恋の商談は慎ましく麗らかに衣装(ドレスコード)を
ーー昨晩はベッドに入るや否や、眠れなくなってしまって、朝方の4時まで起きていた。
金雀枝課長。このメッセージはどのような意味だろう? なぜだか、急に意地悪になる時があるけれど、男らしくて、格好良いし……。好意を寄せられることに悪い気はしない。
ただ、胸の奥に引っかかるのは星蘭のこと。
課長が「好き」と言ってくれたシーンを星蘭が「好き」と言ってくれたように重ね合わせる。星蘭だったらどんなふうに私に伝えてくれるだろう。喫茶店で星蘭は私の手を握ってくれた。課長も同じく観覧車で私の手を握ってくれた。
ーー私、今、どっちにドキドキしている?
「楠さん、この資料もデータにまとめといてくれる?」
ーーと、恋愛にうつつを抜かしていると、上司から大量の仕事を任せられた。タイピングは得意だと言っても、定時まであと2時間でこの量……結構あるな……。私は基本的に残業はできないし、周りに迷惑をかけないように素早く的確に終わらせよう。それにしてもこの会社、毎日電話は鳴りっぱなし。他の派遣さんもだけど、周りの社員さんも電話を取りながら仕事をこなしていて本当に毎日が慌ただしい。窓から見える他の会社は静かに仕事をこなしていて、隣の芝生が青く見えるよ。ーーさあ。私もラストパートを頑張ろう。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「お疲れさま」
オフィスを出た時刻は5時20分。仕事自体は定時上りの5分前に終わらせて、少しだけ給湯室の後片付けをしたり、ロッカーで身なりを整えたらこんな時間になってしまった。
私はおもむろに金雀枝課長のいるフロアへ足を運ぶ。……彼のことが気になっているわけじゃない。私の好きな林檎紅茶の缶ジュースはこのフロアの自販機にしか置いていないから。それを目的に行くだけ。缶ジュースを買ったらすぐ帰る。……最近、ちょっと寒くなって来たなぁ。厚手のコートも出したほうが良いかなぁ。
「ーー先日はありがとうございました」
ーーん? 奥のソファから金雀枝課長の声がする。
窓側の席。対面に座っているのがおそらく取引先の相手。そこにはやや銀色がかかった灰色のスーツに前髪をあげて額を出している紳士的な彼の姿が見えた。前髪を下ろしている彼も自然で格好良いのですが、今日は一段と男前だ。そして腕にはめた腕時計が見える。私とあった時とまた違った時計。た、高そう。私はフロアにいる人に紛れ、近くの椅子へと腰掛けた。観葉植物の葉で顔が隠れて、少しの時間なら誤魔化せそうだ。……10分くらいなら眺めてても良いよね? 私は缶ジュースをちびちび飲みながら密かに金雀枝課長の仕事ぶりを眺めていた。
そこへ珈琲とお茶菓子をトレイに持った女性が現れる。スタイルが良くてなんて綺麗な人。……素敵な人にはそれ相当に素敵な女性が近くにいるんだなと思った。周りを見渡してみても綺麗な人ばかりで、素敵な空間に自動販売機の缶ジュースを飲んでいる私があまりに場違いに思えてきて恥ずかしくなった。……早く帰ろう。……と、急に椅子を引き立ち上がったものだから、後ろにいた男性とぶつかってしまい、男性が持っていた珈琲が服にかかってしまった。コーヒーカップが床に落ちるのは免れた。でも、私の真っ白なブラウスは思いっきり汚れてしまった。男性は申しわけ無さそうに謝ってくれて、向こうの女性を呼び寄せる。……あっ、そのネクタイピン、課長とお揃いですね……なんて。金雀枝課長の側にいた女性は慌ててこちらへ走って来て。ああっ……。いくら、観葉植物の葉に隠れていても的になってしまったら逃れられない。おしぼりも、お詫びの金一封もいらないです。
「すぐに帰ってお洗濯するので大丈夫です」
美人、美男子に囲まれたフロアを私は急いで逃げた。
「待ちなさい、楠さん」
ーーああっ、やっぱりバレてる。
「待ちなさいって……楠!」
周囲が騒然としている気がする。私は早足にエレベーターまで歩いた。「お先に失礼します」と、言い、課長の前で「閉」ボタンをポチリと押す。反対側から「開」ボタンを長打される。
そして、エレベーターのドアが閉まると、二人っきりになった空間で熱心なご指導が始まった。
「……俺の部下の失態は上司である俺がカバーしなくてはいけない」
ーーうっ。めちゃくちゃプライベートな私情が混ざっているような気もしますけど。
「……好きなブランド名は?」
ーーブランド?
課長は私が言ったブランド名を携帯で検索する。私が好きでよく着るプチプラのブランド名はなんとなく恥ずかしくて大きな声では言えなくて、SNSでチェックしていた女性が好むブランド名を言った。
「ちょっと遠いな……」
ーーふふふ。駅から徒歩30分の百貨店に入っている有名ブランド。しかも、そのフロア全体から醸し出されるピンク、フリル、レース、甘々な看板とマスコットキャラクターの子猫。男の娘ならまだしも、30代の紳士的な男性がその場に耐えられるはずが…………。
「……花輝石騎士……」
ショップの店員さんは突如現れた貴公子に目がハートになっていた……。確かにこの御方、剣も杖も盾も白馬も黒馬も似合いそうだわ……。
課長は会社のビルを出ると入口に止まっていたタクシーに乗り込んで、百貨店まで私を乗せてくれた。お店に入るや否やふりふりワンピースの店員さんに囲まれる。
「ごめん、仕事に支障が出るからSNSには一切手を出していないんだ」
この日、お店ではハロウィンフェスタを開催していた。いつもは白とピンクのバルーンも色味を抑えた暗めの色合いに。店員のお姉さんの頬にも可愛らしくも妖しげなアートメイクを。
SNS映えする猫脚テーブルにLEDのキャンドルとお皿にレプリカのお菓子が飾ってあるフォトブース。
来店者に配られる無料の一口チョコレート。
二万円以上購入で先着15名にオリジナルマグカップとハロウィン限定のショッパー。
……今年のハロウィンのテーマは悪戯な子猫。「猫」というワードに弱い私は、ハンガーラックに並べられたお洋服を見てときめきが止まらなかった。淡い色合いのナイトパジャマにも猫耳フードが付いている。
棚に並べられたもこもこの靴下。シルクのナイトキャップ。シルクのナイトグローブ。ルームフレグランス。キャンドル。
トルソーに飾られたワンピースは淡いピンクとグレー。胸元と、袖の細いリボンがギンガムチェックでとても愛らしい。小さなポケットには猫と秋桜の刺繍が。
他にも猫と秋桜の刺繍が施されたポーチだとか、コンパクトミラーだとか。この空間、ずっと眺めていられる……。
肩をトントンと叩かれて振り返る。……そうだ課長も一緒だったんだ。……って、手に持っているブラウス、写真で見て一目惚れした子ではありませんか……!?!?!?
「ん〜〜反応はイマイチかなぁ〜〜……じゃ、アレ(一万円のワンピース)とコレ(一万五千円のパーカー)とソレ(二万円の靴)と……」
……と、言われて、試着室に連れてこられた。
ーー!?!?!?!?!? 試着室で鏡に映ったお洋服……かっ……かわ……可愛良い…………!!!!!
「それらをカード一括で」
金雀枝課長はお財布から黒いカードを出すと、ちゃっちゃとお支払いをする。ハロウィン限定のショッパーとオリジナルマグカップ。マグカップは二個いただいてしまったので課長に片方差し上げた。猫ちゃんのハートのデザインだけれど大切にしてくれるって。……彼女さん喜ぶかなぁ? その場でタグを切ってもらったので、タクシーの中で私は新しいお洋服にドキドキしてしまった。
「……昨日の返事、答えは出た?」
「……昨日の……!?!?」
課長は目を細める。
「小悪魔だなぁ……はぁ、もう……どうしょう」
しばらく、車で走って、自宅の前でタクシーが止まる。小ぶりの雨だ。
私はお礼を伝えたあと、課長に深々と頭を下げて、タクシーを降りようとする。
『林檎……!!!!』
そこには星蘭が立っていた。