桜の花の咲く頃に
今年もまた桜が咲いた。
母の実家は家柄の良い旧家で、そこそこ広い庭には桜の木がある。
その桜の木が、数える程にしかついていないつぼみを広げて、暖かな季節の到来を告げていた。
私は幼い頃から長い休みが来るとこの家に遊びに来ていた。たった一人の孫に会うのを楽しみにしている祖父と祖母に会いたいからだった。
そして幼い頃の私にはもう一人、私の方が心待ちにしている人がいた。
それは・・・・。
私が覚えているのは・・・・いや、初めて彼女に出逢ったのは、いつの頃だったのか。
実はよく覚えていない。
でも庭にある桜の木が満開になって、その下で遊んでいた私のとなりに、突然彼女が現れたのは良く覚えている。私よりも少し年上の少女だった。
「あなたは、だあれ?」
座って遊んでいた私は、不意に現れた少女を見上げてそう訪ねた。
「私は奈柚・・・・。あなたは?」
「まどか!」
「そう、まどかちゃん。よろしくね。まどかってどんな字を書くの?」
「お金の『円』。まぁるいっていう意味だって、お母さんが言ってた。」
「そう、素敵なお名前ね。」
大声で答えた私を見て、少女は穏やかに笑う。
私はその時、まだ小学校に入る前だったと思うから、確か五つか六つ。
彼女・・・・奈柚は十一、二歳くらいに見えた。
「円ちゃんは一人なの?」
「うん、私病弱だから、お友達あまりいないの。」
幼い頃から私は体が弱かった。
だからあまりたくさんの友達はいなかったのだ。
「じゃあ円ちゃん、私と一緒に遊ぼう?」
「ほんとう?うん、いいよ!」
それが奈柚との初めての出逢い。何故庭にいたのか、何故彼女が古めかしい着物姿だったのか、私は全く気にする事はなかった。
日頃から独りの事が多かった私は、一緒に遊んでくれる相手が出来たというだけで嬉しくて仕方がなかったのだ。
「てんてん、てんまり、つ~いてみしゃんせ。」
奈柚がどこからか取りだした鞠で一緒に遊んだ。初めて聞く穏やかで優しい手鞠唄と、奈柚のしなやかな仕草がとても美しかったのを覚えている。
日が暮れる頃になって、父が庭に私を捜しに出て来た。
「円、もう中へ入りなさい、体に悪いよ・・・・おや、君はどこの子だい?」
「私は・・・・。」
「ねえねえお父さん、これ、手鞠!」
「へえ、今時珍しい物を持ってるね。これは君のかい?」
「えと、はい・・・・一応。」
何故かちょっと困ったような笑顔で奈柚は答える。
「もうそろそろ遅くなるからお帰りなさい。円も、もう夕飯になるよ。」
「じゃあ、私はもう行きます。円ちゃん、さようなら。」
「ばいばい、奈柚ちゃん。」
父に手を引かれ、私は庭を家の方へと歩き出した。
振り返ると、奈柚が微笑みながら手を振っていた。
「奈柚ちゃん、また明日遊ぼうね。」
私が手を振りかえすと、奈柚はとても嬉しそうに頷いていた。
その夜、私の話に祖母が興味を示していたのは幼いながらに良く覚えている。手鞠の話で、感慨深そうに天井を見上げていた。
布団の中で奈柚と遊んだ事を思い出しながら、私は手鞠唄を口ずさんだ。
「てんてん、てんまり、つ~いてみしゃんせ・・・・。」
そしてそのまま、私は眠りについた。
次の日、そのまた次の日。私が自宅に帰る日の来るまで、私と奈柚は毎日桜の木の下で遊んだ。手鞠をついたり、祖母のくれたお手玉をしたり、鬼ごっこをしたり。
時には父が一緒になって遊んでくれた。普段は仕事が忙しくて遊んでくれる事が稀だったので、私は嬉しくて随分とはしゃいだのだろう。
夕方には父の背中で大きな欠伸をしながら、それでも奈柚に手を振ってから別れた。
祖父母に見送られて東京の自宅に戻り、やがて夏がやってきた。
父の休暇になってまた祖父母の家へと遊びに行ったのだが、その時に奈柚は遊びに来なかった。冬になり、正月に祖父母のもとを訪れた時も奈柚は現れず、私は寂しさを感じていた。
奈柚に初めて会った桜の木に寄りかかりながら、私はいじけたように土を蹴って奈柚が遊びに来ないかと待っていたものだった。
でも結局、正月も奈柚は私のところへ遊びに来てくれる事はなかった。
春になったらお花見をしにまた来ればいい。祖母がそう言っていたので、春になって庭の桜が咲いたと電話をもらった次の日に、家族で祖父母の家を訪ねた。
満開というには少し早かったが、みんなで花見をした。
あと数日もすれば桜が満開になるだろう。それを見てから帰っても良いのでは。
祖母の提案に、奈柚の事が忘れられずにいた私は母と二人で残る事にした。
父は仕事があるので一度帰り、数日後にまた迎えに来てくれる事になったのだ。
そして桜が満開になったその日、桜の下でうたた寝をしていた私のもとに奈柚がやって来た。
「円ちゃん・・・・円ちゃん・・・・。」
優しいその声に目を開けると、去年見た奈柚の顔が私を覗き込んでいた。
「奈柚ちゃん!」
私は嬉しさのあまり飛び起きると、ピッタリと奈柚に抱きついた。
奈柚もぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「冷えて身体に障るよ。身体弱いから、あまり無理しちゃだめだよ。」
「うん、でもどうして今まで来てくれなかったの?」
「ごめんなさい。あのね、円ちゃん。私は・・・・春にしか円ちゃんに会えないの。」
「なんで?」
「それはね・・・・そのうち解るようになるから・・・・。」
優しい奈柚の声に、私は今まで会えなかった事も相まって、それまでの事などは、もうどうでも良くなっていた。
そして数日間、私は奈柚と思い切り遊んだ。
奈柚の手鞠唄を覚えていた私がその唄を口ずさむと、奈柚は心底嬉しそうに手鞠を突いていた。それを今でも良く覚えている。
「また来年の春になったら、お花見をしにここに来てね。その時に私も必ず、円ちゃんに会いに来るから。」
自宅に帰る前の日に、奈柚と私は約束をした。そしてその時に、私は奈柚から彼女の持っていた手鞠をもらった。
また逢う約束を忘れないためにと。
次の春、また次の春。桜の花が満開になると私は祖父母の家を訪れ、奈柚に会ってたくさん遊んだ。一人っ子だった私は、まるで姉が出来たように感じて奈柚に懐いていたのだった。
祖父母も両親も、奈柚の事については気にしていないのか、何も私に言ってくる事はなかった。ただ時折、祖母がアメ玉やジュースを持たせてくれ、奈柚とそれを分けた。
「そう、志のゑ・・・・さんが・・・・。」
祖母の名を奈柚が知っている事に驚きはしたが、深く詮索する気にもならず、私は奈柚と楽しく遊んだ。ただ、初めて会った時から数年、背丈も伸び、見た目も奈柚とさほど変わらなくなっていた私はある疑問を抱いていた。
なぜ奈柚は成長したように見えないのだろう。いつも同じ着物で、いつも同じ優しさで。
でもそれを聞く事は奈柚との関係に亀裂が生じるような気がして、私は口に出す事を躊躇い続けていた。
「また来年も会えるよね?」
「・・・・うん、待っているから、きっとこっちへ遊びに来てね・・・・。」
毎年恒例になった、別れ際に奈柚から受け取る手鞠。春になって奈柚に会った時に返して、私が自宅に帰る時にまた預かっていた。
それが私と奈柚との唯一の絆の証だった。
次の年の春、私が小学校の五年生の時。その年は春が近くなっても冷たい雨が多かったせいか、桜のつぼみがなかなか大きくならずに花見のできない状態が続いていた。
それでも私は奈柚に会いたくて祖父母の家を訪ねていた。
でもなかなか奈柚は遊びに来てくれなかった。
「奈柚ちゃん・・・・なんで来てくれないの・・・・?」
桜の木の下で私は数日間奈柚を待った。だが奈柚は現れず、ある日冷たい雨が降ってきても待ち続けていた私はひどい熱を出して倒れた。
そして体の弱い私はそのまま、容態が悪化して救急病院に入院してしまった。こじらせて肺炎になってしまった私は点滴をうたれ、暫くの間入院生活を余儀なくされてしまったのだ。朦朧とする意識の中で夢なのか現実なのか「元気になってね」と微笑む奈柚の姿を見た事だけは微かに覚えている。
最初に容態が悪くなった時、体の弱い私は、場合によっては命の危険が伴っていたという事を後から医者に報された。私は幸運だったのかも知れない。
奈柚が病院を訪ねてきたのかと両親に聞くと、二人は祖父母の家にも奈柚は遊びに来ていなかったと教えてくれた。
奈柚が訪ねてきたら両親がここを教えてくれると言ってくれたので、私は病室で、もしかしたら奈柚が見舞いに来てくれるかも知れないと期待していた。
しかし奈柚は現れず、私は彼女から預かっている手鞠を抱えて陰鬱とした日々を送った。
何で来てくれないのだろう?私は奈柚に会いたくて、勝手に来てくれると思いこんでいた。そしてそれが『恋』にも似た感情である事を、その時の私は解る事ができなかった。
病院の窓から見える桜並木は満開となり、次第に散ってあっと言う間に葉が覆い繁る。
結局もう、今年は奈柚に会う事は出来ないだろうと落胆して退院した私は、祖母から意外な事を聞かされた。
庭の桜が咲かなかったという事。
私が入院したのと時を同じくして、膨らみかけていた桜のつぼみが、冷たい雨にうたれて全て落ちてしまったのだそうだ。そして一輪も咲く事はなかった。
奈柚が私を訪ねてこなかったかと聞くと、やはり祖父母も首を横に振った。
深く落胆した私は、夏になってから桜の木の様子を見に行ってみた。久しぶりに見る桜の木は、とても同じ木とは思えないくらいに元気が無くなっていた。
一気に歳をとってしまったような、そんな印象を受けた私は思わず涙を零した。
この桜が咲かなければ、もう奈柚には会えないのかも知れない・・・・。
何故かそう思えた私は涙を堪える事ができなかったのだ。
桜の幹に額を付けて泣いていると、ふと、どこからか声が聞こえた。
いや、そんな気がしただけだ。
でも確かにこう言っていた。
『元気になってよかったね、円ちゃん・・・・。』
聞き覚えのある声。
優しい声。
奈柚の声・・・・。
私は慌てて周りを探したが、奈柚の姿はなかった。
そして私は突然、ある理解をした。
この桜が奈柚なんだと・・・・。
冷たい雨にうたれて倒れた私の命を救うために、自分の命を削って私を助けてくれたのだと。
声をあげて泣く私に気が付いて、祖母が駆け寄ってきた。
「昔ね、おばあちゃんのお母さん、ようするに円ちゃんの曾おばあちゃんが子供の頃にも同じ事があったのよ。私は聞いただけで知らないのだけれど、曾おばあちゃんが生まれた時にこの桜もやって来たのよ。それで曾おばあちゃんが子供の時にも、この桜の下で一緒に遊んだ女の子がいるんですって。でも曾おばあちゃんも体が弱くて、大病を患ってしまって・・・・。その時にも桜は花をつけなかったって言っていたわね。」
祖母が弱り切ってしまった幹に手を添えて桜を見上げる。
「曾おばあちゃんは運良く助かったけれど、それ以来その女の子には会えなかったそうよ。だから奈柚ちゃんはもしかしたらその時の女の子じゃないかしらってずっと思っていたわ。だって曾おばあちゃんが言っていたもの。『手鞠をあげた』って。」
きっと祖母にはわかっていたのだろう。だから私が初めて手鞠の話をした時に興味を持っていたのだ。
祖母の言葉に、私は慌てて奈柚から預かった手鞠を家から持ち出してきた。
「きっと桜は曾おばあちゃんと円ちゃんの病気を治すために、自分の力を使っちゃったのね。それでつぼみが落ちて、こんなに弱ってしまったのね。」
そして祖母は桜に木に向かって手を合わせると、「ありがとう」とお礼を言った。
私も手鞠を抱えたまま、「ありがとう、奈柚ちゃん」と桜の木にお礼を言った。
そよ風に揺られて小枝が擦れ合う音が、奈柚の返事のように聞こえて、私はその時ようやく微笑む事が出来た。
あれからもう二十年。私は結婚して娘がいる。
祖母も祖父も亡くなり、私はこの旧家をもらい受けて家族と共に住んでいる。
庭の桜の木は弱ったままで、幾度も伐られそうになった。だがその度に私が反対して事無きを得、今でも元の場所にいる。
あの年から桜は一度も咲く事はなく、もう花をつける事はないのかも知れないと諦めかけていたが、去年とうとう一輪だけだが花をつけたのだ。
去年はもうそれだけで一年中幸せな気分でいられたものだ。
そして今年も桜の木は花をつけた。
数こそ少ないが、いくつか花が咲いたのだ。
私は今、幸せな気分いっぱいでその桜の木を見上げている。
「今年も頑張ってるんだね、奈柚ちゃん・・・・。」
「ママぁ、呼んだぁ?」
あどけない声に振り返ると、名前を呼ばれたと思った娘が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
娘の名は『奈柚』。
私を助けてくれた、奈柚ちゃんの名前をもらったのだ。
「ううん、そうじゃないの。この桜の木も『奈柚』って名前なのよ。」
「ふうん、奈柚と同じなんだぁ。」
「そうよ。あのね、ママが子供の頃にね・・・・・・・・。」
いつの日にか、再び奈柚の桜が枝いっぱいに花をつける時がやって来るに違いない。私は今、奈柚が帰ってくるのを待っている。
私か、娘の奈柚か、そのまた子供か・・・・。
いつになるかは分からないが、待ち続けようと思う。
私を助けてくれた奈柚を、今度は私が・・・・。
『てんてん、てんまり、つ~いてみしゃんせ・・・・。』
おわり
短いお話でしたが、いかがでしたでしょうか。
気が付いていないだけで、貴方にもいたのかも知れませんよ、奈柚のような相手が。
若し、心当たりのある方は、その思い出を大切にしてください。
この短編を、奈柚桜に捧げます。