。夜遅くになっちゃうよ、急がないと。」

 俺は雪を見て頷いた。

「あれ?そうきさん、どこか痛いの?」

「え?」

「涙が出てるよ。」

 本当に俺らしくなかった。

 こんなことで泣くなんて。

 俺たちは峠を下り始めた。

 

6 

 

 俺は初めて町というものを見ているような気持ちだった。

 俺の住んでいたところは県庁所在地でもあり、県では一番活気ある町だった。

 地方の町なんざ行く気にすらならなかった俺だが、人々が動いていて生活している匂いが充満している町は、やはり魅力的に見えた。

 森中家に来て、まださほど経っていないのに、本当に懐かしかった。

 妙なしがらみがないだけに、余計にそう思えた。

 県が違うだけなのに、売っている饅頭や野菜がまるで違っていた。

 ほとんどが地元の人たちのようだったが、時々どことなくスッキリした身なりの者たちがウロウロしていた。

 おそらく、買い出しに来た近隣の町の者だろう。

 まるで馴染んでいない。

 もっとも、俺たちも別の意味でそうだったのだが。

 雪はいつも留義さんと来ているらしく、迷うことなく一軒の店に着いた。

 そこはいわゆる万屋(よろずや)であり、何でも売りさばいていた。

 雪は店の前でペコリと頭を下げた。

 慌てて俺も頭を下げたが、俺が頭を上げたのに雪はまだそのままだった。

 また頭を降ろそうと思ったとき、荒々しく声が飛んで来た。

「遅い!何やってんだよ!とっととそこに置きな!」

 言ってきたのは、番頭らしい初老の男だった。

 雪はその声を聴くと、頭を上げてまた丁寧に頭を下げた。

 そして大きな声であいさつした。

「いつもお世話になっております!今日もよろしくお願いいたします!」

 しかし誰も反応しなかった。

 空襲にあっていないので、食料も服も酒も豊富にあるようで、ひっきりなしに人が出入りしていた。

 俺たちなど相手にしている暇はないのだろう。

 雪はいつの相手してくれていると思われる男の元に歩いて行った。

 そいつは痩せて顎鬚を生やしており、不愛想な中年の男だった。

「あの、毛皮と炭、持って参りました。」

 男はぎろりと俺たちを見て、そしてぶっきらぼうに言った。

「誰でえ、そいつぁ。」

 見慣れぬ俺を警戒していたのかもしれないが、俺の中の悪い奴が反応しはじめた。

 いつもならもう殴っているところだが、俺らしくもなく抑えることができた。

「あ、うちの兄です。戦争から帰ってきまして。」

 俺が兄貴だって?

 俺は驚いて雪を見たが、それを男は見逃さなかった。

「本当かよ。怪しいな。」

 しかしそう言いながらも、男は俺たちが持ってきた毛皮の鑑定を始めた。

 どうやら、今の時代においては正体云々が商売に響くことはないので、挨拶程度のものだったようだ。

 考えてみれば、歩いている連中はみんな怪しく感じる。

 俺は格段に兄貴面するわけでもなく、普通に辺りを見ていた。

 懐かしい町の雑踏ではあったが、油断はできない。

 俺を知っている奴もいるだろうし、そうなると厄介だ。

 それにこんな時代だ。

 憲兵こそいなかったが、町を仕切っているのは、普通は極道たちだ。

 警察は、あってないようなものだった。

 下手すりゃすぐ敵になっちまう。

 侠客商売やってりゃ、そのくらいのことは当たり前だった。

 しかし雪は全くそんなことを考える素振りも見せず、じっと男の鑑定を待っていた。

 隙だらけなのだが、雪にちょっかいかけてくる奴らはいなかった。

「おう、できたぜ。」

 男が毛皮と炭を片付け、雪をジロリと見て腕を突き出した。

「いつも通りだ。いいな。」

「あ、ありがとうございます!」

 雪は再び深々と頭を下げ、男から代金を受け取ろうとした。

「待ちな。」

 俺は、俺の中の奇妙な勘を第一に頼って生きてきた。

 戦地で生き残れたのも、それを信じてきたからだ。

 その勘が、何かもぞもぞと動き出したのだ。

 俺は男の腕を掴んだ。

「なんでえ。いらねえのかよ。」

「いや、いるさ。だが、騙しはいけねえな。」

「なんだと?」

 俺は男の腕を握る左手に力を入れた。

 俺は部隊でもトップクラスの握力の持主だった。

 腕相撲やった相手は、まず握力に負けていったようなものだ。

 男はうめいて拳を開いた。

 バラバラと銭が落ちてきた。

 それを見た雪は、小さく声を上げた。

「あ・・・。」

 どう考えても、これだけの毛皮と炭だったらもっとあってしかるべきだったのが、異常に少なかった。

 帰って気がついても後の祭りになるはずだったろう。

 俺は男の腕をまだ離さなかった。

 俺の右手は、何も入っていない懐に入れてあった。

 そこに拳銃でもあるかのように見えたことだろう。

 また、拳銃以外の青い彫り物も、わざと見えるようにした。

「おい・・・舐めんじゃねえよ。俺を普通だと思うなよ。」

 俺は、こういうドスの効いた声を戦地で覚えた。

 同じ部隊とは言え、盗みや蹴落としなど当たり前だった。

 弱くちゃすぐに難癖つけえられて営倉送りになって、その間に身ぐるみ剥がされるし、命も危ない。

 部隊に入った時には若造だった俺だが、もういっぱしの悪党になっていた。

 俺の声に、店内は静まりかえった。

 男は顔を歪ませながら、左手でカネを掴んで雪に渡した。

 その額を見て、俺は男の腕を離した。

「おい、今度から俺もついてきてやる。と・・・親父がいないからって調子に乗るんじゃねえぞ。そのデコに穴開けたかねえだろ、なあ。」

 俺はうっかり留義さんと言いかけて訂正した。

 そして怯える男の額を、拳銃で狙いを定めるように指差した。

 間違いなく、俺たちを見くびっていたようだ。

 ピストルを確実に持っていると思わせることには成功したようだ。

 男の顔には、怯えが見えた。

 当たり前だ。

 地獄を身近に見て体感してきたわけだ。

 意識していなくても、人を殺して破壊するのが戦争だ。

 何も言わなかったが、俺の目の中に見える悪い奴はそこらの極道なんざ屁でもない力がある。

 これで勝負はついていた。

 今後雪一人で来ても一切のチョロまかしはやらないだろう。

 男には親子二代にヤバい奴だと思われただろうし、それを言いふらすことだろう。

 いすれ町のヤクザと一悶着になるかもしれなかったが、そういうことならいつでも受けて立つ気はあった。

 俺たちはそこを離れ、町の少し外れにある店に入った。

 そこには米や麦、野菜や醤油、味噌と言った基本的な食糧や調味料が販売されていた。

 俺たちはそこでおよそ一月分の食料を買い、荷台に積んで町を後にした。

 途中、それまであまり話さなかった雪がぼそりと言ってきた。

「ごめんね、兄さんにしちゃって。」

「ああ、ちょっとは驚いたぜ。」

「うちね、小さい時に兄ちゃんが死んじゃったんだ。」

「そうか・・・。」

 森中の家は、子供が3人だったとは知らなかった。

「大好きだったんだ。よく遊んで、近所の男の子から守ってくれてた。意地悪ばっかりするから。」

「それで、俺がそう見えたってわけかい?」

「見えたんじゃなくて・・・えーっと・・・難しいな。でも、町って怖いとこでもあるでしょ?守ってほしかったのかなあ、うち。」

 いつもは留義さんがその役目だったってわけか。

 正義じゃ、あの足だし無理だろう。

「ごめんなさい。」

 雪は馬車を操りながら頭を下げた。

「あ、いいって!気にすんな。兄貴でも親分でもいいって。」

「おやぶん?」

「あ・・・気にすんなってことさ。」

 雪はやっぱり雪だった。

 素直で、雪といると俺は俺がヤクザだなんて思わなくなる。

 まるで自分らしくなくなってくる。

 これでいいとか悪いとかではなく、俺はそういうときの自分が新鮮で、居心地良くなってきていた。

 

 

 俺は夢を見ていた。

 上官殿と、親しかった戦友と3人だった。

 ということは、ここは戦場なのだ。

 俺たちは藪に身を潜め、敵の陣地をじっと見ていた。

「おい、まだかな。」

「動きはないな。」

 俺たちは上官の突撃命令を待っていた。

 嫌な奴だった。

 こいつの命令で死ぬことだけは嫌だった。

 いつも偉そうにしやがって、機会があれば後ろから撃ってやりたいといつも思っていたくらい嫌いだった。

 上には従い、下を人間とも思わないような奴だったからだ。

 よりによってこいつが指揮官になるとは。

「おい・・・。」

 上官が見ていた双眼鏡を外し、腰のサーベルに手をかけたのだ。

 突撃させる準備だろう。

 時代遅れのやり方だ。

 そんなもん、日露戦争の頃のだ。

 いちいち癪に触るが、奴はそれがカッコいいと思ってるのだろう。

 奴はサーベルを引き抜き、額の前で掲げた。

 そして叫んだ。

「突撃ぃぃぃぃ!」

 俺たちは敵陣に、叫び声をあげながら突っ込んでいった。

 敵は油断していたようで、俺たちは撃ちながら突進していった。

 敵はやがて去っていったが、前に見えたのは何もない空間だった。

「何をしとる!突っ込めー!」

 憎たらしい声が響き、俺たちはしぶしぶ突入した。

 そこは少し開けた窪地であって、敵は放置していったと思われる武器などが散乱していた。

 俺たち3人に怯えて逃走したってのか?

 嘘だろうと思ったが、上官は得意げだった。

 さも自分の判断が正しかったのだと言わんばかりに、サーベルを地面に突き立てて悦に入っていた。

 すると、上官が何かに気がついたのだろうか、急に双眼鏡を構えた。

「おのれえ!奴らめ、要塞に籠りおった!よし、突破!」

 こういう場合、落とせとか言うもんだろうと思いながらも、俺と戦友は再び突っ込んでいった。

 窪地の先には川があり、その先に何か建物のようなものが見えた。

 浅い小川だったので、俺たちは構わず突っ込んでいった。

「うわ!た、助けてくれ!」

 戦友が急に足を取られ、川に流されていった。

 それまでの小川が嘘のように大河になっていた。

 戦友の声はすぐに聞こえなくなり、上官の忌々しい声だけが響いていた。

 突っ込め突っ込めとうるさい。

 俺は声から逃げるように建物めがけて突進していった。

 要塞なのに、何の銃撃もなかった。

 俺は要塞の前にある比較的低い壁をよじ登り始めた。

 苦労しながら上り詰めると、そこにあったのは・・・。

「うち・・・じゃねえか?」

 それは俺が飛び出していった、実家だった。

 周囲には何もない。

 俺が戸惑っていると、再び上官の声が聴こえてきた。

「何をしとる!突っ込めえええええええ!」

 俺は声に押されるように、かつて知ったる我が家に入っていった。

 普段いるはずの使用人たちはおらず、静まり返っていた。

 番台を過ぎるとまず広間があり、その先には両親がいつもいる部屋があったはずだ。

 俺は迷わず、そこに向かっていった。

 襖を開けていくのだが、不思議なことに幾つ開いてもたどり着けない。

 俺は次々に開いていった。

 無限に続くかと思われたとき、目の前にある風景がいきなり変化した。

 どす黒い闇が満ちた部屋で、妙に寒かった。

 俺は少しずつ足を踏み入れようとしたが、ちょっとでも足が敷居をまたごうとすると恐怖が全身を突き抜けるのだった。

 俺はただ恐怖していた。

 引き返したいと思った。

 そのときだった。

「そ・・・そうきぃぃぃぃぃぃ・・・お・・・おかえり・・・ぃぃぃぃぃぃ・・・。」

 母親の声だった。

 その声は気持ち悪く、部屋の奥から響いてくるようだった。

 俺はその声を聴くだけで心底恐怖し、その場を離れようとしたのだが、足は全く動かなかった。

「うわああああああ!!!!!!」

 俺は恐怖に耐えられなくなり、銃を構えて闇めがけて撃った。

 弾は確かに飛んでいったはずだが、何の音もしなかった。

 ただ、母親の声だけは止まった。

 俺は奥を覗こうとして身を屈めた。

 俺が身を屈めたと同時に、床からヤッパが飛び出してきた。

 俺は寸前でかわしたが、それが父親のものだとわかると、俺の中の恐怖と怒りが同時に爆発した。

 俺は動かない足を銃で殴り、その痛みで足が動かせるのを確認すると家から逃げ出した。

 そこにはあの上官がいまだに突っ込めと叫んでいたが、俺はそいつを撃ち、駆け抜けていった。

 走るだけ走ると、俺は疲れてへたり込んだ。

 気がつけばそこは湖のほとりだった。

 戦場でもなく、家でもない。

 ここはどこだろうと思い、俺は立ち上がって歩き出した。

 やがて鳥のさえずりが聴こえ、殺伐とした雰囲気は消え去り、俺は安堵感で近くの岩に座って深呼吸をした。

 こんな安息感はずいぶん久しぶりだったような気がした。

 俺は座ったまま、戦場にいつも持って行っていたハモニカを取り出し、好きだった『ふるさと』を吹いた。

 ワンフレーズ吹き終えると、俺は肩に温かい手が優しく乗っているのがわかった。

 愛に溢れ、ずっと乗せていたい気持ちになった。

 俺はハモニカをやめ、あたりを見回したが、姿は見えなかった。

 どこだ?

 俺は立ち上がり、そいつを探し始めた。

 しかし何も見つからなかった。

 俺は生まれて初めて、体験したことのない感情がこみあげてくるのがわかった。

 それは『寂しさ』だった。

 心から寂しかった。

 孤独が嫌だった。

「嫌だ!一人は嫌だ!」

 俺は泣きながら走り出し、当てもなく彷徨いだした。

「どうしたの?」

 雪の声だった。

 俺は目を開けた。

 そこはいつもの森中家の寝床であり、俺の横に雪が座っていた。

「すごい寝言だったよ。寝言というか、まるで叫び声だったよ。悪い夢でも見たの?」

 俺は布団から身を起こし、冬だというのに汗びっしょりだった。

 一気に冷えてくる身体を毛布で包み、俺は身体を起こした。

「あ、ああ・・・悪い夢・・・まあ、そうだな。俺、うなされていたのかい?」

 雪はこっくりと頷いた。

「もう廊下まで響いていたよ。お母さんが見てきなさいって。」

「そっか・・・悪かったな。」

「ううん、いいよ。もう朝ご飯できているよ。顔洗っておいでよ。」

 そう言うと、雪は出ていった。

 俺は半纏を羽織り、廊下に出た。

 外は深い雪景色だった。

 あんな夢を見たの、初めてだな、と俺は呟いた。

 これが悪夢っていうのかもしれないな。

 それだけ今は幸せだってことなのかもしれない。

 俺はため息をつき、土間にある囲炉裏に向かっていった。

 

8 

 

 今年の冬は例年になく長く、山間部にある森中家周囲は常に銀世界だった。

 商売で町にいく機会も増え、俺もそれなりに溶け込むというか、異分子ではなくなっていった。

 俺がどういう人間か判ったのか、荒々しい奴ら気軽に声掛けしてくるようになっていた。

 俺にとっては気軽なことだったが、雪には声掛けさせなかった。

 俺が睨むとそれだけで済んだ。

 最初は留義さんとだったが、次からはずっと雪と二人だった。

 俺たちは、と言うよりも雪の方が楽しそうに感じていた。

 その頃までは、俺はやはり過去を引きずっていたのだと思う。

 前に書いたような悪夢ほどではないが、ときどきうなされていたようだ。

 それは全て雪から聴いたことだ。

 雪の寝室が廊下をすぎた先にあり、用を足しに行くときに俺の部屋の前を通るからだと言っていた。

 まあ確かに、部屋の前を通ってうなされていたら気にもなるだろう。

 雪と俺は、年齢差が4歳。

 俺からすりゃ子供だった。

 言うことがいちいち幼く感じたし、幼稚さに呆れることもよくあった。

 だが雪は刺青がある俺を、全く普通の男として見ていてくれた。

 屈託なく、好きな花の話題や小学校の頃の話などをよくしてくれた。

 俺自身はそんな話題には何の興味もなかったのだが、そんなときの楽しそうな雪が好きだった。

 かつての俺の周りには、遊女か下品な女たちしかいなかった。

 タバコ臭く、お前の面はどこにあるんだと言いたいほどの厚化粧。

 アメリカ兵に媚びを売って金をせびる奴や、ヤクをやってラリってる女、誰かを殴ってる女・・・そんなんばっかだった。

 俺も14歳のとき、そんな女に奪われた。

 酒を飲まされ、寝ていたら気がついたら女が乗っていた。

 そのときの、俺の上で動いている女の、吐き気をもよおすような恍惚の表情を思い出すたびに気分が悪くなった。

 もちろんその後も散々経験はしてきたのだが、そのトラウマがあったせいか何の喜びも感じなかった。

 なので、雪のような女は、俺にしてみれば初めてのタイプだった。

 汚れを知らないかどうかはわからなかったが、そういう風に見えたし、事実その通りだった。

 だから却って、どう接していいかわからなかった。

 それも少しずつ慣れてきて、いつしか楽しそうに笑って話す雪の横顔が本当に好きになっていた。

 癒されていたのだと思う。

 雪にしてみたら、まるで別世界の住人だった俺のことが珍しくて仕方なかったのだろう。

 俺が時々使うヤバい言葉にもいちいち反応してきた。

 ヤッパって何って聞かれた時には本当に困った。

 一応説明したら、それから斧を見て、あのヤッパが、とか言い出してしまい、美紀さんに注意されちまった。

 気をつけるようになる日々が続いて、気がついたら荒っぽい言葉は段々と消えていっていた。

 俺という一人称ですら、あるときにうっかり「自分」と言っていた。

 それに気がついたとき、不思議と俺の中に戸惑いはなかった。

 むしろ嬉しさがこみあげてきて、笑ってしまった。

 あるとき町に行った時に、少しは好きに買ってもいいと言われていたので、饅頭を買って帰り道の峠にある岩に座って、一緒に食べたことがあった。

「ねえ、そうきさん。これすっごく美味しいね。」

「ああ、そうだな。美味いな。」

「そうきさんってさ、都会の人なんでしょ?都会のお菓子を教えてよ。」

「そうだなあ・・・きんつばって知ってるかい?」

「ううん、知らない。」

「あんこを固めて、小麦粉つけて焼いたものでさ。俺はこれが好きだったなあ。」

「うわあ、おいしそう!食べたい!」

「ああ、いつかこの町にも来るのかもな。その時には買ってやるよ。」

「嬉しい!ありがとう!」

 そう言うと、雪は俺に寄りかかってきた。

 寒かったし、普通でもよくあることだったが、俺はなぜか心臓が激しく動いた。

 なんだこれは。

 どんなときでも、弾が飛んで来た時ですら感じたことのないことだった。

 ガキの頃、初めて蛇をふみつけて転んだときにちょっとだけ似ていた。

 雪も何か違うものを感じたようで、それから少しだけ沈黙があった。

 俺は雪を見て、無性に肩を抱きたくなった。

 俺は雪の肩に手を伸ばし、軽く触れた。

 その瞬間、雪の身体が軽くビクッとした。

 しかしそれからはそうでなくなり、むしろ俺に強く寄りかかってきた。

 俺も雪をもっと感じていたくなり、雪を俺の方に引き寄せた。

「・・・あったかい・・・。」

 雪が小さく呟いた。

 俺は激しく、子供だと思っていた雪を女性として感じてきていて、もっと顔を見たくなってもう片方の腕で雪の顎を持って俺の方に向けた。

 雪は最初驚いたように俺を見たが、すぐに目を閉じた。

 俺は雪の小さな顔をさらに引き寄せ、少しだけ開いた唇に、俺の唇を合わせた。

 雪は何の抵抗もしなかった。

 そして俺はもっと雪を感じていたくなり、強く吸った。

 雪も同じことをしてきた。

 どれくらいの間、そうしていたことだろう。

 確か風が強く吹いたためだろうと思うが、俺たちは顔を離した。

「・・・ありがとう・・・。」

 雪が小さく言った。

「うち、ずっとそうきさんが好きだった。そうきさんがよく寝れるようにとね、寝てるときにずっと横に座ってたんだ。汗拭いたり。でもね、うちみたいなのに、そうきさんが振り向いてくれるなんて思ってもいなかった。だけど・・・。」

「もういいよ、雪ちゃん。俺、今わかったけどさ、俺も雪ちゃんが好きなんだ。恥ずかしいけどさ、この歳まで感じたことはなかったよ。俺こそ、ありがとう。」

 俺たちはもう一度抱き合い、この日は帰った。

 そしてその夜、俺と雪は結ばれた。

 

9 

 

 俺と雪は、あの日からは意識して家族の前では会話しないようにした。

 せっかくの雰囲気を壊してはいけないと思ったからだ。

 しかし、男たちはごまかせても女性はなぜか察してしまう。

 美紀さんと雪の会話も、極端に減ってしまったのだ。

 会話する時には怒鳴り声が聴こえてきた。

 時々涙を浮かべて走りさる雪を見たりもした。

 しかし俺にはどうすることもできなかった。

 雪は何でもないと言っていたのだが、それは明らかに嘘だった。

 すると男たちの間にも、何か落ち着かない雰囲気が伝搬していく。

 普段は温厚な留義さんが怒り出したり、正義までが部屋から出なくなったりした。

 さすがに俺が動かないといけないなと感じ、俺は雪を結ばれた1週間くらい後に、美紀さんを誘って町に出かけた。

「町に?ああ、いいわよ。わたしも久しぶりだわ。」

 美紀さんはいつものモンペではなく、きちんとした着物に羽織りを被って、髪には簪まで刺して俺と出かけていった。

 何で町まで行くのにこんなのを着なくちゃならないんだ、と俺は思った。

 女ってわからねえ。

 もちろん、雪には美紀さんと話するからと言っておいた。

 俺たちは町までの間、色々と会話した。

「ねえ美紀さん。なんか最近、雪ちゃんと何かあったんじゃねえの?」

 美紀さんは歩きながら俺をちらと見て、何となくいつもの美紀さんとは違う口調で・・・気持ち高い声で言った。

「どうしてそんなこと訊くの?」

「どうしてって言われても・・・そう見えるからさ。」

「どうして、そうきさんがあたしに雪ちゃんとのことを聴くの?」

「だから、気になるからじゃねえか。」

「何が気になるの?」

「美紀さんと雪ちゃんのことがだよ。」

「・・・嘘おっしゃい。そうきさんが気にしてるのは、雪ちゃんだけでしょ。」

 俺は少しだけ背筋が寒くなった。

 美紀さんが言う通りだからだ。

 女の勘は恐ろしい。

 銃を持った兵よりも怖い。

 俺はちょっとムキになった。

「じゃあ逆に聴くけど、どうしてそう思うんだい?」

「・・・それは答えるの難しいわ。」

「え?」

「ねえ、そうきさん。」

「な、なに?」

「そうきさんって、極道だったんでしょ?漢の中の漢道じゃない。わたしはそう思ってた。だけど、今のそうきさんは全然そう見えないわ。なんか、なよなよしてる。そんなの、らしくないわよ。」

 確かに、今の俺は全然漢じゃないとはわかっていた。

 雪と初めて人並みの恋に落ち、何となく守りたいものができたからかもしれない。

 死にたがっていた俺は、いつでも全力だった。

 その頃と比べたら・・・その通りだ。

「俺のことはどうでもいいじゃねえか。俺は新入りだし、家族じゃないし。でも、森中家の雰囲気が好きだから居候してんだよ。わかったよ。余計なことに首突っ込んじゃいけねえってことだよな。」

 雪さんはしばらく黙り込んで、会話がない時間が10分ほども続いただろうか。

 町が見える峠の少し前で、美紀さんはそこにある石に座った。

「そうきさん、ここにお座りなさいな。」

 美紀さんは手拭いを取ると、自分の隣に敷いた。

 そこは、先日俺と雪が唇を合わせた場所だった。

 ちょっとだけ躊躇したが、俺はそこに座った。

 美紀さんは手拭いの上にタオルも敷いてくれて、こういう心遣いが美紀さんであり、こういうことをされると俺は本当に弱かった。

 美紀さんは懐から乾パンを出して、俺に薦めた。

 これは美紀さんの手作りであり、俺を含めて家族みんな好きだった。

 適度な塩味が効かせてあり、主食になりうるものだった。

「美味え。」

「・・・ねえ。」

「なに?」

「わたし、いくつに見える?」

「は?」

 俺はその時まで年齢など全く興味なかったので、当然考えもしなかった。

 そう言われて初めて俺は、ちゃんと考えた。

「そ、そうだよなあ・・・40前くらいかな?」

 俺の正直な感想だった。

「あら、嬉しい!」

「は・・・はあ。」

「そうきさん優しいのねえ。わたしはもう50前くらいのおばさんなのよ。」

 俺は正直に言っただけだったし、実際にそう思うから言ったのだ。

 美紀さんの髪の毛は栗色で、光の中でものすごく映えた。

「そうなんだ。そうは見えないな。」

「わたしね、実は前に一度、別の人と夫婦になってたの。」

「え?」

「今は・・・まだ3年くらいなの。」

 留義さんが、見染めたのだろうか。

 しかも俺はたまに留義さんが美紀さんを見る目が、本当に優しかったことを知っていた。

 あれは相当に仲いい夫婦でなければ出ない顔なのだろうと思っていた。

 俺達には絶対に見せない、優しくて嬉しそうな顔だった。

「でも、俺からしたらすげえ仲いい夫婦に見えるよ。それでいいんじゃない?」

「そうよね・・・本当にあの人は、わたしを大事にしてくれている。ありがたいわ。でもね、そうきさんもいずれわかるでしょうけど、他人だった大人同士ってそんなに簡単じゃないのよ。まだ3年じゃ、まだまだね。」

 美紀さんの顔は何とも言えない複雑な表情に見えた。

 なにか謎めいてもいた。

「そうか。俺はまだまだかもな。特に女に関しちゃあな。」

「そうなの?」

 美紀さんはなにか言いたげな顔で俺に訊ねてきた。

「そうだよ!」

 俺は雪とのことを悟られまいとして、少しムキになっていた。

「まあ、いずれわかるわ。私たちもね、今は幸せだけど・・・先はどうなるかわからないしね。そうきさんみたいな人と、また出会えるかもしれないし。」

「はあ?美紀さん、何言ってんだ。」

「あははは、冗談よ。こんなおばさんが、そんなことないでしょ。冗談よ、冗談。」

 本当に女って意味がわからんと俺は思った。

 どこまでが冗談なんだって。

「そりゃそうだ。美紀さんは家族のお母さんだしな。」

 すると美紀さんはみるみるうちに機嫌が悪くなった。

「やっぱりねえ、男の人って本当に鈍いんだから。」

「え?俺、何か悪いこと言ったのかい?」

 男相手ならいくらでもケンカ買う俺だが、こういう女性の不思議さというか、男にはない振る舞いというものには、とんと免役がなかった。

 聴かれたから答えただけだろうに。

 美紀さんは軽く首を振り、ため息をついて俺を見た。

 美紀さんのちょっと真面目な顔は、本当に美しかった。

 おそらくお気に入りの簪なのだろうけど、象嵌でできたものがやけに目に入った。

「そうきさん。」

「な、なに。」

「雪ちゃん・・・いい娘でしょ。」

「あ、ああ・・・あ、さっきの話・・・。」

「黙って聴いて。」

 珍しく、美紀さんはどこかの姉御のようにきっぱりと俺を遮断した。

 俺は以前に知り合いの極道の姉御さんが啖呵を切っていた場面を思い出していた。

 若い衆を一喝していたキップのいい姉さんだったが、今の美紀さんはまさにそうだった。

 俺は黙るしかなかった。

「わたしは、これでも一応親なのよ。娘のことは誰よりも心配している。あの娘を泣かせないようにね。頼んだわよ。」

「え・・・?」

「もう付き合っているんでしょ、雪ちゃんと。」

 俺は文字通り、唾を飲んだ。

 誰にも言っていないし、気配すら消していたはずなのだ。

「いいの。わたしにはわかっていた。そうきさん、女の勘を甘く見ちゃダメよ。もし雪ちゃんとちゃんとお付き合いするんだったら覚えておいて。不幸にしたら許さないわよ、わたし。」

 これが母親の迫力なのかと、俺は初めて知った。

 お袋には全く相手にしてもらってなかったので、褒めてももらっていないし、叱られてもいなかった。

 でも、この迫力はどんな姉御にも負けるものではないし、異次元の力のように俺は感じた。

 しかしそれは俺にとっては、奇妙なことに気持ち良かった。

 真っ直ぐに言われたし、その言葉には何の嘘もなかったからだ。

 気がついたら、俺の顔のすぐ前に美紀さんの顔があった。

 俺はもう一回唾を飲みこんで、やっと口を開いた。

「あ、ああ・・・わかっているよ、美紀さん。」

 理由も何もない、女の勘と迫力相手にしては、俺はもうこれ以上何も言えなかった。

 美紀さんはにっこりと笑うと、またため息をついた。

「これでいいのよね・・・。」

「え?」

「ううん、何でもないの。さて、お買い物済ませちゃいましょう。あの人が待っているからね。行きましょう。」

 俺たちはそれから町に行き、いつものように毛皮と炭を売って、色々と買い物をした。

 そしてこの日を機に、なぜか美紀さんと雪はまた仲良し親子に戻った。

 何をどう解決したのか、俺には全くわかっていなかったのだが、結果良ければすべてよしなのだろうと自分に言い聞かせた。

 

10  

 

 この日のまた、一面の銀世界が広がっていた。

 いったいいつ春になるのだろうなどとつい思ってしまう。

 俺は最近美紀さんに編んでもらったセーターに着替え、半纏を羽織って手拭いで鉢巻をした。

 そして朝の日課の、薪割りのために裏手にまわり、斧を取ろうとして納屋の扉を開けた。

「あ、親父さん!」

 ここ何日かいなかった留義さんが、納屋の中で立っていた。

 寒い日用に、熊の毛皮でできた上着を着ていた。

「どうしたんだい?顔見なかったけど。」

 留義さんはにやりと笑うと、斧を俺に手渡した。

「まあな・・・遠くでやらにゃならん仕事があったんでな。」

「仕事って?」

「別段、お前さんに言うほどのものじゃねえよ。このご時世だ。カネはいくらあっても足りねえ。まあ、そういうことだ。それより、ほれ。」

 留義さんは何かを俺に放った。

 受け取って見ると、それは見たことがあるパッケージの箱だった。

「これ、アメリカのチョコレートじゃねえか!もう出回ってんのか?」

「全員の分はある。米兵と関わる仕事だったもんでな。」

 戦後やっと菓子メーカーが復活して、キャラメルは手に入っていたものの、こういうのはまだまだ高級品だった。

 俺は開けて食べたい衝動を抑え、留義さんに訊ねた。

「嬉しいけどよ・・・あんた、何やってんだ?。」

「言ったはずだ、言うほどのことはねえって。」

 俺の妙な勘が動いていた。

 それは元来持っていたものだったが、戦地でなお冴えてきたものだった。

 胸の中に、妙な「ざわつき」が起こるのだ。

 これが起きるときは、大体ロクなことではない。

 これがあったので、俺は生き残ってこれた。

 ほんの少し身体を動かずだけで銃弾を浴びずに済んだ。

 父親のヤッパを間一髪でかませたのも、寸前にこれを感じたからだった。

 留義さんは軽く肩をすくめて、外に出てきた。

 そして言った。

「あのよ・・・ここにいたけりゃ、余計な詮索はしねえこった。俺らはお前さんを家族と思ってる。それで充分だろ。」

 その言葉には、どこか怖さと凄みがあった。

 侠客の世界ではよく感じるものだった。

 ただそれが、半端ない力があったってことだけは違ったが。

 留義さんはさらに続けた。

「ああ、雪から聴いた。守ってくれて、ありがとよ。あの娘はいい子だ。これからも守ってやんな。薪割り、済ませて飯にしようぜ。」

 そう言うと、留義さんは歩いていった。

 俺は何か触れてはいけないものに触れたのだろうかと思った。

 その証拠に、チョコレートを持つ俺の手は汗ばんでいた。

 何かに緊張してしまったのだろう。

 まるで熊にでも出会ったようだった。

 先日の美紀さんと言い、この両親って何かおかしい。

 俺は首を振ってため息をつき、気分を変えて薪割りを始めた。

 籠にギリギリまで薪を押し込めるまで割り続け、薪置き場に積んで、余った分は土間に運んだ。

 土間にはすでに美紀さんがいて、朝飯の準備に取り掛かっていた。

「あら、おはよう。」

 美紀さんの笑顔を見ると、俺は軽くドキドキする。

 雪と付き合っていてアレなのだが、実は美紀さんは俺の完璧な好みだった。

 人生で甘えたことなどなかった俺だったが、美紀さんと話していると「甘える」というのって、こういう気持ちになることだったんだとわかった。

 先日のあの日から、俺の中ではそういう感情も芽生えてきていた。

 美紀さんは乱れた髪を結んで紐で留め、湯を沸かして野菜を切っていた。

「あ、ああ、おはよう。」

 俺は竃に薪を放り込んだ。

 そして米を取り出して研いだ。

「あらあら、そこまでしなくていいのよ。わたしがやるから。」

「ああ、いいよ。このくらいはよくやってたからな。」

「そう?じゃあ、お願いね。」

 美紀さんが出汁を取り、野菜を鍋に放り込むと同時に、俺は土鍋を竈にかけた。

「あ、ねえ、美紀さん。」

「なあに?」

「あ・・・あのよ。留義さんって、遠くで米兵相手の仕事してるって聴いたけど。」

 美紀さんの笑顔に多少押されながら、俺はさっきの話をした。

 美紀さんは黙って聴いてくれ、聞き終わると少し困ったような表情をした。

「あのね、わたしもよく知らないの。」

「え?夫婦なのに?」

「夫婦・・・だからかなあ。知らない方がいい時もあると思わない?それでうまくいってるんだし。ね?」

 美紀さんにそう言われると、俺は「はい」としか言えなかった。

 ただちょっとだけ引っ掛かるものはあったが。

「おはよー・・・。」

 目をこすりながら雪が部屋から出てきた。

「あ!ごめんなさい!今朝はうちの番だったのに!」

 朝飯は美紀さんと雪が交代で行うのが、森中家のルールだった。

「いいよ。夕べは遅くまで内職やってくれてたんでしょ?」

「あ・・・知ってたの?」

「そりゃね、母親だし。」

 雪は何か言おうとして、俺に気がついた。

「え?そうきさん、ご飯炊いてくれたん?うわー、ごめんなさい!」

 雪は慌てて、茶椀やら湯飲みやらを並べ始めた。

「ああ・・・たまには手伝わないとな。」

「ダメダメ!そんなこと、男の人にさせられないよ!どいて!」

 雪はそう言うと、俺の手から茶碗を奪っていった。

 大人しい顔してるけど、結構強い女なんだなと俺は思った。

 いきなり手持無沙汰になった俺は、痒くもない頭をかいて、ふと正義のことを思い出した。

「正義に、飯持っていこうか?」

「あ、それならお願い。近ごろね、正義ったら、そうきさんのことばっかり話すんよ。気に入られちゃったね。」

 確かに、俺と正義の相性は良かった。

 年下なのだが、奴にはどこか得体のしれない強さがあって、しかしそれを決して表には出さなかったところが俺は気に入っていた。

 奴も、どうやら同じ匂いを俺に感じていたようだった。

 俺は飯が炊きあがると、美紀さんが作ってくれた味噌汁と煮つけを盆に置き、飯と一緒に持っていった。

「おう、正義。入るぞ。」

「ああ、いいよ。」

 俺が戸を開ける前に、正義の声がした。

 俺が飯を持ってきたことを知ると、正義はむくれた。

「なんだ、そうき兄さん、一緒に食べないんだ。」

「お・・・おお。じゃあ、ちょっと待ってろ。」

 俺は土間に戻り、自分の分をよそって正義の部屋に持って行った。

 考えてみたら、正義と一緒に飯を食うなんて初めてだった。

 俺たちは正義が注いでくれた茶を飲み、飯を食った。

 美紀さんの煮つけはいつも美味い。

 今日は山鳥の身が入っていたので、余計に美味かった。

「美味えな、おっ母さんの飯は。」

「ああ・・・美味いよ、確かに。」

「・・・なんか美味そうじゃないみたいだな。」

「そんなことはないさ。」

 正義は時々、このような歯切れの悪い言い方をする。

 俺はそこだけが気に食わなかった。

「お前よ、もっと素直に言えよ。こんな美味いもん、戦地では絶対に食えねえ。」

「素直・・・ねえ。素直ってさ、心底からモノ言えってことじゃない?それだとさ、時にはヤバいこともあるよね。」

「なんだお前、ヤバいってよ。」

「だってさ、そうきさんだって、戦場で人を殺してきたんじゃない。それを何も考えないで言える?」

「そりゃお前、やらなきゃこっちがやられちまうからな。」

 言いながら俺は、正義の言う素直って奴が恐ろしいものなんだと改めて思った。

 この家の居心地の良さについ口にしてしまうのだが、俺は確かに戦場で人を殺めてきた。

 直接やったことはなかったが、俺が放った弾で誰かが死んだことは間違いない。

 実感したことはなかったが、こうして真っ直ぐな目で言われると心に響いた。

「まあ、お前の言う通りかもしれん。だが、それでもこの煮つけは美味いぞ。」

「・・・プッ・・・。」

「お前、何笑ってんだよ。」

「だって、そうき兄さんが慌てるのって初めて見たからさ。下手くそな誤魔化ししちゃって。」

「お前が変な返しするからじゃねえか。」

「あははははは」

 正義の以前は知らなかったが、少なくとも俺が来てからは毎日少しずつ笑うようになっていった。

 正義は俺の何がそんなにおかしいのか、俺にはわからなかった。

 だが確かに正義という弟ができていっていることだけは間違いなかった。

 俺には弟はいなかったが、こんなもんなのかなと思えるようにはなっていた。

「なあ正義よ。」

「うん?」

「親父さん、何の仕事してんだ?お前、知ってるのか?」

「親父・・・ああ。」

 また歯切れの悪さが出てきた。

「ねえ、兄さん。それ、俺もよくは知らないんだ。」

「そうかあ。」

「でもさ、そんなことどうでもいいと思わない?こんな俺だってさ、こうやってここにいて暮らしてる。好きな本を読めて、書くこともできる。俺はそれでいいって思ってんだ。」

「ま、まあな。お前がそれでいいならなあ。」

 しかしひとつ言えることは、正義は確かに知っている。

 俺は居心地よかった森中の家に、かすかな不安を感じ始めていた。

 

11 

 

 ずっと振っていた雪が、この日は止んでいた。

 久しぶりに晴れ間が見えたと言うだけで、人間というものは気分が変わるものだ。

 俺はこの日は、大量に焼いていた炭を売りに町にいくことになった。

 連れは、留義の親父さんだった。

 雪は美紀さんと家事でやることが多かったようだ。

 俺たちはあまり話すこともなく、黙って町まで歩いて行った。

 町が見える峠まで来た時、留義さんが立ち止まって俺に伝えるようでもあり、ひとりごとでもあるかのように言った。

「・・・平和だよなあ、俺たち。」

 俺は留義さんを見たが、全く何の変化もなく、歩き始めた。

 しかし留義さんのあの一言の意味がどれほどの意味を持っていたのか、俺にはまだわからなかった。

 町に入った俺たちは、いつもの買い取り人のところまで行った。

「おう、今日は炭だ。」

 留義さんがあの痩せて顎鬚を生やしており、不愛想なあの男に話しかけたが、この日のあいつは違った。

「いらねえよ!」

 その目には、怒りか何だかよくわからない感情が見えた。

「なんだと?」

 留義さんは顔色ひとつ変えなかったが、声は低かった。

「もうな、お前さんから何も買わねえって言ってんだよ。」

「どういうことだ?」

 男は俺たちをぎろりと見て、そして横にある電柱を指差した。

 そこには英語で書かれた紙が貼ってあった。

 俺は英語なんかさっぱりわからなかったが、下に描いている日本語を見て血の気が引いた。

『この者、凶悪犯につき通報せよ』

 そしてそこにあったのは、紛れもなく留義さんの似顔絵だった。

 いつの間にか、周囲からは誰もいなくなっていた。

 遠巻きに俺たちを見ていた。

 男は俺たちに向かって、あまり大きくない声で言った。

「こいつはな、米軍さんからの触書だ。お前さん、何をやらかしたのか知らねえが、もうこの町には出入りできねえ。俺もあんたとは長いが、これでおしめえよ。じゃあな。」

 俺はこの男が好きではなかったので殴ろうと思ったが、留義さんがすっと手を出してきた。

 何だと思ったら、目の前の男がすっと何かを差し出してきた。

 そこには矢印と、矢印の後ろには米の文字が書いてあった。

 留義さんはその紙を取ると、懐に入れた。

「そうかい・・・あんたがそう言うようじゃ、それまでってこったな。あばよ。」

 留義さんは俺の腕を掴んで、矢印の方向に歩いていった。

 俺がどういうことだと言いかけると、留義さんはぎろりと俺を見た。

 喋るな、ということなのだろう。

 俺たちは少し歩くと、そこは一軒の空き家があった。

 俺たちはそこに入った。

 そこは空き家というよりは蔵に近い、土蔵のようなものだった。

 中は暗かったが、すぐ横にランプが置いてあり、留義さんは外を確認してランプに火をつけた。

 中は狭かったが、留義さんはここが初めてではないようで、床敷を外して床のゴミを手で払った。

「親父さん、これは?」

「入るぞ。」

 床にあったのは戸であり、開くと中には階段があった。

 俺たちは中に入り、床敷を戸の上に置いて閉めた。

 階段を降りると、そこは六畳ほどの空間があり、さらに奥には通路があるようだった。

 留義さんは階段したに身を顰め、俺にも屈むように合図した。

 するとすぐにドヤドヤと足音が上で聴こえ、聴きなれない言葉が飛び交った。

 俺たちは上の音が消えるまでじっと潜み、5分ほどで音がしなくなると留義さんは軽くため息をついてそこにあったゴザの上に座った。

 俺は何が何やらさっぱりわからなかったので、留義さんの前に片膝をついて座った。

「親父さん・・・あんた、米軍相手に何やってんだ?あいつら、米兵だろ?なんであんたを探してんだ?」

 留義さんは首を振り、またため息をついて俺を見た。

「いつかはわかることだ。それに、そろそろだろうな。」

 留義さんは懐からキセルを取り出し、タバコを詰めて火をつけた。

 狭い空間だったが、煙は右側に流れていった。

 明らかにどこかに通じている。

「ここはな、戦争の時にこの村の住人が作った逃避道だ。元々は炭鉱だったんだ。ここからは2方向に通路があってな。ひとつは俺たちの森の中に出るようになってる。まだ米軍には知れてない。」

「場所はわかった。でも俺が知りたいのは、あんたの仕事だ。教えてくれよ。」

 びっくりしたことに、留義さんは俺をお茶目な目で見た。

 こんな表情は見たことなかった。

 いつもしかめっ面で、眉間には皺があったからだ。

「俺は、米軍に内偵してる男さ。」

「米軍に・・・内偵だって?」

 内偵、つまりスパイのことだ。

「ああ、俺は元日本陸軍の内偵でな。英語もできる。それで通訳や土地紹介などをしながら、奴らの弱みを探ってるってわけさ。」

「で、でも、日本軍はもうない。なんであんたがそんなことやんなきゃなんねえんだ。」

 留義さんは煙を深く吸い、ゆっくりと吐き出した。

「まあ・・・詳しくは言えねえが、今ちょうど朝鮮で戦争が起こってる。米ソの対立さ。それで日本は米軍派としての国防軍を創設することになった。俺は今でも、陸軍特務機関の一員ってこった。ただ・・・。」

 留義さんはキセルの火を手に取り、コロコロ転がしながらもう一杯詰め込んで火をつけた。

「俺はこの国防軍ができるまでってことで協力してる。米軍は煮ても焼いても食えねえ連中だ。何らかの弱みを握っておかねえと、何もかも吸い上げられちまう。その情報を集めていたってことさ。だが、ヘマやっちまったらしいな。」

 留義さんが言っていた国防軍が、現在の自衛隊の前身である警察予備隊のことだ。

 ただ俺はまだ腑に落ちなかった。

「じゃあ、あの男が書いて渡した紙って・・・おい、ひょっとしたらこの町全部が・・・。」

「わかりがいいな。その通りよ。この町全員が特務機関とその家族ってこった。誰かがヘマしたら、すぐに切られる。だがそれでもやっぱり、仲間ってことだ。」

 俺はそれで謎が解けた。

 雪と来た時、俺は仲間ではなかった。

 だからわざとああやってここから離れるように仕向けたのだろう。

 今日のことにしても、そう考えればすべて意味がわかる。

「親父さん・・・まさかあんたがそんな人だったとはな・・・。」

「ああそうだ。どうする?出ていくか?米軍に言えばカネになるぜ。」

「俺が?」

「ああ。この際だ、はっきりしておこう。俺らがお前さんを受け入れたのは、いい隠れ蓑になると思ったからさ。俺らとは関係ない新顔がいるだけで、何かあったときにはお前さんを前に出して俺たちは逃げる。そういうつもりだった。しかしな・・・お前さんは、俺らが思った以上に、俺らの側だった。だからこうやって話してる。こういうときに、本当はお前さんに喋らせて、その間に逃げようと思ってた。だが・・・もうやめた。好きにすればいい。」

 俺の答えは決まっていた。

「馬鹿言うな。ここんとこ俺と雪が町に来ても、何にも問題はなかった。むしろ、良くしてくれた。あんたが手を回してたんだろ?仲間だからってさ。」

 あの一件以来、俺と雪がここに来てもよく買って貰えていたし、時には食料をくれたりしていた。

 居心地いいと感じていたはずだ。

「俺はあんたに言ったよな。俺は生きてるってな。それを実感できたのは、あんたのおかげだ。これで裏切ったら、俺は・・・俺を許しちゃおけねえ。」

 留義さんはにっこり笑うと煙を吐き出し、俺の方をポンポンと叩いた。

「それじゃ、またよろしくな。さて、帰ろうか。」

 俺たちは我が家の森へと通じる通路を歩いていった。

 たぶん、留義さんは、俺の答えを予想していたなと、俺は思った。

 

12 

 

 留義さんから真実を聴かされたときから、森中の家族は忙しくなった。

 当然である。

 スパイと判ったのだから。

 かつての仲間だった町の連中も、表向きはきっぱりと俺たちと切れたことにしているはずだろうから、俺たちは当然逃げるしかなかった。

 留義さんが案内してくれた元坑道から出ると、家のわりに近くに出た。

「おい!」

 家に着くと、留義さんは美紀さんを呼んだ。

「なんです?大きな声出して。」

 美紀さんが洗い物をやめて、手拭いで手を拭きながらやってきた。

「雪は?」

「あの娘は木耳を採りに行ってますよ。」

「そうか・・・まあいい。潮時だ。」

 潮時という言葉が、この家では重要な合図のようなものだったようだ。

 美紀さんの顔色が一瞬で変わった。

「そう・・・ですか。思ったより長かったわね。」

 俺はさっきから驚いていた。

 そうかもとは思っていたが、まさか美紀さんもスパイだったとは。

「ああ、こいつも一緒だ。」

 留義さんは、前のように強く俺の背中を叩いた。

 だが俺には、それが圧には感じられなかった。

 美紀さんは、俺の顔をいつもとは違う顔でじっと見た。

「そうきさん、いいのかい?この人は前からあたしに相談してた。家族にしたいって。でもあたしは反対してた。あんたに、こんな暮らしをさせたくなかった。いつも怯えて、こそこそ隠れるような毎日を送るのって・・・嫌なもんだ。本当に、いいのかい?」

「美紀さん、もういいよ。俺もどこにも行き場がない身だって知ってんだろ?それに、俺はみんなが好きだ。俺からもお願いする。家族なんだし。」

 美紀さんは頷くと、留義さんを見た。

「じゃあ、急がないといけないね。そうきさん、正義を頼むね。ここに連れてきてちょうだい。」

「わかった!」

 今から逃避行に出るというのに、俺の心は妙に明るかった。

 やっとこの一家の一員になれたような気がしたからだ。

 俺は離れの、正義のところに向かった。

「おい、正義!」

 部屋に入ると、俺はすぐにいつもとは違うと気がついた。

 部屋に山積みにされていた本がきれいになくなっており、閑散としていた。

 正義は部屋に唯一残された机の前に座っていて、俺を見てにっこり笑った。

「やあ。」

「やあ、じゃねえよ。お前、どうしたんだ?」

「わかってるよ。潮時、だろ?」

 俺は驚いた。

 まだ何も言ってないし、先ほどのことを正義が知る由もないはずだからだ。

「な、なんでお前それを・・・。」

「知ってるのかって?簡単なことさ。これだよ。」

 正義が見せたのは、モールス信号の記録カードだった。

「これは、訓読みを組み合わせで打ってくるようにしてるから、米軍には解読不可能なんだよ。」

 そこには『ナカハタ タウ ダナ サウ キョウ』と書かれていた。

「ナカハタってのは、中将ってこと。親父さんは、階級は自称中将だからね。タウってのは逃げるってこと。ダナは、急げってこと。つまり、親父さんが逃げるから急げってことさ。そして、サウってのは、そうき兄さんのことで、キョウは一緒にってこと。」

「お前、ひょっとして・・・。」

「ああ、新設国防軍の情報将校・・・予定者かな。まだ若いけど、情報収集能力はちょっとしたもんだぜ。」

 正義までが、新設国防軍関係だったとは。

 俺はそこでふと思った。

「ということは、雪もか?」

「そういうことになるね。」

「一家で間諜かよ!」

「一家・・・ああ、まだそう思ってたの?」

「え?」

 意外すぎる答えだった。

 まだ、そう思ってたのか、だと?

「え?え?え?ど、どうこった、そりゃ。」

「時間ないから短く言うね。俺たち、家族じゃないんだよ。親父さんとお母さんは、上司と部下、僕はさっき言った通りで、雪は新入り。一応姉弟って体だけど、赤の他人。」

 俺の頭の中は真っ白だった。

 俺にとっては理想の家族とばかり思っていた。

 心の中の何かが崩れていくような、しかしそうではない何かもあった。

 複雑すぎて、俺自身でもよくわからなかった。

 だがわかっていたことがあった。

「正義、俺にはまだ受け止められん。とりあえず、逃げながら考える。」

「ああ、そうするとは思ってた。そうき兄さんの行動パターンの分析ではそうなっていたからね。」

 この野郎、俺を分析していただと?

 可愛い弟だと思っていたのに。

「正義!もう行くよ・・・あ、そうきさん・・・。」

 雪は俺を見て、ちょっと止まった。

 雪も新入りらしいし、まだ戸惑いもあったのかもしれない。

「雪、もうそうき兄さん知ってるよ。さあ、行こうか。」

 そう言うと、正義は右足に義足をつけてさっさと歩いた。

「な・・・?あ、歩けんのか?」

「あーもう面倒だな。仮の姿だったの!」

 何もかもが、幻だったのか・・・そんな思いがぐるぐると俺の中を駆け巡った。

 森中って名前も、たぶん適当に作ったものなんだろうな・・・。

 何もかもデタラメな状態だったはずなのに、俺の心の中はきっちりと一貫性があった。

 それは、間違いなく俺は彼らの仲間以上の者になっているんだろうなってことだった。

 加えて、今まで感じたことがないものを俺は感じていた。

 ひょっとしてこれが、家族の愛ってものなのかも、と思った。

 

13 

 

 俺たちは一通りの荷物をまとめると、雪の中に出た。

 風がやたら冷たかったことを覚えている。

 家の周囲には、留義さんがいつも積んでいる雪の山が多めにあった。

「さて・・・もういいかな。」

 留義さんが確認するように全員を見て、つぶやいた。

「ここは何年いたかな。」

「3年・・・かしらね。」

 美紀さんも留義さんと同じ方向、つまり今は空き家となった家を見て言った。

「雪ちゃんや正義さんが来た時にも色々あったけど、最後がそうきさんだったね。」

「僕よりも雪の時の方が大変だったじゃない。」

 正義がちょっと不満そうに言った。

「もう毎日泣き喚いてさ、大変だったよ。僕は情報さえできりゃそれでよかったから、むしろ楽しかったけどね。」

「もう・・・やめてよ。」

 雪がそうだったってことは・・・?

「じゃあ雪、お前も何かあってここに?」

 雪は柔らかい髪が風で流されるのを苦にもせず、俺を見上げた。

「うん。うちね・・・捨てられたんだ。」

「捨てられたって・・・?」

「その通りよ。気がついたら、お母さんもお父さんもいなくなってた。うち、色んなことがあって、みんなと血縁なかったから。本当のお兄ちゃんは死んじゃってたし、生活苦しかったから。」

 先日に雪が言っていた他界した兄ってのは、そういうことだったのか。

 雪と俺は、似たような環境だったようだ。

「探して探して、お腹空いて死にそうになって、気がついたらここにいたの。だからうち・・・。」

「もういい。急ぐぞ。」

 留義さんが雪を途中で止めた。

 確かに、このまま不安定な状態で逃げることは危険だった。

 留義さんは俺たちと家を見て、そして近くにあった木の中に手を入れた。

 どうやらその木は細工がしてあったようだ。

 留義さんは中から何かを取り出して手に持った。

 それは俺も見覚えがあった。

 散々戦地で見てきたものだった。

 それは、爆破のスイッチだった。

「おい親父さん、これ・・・あんた、まさか!」

 俺が思わず止めようとする前に、留義さんはレバーを押した。

 効果的に仕掛けられていた爆薬が爆発し、家は崩れ落ちていった。

 また、俺はその時まで知らなかったのだが、どうやら家には地下室が掘ってあったようで、家は燃えながら地面の下まで沈んでいった。

 家がまだ燃えているときに、留義さんは一瞬だけ悲しい目をしたように俺には見えた。

 しかしそのほんのわずかな感情は、すぐに消えた。

「よし、雪をかけるぞ。」

 俺たちは周りに積んでいた雪を穴に入れた。

 火はまだ燃えていたのだが、十分な量があったのでまもなく火は消え、かつて家があったあたりは雪で覆われ、さらに降り積もる雪が燃えカスを隠していった。

 このためにあんなに雪を積んでいたのかと、俺は理解した。

 いつでも逃げれるように、なおかつ証拠を残さないようにしていたのだ。

「・・・よし。おい、みんな。」

 留義さんは俺たちを集めると、一人一人の顔をゆっくりと見た。

「3年の間、お疲れ様だったな。俺たちの任務は、これで終了だ。」

 そして陸軍式の敬礼を行い、美紀さんと正義だけが同じ敬礼をした。

 その後留義さんは家の後始末を確認しに、正義と雪を連れて行った。

「あれ、雪ちゃんは?」

「うちは・・・軍じゃないもん。お手伝いしてただけ。」

 やはり俺と雪だけが同じ境遇だったのだ。

 すると正義があの上から目線で、妙に得意そうに俺に言った。

「ああ、言い忘れたけど、僕は実は二十歳で、情報二尉。留義さんは自称中将で本当は軍曹、美紀さんは一尉。雪を姉さんって呼んでたけど、実は同い年。だから、何の関係もないお二人を受け入れたってわけ。」

 雪と正義が留義さんと一緒だったため、俺と美紀さんが残った。

 俺も行こうとしたが、美紀さんが俺の服を握ってきて、振り向いた俺ににっこりと笑顔を見せてくれた。

「そうきさん、あんたとあの子のおかげだったんだよ、任務遂行できたのは。」

「え?どういうこと・・・。」

 俺が話し終わる前に、美紀さんは俺の両手を握ってきた。

「え・・・?」

 前にも言ったように、俺は美紀さんのような女性には弱い。

 どうしていいのか、わからなくなる。

 侠客だった俺が信じられない。

「あんたと雪がいてくれたおかげで、あたしたちは本当の家族でいられたんだよ。二尉とと中将だけじゃ、家族にはなれなかった。」

 美紀さんはゆっくりと頷いて、俺に言った。

「あんたたちがいてくれたおかげで、あたしは母親に、中将は父親になることができたわ。ごく自然にね。誰が見たって、普通の一家だもん。おまけにこんなとこに住んでる。今は雪に覆われて、夏はこのあたりは木が生い茂るの。そもそも誰も近寄らない。でも中将と言ってたんだ。いずれ潮時が来るからってね。戸籍調査かもしれないし、今回のようなことだったのかもしれない。でもいつでも身を隠す用意はしておくようにってね。」

 美紀さんはそう言うと、俺の胸に顔をうずめてきた。

「ちょ・・・ちょっと、美紀さん!」

 俺は慌てて留義さんたちを見たが、作業でこちらを見ていない。

 美紀さんのうなじは色っぽかった。

 美紀さんは少しの間そのままにいて、そして顔を上げた。

 目には涙が浮かんでいた。

「ごめんね。あたしはあんたに、息子以上の気持ちを・・・ちょっとだけ持ってたよ。でもこれで、安心した。心残りはもうない。」

 正義と雪はなくなった家のあたりを向いていた。

 気を使ったわけではないが、俺は早く止めてほしかった。

 先日二人で買い物に行ったあの日の美紀さんの不自然な態度が、やっと俺にも把握できた。

 そういうことだったのか。

 男には怖さなんて感じないが、こういうシチュエーションには全くのウブだったから、そう考えるのがやっとだった。

「おい、もういいだろう。」

 家の跡が完全に見えなくなったのを確認していた留義中将が、俺たちの元に戻ってきた。

 そして、美紀さんの肩を掴んで引き寄せた。

 肩をポンポンと叩いて、離れてにっこりと笑った。

 そして正義の頭を軽く叩き、雪の鼻を軽くつまんだ。

「任務だったが、俺は楽しかったぜ。息子二人と娘を持てたんだからな。俺もかつては家庭を持っていた。妻と娘がいた。しかし空襲でな・・・俺は米軍に復讐したかった。だからこの任務を進んで引き受けた。やけっぱちだったが、段々と二つ目の家庭を持ってる気になってきた。だから・・・緊張が少し薄れちまったのかもしれねえ。まあ、それは仕方ねえこった。みんな、ありがとうよ。俺は、もう二度と味わうことがない本当の愛ってもんを貰うことができた。これで、思い残すこたあねえ。」

 思い残すことはない・・・この意味をこのときの俺はまだわからなかった。

 そして、中将は直立姿勢をとり、美紀さんと正義に最後の指令を伝えた。

「川上美紀一尉、今より任務解除を命ずる。秘密保持のため早々にここを去り、台湾に行け。中山正義二尉、民間人二名を伴い、大阪で指令あるまで待機。途中は、民間人から離れよ。以上、豊田留義中将の最後の命とする。」

 俺と雪は顔を見合わせた。

「ちょっと、とめ・・・中将さん。民間人二人って俺と雪のことだよな。俺らから離れるって・・・。」

「そうき兄さん・・・。」

 正義が俺の肩に手を置いた。

「これ以上聴くなよ。元々の姿に戻るだけなんだしさ。」

 雪はすでに現状を受け入れてはいたが、目には涙が溢れていた。

「うん・・・もう・・・いいよ。潮時だもんね。」

 しかし美紀さんだけは違った。

「中将、わたしはあなたの命に従えません。」

 留義さんはいぶかしげに美紀さんを見た。

「米兵に襲われていたわたしを助けてくださったご恩の借りを、まだお返ししておりません。それを返すまでは、ご一緒させていただきます。」

「いかん!命令に従え!」

「嫌です!」

 美紀さんは留義さんの前で、手を自分の胸に当てて涙を流した。

「わたしも米軍に仕返ししたかった。だから中将の元で部下になることを承諾いたしました。ですが。」

 美紀さんの声は涙で震えていた。

「ですが・・・中将も仰ったじゃありませんか・・・二度と味わえないと思っていた本当の愛を・・・わたしも得たのですよ?もう二度と手放したくありません!中将がどう仰ろうとも、わたしはついてまいります!」

 留義さんは口をギリっと結んだまま、美紀さんを少しの間見た。

 そして表情が和らいでいった。

「美紀・・・それでいいのか?まだお前は・・・。」

「離れたところで・・・わたしにも帰る家はないんですよ。もうこうやって、なくなってしまったんですからねえ。」

 美紀さんはかつて家があった場所に目をやった。

「あなたがなさろうとされていることに、わたしもご一緒させてくださいませ・・・。」

 俺には彼らの任務がこれからどうなるのかはわからなかった。

 わかっていたのは、正義だけだったのだが。

 留義さんは、頷いて俺たちを見た。

「命令を取り消す。中山正義二尉は当初の命令に従え。川上美紀一尉は・・・いや、豊田美紀は豊田留義中将と共に任務完了をなす。」

「任務・・・終了をなすって・・・まだやることがあんのか?お、俺にも手伝わせてくれよ!」

「ならん!もう命令の取り消しはない!」

 留義さんは俺たちに、町と反対の方向を指差した。

「・・・わかっているな。もうひとつの坑道を目指せ。駅の近くに出る。必要なものは、坑道の中に置いてある。いいな。」

「了解です。」

 留義さんは、最後に俺たちを集め、円陣を組んだ。

「・・・みんな・・・無事でな。さらばだ!」

 そして留義さんは最後に俺の肩を強く掴んだ。

 そして野性的な髭面が、これ以上ないくらいの笑顔を浮かべた。

 言葉は発しなかったが、その笑顔の中に、俺は最大の愛情を感じた。

 俺という存在が、留義さんにとっては息子だったのだろう。

 留義さんは俺に父親としてやれる最大限の土産をくれたのだと思った。

「親父さん・・・。」

 しかし留義さんは静かに手を離し、下がって美紀さんと並んだ。

 美紀さんはそっと留義さんの腕に手を預け、悲しそうに、しかし嬉しそうに俺たちに手を振っていた。

 美紀さんの髪が神になびいていた。

 美紀さんはやっと、留義さんと本当の夫婦になれたのかもしれない。

 俺たちは留義さんと美紀さんが見送る中を、正義が案内する道を歩いていった。

 俺は二人の姿が見えなくなるまで、何度も振り返った。

 雪も同じだった。

 

14 

 

 俺たち三人は、正義が案内する道を通って、やがて林の中にある藪のひとつに着いた。

「確かここだった・・・はず・・・だ。」

 正義が藪を刈ってくれと言うので俺は鉈でバサバサと刈った。

 しばらく刈ると、そこには広さ二畳分程度の箱があった。

「兄さん、手伝って。」

 俺たちは三人で箱をひっくり返した。

 やたら重い箱だった。

「お・・・こりゃあ?」

「・・・あった。ここだよ。」

 箱の下には階段があり、箱の裏にはランプやロープなどの生活用品や、乾パンなどの食料が備えて会った。

 そして箱が重かった理由は、その他のものだった。

「・・・ライフルに手榴弾じゃねえか!」

「ああ、日本軍のものらしいよ。親父さんが・・・中将が見つけて、わからないように隠しておいたのさ。さあ、行くよ。」

 俺たちは正義を先頭に、坑道の中に入っていった。

 入った後には、また箱で蓋をした。

 しかし正義は箱の裏側に何かを取り付けた。

「おい、なんだそりゃ。」

「焼夷弾だよ。1時間ほどしたら発火する。」

「どうしてだ?箱があった方が見つからねえだろ。」

「藪を刈ってるんだよ。わざとらしいじゃない。これを燃やしたら、自動的に入口も爆破して塞ぐようにしてある。すぐには見つからない。」

 正義はさすがだった。

 こういう知識をふんだんに持っているようだった。

 俺たちは歩きながら、色々な話をした。

「お前、戦争に行ってたのか?」

「いや、一度も。」

「え?」

「あのさ、僕らの階級ってさ、中将が勝手につけてくれただけで、僕もお母さんも戦争なんか知らないよ。」

「留義さんが、勝手につけた?どういうことだ?」

「まずか僕がお願いしたのさ。僕は若い頃にドイツにいてね、そこで情報戦の知識を持ってた。その力を全然発揮できなかったので、中将にお願いしたってわけ。そしたらお母さんまで階級が欲しいって言い出してさ。ああ、中将と僕は、実は叔父さんと甥、なんだ。で、森中なんて名字は、たぶん森の中だってことで適当につけたんだよ、叔父さんが。」

 何がどうなっているのか、受け入れるまでちょっと時間が必要だった。

 雪はずっと黙っていた。

 しばらく歩くと、少し広い空間に出た。

 そこにはランプも椅子も置いてあり、おそらくは炭鉱夫たちの休憩所だったのだろう。

 俺たちはそこで休憩した。

 俺が何か言いかけたとき、爆発の音が聞こえてきた。

「・・・よし。」

 正義は頷き、義足を外してマッサージなどを始めた。

「この足だとね、結構疲れるんだ。さて、と。今から兄さんと雪に伝えることがある。」

「なんだよ、いきなり。」

「中将・・・とお母さん・・・が今何をやろうとしているのかをさ。」

「ああ、俺も気になってた。何をやろうとしてるんだ?」

「対米軍のために、あの町があるってことは知ってるよね。」

「ああ、そうらしいな。」

「あの町は、戦争前に日本軍が作った町なのさ。諜報を行うためにね。親父さんもそこの一員だった。でも、家族は別の町にいて、空襲でやられちゃった。親父さんは、それで一人で米軍相手に活動を始めようとしたんだけど、だけどその時には僕もお母さんもいた。少なくとも外から来た人でしょ。町の人たちがそれはダメだと言ってね。情報が洩れたら大変じゃない。それで親父さんは、ある提案をしたんだ。こうすれば、秘密は守られるはずだって。それで町の人たちも協力してくれるようになった。」

 俺は、このとき俺の妙な勘が動き出すのがわかった。

 悪い知らせのときに感じる、あれだった。

「・・・おい・・・俺はそれ以上聴きたくないぞ。」

「やっぱり!」

「雪?」

 それまでずっと黙っていた雪が泣き始めた。

「やっぱり・・・そうだったんだ!・・・嫌ああああ!」

 雪は泣き叫び、そこにあった毛布に顔を埋めて泣いた。

「うち、お母さんから聴いてた!この家で人生終わるんだって!でもでも・・・やっとまた仲良くなれたのに・・・嫌嫌嫌あああああ!」

 元通りに仲良くなっていたとき、美紀さんはやはり女の勘で何かを悟っていたのかもしれない。

「いや、兄さんたちもこれは知らなくちゃいけない。秘密は、紙だけじゃない。ここにもあるんだよ。」

 正義は、自分の頭を人差し指でコンコンと叩いた。

「頭の・・・中?」

「ああ。親父さんとお母さんは、今ごろそのために作っておいた洞窟に入っている頃。そして、これを飲むんだ。」

 正義は手に持っていたものは、黒いカプセルだった。

「これはね、日本軍が自決用に持っていた青酸カリ。すぐに楽になれる量はある。もし米軍になにか怪しまれるようなことがあったら、家も自分も始末するって、町の人たちに提案したんだよ。」

 俺は声帯が固まってしまった。

 そして俺は自分を激しく責めた。

 なんで気がつかなかったんだ!

 気がついてたら絶対止めたはずだ。

 俺は言葉にならない声を出した。

「ぐわあああああああ!何で・・・何で、そんなことになるんだ!」

 俺は戦地で、爆弾を持ってバイクで特攻をかけた奴を知っていた。

 前の晩、俺たちはそいつと笑い転げるほどに酒を飲んで騒いだ。

 勝つために死ぬことが特攻だが、その前には生きていることをこれでもかと味わいたくなるのが人間だ。

 あの気持ちいい森中家は、その覚悟の上にあったのかと、今ごろ気がついた俺は、俺自身を許せなかった。

 俺は何度も地面に拳を叩きつけた。

 悔しくて情けなくて、こんなに激しい感情に苛まれたことは初めてだった。

 俺にこんな感情があることを、このとき初めて知った。

 死にたがりの侠客だったはずだった。

 そんな感情なんざ、犬にでも食わせてしまえと思っていた。

 しかしそのときは違った。

 こみ上げてくる激情に、まるで逆らうことができなかった。

「そうき兄さん・・・。」

 義足をつけて立ち上がった正義が、俺の肩に手を置いた。

「僕はね、最初から知っていた。だから、会うと悲しくなっちゃうから引きこもってたんだ。もちろん情報を集めていたってこともあるけどさ。でもね・・・。」

 正義は俺の傍に腰を降ろした。

「そうき兄さん、まるで本当の長男みたいだったよ。そしてこんなに僕たちのために涙流してくれてさ。僕は本当に・・・本当に・・・兄貴ができたって思ってた。ありがとう。」

 正義の声は、次第に鳴き声になっていった。

 こいつがこんな感情を俺に見せるのは無論初めてだった。

 少しの間を置いて、正義は俺と雪に伝えた。

「もう少し歩こう。そうしたら別の出口に出る。急ごう。」

 

15 

 

 俺たちは正義に従って、坑道を歩いていった。

 重苦しい雰囲気のまま、一言も話さないで俺たちはひたすら歩いた。

 普通なら何かしら話すところだが、非常に複雑な心理状態だった。

 懐かしいあの森から離れるのは悲しかったが、一刻も離れたいという妙な気持ちもあった。

 ただ、正義の足はやはり長時間連続で歩くことは困難だった。

 俺は正義の身体を支え、雪がついてこれる速さで進んでいった。

 時間にして一時間くらいは歩いたことだろう。

「・・・おい、なんか匂いが・・・。」

 森の中では嗅ぐことのない匂いがかすかに感じていた。

 間違いなく、海の匂いだった。

 出口が近い証拠だった。

「雪ちゃん、大丈夫か?もうすぐみたいだ。」

「うちは、大丈夫。」

 雪はきつそうだったが、声は元気そうだった。

 俺たちが進むにつれ、海の匂いはますます強くなっていった。

「・・・着いたよ。ここだ。」

 正義が指さした先には、扉があった。

 俺は正義を座らせ、扉を押した。

 重かったが、少しずつ扉は開いていった。

 やがて扉は開いたが、その先には階段があった。

「そこを登ると、小屋に出るはずだよ。」

 俺たちは正義の言う通りに階段を登り、天井にある板を押した。

 ゆっくりと板は開き、光が差してきた。

「出た!」

 そこは炭鉱夫たちの休憩所だったようだ。

 あちこちにトロッコやツルハシが置いてあり、ヘルメットなどが散乱していた。

 カビ臭かったが、波の音が聞こえてきた。

 俺たちは小屋から出た。

「海だ!」

 雪が叫んだ。

「うち、山育ちだから・・・初めてよ、こんな大っきな海なんて・・・。」

 俺も開放感が一気に押し寄せてきたのだが、正義の一言で現実に戻らされた。

「まだ喜ぶのは早い。ここから歩いてしばらく行くと駅がある。それに乗ればいい。だけどまだ、やることがある。」

 俺にもそれが何なのか、すぐにわかった。

「ここを塞ぐんだろ?」

「その通り。幸いここは炭鉱後で、爆薬も置いてある。当座のカネもここに置いてあるし、着替えも置いてある。風呂もある。まずは着替えて風呂に入って、一般人になりきらなきゃね。」

 俺たちは爆破の準備をして風呂に入り、炭鉱夫や手伝いの身なりに着替えて、外に出た。

 正義はいつもように時間で爆発するように設定して、外に出た。

 そしていつも持ち歩いている懐中時計を取り出して、満足そうに頷いた。

「今から3時間後に爆発するようにしておいた。ここから10分も行けば駅に出る。辺鄙な駅だけど、今からならちょうどくらいに汽車が来るはずだ。これだけの時間がたてば、誰も僕たちを疑わない。急ごう。」

 さすが正義だった。

 情報を正確に把握していたので、現在時間から大体の時間を計算していたのだ。

 俺たちは正義が示した方向に、線路沿いに歩いた。

 きっかり10分後に、駅が見えてきた。

 俺たちは線路から出て、藪の中を歩いて駅前に出て、そこから「下腰上駅」に入ろうとした。

「ちょっと待って。」

 正義は道に出る前に右足の義足を取りはずし、藪の中に埋めた。

「どうしたんだ?」

「義足してたら疑われちゃうでしょ。あれは僕ならいつでも作れる。このまま行こう。」

 正義は杖がほしがったので、俺は藪の中の手ごろなのを切って、簡単な杖を作ってやった。

 そして俺たちは駅の構内に入った。

 確かに辺鄙な小さな駅だったし、人も少なかった。

 正義は深くため息をついて、俺と雪に話しかけた。

「兄さん、雪、今までありがとう。ここでお別れだ。」

「え?そ、そりゃどういうこった!」

「正義、どうしたの?一緒に行くんでしょ?」

 俺も雪も本当に驚いた。

 ずっと一緒に行くものとばかり思っていたから、当然の反応だった。

「いや・・・僕にはまだやることがある。中将の意思を続けていく。そう約束していたんだ。」

「だ、だけどよ。そりゃここで別れる必要ないじゃねえか。」

「いやいや、少なくとも僕はもうちょっと姿を完全に消しておかなきゃならない。僕は違う土地で、高瀬川正義という人間を完全に消さなきゃね。少なくとも僕は米軍に疑われているはずだ。彼らの能力はすごいからね。そして・・・。」

 正義は俺と雪を交互に見て、ちょっと悲しそうに伝えた。

「兄さんと雪姉さんが一緒だと、君たちも疑われちゃうんだ。そうすると町の人たちが危ない。君たちに自決しろなんて言えないじゃない。だから、ここで別れるんだ。」

 俺と雪は顔を見合わせた。

 確かに正義の言う通りだった。

 何の反論もできなかった。

 悔しいが、正義の整然とした思考回路は完璧だった。

「正義・・・俺・・・。」

 俺はそれ以上何も言えなかった。

 しかし雪は違った。

「正義。初めてお姉ちゃんって呼んでくれたね。ありがとう。」

「よせやい。僕はずっと言いたかったんだけどさ、任務中だったしさ。しょうがないじゃない。でもね、それ以上でもあったんだよ。」

「え?」

 正義は雪の手を取って、雪の顔をしっかりと見て、伝えた。

「僕はさ、雪姉ちゃんのことが好きだったんだよ。本当に。でもね、雪姉が兄さんを好きだったことも知ってる。だから、ここでしか言えなかった。」

「正義・・・。」

「ごめんね。こんな時に。でも、忘れてくれ、なんて言わない。兄さんと一緒にいても、僕はそうだったんだって思っていてくれるだけでいい。それだけで僕はこれから生きていける。兄さん、いいだろ?」

 俺に否定できるわけがない。

「俺は・・・お前以上に、雪が好きだ・・・。」

 そうとしか言えなかった。

 正義は一瞬きょとんとして、それから大声で笑った。

「あっはははははは!兄さんらしいや。」

 笑うだけ笑うと、正義は俺を見て片方の手を伸ばした。

「・・・それでいいよ。ありがとう。握手してくれる?」

 俺は正義の手を強く握り、こいつは本気の弟だと思った。

 様々な思いが脳裏をよぎっていたが、汽車の汽笛が鳴った。

 正義は握っていた俺たちの手を、そっと離した。

「じゃあ、これで本当に最後だ。僕はこれから、船であっちの半島に行く。そこにも色々と・・・。」

「備えしてあるんだろ。お前らしい。」

「そういうこと。じゃあね!」

 正義は俺たちから離れて、船場があるところに杖をついて歩いていった。

 雪が正義を呼ぼうとしたが、俺が止めた。

 もう、正義は使命のために生きようとしている。

 きっちりと別れることが、正義への礼儀だと思った。

 俺は敬礼して、すぐに降ろした。

 俺たちは正義の後ろ姿を見ながら、汽車に乗り込んだ。

 方向を見ると、俺の里の方面だった。

 あの辺りは土地勘があるので、俺は里の町がある少し先まで行くことにした。

 切符を買い、降りた駅のすぐ前には、親戚の家があった。

 侠客の親父とはウマが合わなかった叔父がいて、俺たちを迎え入れてくれた。

 俺は家を出て、雪と暮らしていたがカネがなくなった体にしておき、しばらく叔父の世話になることにした。

 俺たちは叔父の家の二階にしばらくいることにした。

 二階には窓があり、そこに座ると風が気持ち良かった。

 久しぶりの下界の風を感じていると、足に何か乗ってくるのがわかった。

 雪が疲れ果てて、軽くいびきをしながら俺に寄りかかったまま寝ていた。

 俺はそっと雪を寝かせ。俺も横に寝た。

 走馬灯のように、森中の家で過ごした日々が浮かんで来た。

 留義さんや美紀さん、町の人たちの顔が浮かんで来た。

 そして正義も。

 しかし俺も疲れ切っていた。

 もうすぐに、俺も深い眠りに落ちていった。

 

16 

 

 俺は自宅の居間で新聞を読んでいた。

 秋になりかけた頃で、カーディガンが必要になるくらいの頃だった。

 消すに消せない彫物があるので、俺は真夏でも長袖シャツを着ていたし、決して人前では素肌を見せなかった。

 その癖があって、家の中でもこのような恰好をしていた。

 この洋風の一軒家を買ってから、もう10年になる。

 あれから俺は雪と結婚した。

 しばらくは実家に帰らなかったのだが、叔父から父親が死んだと聞き、一旦戻ったときに遺産相続人が俺しかいないことを知らされ、半分嫌だったが実家の稼業ごと受継ぐことになった。

 元遊女の母親は、かなり前に失踪していたようだ。

 それすら知らなかったのだが、俺にとってはどうでも良かった。

 それでも一応墓には名前を入れてやった。

 だがこのままでは商売が成り立たないとわかったので、俺はそれまでの内容を一新して新聞販売と古本売買に転じることにした。

 これからは情報の時代だと、正義に言われていたからかもしれないが、そう思ったのは確かだ。

 元の使用人たちは高齢になっていたこともあり、比較的若い連中以外は全員解雇して別の仕事に就かせて新会社を設立した。

 本社も移転して、故郷から他県に写り、そこが新しい住まいとなった。

 これが功を奏して事業は順調に伸び、こうやって一軒家に住めるようにまでなれた。

 雪との間には子供二人をもうけ、気がつけば昭和50年で、俺は52歳になっていた。

 長男は結婚して、孫も一人いた。

 ときどき、あの森中家のことを思い出すことはあっても、俺と雪の間では暗黙の内にそのことには触れないようにしていた。

 今の生活が幸せすぎていたのかもしれない。

 日本はあれから高度成長期となり、かつての貧乏だった日本からは想像もできないほど豊かな社会ができていた。

 日米関係は良好になり、世界的にも敗戦国日本というイメージはなくなってきていた。

 俺は新聞を読むというよりも、眺めながらそんなことをぼうっと考えていた。

「コーヒー、入れましたよ。」

 雪が、俺が好きなグワテマラを持ってきてくれた。

「ああ、ありがとう。」

 俺は苦みの後に、ほのかに甘みが残るこのコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが、ある記事に目が止まった。

 それは、とある山火事の生地だった。

 山間の町から出火した火は瞬く間に燃え広がり、消防や自衛隊も動員しての消火にあたっているという内容だったのだが、俺の目に止まったのはそこではなかった。

「消防隊員たちは最寄りの下腰上駅に着いてから消火に・・・この駅の名前はどこかで・・・あ!」

 俺は大声を上げて立ち上がった。

 体中に電気が走ったような衝撃だった。

「どうしたの?」

 雪が台所からエプロンをつけたまま、やってきた。

「おい・・・母さん、これ、これ・・・これ読んで!」

 雪は俺が示した生地を読み、俺がなんで驚いているのかわからないようだった。

「これが・・・どうしたの」

「思い出さないか?この駅の名前を!」

 雪は生地をじっと眺めていたが、間もなくして腰を抜かしたようにソファにへたり込んだ。

「これ・・・ひょっとしてあの駅なの?」

 雪は震えながら、下を向いたまま聴いてきた。

 長い間言葉にすることが怖かった現実が、否応なしに目の前に飛び出してきていた。

 あそこの役で正義と別れ、その瞬間から俺たちのあの森中の家でのことは消えていた。

 いや、消していたのだ。

 だが、俺たちは知っていた。

 もしあのことが視界に入るようなことがあったら、もう逃げないと。

 俺は新聞を握りしめ、雪に手を貸して立ち上がらせた。

「行かなくちゃ・・・だろ?」

「・・・ええ。」

 俺はそれから大忙しで店の整理をし、当面は専務である息子に任せるように手配した。

 子供たちにはあのことは一切知らせていないので、友人があの山火事に巻き込まれたかもしれないからと伝えておいた。

 俺と雪は飛行機でかつての故郷に向かい、あの下腰上駅を目指した。

 その頃には山火事もかなりおさまってきており、交通もスムーズになってきていた。

 俺たちはタクシーで下腰上駅に向かい、地元の人たちに出火の原因などを聴いてまわった。

 その結果、山間部にかつて存在した村からだとわかった。

 地元の下腰上役場ではそう教えてくれた。

「かつてあったって・・・どういうことなんですか?」

 担当してくれた人は、地図を見せてくれた。

「ここに、戦後しばらくは『江洲村』というところがあったんですね。ちょうと朝鮮戦争が始まったあたりで急速に人口が減りましてね。いつしか廃村になってしまったんです。かなり乾燥していたんでしょうかねえ。そこから出火したと警察は判断したようですがね。」

 江洲村という名前があったのか。

 俺たちは『町』としか呼んでいなかったから、初めて聴く名前だった。

 朝鮮戦争後に消滅したということは、やはりあそこは警察予備隊、今の自衛隊ができる前にあって、その後は用済みになったと言うことなのだろう。

 俺は地図を眺めていて、ふと気がついた。

 その村から少し離れたところに、神社のマークがあったのだ。

 俺の記憶がグルグルと回りだし、そして雪と初めて町に買い出しに行ったときのことが思い出された。

 間違いない、あの神社がまだあったのだ。

「あの、この神社には行けるんですか?」

「ああ、まだダメですよ。まだ鎮火したばかりで危険です。」

 役場の人とはそれ以上話すことはなかったので、俺たちは役場を出た。

 しかしせっかくここまで来たのに、このまま帰るのはしのびない。

 俺たちは下腰上の町を歩いてみた。

 何かしら、あの場所に行けないだろうかと思ったのだ。

 旅館なら何かしら知っているかと思い訊ねてみたが、やはり無駄だった。

 その場所もよくは知らないとのことだった。

 この非常事態に誰も行けると言う人はいなかった。

 諦めて戻ろうとしていたときだった。

「お客さーん!」

 俺たちを呼び止めたのは、ついさきほど訊ねた旅館の女将だった。

「はあはあ、一人いましたよ。あそこに行けるって人が。」

「え?誰なんです?」

「宿に今いますよ。このあたりの森を管理している人で、ちょうど私どものところでご飯食べていらしたものですから聴いてみたんですよ。」

「あ、ありがとうございます!」

 雪は深々と礼をした。

 俺たちは早速旅館に戻り、ロビーに座っていた人を紹介してもらった。

「こちらが、ええとお名前は・・・?」

「伊那田三貴です。初めまして。」

「ああ、私はこのあたりの森林組合の田端と申します。私たちは今でも警察に協力しておりますので、私どもの車であれば行けますよ。間違いなく、このあたりにお住まいだったんですね?」

「はい。なにぶんにも戦後すぐでしたので正確には把握できておりませんが、あの町にも行っておりました。」

「町?」

「あ、ああ、江洲村のことです。昔はそう呼んでおりましたので。」

「そうでしたか。確かにあの辺りでは江洲村のことをそう呼んでいたと伺っております。そういうことであれば、大丈夫です。どうぞ、お乗りください。」

 何の証拠もなかったのだが、こうした周囲の者でなければわからない言葉が役に立った。

 俺たちは田端さんの四駆に乗らせてもらい、江洲村を目指した。

 

17 

 

 江洲村までの道中、田端さんはあの地のことを色々と教えてくれた。

 江洲村というところは、正義が教えてくれたように戦中にできた新興村だった。

 そもそも、日本軍が大量に木材を必要としたために炭鉱夫や森林関係者たちが集まってできた集落で、戦後もそのまま村として残っていたとのことだった。

 しかし高度成長期に入る少し前あたりに、木材調達するには不便すぎたために次第に過疎化していったようだ。

「あそこは本当に閉鎖的なところだったようですね。資料がほとんど残ってないんですよ、地籍も何もかも。住民帳ですら残ってない。元々が戦争のために便宜的にできた村ですし、本来ならあんなところに集落ができるはずもないんですよ。だけど警察は出火元があそこだって言い張るんですけどね。私どもは違うんじゃないのかって話してますけどね。」

 田端さんは喋りが好きな様子だった。

 だがおかげで、俺たちの持っている記憶と周囲からの視点というものが見事に合致していった。

 あの町は、表向きはちゃんと旧日本軍が作った集落であると認識はされていたのだ。

 しかしそれが諜報のためだとは誰も知らない。

 留義さんたちの努力は成果となって表れていた。

 やがて四駆は、焼けて野原になってしまった場所に着いた。

「車で行けるのは、ここまでですかねえ。これから先は燃えた木の残りがゴロゴロしているんですよ。仰っていた神社は、ここをもうちょっと上がったところにあります。私はここで待っていますので、どうぞご覧になられてください。あ、1時間くらいで帰らないといけないので、よろしくです。」

 俺と雪は、田端さんにお礼を言って山を登った。

 しかし全く景色が変わってしまっていたので、果たしてここがあの地なのかはさっぱりわからなかった。

「ここなのかしらね。」

「わからんが、とにかく行ってみるしかないな。」

 俺たちは燃えて炭化した木々を避けながら5分ほど歩いた。

「あ!」

 雪が大声を上げた。

「どうした?」

「この岩・・・あなたと初めてデートしたところよ!」

 雪が指さした先にあったのは、紛れもなくその岩だった。

 そして雪には言っていないが、美紀さんとの大人の会話があった思い出の岩でもあった。

 やっぱりあったんだ・・・と俺たちは思った。

 正直なところ、あの思い出は夢だったのかもしれないと、何度も思ったのだ。

 あんな現実離れした経験なんか、普通ありえない。

 しかしその岩は、それが夢でも幻でもなく、現実だったのだと思い知らせてくれた。

「なんて・・・なんてことなの?」

 雪は呟きながら岩に近づいていった。

 俺も雪の後を追って岩のところまで来たが、俺は岩から少しだけ離れた場所に行ってみた。

 そこからあの町が見えたことを思い出したからだ。

 雪は岩に座って思い出の渦に身を任せていたので、俺一人で行ってみた。

 そして峠のてっぺんまで来た。

「・・・あった・・・あった!」

 寂れてかなり火事で燃えてしまったとは言え、何度も夢に出てきたあの町の姿がそこにあった。

 俺たちが毛皮や海を売っていた、あの店も確かにあった。

「おい、母さん!来てくれ!」

 俺は雪を呼び、横に立たせてあの町を見せた。

「わああ・・・随分と・・・燃えちゃってますね・・・。」

「ああ。ここからかどうかはわからんが、ここにも火の勢いは来ていたってことだな。」

 俺たちはあの頃を思い出しながら、今の景色と比べていた。

 あれから俺たちはあの時のことを引きずろうとはしないで、あえて忘れるようにして生きてきた。

 そうでもしないと、何かに襲われてしまうような気がしていたからだ。

 それが何か、そのときやっと理解できた。

 あのひと冬のたった3ヶ月は、あまりにも特別すぎたのだ。

 この思い出は、ある意味麻薬にも似た依存性がある。

 ここに長居していては、もう帰れなくなるかもしれない。

「もういいだろう。帰ろうか。」

「はい。」

 時々振り返る雪を強引に捕まえて、俺たちはあの岩のところまで来た。

 このあたりは森ばかりと思っていたが、尾根があって崖もあった。

 ここにあんなに木々が生えていたとは信じられない景色だった。

 俺は下で待つ田端さんのところまで戻ろうとしたが、その時何か光った。

 岩から少し離れたところにある小高い山の下に、それはあった。

 俺は山の下まで行き、その光るものを見つけた。

 それは鉈だった。

 相当に古いもので、柄はボロボロになり、刃はかなり錆びていた。

 だが残っていた部分に反射して、光って見えたようだ。

 しかしその鉈には、なぜか引っ掛った。

 なかなか思い出せないでいると、急に答えが降りてきた。

「これは・・・ひょっとして、留義さんがいつも持っていた鉈じゃないのか?」

 留義さんは斧と鉈で木を切り、我が家に持ってきて炭を焼いていた。

 すごく似ている気がした。

 俺はその鉈を手に取ろうと屈んだ。

 岩肌に手を当てて体を支えようとしたのだったが・・・。

「うわ!」

 俺の手は固い岩に当たるはずだったのだが、それは布だった。

 俺は当然前に倒れ、一回転して倒れこんだ。

 そこには布に茶色の色を塗り、吊るして石で押さえていただけの簡単な隠しだったようだ。

 俺は腰を押さえて立ち上がった。

「あなた、大丈夫?」

 雪が中に入ってきた。

「ああ、どうにか。でも、これって一体?」

 俺は雪が服に付いた汚れを払っているときに、何気なく奥を眺めた。

 そこは洞窟のようであり、辺りには木箱が見えた。

 そして木箱の奥を見た。

「あ・・・あれ・・・あれは何だ!」

 思わず大声を出した。

 続いて雪も叫んだ。

「きゃあああああ!」

 そこにあったのは、白装束に身を包んだ二体の白骨だった。

 髪の毛以外が完全に骨になっていた。

 大柄なのと、小柄な二体だった。

 その奥には、木箱に白い布を被せたものと、それに一つの盃があった。

「こりゃあどうしたことだ。降りて田端さんに知らせないと・・・。」

「・・・待って・・・。」

 雪が何かに気がついた。

「どうした?」

「あ・・・あ・・・ああああああ!あれ、あれあれ!あれよおおおおお!」

 雪は口に左手をあて、右手で何かを指さした。

 指さした先にあったのは、小柄の遺体の方だった。

 俺は遺体に近づいた。

 雪が指さした遺体をよく見た。

「ん?」

 遺体の髪に、何か見えた。

 俺は恐る恐る、それを手に取って見た。

 見覚えがあった。

 俺は洞窟から見える岩を見て、またそれに目をやった。

 思い出が、まるで雪崩のように俺の心の中に落ちてきた。

 それは、象嵌であしらった簪だった。

「これ、見覚えがある・・・美紀さんのだ・・・。」

「・・・お母さん・・・。」

 間違いなくそれは美紀さんだった。

 となると、もう一体の大柄な遺体は・・・。

「留義さん・・・親父さん?」

 俺と雪は久しぶりの、しかし忘れようにも忘れられない再会にただ茫然とするのみだった。

 

 

18 

 

 俺と雪は腰上署にいて、担当刑事と話していた。

 ベテランの刑事らしく、きれいな身なりとは言えない恰好で、ぱっと見た目には怪しいおっさんにしか見えない。

 しかしその目は人を疑うことを旨としている職業特有の、油断ならない目つきだった。

 鼻の上にやっと乗っている眼鏡をときどき引き上げるのが癖のようで、白髪の痩せた刑事は色々と俺たちに訊ねてきていた。

 聴くだけ聴くと、そのベテラン刑事は大きく背伸びをした。

 そして失敬したという感じで右手を上げ、そしてまた口を開いた。

「つまり、まあその~なんですなあ。戦後間もなくあの山で遭難していたところを助けてもらったご夫婦のご遺体だと、そう思ってらっしゃると、そういうことですな。簡単に言えば。」

 もちろん俺たちは、あの町の正体、留義さんと美紀さんのことについては何も知らないと言い続けた。

 言ったところで信じてもらえないだろうし、逆に俺たちが疑われてしまう。

 なので、そう言ったのだ。

「はい、そうです。マタギのような、炭焼きのようなことをしていたようです。それをあの町・・・いえ、江洲村にも売りに行っていたことくらいです。」

「ふ~ん・・・。」

 ベテランの山田刑事は資料を手に持ち、俺たちをジロと見て、それを投げるように机に置いて言った。

「証言とあの江洲村の言伝えとは合致いたします。お手数をおかけ致しましたが、もうこれでよろしいですよ。」

 山田刑事は立ち上がろうとしたのだが、俺が制した

「あのう・・・。」

「はい?」

「あのご遺体はどうなさるんですか?」

「そうですなあ。なにぶんにも身寄りがわからんのですよ。旅先死亡人、つまり無縁仏様となりますので、どこぞのお寺で供養していただいて、お墓に入っていただくと言うことに・・・。」

「私たちが身元引受人になります。」

「え?」

 俺たちは絶対にそうしようと決めていたのだ。

「私たちに、供養までさせていただきたいのです。」

「お願いします。」

 俺と雪は同時に頼んだ。

 山田刑事は頭をポリポリと掻きながら、また座った。

「しかしですなあ、いくら助けられたと申されましても・・・お身内にしかご遺体をお渡しできないのですよ。そうするわけにはなかなか・・・。」

「そこを何とかお願いします。費用は全部こちらで行います、お願いします!」

 山田刑事は少し待つように俺たちに言い、上に相談をしにいった。

 間もなくして山田刑事は戻ってきた。

「ええと、腰上市の厚生に訊ねてみたのですがね。お話の中に、お亡くなりになられたご夫婦は、お二人を養子にしたいという意思があったと、そう仰いましたね?」

「はい、そうです。」

「ふうーむ・・・。」

 山田刑事は少し考え、そして身を乗り出して言った。

「通常であれば、身元が判明するまでご遺体をお預かりして無縁墓地にという流れになるのですがね。上の連中に、全額負担されるそうだとお伝えしましたら、市の予算を少しでも使いたくないんでしょうなあ。一筆書いてもらえれば、それで良しとしようとなりました。それでご面倒ですが、この書類に全てご記入ください。証明書などは、ご遺体を受け取るときでよろしいです。」

 俺たちは顔を見合わせて喜んだ。

 そして俺はさらに注文をつけた。

「あのご夫婦の亡骸は、まだあそこにあるのでしょうか?」

「はい、まだ立入禁止のロープが張られております。」

「良かった。大急ぎで戻り、必要書類をすべて持参いたします。それであのままにしておいていただきたいのです。」

「え?いや、それはこちらで・・・。」

「お願いします!」

 山田刑事はまた頭を掻きながら、頷いた。

「まあ、そういう思い出があるんでしょうなあ。わかりました。明日中にお願いいたしますよ。必要事項はここに書いてあります。」

 俺たちは大急ぎで書類に記入し、その日夜遅くに家に戻り、翌朝一番の飛行機とバスで、また腰上署に戻ってきた。

 必要書類をすべて提出すると、俺はすぐに地元の神主と葬儀屋に連絡して、あの洞窟に向かった。

 俺たちは誰よりもあの洞窟に行く必要があった。

 一刻も早く、知り合いだけで見送りたいという願いが聞き届けられ、俺たちはタクシーで行き、洞窟内に入った。

 遺体はまだそのままにしてあった。

 俺たちは洞窟内にゴザを敷いて、留義さんと美紀さんの前に座った。

 しばらくは何も言えなかった。

 今まで現実で生きることに精一杯で、この思い出に囚われないように生きてきた俺たちだったのだが、もう歯止めがきかなかった。

 次々に懐かしい映像が脳裏に浮かんできて、たったひと冬の、それもいわば疑似家族体験だったのに、その前もその後も、あの時以上のインパクトはなかった。

「留義さんと美紀さん・・・白装束で、盃もあるんだな。」

 ささやかな祭壇の横には、ラベルが何もない瓶が転がっていた。

 俺は開けて匂いを嗅いだ。

 留義さん自作の、あのカストリ焼酎の匂いがした。

「まるで・・・神前結婚みたい。」

「ああ、たぶん、そうだったんだろう。」

 あの森中の家を処分した後、留義さんと美紀さんは俺たちと正義を見送ってまもなく、ここに入ったのだろう。

 この疑似布は、留義さんが自決の時に備えて作っていたと思う。

 しかしそこに美紀さんが加わった。

 神前に祈って自決する前に、本当の夫婦になって逝きたかったんだとしか思えなかった。

 俺たちを見送るときの二人の姿がありありと思い出された。

 寒風が吹く中、美紀さんは留義さんの腕に寄りかかり、幸せそうに笑顔で見送ってくれた。

 ほんのわずかな時間しか与えられなかった新婚夫婦が、最初で最後に行った共同作業がこれだった。

 おそらく、美紀さんは嬉しくて涙していたんだろうと俺は思った。

 そして、それまで誰にも言えなかったことを、雪に伝えた。

「美紀さんさ・・・最後の時に、俺に言ったんだ。ちょっとだけ好きだったってさ。」

「お母さんが?」

「ああ。思い返すと、そういうこともあったんだけど、俺は全然気がつかなくてさ。」

 そして俺はあの岩でのことを雪に話した。

「そうだったの・・・それで納得した。あのとき、少しの間お母さんと仲悪くなったのよ。意味がわからなくて辛かったけど、やっとわかった。お母さん、女だったのよね。」

「・・・女って、不思議な生き物だよ。でもさ、それって留義さんへの思いがうまく言えなくて迷ったのかもしれないな。」

「うん、そう思うわ。本当はお父さんのことが好きで仕方なかったんだと。だけど、お父さんはあの通りで、優しいけど女の人には弱かったからね。本当に・・・下手だったんだから、お父さんって。」

 雪の目には涙が浮かんでいた。

 あれから俺たちにも色んな人生があった。

 業務引継ぎ、結婚、出産、教育、孫・・・その間、俺は忘れようとはしていたものの、一瞬たりとも忘れることはなかった。

 子供ができたときも、密かに思い出の中の留義さんや美紀さんに報告したくらいに。

「なあ。」

「なに?」

「手を繋がせてあげよう。」

「え?」

「もうすぐ、業者が来る。手を繋いだままで、そのまま埋葬してあげたい。留義さん・・・親父さんや、美紀お母さんも喜んでくれるような気がする。」

 雪には異論はなかった。

 俺たちは美紀さんの遺体を少しだけ動かし、留義さんの右手の上に、美紀さんの左手を乗せた。

 幸せそうな二人の姿を見て、俺たちは合掌した。

 

19 

 

「では、これでよろしいでしょうか?」

 地元の墓石屋が報告してきた。

「立派なものです!」

 あれから俺たちは町にかけあって、あの岩の周りをブロックで囲い、岩に直接戒名を掘って墓石とした。

 そして岩の前に穴を掘り、二人の遺体をそのままの状態で埋葬することができた。

 戒名は、留義さんが「情念貫石幸明留義居士」、美紀さんは「美花観音大姉」とした。

 国のために信念を貫き通した留義さん、美しく最後に花開いた優しい美紀さんをイメージして、麓の住職に書いてもらった。

 三か月ほど時間は必要だったが、俺は事業を見るためにときどき帰ったが、美紀は長女に家のことは任せてほとんど腰上の旅館からここに来ていた。

 子供たちにはよく説明しておいたので、よくやってくれた。

 完成した日、住職と共に墓前で読経してもらった。

 独特の言い回しも入っていて、土地ならではのものかと思いながら聞いていた。

 住職は終わると、俺たちに低頭して卒塔婆などを手渡した。

 住職は髭が伸び、眉毛も伸びていてほとんど顔が見えない男だった。

「さて、これにて滞りなく御霊の供養が終わりました。よいことですな。」

「はい、おかげさまで。色々とありがとうございました。」

「これも務めですのでな。」

 住職は低頭し、その場を去ろうとした。

 しかし、何となく動きがおかしい。

 途中の坂で、バランスを崩して倒れそうになったので、俺は慌てて和尚を支えた。

「大丈夫ですか?」

「すみませんなあ・・・なにせ、このような身体ですので。」

 和尚はそう言うと、衣をめくって俺に右足を見せた。

 それは、義足だった。

 俺の中に、雷のように忘れようのない思いが走り抜けた。

「覚えておいでかな・・・兄さん。」

「ま・・・正義・・・正義なのか!」

 俺の声に驚いた雪が走ってきた。

 そして和尚の顔をまじまじと見て、そして叫んだ。

「え・・・ま・・・正義?正義なの?正義!会いたかった!」

 雪も多すぎる思いがあった。

 何度も正義の胸を叩いて泣いた。

「雪姉さん、久しぶり。」

「正義、なんでお前が?」

「ははは・・・僕が情報のプロだってことは覚えてるでしょ。ずっと、兄さん、姉さんのことは追いかけてたんだよ。住職は今、ヨーロッパを旅行中なんでね。ちょいとお借りしたのさ、お姿を。」

 こいつは全く変わっていなかった。

 俺たちは大いに変わったのに。

「実はさ、読経の時にも、僕の思いも乗せて読んでいたんだ。気づかなかっただろうけど。僕は色々やってることがあるんで、お手伝いができるのはこれくらい。もうすぐに行かなくちゃ。」

「え、もう行くのか?」

「ああ・・・まあ、あの頃の延長みたいな仕事してるからね。姉さん、いつか必ず、会いに行く。それまで、元気でね。」

 雪は黙って泣きながら頷いた。

 こいつがそう言った以上、絶対に来てくれるのだろう。

 正義は再び和尚になりきり、坂を下っていった。

 もう秋になってきていた。

 風も少し冷たい。

 これから冬になれば、あの銀世界になるのだろうか。

「やっと俺たちも、本当のお墓ができたな。」

「ええ。毎年、来なければね。子供たちも連れてきましょう。」

 あたりは森がまだなかったが、俺たちの目には森が見えた。

 町もあって、一面の銀世界が見えた。

 俺はろくでもない家に生まれ、戦争にも行って地獄のような青春時代を過ごした。

 しかしここで俺は生まれ変わった。

 雪も、正義も。

 感謝というものを、俺はここで初めて覚えた。

 優しさも、家庭というものも。

 実家には愛がなく、この仮の家庭には愛があった。

 俺は愛など虚しいものだとずっと思っていた。

 知らなかったのだから。

 それを教えてくれた、親父さん、お母さん。

 留義さんでも美紀さんでもない。

 ちゃんとした両親だ。

 虚しくない愛を知って、俺はやっと実の父母を供養しようと言う気になっていた。

 虚しい愛なんてない。

 その表現が違うだけだ。

 俺は雪を抱き寄せ、あの景色を懐かしんだ。

 親父さんの大声、お母さんの優しい笑顔、正義のクールな顔、町、森・・・すべてがありありと浮かんで来た。

 俺はもう、いや、俺たちはもう決してあの景色を忘れない。

 そして、俺たちが眠るところはここしかない。

 そこでまた一家が集まることだろう。

 その日を楽しみに、日々を生きていこう。

「行こうか。」

「はい。」

 俺たちは坂を下っていった。

 俺は、何気なく後ろを振り返った。

「え?」

 墓の上には太陽があって眩しかったのだが、俺には一瞬、大柄な影と小柄な影が手を振っているように見えた。

 俺の中に、強烈な幸福感が満ちてきていた。

 虚しくない愛を、知ったから。


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