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妄想癖  作者: 放浪日和
1/2

(前篇)

…ああ…。

…もう、こんな時間か…。

 ベッドにごろりと横たわったまま、虹野和泉は傍らの時計にちらりと目をやった。

もともと、どうでもよいことを一人で考えているのが好きだった。誰も止めなければ、とりとめもなく、次々と考えを派生させて…やがてはあまりのくだらなさに自嘲して考えるのをやめるのだ。誰も止めなければ。

「和泉くん、まだ寝てるの?」

 残念ながら、今朝は邪魔が入ったようだった。扉越しに呼びかける声が聞こえてきた。それが聞こえた途端、和泉は弾かれたようにベッドに半身を起こした。

「いや、起きてますよ!」

「そう?じゃあちょっと仕事入ったから、来てくれる?」

 返事に応えた時には、和泉は既にベッドから飛び出し、着替えを始めていた。

 …今日も忙しいのかな…?

 着替えを済ませ、長い髪を後ろにまとめるとすぐ、和泉は部屋を飛び出していった。


 もともと和泉は、ごく普通の大学生だった…はずだった。

 親元を離れ、某地方都市に進学。こつこつバイト代をためて中古車を購入し、期末試験を終えたあかつきには長距離ドライブを計画して…などと、大変ありがちな学生生活をしていたのだが。

 突然、その生活は一変してしまった。

 何の前触れもなく、和泉は行方不明になってしまったのだ。

 何も間違ってはいない。確かに和泉は行方の知れない身なのだ。

 …

 日本では。いや、日本を含む、もといた世界では。

 そのいきさつに関しては、何故か和泉自身も記憶が定かではない。ただ、気づいたら、全く勝手の分からないこちらの世界…おそらく異世界とか異次元とか、パラレルワールドとか呼ばれるところに来ていた。それだけ…ただそれだけのことなのである。

 初めのうちは、現状を理解すること自体にかなりの時間を費やした。そして何とか元の世界に帰ろうとしてみたのだが、どうすることも出来なかった。というより、どうすれば良いのか皆目見当もつかなかったのだった。

 わりとあっさりと帰還を諦めた和泉は、こちらの世界での生活の道を探すことにした。レグルス王国と呼ばれるらしいこの国も、覚悟を決めてしまえば、そう住みにくい所でもなさそうに思えたからだった。

 そして、そんな履歴書すら書けない状態の彼女をあっさりと雇ってくれる人物を見付けることにも成功した。それが現在、ここに住み込みで居座っている家の主、バーゼルなのだった。自宅を事務所と兼用していて、仕事内容はいわゆる便利屋。料金の折り合いさえつけば、法に触れたりしない限りどんなことでも引き受ける。初めのうち、和泉は雑用係をしていたが、ここ最近さまざまな仕事を任されるようになり、ようやく慣れかけてきた今日この頃なのだった。

 「おはようございます、今日は何のお仕事ですか?」

 応接間を兼ねる居間に入ってゆくと、携帯電話を手にしたバーゼルがゆっくりとこちらを振り返った。ダークブラウンの髪はさっぱりと襟元で切り揃えてあり、余裕のありそうな、にこやかな笑みはなかなか崩れない。ブランドものでこそないが清潔感のある、きっちりしたスーツを着こなしていた。対する和泉の服装はラフなもので、チェックのシャツに細身のジーンズとよくある大学生の私服だ。制服が決められているわけではないので、何を着ていても構わないのだが。

 このバーゼルの性格は、和泉にとってもいまひとつ掴みどころが無かった。そもそも、どこから来たかわからないような奴を住み込みで雇うこと自体、変わり者の所業なのかも知れないが。来客あってのこの商売なのに、繁華街や住宅街を避け、郊外の森の中にぽつんと自宅(つまり会社)をおいている点も、首をかしげるところだ。年齢は三十歳代後半といったくらいだろうか。のんびりとしているようだが、仕事は毎回きっちりこなしているのだった。

 しかしこちらの世界に来てからというもの、衣食住その他あらゆる点において、和泉はそんなバーゼルに世話になりっぱなしなのだ。その恩義は懸命なる労働で返してゆく以外、思いつかなかった。そして仕事のお呼びがかかった今、彼女は張り切って部屋を飛び出して来たわけである。

 「さっき、依頼の電話があってね」

 ソファーに腰掛け、軽く携帯電話を持ち上げて示しながら、バーゼルが話し始めた。和泉はお茶をいれようと、隣のキッチンからティーカップを運んで来た。

 「これから、こちらに来て下さるらしいよ。何だか慌てているような感じで、よく話が見えてこないんだ。いらしたら、じっくり話を伺ってみようと思うんだけど」

 「じゃあ、今日はビル掃除とかじゃないんですかね。お役に立てれば良いのですが」

 二人が話していると突然、入口のドアが慌ただしく開かれ、誰かが入ってきた。

「あ、おはよう」

 気さくに和泉が声をかけたその相手は、もちろん依頼主の来客ではない。住み込みの和泉のほかにもう一人いる通いの社員、ロゼッタ・ギルフォードだった。

 年齢的には和泉と同じくらいか、多少上くらいだろうか。男性並みにすらりと背が高いその体躯に、黒の革ジャケットと黒の綿パンツというダークな服装。同じく真っ黒な肩くらいまである髪を、無造作に後ろにまとめていた。

「おはようございます…ちょっと遅刻したかな」

「まあ、まだお客さん来てないからいいや。適当に座って」

 こともなげにバーゼルが言う。ロゼッタは決まり悪げに頭に手をやり、和泉の隣に腰をかけた。

その直後、今度こそ本当の来客を告げる、呼び鈴の音が響き渡った。


 「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 和泉に案内されて居間までやってきたその客は、わりあいに小柄な初老の男性だった。どことなく威厳のようなものを感じさせる、気品のある顔立ち。やや白みがかった口ひげが、そんな雰囲気を助長しているのかも知れない。しかしその立ち居振舞いは、そんな気品も半減してしまうほどに落着きなく、そわそわしているような感じだった。

 …何だか落ち着きのないオッサンだな…

 口にこそ出さなかったものの、和泉もロゼッタも、同じような事を考えていた。一度そう考えてしまうと、何だか偉そうな雰囲気なのも、見かけ倒しのように思えてきた。

 バーゼルが立ち上がって、口を開くまでは。

「おはようございます。お越し頂けて光栄ですよ、国王陛下」

「はぁ!?」

 今度は黙っていられず、二人同時に裏返ったような声をあげる。バーゼルはきょとんとした顔で和泉とロゼッタの方を見る。

 「あれ?言ってなかったっけ?」

 「聞いてませんよ!」

 「っていうか、こっちは今来たばっかだし!」

抗議するように交互に大きな声を出す二人とは対照的に、バーゼルはにこやかな表情を崩さない。

 「ああごめん。じゃあ紹介しないとね。こちら、このレグルス王国を統治なさっている、ベオグラード国王陛下」

 「いやいや、今回はお忍びで来ているようなものだ。そんな大袈裟な紹介はやめてくれ」

敬意を込め、丁寧に紹介しようとするバーゼルを、ベオグラード自身が止めた。和泉とロゼッタは、まだ言葉を失ったまま、そんなベオグラードを見ている。

 …王様がお忍びで、ひとりでウロウロしたらマズいんじゃないの?

 …だいたい、何で国王自ら足を運んでるわけ?使いとか立てればいいじゃん…。

 二人の思惑には気付かないまま、バーゼルはベオグラードに向かって軽く頭を下げた。

 「そうですか、申し訳ございませんでした。では、早速御用件をお伺い致しましょうか。どうぞ、そちらにお掛け下さい」

 バーゼルにすすめられたソファーに腰掛け、ベオグラードは固い表情のまま話し始めた。

 「つまらない話と思われるかも知れないが…先日、王宮に妙な手紙が届いたのだ」

 「手紙が届いた?」

おうむ返しに聞き返すバーゼルに、国王は懐から封の開いた封筒を取り出した。受け取って見てみると、何の変哲もない市販の白い封筒。宛名も差出人名も無い。中には、同じような規格と思われる白い便箋が一枚だけ。

 「あらためさせて頂きますよ…」

 バーゼルが便箋を取り出し中身を開く。が、すぐに首をかしげてその文面に見入ってしまった。その様子に興味をひかれた和泉とロゼッタも、思わず傍から覗き込む。

 ごく普通のワープロかパソコンで打ち込まれたと思われる、ごく普通の書体の活字。普通でないのはその文面くらいだった。

 『前略 近日中に、貴殿の御令嬢もらい受けたく思います。 草々 』

 …前略どころか、全部略しすぎだよ…と和泉は思った。

 「誘拐予告ですか?」

 ロゼッタも首をひねりながら不思議そうに言う。和泉が相槌を打った。

 「いや、プロポーズかも知れないし」

 「だったら先に挨拶に来なきゃねえ…」

 他人事なので好き勝手に言っている二人に対し、当のベオグラードの表情は真剣そのものだった。かなり無責任な発言にも、大真面目に答えてくる。

 「いや、私の娘は何も知らないそうだ。ただの悪質なイタズラと良いのだが、どうも気になってな…。警察はきちんとした事件にならないと動かないし、そもそも王室がこのようなことで大袈裟に騒ぎ立てるわけにもゆかんし…。」

 とりあえずどう動けば良いか分からず、不安ばかりが募ってここを訪ねて来たようだ。バーゼルはまだ文面に目を落としていたが、ベオグラードの言葉が切れた所で顔を上げた。

 「しかし、宛名に陛下のお名前があるわけではないし、御令嬢…ロレーヌ王女でしたね。こちらのお名前も出ておりません。間違い手紙の可能性も皆無ではありませんよ」

 「私もそれは考えた。だが、万が一を考えると不安でならなくてな…。当のロレーヌもいくらかおびえているらしくて、あまり外出したがらないのだ」

 「当事者ともなれば、それが当然でしょうね…。軽率な発言、お詫び致します。ではお伺いしますが、もっとも恐れているのは拉致予告の可能性、で宜しいですね?」

 「ああ、そうだな」

 バーゼルの問いに、ベオグラードはゆっくり深くうなずいた。それを聞くと、バーゼルは指先を組み、ちょっと身を乗り出すような姿勢になって話し始めた。

 「拉致を防ぐ方法として、私にひとつ提案があるのですが」

 「何かあるのかね?」

 「替え玉…というのはいかがですか?」

 「替え玉?」

ベオグラードはもちろん、和泉とロゼッタもびっくりした表情でバーゼルの顔を見つめた。そんな一同に構わず、平然とした表情のまま、バーゼルが言葉を続ける。

 「ご覧の通り、当社にはロレーヌ姫様と同年代の女性社員がおります。陛下や王女様の納得のゆかれる期間までこれを王宮に派遣し、代わりに当社で責任持って王女様をお預かりするというものです。言い換えれば、影武者ですね。これを行うとすると、和泉くん、君にお願いしようと思うんだけど」

 「えっ?」

 突然バーゼルがこちらを振り向き、名指ししてきたので、和泉はどきりとした。

 「ロゼッタくんだと、おそらく背が高すぎると思うんだ。君だとかなり平均値に近い。」

 「確かに、娘と同じくらいの体格だが…」

 和泉を見ながらも、ベオグラードは渋い表情だった。

 「何があるか分からないのだ。万が一の事態になったら、お詫びのしようもない」

 「その通りです。ですから、業務命令ではなく本人の意志で、引受けるかどうか決定してもらおうと思っています。一日ほど、考える時間を頂いて…」

 「いや、引受けますよ、やらせて下さい」

 バーゼルの言葉を遮るように、和泉が言葉を挟んだ。そばで聞いていたロゼッタが、びっくりしたようにその肩を掴む。

 「マジでか?良く考えてから決めろよ!」

 「いや、こっちの世界に来てから、先生にはお世話になりっぱなしなんだ。私に出来ることは全部やらないと、お返し出来ないし」

 「まだこっちの世界とか言ってるのか!?いい加減にしないと、そのうち病院送りになるからな!」

 当然と言えば当然の話だが、和泉が異世界から来たと言っても、誰ひとりとして信じてくれない。ロゼッタは記憶喪失か妄想癖があると決め付けているし、バーゼルもよく考えた作り話くらいに受け取っている。初めのうちは懸命に説明しようとしていた和泉だったが、あまり食い下がると本当に精神病院に連れて行かれそうな気がして、最近は諦めているのだ。確かに、逆の立場なら同じように思うだろうし…。

 「こっちの世界とは…何の話かね?」

 初対面のベオグラードは不思議そうに尋ねてくる。バーゼルがその場を取り繕った。

 「いえ、社内における話題ですので…。ともかく、うちの社員は承諾したようです。後は陛下、あなたが了承して下されば」

 ベオグラードは腕を組み、しばし考え込むように首をひねった。が、その時間は長くはなかった。

 「おそらく、娘も反対はしないだろう。その方法で、正式に依頼したい」

 「ありがとうございます。では、ご紹介致します。今回の件を担当致します、こちらは虹野和泉くんといいます」

 丁寧に頭を下げ、和泉の肩に手をおいてバーゼルが言う。和泉は慌ててぺこりと頭を下げた。ベオグラードは微かに笑ってうなずき、和泉に握手を求めてきた。

 「よろしく頼むよ、替え玉くん」

 …替え玉って、麺だけおかわりする、あれじゃないんだよな…。

 勢いで承諾してしまったものの、さすがにいくらか不安のようなものを感じ始め、和泉はまたもくだらないことを考えていた。が、考えていただけなので周りは気付かず、バーゼルが言葉をついだ。

 「そしてこちらのロゼッタ・ギルフォードくんと、私ことバーゼルで、お預かりするロレーヌ王女様を護衛させて頂きます」

 「ありがたい…では、早速だが王宮までお越し願おうか。娘に会ってもらいたいし、正確に打ち合わせがしたい」

 ベオグラードはそう言うと、静かにソファーから立ち上がった。


 「お初にお目にかかります…ロレーヌと申します」

 「あ、いえ、こちらこそ…」

 きちんと挨拶してきた目の前の少女を見て、和泉の方がしどろもどろになってしまった。

なぜって、とにかくすごい美少女なのだ。黒目がちで大きめの瞳に、長いまつげに、きめ細やかで抜けるような白い肌に、すらりと長い手足…。和泉が日本で見てきた、いわゆるモデルや女優とは全く違う、清楚で気品のある顔立ち。年齢的にはわずかに和泉より若そうだが、落着きのある物腰でやや大人びた印象がした。

 「体格的に同じくらい…ね…」

 ロゼッタが傍でぼそりとつぶやく。

 「逆にいうと、体格以外に共通点ないじゃん」

 「うるさいよ、だまってろ外野」

 和泉がムスッとして、ロゼッタを肘で小突いた。一目見た時から、自分で思ってたことをわざわざ言うんじゃない!

 王宮に案内され、来客向けと思われる小綺麗な部屋に通された和泉たちは、今回の事件の渦中の人とも言える、王女ロレーヌと対面したのだった。

 「お話は父から伺っています」

 ロレーヌが言い、歩み寄ってきて和泉の手を取った。亜麻色の長い髪がふわりとなびき、何とも言えない良い香りがする。澄んだ瞳でまっすぐ見つめられ、妙な眩しさのようなものすら感じた。

 「あんな、イタズラみたいな手紙に本気でおびえるなんて、自分でもバカみたいだとは思ってるんです。でも、ホントに恐くて…物陰や自分の後ろに誰かいるような気までしてきて…。父もそんなあたしを心配してくれたようなんです。でもまさか、こんな危険な立場を替わって下さるなんて、有り難いというより申し訳なくて…」

 本当に申し訳なさげに目をふせるロレーヌを見ているうちに、何だか逆に和泉の方が落着きを取り戻してきた。何とかして、この娘を安心させてあげたい、と思えるくらいの余裕が出てきた。

 「あまりお気になさらずに。そもそも、どんなことでもするという看板でこちらへ参ったわけですからね。申し遅れましたが、私は虹野和泉といいます」

 「和泉さんね、どうぞよろしく」

 ほっとしたような表情になってようやくロレーヌが微笑んだ。一緒にいたベオグラードが話を始める。

 「では、作戦としては先ほど話した通りだ。和泉くんはしばらく、私の娘となってこちらに滞在して頂く。期間としてはとりあえず一、二ヶ月程度で様子を見てみる。ロレーヌ、その間お前はこのバーゼル氏のもとでしばらくお世話になるのだ」

 「はい、どうぞ宜しくお願い致します」

 丁寧にお辞儀するロレーヌに、バーゼルもにこやかに微笑んで応えた。

 「こちらこそ、我々の出来る限り精いっぱい護衛させて頂きますよ。ここにいるロゼッタくんは射撃の名手です。ご安心頂けると思います」

 「射撃?」

 尋ね返すロレーヌに、ロゼッタがちょっと微笑し、懐に手を入れた。革ジャケットの隙間から、肩ホルスターに収められたオートマチックの拳銃がちらりと覗く。実は、腰にもホルスターが付いていて、こちらにはリボルバーの拳銃が入っているのだった。

 「まあ…心強いですね」

 「では、替え玉作戦を開始しようか。和泉くんに、渡しておきたい物があるんだ」

 バーゼルが言い、持参していた大きめのバッグから携帯電話を取り出した。

 「万一、不審者に拉致されることがあったら、これで連絡を取って欲しい。僕の携帯の番号が入ってるから」

 渡された携帯電話はかなり小型で、掌にすっぽり収まってしまいそうだった。バーゼルはさらに、ビー玉くらいの大きさの、やはりかなり小型の手榴弾のような物を取り出した。

 「爆弾ですか?」

 「いや、そんな大層なものじゃないんだけどね。煙幕だよ」

 「煙幕?」

 「ピンを抜いて投げれば、かなりの広範囲に煙が充満するよ。目くらましくらいにはなると思うんだ。それから…」

 煙幕を手渡すと、さらに小さなクリップのような物を取り出してきた。

 「靴を脱いでくれないかな」

 「はあ…」

 不思議そうな顔で和泉が靴を脱いで渡すと、バーゼルはそれを受取り、かかとの部分にクリップを取付けた。

 「ちょっと、跳ねてみてごらん」

 「?」

 言われるままに軽くジャンプしてみた…つもりだったが。

 「!?」

 その場にいた全員の視線が、和泉に釘付けになった。和泉の身体が、二メートル近くも跳ね上がったのだ。当の和泉が一番びっくりしている。天井に頭が当たってしまうのではないかと、思わず首をすくめたほどだった。

 「何なんですかっ!?これは…」

 「正式名称を知らないんだ。跳躍補助装置とか言っとけばいいのかな」

 「そのまんまですね…。どういう仕組みなんですか?」

 「さあ…分解して壊したらヤだし」

 「…じゃあ、いいです」

 バーゼルのアバウトさを知っている和泉は、諦めて質問をやめた。ここはおとなしく、便利なモノをもらったと考えてしまった方が早そうだ。それにしても一体、こういうのをどこで入手してくるのだろう。

 「目いっぱい跳べば、十メートル以上はいけると思う。普通に歩いたり走ったりする上では影響ないし、高く跳んで着地しても衝撃を和らげるようになってる。何かしら役には立つんじゃないかな」

 「そうですね…誘拐されても、脱出くらいは出来そうです」

 「きみも生身の人間だからね…ロゼッタくんの射撃のような特技があるわけでもないし、雇用する側としては出来る限り、身を守る方法を与えておきたいんだ」

 はっきりと表情には出さないものの、バーゼルもだいぶ心配はしているようだ。

 「和泉、これも持ってくといいよ」

 横からロゼッタが言い、内ポケットから小型の拳銃を取り出した。ホルスターの二丁とはまた別のもののようだ。和泉はちょっと困ったようにそれを見た。

 「君は一体いくつ持ってるんだよ…気持ちは嬉しいけど、私はまだ人を殺したことがないんだ。たぶん、怖くて撃てないと思う」

 「いや、ただの麻酔銃なんだ。弾数に限りがあるけど、けっこう撃てるよ。持っといた方がいいと思う。絶対」

 ロゼッタまで、いつになく真剣な目をしている。和泉は今度は何も言わず、素直に麻酔銃を受取った。オートマチックの形状で、意外と重量感があった。

 「…さんきゅ」

 「では、我々はこれでおいとま致します」

 そう言ってバーゼルは上着を羽織った。その傍に、使用人が簡単にまとめておいてくれた荷物を手にしたロレーヌが歩み寄った。

 「では、改めましてお世話になります」

 「こちらこそ…。そうだ、和泉くん」

 上着の襟を直しながら、ふと気付いたようにバーゼルが和泉に声をかけた。

 「はい?」

 「当たり前のことを言っておくけど、万一不審者が出た際は、絶対に深追いしたらダメだよ。もちろん、相手の正体や目的が分かるのに越したことはないけれど、それよりもきみ自身の安全を優先させて欲しい。何かあれば、うちとしても依頼人にとっても困るんだ。危ないと思ったら避難すること。約束できるね?」

 念を押すように、まっすぐ和泉の目を見てくる。和泉はうなずいた。

 「分かっていますよ。任せて下さい」

 使用人に送られてバーゼル達が出て行くと、ベオグラードが和泉の方を振り返った。

 「では、宜しく頼むよ。負担の大きい役を任せて申し訳ないが」

 「いえ、大事無く過ぎると良いですね」

 そんな言葉を交わしていると、部屋にノックの音が響いた。

 「失礼致します」

 入って来たのは、かなり年配の、厳格そうな顔をした女性だった。

 「姫様に替わって王宮に滞在なさるのは、こちらの方ですか?」

 「あ、はい、そうですけど?」

 冗談が通じなそうな顔だな…などと思いつつ、不思議そうな顔で返事をする和泉。

 「では、完璧に姫様になりすまして頂く為の、教育をさせて頂きます。立ち居振舞い、言葉づかい、行儀作法、すべて指導致します」

 「えっ!?」

 和泉はびっくりして、思わず後ずさった。ベオグラードがちょっと苦笑して言った。

 「ロレーヌが幼い頃から教育係を任せてきた、メリダという者だ。ロレーヌから手が離れて久しいので、かなりはりきっているようだな」

 「そんなの…必要ないでしょ!?たかが一、二ヶ月なのに…」

 「わずかな期間でも、立ち居振舞いひとつでボロが出ては後の祭りです」

 にこりともせず、メリダは和泉の言葉を却下する。

 「いやいや、それ以前に、ひと目見たら明らかに顔違うし!」

 和泉は助けを求めるようにベオグラードの顔を見たが、どうも助け舟が出る気配は無い。

 「え、だ、だって…そもそも私は…」

 「『わたし』とは品の無い。『わたくし』とおっしゃって下さい」

 「…ちょっと待って!確かお姫様は『あたし』って言ってた気がするんだけど!?」

 どうも、先の思いやられる滞在になりそうな予感がした。


 それから、三週間あまりが経過した。

 特に変わったことは何も起こらず、平穏無事な時間が過ぎていた。先日のあの手紙は、やはりイタズラだったのではないかと、皆がうすうす思い始めていた頃だった。

 「ああ…退屈だな…」

 天蓋付きの大きなベッドに寝転がって、和泉がひとりでつぶやいた。

 ここはロレーヌ姫の部屋である。入れ替わっている間中、和泉が自由に使って良いことになっていた。はじめの一週間くらいは和泉もいくらか不安で、ベオグラードや他の王宮の人間と一緒にいることが多かった。しかし、あまりにも何も起きないうえに慣れも手伝い、元来わりとひとりで過ごすことが好きな和泉は、次第に自室にいる時間が増えていったのだった。

 メリダの厳しい指導をうまくかわしさえすれば、王宮の生活はかなり居心地の良いものだった。使用人、王宮勤めの役人、番兵に至るまでみな親切だったし、食事も豪華絢爛とまでは行かないが、上質の食材と味付けだった。また、王女の服と言えばドレスばかりのようなイメージを勝手に抱いていた和泉だったが、クローゼットにはさっぱりとした動き易い服も結構あった。もちろん、生地や仕立ては最高級のものであったけれど。

 しかし、いつも一緒だったロゼッタは当然いないし、好きなTVゲームもない。本棚にあった本で、興味をひくものは大方読み尽くしてしまった。退屈がつのり始めた今日この頃なのである。

 …お姫様も、生活環境が変わって、不便な思いしてるのかなあ…。

 夕食前のひととき、ぼんやりしながら、いつものようにだらだらと考え事をしていた、その時のことだった。

 かたん…と、かすかに窓の開く音がしたような気がした。

 「?」

 窓の方に視線を向けようとした、その瞬間。

 ぱりぃぃん!!

 鋭い破壊音とともに、突然、部屋が真っ暗になった。何者かが、部屋の照明を破壊したようだ。

 「!!」

 驚いて、和泉は反射的にベッドの上に半身を起こした。しかし、急に暗くなったので、周囲が全く見えない。物音のした窓の方から、何かが動く気配がした。

 「誰か…いるの!?」

 窓の方に向かって呼びかけたが、気が動転するあまり、声がうわずっているのが自分でも分かった。そして、返事はなかった。

 ベッドの枕元に、不測の事態が起こった時の為に非常ボタンが取付けてある。押せば、警備兵の部屋の呼出しベルが鳴るはずだった。和泉はすぐに手を伸ばし、ボタンを二、三度続けて押した。

 その時、暗闇の中から、低く小さい声が聞こえてきた。

 「非常ボタンのコードは切ってある。押しても無駄だ」

 「…」

 和泉は黙って、ボタンから指を離した。

 「我々が誰なのか、尋ねるのはおかしな話ですね…。しばらく前、一報差し上げたはずなのですが」

 少しトーンの異なる、別の声が小さく聞こえてきた。

 …ひとりじゃないのか…!

 勝算を見出せない和泉はそっとベッドから出て、ドアのある方向を見定めようとした。少しずつではあるが、闇に目が慣れつつあった。隙をついて部屋を飛び出しさえすれば、助けを呼べる…。

これまでに経験したことのない恐怖と緊張から、心臓は早鐘のように打っていた。口の中がからからに乾いてしまっているのに、握り締めた掌の方は気持ちが悪いほどにじっとりと汗ばんでいる。

 手探りで、出口の方向に一歩踏み出そうとした次の瞬間…。

 「逃げようとしても無駄だ」

 先ほどの声が聞こえてきた。…今度は和泉のすぐ耳もとで。

 …やばい!

 危険を感じた和泉は素早く身を引こうとしたが、それよりも一瞬早く右の腕を掴まれ、引きずり寄せられた。声をたてる間もなく、もう一方の手で素早く口を塞がれる。

 「…!」

 必死に身をよじって逃れようとしてみるが、恐ろしく力が強い奴で、和泉は全く身動きが出来なかった。

 「連絡をしておいた割には、ずいぶんと無防備な…。イタズラか何かだと思われてしまったようですね」

 もうひとりの声が近付いてくる。どうやら、替え玉だとは気付かれていないようだ。

 「手荒なマネをして、大変申し訳ない」

 …そう思うんなら、この手を離せ!

 「しかし、我々を恨まれても困ります。これは、あなた自身のせいでもあるのです」

 …私の…いやいや、ロレーヌ姫のせい?

あの優しそうなお姫様が、それほどの恨みを買うようには、和泉にはとても思えなかった。それを察するかのように、声が言葉を続ける。

 「心当たりがない、とおっしゃりたいのは分かりますが、ここで説明することは出来ません。失礼ですが、我々と同行して頂きますよ」

 言葉とともに、顔のそばでスプレーのようなものを吹き付けられた。

 「!」

 口を塞がれているため鼻で呼吸をするより他がない和泉は、いやおうなくその霧を吸い込んでしまった。薬品が体内に入った瞬間、暗闇の中にもかかわらず、目の前がぐらりと揺らぐのが分かった。

 …ちょっと、ヤバいかもしれないな、これは…

 …殺される…のかな…。

 さまざまな思いが頭をかすめながら、和泉の意識は次第に遠のいていった。


 その後、夕食の準備が整った旨を伝えに来た使用人が和泉の不在に気付き、ただちに報告がなされた。部屋の中の様子から、状況を推察するのはさほど難しいものではなかった。窓にはきちんと鍵がかかっていたが、ガラス切りのようなもので鍵の部分に小さな穴をあけ、掛け金を外したようだ。

 「ついに…やってきたか…」

 ベオグラードが部屋の前に立ち尽くし、茫然として呟いた。

 「申し訳ありません!非常ボタンのケーブルが切断されていました」

 警備兵が悔しそうに報告する。

 「すぐにバーゼル氏に連絡をしろ。それから部屋を調査し、何か手がかりがないか徹底的に調べるんだ」

 ひととおり指示を出すと、ベオグラードは重苦しくため息をつき、頭を抱え込んだ。


 一方、ロレーヌ姫はバーゼルの事務所でさほど不自由もなく暮らしていた。和泉が不在の為ロゼッタが一緒に住み込み、護衛役として、また良い話し相手として結構仲良くやっていたのだった。…事件の連絡が来るまでは。

 「和泉さんが誘拐された…!あたしの…あたしのせいで!!」

 激しく頭を振りながら、涙を浮かべてロレーヌが叫ぶ。半ばパニック状態だった。

 「落着いて下さい、もともとこの事態を想定して入れ替わったんでしょう!」

 ロゼッタが必死になだめている。バーゼルが携帯電話を手にしたまま、渋い表情で唇をかみしめた。

 「ずいぶん時間がかかったと思ったら…油断するのを待っていたみたいだね。もうしばらく遅かったら、王女様を城に戻してしまっていたかも知れない。作戦としては一応成功してるんだが…やはり和泉くん、逃げることは出来なかったか…」

 両手で顔を覆い、ソファーに座り込んでしまったロレーヌの背中をさすりながら、ロゼッタが言う。

 「でも幸い、俺たちが渡した道具はちゃんと身につけていたようだし、うまくやれば脱出できるかもしれませんよ。今はとにかく、連絡を待つしか…」

 「そうだね。残念だが、今は受け身戦法だ。和泉くんの無事を信じることにしよう」

 バーゼルがうなずき、ロレーヌの肩に軽く手をかけた。

 「王女様。あまり気に病まれると、お身体に障りますよ。和泉くんはああ見えてもなかなか肝がすわっています。ここはひとつ、彼女を信用して下さい」

 優しい言葉をかけられ、ロレーヌも当初の動転した状態から、いくらか落着きを取り戻しつつあった。

 「そう…ですよね…。あたしが心配し過ぎるってことは、和泉さんを信用してないってことになるわけ…ですよね。すみません、一緒に待ちます」

 …なんとか落着いてくれたみたいだな…。

 弱々しくも笑みを見せたロレーヌの表情を確認すると、ロゼッタはドアからそっと外に出た。玄関前で、内ポケットから黄色いソフトケースの煙草を取り出す。事務所の中は禁煙なのだった。無言のまま、オイルライターで煙草に火を点ける。

 ロレーヌの手前、あまり表情には出さなかったものの、和泉が拉致されて動揺しているのはロゼッタも同じだった。いや、それ以上かも知れない。ため息のような深い吐息で白煙を吐き出し、そわそわした落着かない手つきで灰を落とす。

 …和泉は大丈夫なんだろうか…。

 もし、一緒に王宮に滞在していれば、などとロゼッタは考える。二人一緒にいれば、そう易々と拉致なんか出来なかったはずだ、と。

 …いやいや、それでは本末を転倒している。そもそも、ここにいるロレーヌ姫を危険から守るのが、今回の仕事なのだ。お姫様をバーゼル先生ひとりに任せていては、誰を守る仕事なのかわからなくなっているじゃないか。

 …本当にバカだな、俺は…。

 ロゼッタはちょっと自嘲気味に笑った。

 よく考えてみれば、今回の作戦の総責任者も、替え玉に和泉を使うことを考えたのも、社長のバーゼルなのだ。いつも通りの穏やかな笑みを見せてはいるが、その胸中はおそらく、ロレーヌやロゼッタの比ではないに違いない。

 紫煙の立ち昇る咥え煙草は、もうだいぶ短い。ロゼッタは足元の地面で煙草を踏み消した。一服しながら考えをまとめることで、彼女もかなり落着きを取り戻したようだった。

拾った吸い殻を玄関脇の灰皿に放り込み、ロゼッタは事務所へと戻って行った。


 …何だか、眩しいな…。

 瞼ごしに明るい光を感じ、和泉はうっすらと目を開いた。真っ白な天井と、蛍光灯の明かりが目に入ってくる。

 …どこだ?ここは…??

 ぼんやりと考え始めた瞬間、先ほどの出来事が一気に脳裏によみがえってきた。

 「!!」

 和泉は弾かれるように起き上がった。と同時に、頭にズキッと痛みが走った。二日酔いによく似た痛み…。原因は、おそらくさっき吸わされた変な薬に間違いない。周囲を見渡すと、八畳分くらいの広さの、見覚えのない部屋。その床に直に横たえられていたようだった。

 「おや、お目醒めですか、お姫様」

 「!」

 突然、背後から軽い口調で声がかかった。びくっとして和泉が振り返ると、そこには見知らぬ男がひとり、椅子にかけて煙草をふかしていた。黒の上下スーツ、白のワイシャツに黒のネクタイ、黒い革靴と全身黒ずくめで、まるで映画に出てくるSPのような服装だった。さらに黒いサングラスをかけているので顔は分からなかったが、声の感じからして、和泉を拉致した二人のうち片方はこいつのようだ。明るい場所でちゃんと和泉の顔を見ても、偽者であることに気付いてないらしい。ということは、ロレーヌとの面識がないということになるのだろうか。

 まだ状況が理解できない状態だったが、何故かさほどの恐怖は感じなかった。こんな時、本物のロレーヌだったら何て言うだろうか、などと考える余裕すらあった。

 「こんなことをして…タダですむと思ってるの?早く家に帰して!」

 ちょっと強めに言った和泉だったが、相手は動じる様子もない。

 「なかなか気の強いお言葉ですね。ですが、残念ながら我々は命令されている身。自分達の一存では、あなたをどうこう出来ないのです」

 「命令されている?」

 思わず和泉が尋ね返した瞬間、いきなり後ろのドアが開いた。入ってきたのはやはり同じく、全身黒ずくめのサングラスの男。

 「おい、様子はどうだ?」

 「ご覧の通りだよ」

 椅子にかけている男が、煙草を揉み消しながら和泉の方を顎でしゃくって示す。

 「気がついたようだな。怪我はさせてないはずだからな」

 などと言っているところを見ると、もうひとりの誘拐犯はこいつのようだ。

 「それにしても、ずいぶんと簡単に連れて来られたな。…まさかニセ者だったりしないだろうな」

 …ぎくり。

 「いや、その可能性はないよ。手紙を出してから、僕がレグルス王宮周辺を見張ってたからね。入れ替わったような形跡はなかった」

 …どこで、何を見てたんだろう。

 何か言うべきなのか迷う和泉の様子に気付く由もなく、入ってきた奴が和泉の顔を見て首をかしげた。

 「しかし、やっぱり話に聞くほどじゃ…ない気がするなあ」

 「…話?」

 思わず不思議そうに和泉が尋ねると、男は何故か、決まり悪げに目をそらしてしまった。座っている方が口を開く。

 「いいでしょう。今回の事情を全てお話しします。まず、ここはあなたのお産まれになったレグルス王国ではありません。隣国のアルデバラン帝国です。」

 「え…」

 思わず和泉は言葉を失った。まさか、国外まで連れ出されているとは思わなかったのだ。しかし、外国の王女を拉致するなど、和泉のいた世界ならば国際問題である。こっちの世界だとわりと普通なのだろうか。

 「そして今いらっしゃるこの場所は、現在この国の頂点でいられる、アゼルバイジャン皇帝陛下の居城なのです」

 「皇帝!?」

 びっくりして思わず和泉が聞き返す。黒眼鏡の男は、無言でうなずいた。

 「で、ここには、あなたと同年齢の皇女がいらっしゃいます。御名をアデレード姫といいまして、容貌の美しさにかけましては、まあこの国で一番と言って良いと思います。姫様御本人を含めた一部の人間は、アデレード姫こそが世界一の美女だと信じております」

 「はあ…」

 だから何だ、と和泉は思った。

 「しかし最近、この国にひとつの噂が流れてきました。内容は、隣のレグルス王国の王女が絶世の美女で、アデレード姫様を遥かに凌ぐ、というものです」

 なるほど、可能性はあるような気がした。確かにロレーヌ姫は、一目見た時から眩しささえ感じる美少女だった。少なくとも和泉は、彼女より美しい女性は見たことがない。この国の皇女とやらがどれだけ綺麗なのかは知らないが、あれほどの美貌をそう簡単に上回るとは思えなかった。

だとすると、先ほど入って来た方の男が和泉を見て『話に聞くほどでは…』と言った意味もよく解った。

 …ほっといてくれ。

 確かに和泉の容貌を、『絶世の美女』と表現するのは厳しいところである。しかし、あのロレーヌと比較されれば誰だって…少なくとも一般的な芸能人クラスの女性程度ならば、単なる引き立て役に成り下がってしまうに違いない。

 「この噂を聞いて一番気になさったのが、アデレード姫様御本人です。大きな声では言えませんが、皇女様はたいそう嫉妬深くて…御自分より容貌の上回る女性の存在を、決して認めようとはしないのです」

 本当に声を落として、男は言葉を続ける。

 「そういったいきさつがありまして、今回、その噂が本当なのかを確かめる為に、その…レグルス王国の王女を…つまり、あなたをここへお連れするよう、命じられたわけなのです」

いくらか言いにくそうな様子だ。自分たちでもいくらか、いやかなり非常識であることを自覚しているのだろう。実際、話を聞いている和泉の顔は、次第に呆れかえった表情になっていった。

 「え…じゃあ、ここの皇女と顔を比べる為だけに、あんな方法でわざわざあたしを連れ出してきたわけ!?」

 「まあ…そういうことになります。だって、普通にお呼びしようにも、嫉妬心に火が点いた皇女様が丁寧に招待する気など起こしては下さらないし、あなたもそんなことでわざわざ足をお運びになっては下さらないでしょう?」

 呆れを通り越し、和泉はいくらか腹が立ってきた。

 「当たり前でしょ!何であたしが、そんな自意識過剰女の趣味に付き合わなきゃいけないの?バカバカしい、早いところレグルスに返してくれない?」

 「申し訳ありませんが、そうはいきませんよ。二度言うようですが、我々は命令されている身ですから、勝手な行動は出来ません」

 「じゃあ、あたしが勝手にここから逃げ出しちゃえばいいわけね?」

 ちらりと窓の方に目をやって、探るように和泉がいうと、黒服男は笑い出した。

 「これはまた、高貴な身分の方にしては大胆な…。仮にもここは皇宮ですよ。敷地の中にも、出入口にも番兵が大勢います。失礼ですが、ちょっと逃げ切るのは難しいかと。仮に逃げおおせたとしても、ここはあなたのお住まいからは遥か遠く離れています。どうやって帰りますか?」

 「…」

 和泉は言葉で攻めるのを諦めて口をつぐんだ。言われてみればもっともだ。それに、そこまで顔に自信のあるというその皇女、せっかく来たのだから一目見ておくのも一興かも知れない。

 そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされた。

 「アデレード姫様の準備が終えられたそうです」

 腰元風の女性が入口に現れ、静かにそう告げた。

 「了解しました。ただいまお連れします」

 返事とともに、黒服の二人が和泉の方へ歩み寄って来た。

 「さあ立つんだ。皇女様がお会いになる」

 いずれにせよ、ここは逆らわない方が良さそうだ。和泉は促されるままに立ち上がり、使用人たちとともに部屋を出て行った。


 「あなたが…レグルス王国のロレーヌ姫?」

 大きな玉座から立ち上がり、ゆっくりと和泉の方へと歩を進めながら、その少女…アルデバラン帝国皇女アデレードは静かに尋ねてきた。

 「…」

 しかし、その目の前に立たされた和泉は、何も話そうとしなかった。

 黒服たちに連れられて皇宮内を思いのほか歩かされ、この大広間――本当に広い。千人以上は収容出来そうだ――まで案内され、ようやく諸悪の根元とも言える人物の顔を拝めたわけである。とにかくもう、観察に余念がない。

 確かに、アデレード姫は美しい顔立ちをしていた。あの黒服の言ったことは、決して大袈裟なものではなかった。

 しかし…と和泉は思った。誰が見ても美しい容貌ではあるのだろうが、目もと口もとがかなりキツく、表情にはそのまま意地の悪さやわがままさが浮き出ていた。言うなれば、昔の少女マンガの意地悪役といった顔。ただそれだけならば、悪役的美女などという表現も使えるのだが、ここにまだ成熟しきっていない、あどけなさともいえる幼さが残ってしまっているのだ。もともと童顔なのか、精神年齢の低さが顔に出てしまっているのか、区別の難しいところだが、そのバランスの悪さはともすれば可笑しさを誘ってしまう。

 確か小学生の頃、こんな感じの娘がクラスにいたな…などと、和泉は考えていた。何でだかこういうタイプって、嫌われてるくせに孤立しなくて、必ず何人か取り巻きがいるんだよな…。でもその取り巻きもホントはその娘が嫌いだったりしてさ…。何でくっついてるんだか不思議で…。

 「…ちょっと!聞いてるの!?」

 またもひとりでいろいろと考え続けていた和泉に、ほとんど無視されかけたアデレードが不機嫌そうに大声を出す。

 「あ…えっ?」

ふっと我に返った和泉は、目の前のムスッとしたアデレードに気付く。周囲に控えていた番兵たちの間から、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。

 「ふ…ふん、そうよね。いきなりこんなところに連れてこられたんだもの、怖くて茫然とするのは当然よね!」

 自分に言い聞かせるような口調で、アデレードが強がりを言う。…和泉は敢えて、何も言わないことにした。

 「もう一回、聞くわよ。あなたが、レグルス王国のロレーヌ姫なのね?」

 「…そうよ、あたしがロレーヌです」

 否定して反応を見ても大して面白くもなさそうなので、和泉は大人しくうなずいた。その言葉を聞いたアデレードは急に優越感に浸ったような笑顔になり、小馬鹿にするような口調で口を開いた。

 「やっぱり噂って、あてにならないのね。レグルス王国の王女は、この私の遥か上ゆく美女って聞いたんだけど…。どう見たって、飛び抜けた美人には見えないわね。ま、あなたにもプライドがあるでしょうから、はっきりした感想は控えてあげるけど。気をもんで損したわ」

 「ずいぶんとレベルの低い遊びがお好きみたいね。顔よりも、頭の中を磨いたら?」

カチンと来ないわけでもなかったが、無関心を装い、皮肉を込めて和泉が言い返した。が、アデレードは機嫌を損ねるふうでもなく、笑いながら言う。

 「何とでも言ってちょうだい。私、自分より容姿の劣る女には、何を言われても気にならないもの」

 …もういいや、勝手にしてくれ。

 和泉は呆れかえり、言い返す気力もない。そんな和泉の前へ、アデレードが静かに歩み寄って来た。

 「私はね、この世の中に自分より綺麗な女がいることが、我慢できないの。もしそんな女が目の前に現れたら、すぐに消すように、命令するつもりよ」

  「…!」

 和泉は思わずアデレードの目を見た。思った以上に過激な考えの持ち主のようだ。果たしてそんな横暴な命令が現実に聞き入れられるのか、疑問に思うところではある。しかし、少なくともこうして隣国の王女の拉致命令は遂行されている。どうやら、本物と入れ替わっておいたのは正解だったようだ。

 和泉はつとめて平静な表情を装い、もう一度嫌味を言うことにした。

「あら、そう。せいぜい世の中の男女比が傾かないように、気をつけて欲しいわね」

 この言葉にはいくらかムッとしたらしく、アデレードの眉がかすかに痙攣した。が、こちらも平静を装い、ゆっくりとうなずいた。

 「…そうね。私、自分より顔のいい女も許さないけれど、そういう噂が出ただけでも、気に入らないから…」

 そう言うと、そっと和泉の頬に指を触れてきた。

 「そう、あなたみたいな女でも、よ」

 「あたし…?」

 ぞくりと悪寒が疾り、和泉は思わず後ずさった。

 「ええ、あなたどういうわけか、この国では絶世の美女っていう噂なの。私にとっては、そういう噂が立つこと自体、イヤなわけ。悪いんだけど、あなたにもう一度レグルスの土を踏ませてあげる気は…ないわ」

 言い放つと、アデレードは周囲の警備兵に目配せした。

 「!」

 和泉がはっとした時には、数人の兵士に囲まれていた。全員が手にした槍の穂先を和泉の方に向けて身構え、ひとりが和泉の肩を乱暴に掴んだ。

 「な…何を…っ!」

 …殺される…!

 そう思った瞬間、肩にかかった手を払いのけ、和泉は弾みをつけて飛び跳ねていた。跳躍装置がはたらき、その身体が数メートル跳ね上がった。

 「!?」

 周囲の人間が目を疑って和泉を凝視する。兵隊の包囲網を飛び越えて壁際に着地した和泉は、素早くロゼッタから借りた麻酔銃を抜き出し、銃口をアデレード達の方に向けた。

 「ちょっと…どういうこと!?」

 いろんな意味を込めて、動転したアデレードが叫ぶ。

 「ふざけるな!まさか…貴様ニセ者か!?」

 アデレードの後ろから、聞きなれない叫び声が聞こえ、和泉はおやっと思った。アデレードの玉座の隣に、同じような玉座がもうひとつあり、男性がひとり腰掛けていたのだ。高貴な服装の感じからしても、こいつが何とかいう長い名前の皇帝なのだろう。しかし和泉にとっては、こんな奴、いたっけ?という感じだった。特別小柄なわけでもないのに、とにかく存在感が薄いようだ。

 …まあいいや、この際気にしないことにしよう。

 「おあいにくさま…そう何でも思い通りにはいかないものですよ」

油断なく銃を構えたまま、微笑しながら和泉が言い放った。アデレードは呆気にとられた表情のままだった。

 「あなた…ロレーヌ姫じゃ…」

 「ないんだよ。残念ながらね」

 アデレードの言葉を遮り、和泉が笑って言う。

 「噂のわりに大した顔じゃないのも、当然なんだ。ただの替え玉なんだもの。本物のロレーヌ姫は、すっごい美人だよ。あんたなんかよりも、ずーっとね!」

 「なんですって…?」

 アデレードが悔しそうに唇をかむ。

 「だいたい、何故ニセ者と入れ替わっているのだ!」

 皇帝が横から叫び、頑張って存在を主張している。…和泉には、そう見えた。よく見てみると思いのほか若い。もしかしたらバーゼルより若いくらいではないだろうか。しかし、ロレーヌと同年齢だというアデレードを娘に持つくらいなのだから、見た目よりは上に違いない。

 「そっちから予告状を出してくれたじゃん」

 「あんなの本気にしたわけ!?」

 「…まあ、一応。みんな結構、心配症だったみたい…っと!」

 和泉が言葉を切って素早く身を引いた。兵士のひとりが、突然隙をつくように切りかかってきたのだ。しかし、和泉が避けてしまったのでバランスを失ってふらつく。その背中を狙い、和泉は躊躇せずに引き金を引いた。シュッという音とともに溶解性の麻酔針が発射され、勇気ある兵士は声もなく床に倒れた。

 「…!」

 周囲に緊張が疾る。麻酔銃だということを皆知らないので、見た目にはサイレンサー付きの拳銃で射殺されたように見えたのだろう。

 「念を押すけど…」

 そんな目の前の光景に動じる様子もなく、何事もなかったようにアデレードが口を開く。

 「本物のロレーヌ姫は、確かに噂に見合うほどの美人なのね?」

 和泉は肩をすくめた。

 「その噂、私は直接聞いてないんで何とも言えないな。けど、あんたよりは綺麗だと思うよ。それだけは、間違いない」

 その言葉を聞くと、アデレードは冷たい美しさを持つその顔に、冷たい微笑を浮かべた。

 「そう。で、今はどこに隠れているの?」

 「さあね。それを言ったら、私が入れ替わった意味がないじゃん」

 ちょっと肩をすくめ、和泉が答える。

 「さもないと…無理にでもしゃべってもらうことになるわよ」

 「…そう簡単に、口を割るように見える?」

 緊迫しはじめたその場の空気に、鼓動が早まっていくのを感じながら、口調だけは落着いた様子で和泉は言った。

 「アデレードより美しい娘の存在は、私とて許せない。その娘を早く捕まえるんだ!」

 蚊帳の外の皇帝がまたも自己主張した。存在感はないものの、さすがに一国の皇帝だけあって、その言葉を聞いた兵士たちは、一斉に各々の武器を握り締めた。

 「そんな大勢で…ずるいなあ」

 和泉は素早く走り出し、兵士達と距離をおこうとした。まともにやりあったところで、勝ち目はないのだ。しかし向こうは人数にものをいわせ、和泉を包囲しようと迫ってくる。

 「気をつけろ!奴は空を飛べるぞ!」

 …跳ねてるだけです。

 隙を見て煙幕を投げつけ、後ろの扉から逃げ出すのが良さそうだった。しかし、向こうは逃がすまいとしているので、なかなか出口の方に近づけない。

 「ちょこちょこと…いつまで逃げ続けられると思っているんだ?」

 兵士のひとりが、ゆっくりと和泉の前に歩み寄ってきた。幅広の長剣を帯びていて、その他大勢よりいくらか腕が立ちそうに見えた。

 「捕まったら、痛い目に遭いそうだからね」

 ちょっと冗談めかして和泉が答える。兵士はちょっと笑った。

 「ずいぶんと人を食った奴だ。名前は何と言うんだ?」

 「…虹野和泉」

 先に名乗れ、とか言おうとも思ったが、別に知りたくもなかったのでそのまま答えた。

 「そうか…なかなか面白い娘だが、少々、悪戯が過ぎたようだな!」

 そう言った瞬間、その兵士は長剣に手をかけ、素早く間合いを詰めてきた。

 「えっ?」

 その動きが速すぎて、和泉は反応出来ない。兵士は一瞬にして剣を抜き、和泉の右手に向かって振り下ろした。峰打ちだったが、はっと思った瞬間には手の甲に鈍痛が響き、麻酔銃を叩き落とされてしまっていた。

 「…しまった!」

慌てて銃を拾おうとしたその瞬間、背後からぐいっと襟首を掴まれた。いつの間にか、後ろに回り込まれていたらしい。そうやって隙を見せた途端、他の兵士も数人がかりで飛びついて来る…大した抵抗もできず、ほどなく和泉は両腕を押え込まれてしまった。

 「ずいぶんと、てこずらせてくれたな」

 ゆっくりと長剣を鞘に納め、兵士が軽く笑みを浮かべる。和泉は両腕を掴まれたまま、苦笑いした。

 「…やられたよ。やるねえ、あんた」

 「まあ…年輪の差だな」

 兵士はそう言ったかと思うと、拳をかためて、やにわに和泉のみぞおちに叩き込んだ。

 「うっ…!」

激痛と不快感が一瞬にして全身を支配する。目の前が暗くなり、声もたてられずに和泉はその場に片膝をついた。辛うじて意識は残ったものの、しばらくは呼吸もできなかった。

 「殺された仲間の分だ」

 …いや、生きてるから、その人…。

 弁解したくとも、あまりにも重い一撃に、まだ声が出せない。

 「ちょっと、まだ殺しちゃダメよ!レグルス王女の居場所を吐かせるんだから」

 アデレードが慌てたように後ろから叫ぶ。

 …いや、先に何か別のモノ吐くかも…。

 「とりあえず、身柄を拘束しておけ」

 皇帝の短い命令に、まだ身動きのとれない和泉はなす術もなく、広間から連れ出されていった。


 「しばらく、ここでいい子にしてるんだな」

 兵士が言い捨て、勢い良く目の前で扉を閉じた。続いて鍵をかける音が聞こえてくる。

 まだ鈍い痛みの残る腹部に手をやり、和泉は床に転がって苦痛に耐えていた。ごつごつした石の床が背中に痛い。床だけでなく壁も天井も、殺風景な石垣のようになっている。部屋の中は、二十ワットくらいの明るさの薄暗い電球がひとつだけで、他には何もない。たった今閉じられた扉は、鉄で出来たいかにも頑丈そうな代物であった上に、鍵の開閉は外からしか出来ないようになっていた。

 早い話が、投獄されたのだった。地下ではないようなので窓はあるが、しっかりと太い鉄格子がはまっている。

 「くそっ…逃げきれるかよ!あんなの…」

 舌打ちしながら、ようやく和泉は身体を起こした。床に手をつくと、峰打ちされた手首にも、わずかな痛みが響いた。

 …情けをかけられたな…。

 和泉は苦笑した。その気になれば、和泉の手を切り落とすことも出来たわけだ。やっぱり、あの兵士の名前を聞いておくべきだったのかも知れない。

 和泉は無駄だと分かっていながらも、扉の前に近付いて力一杯押してみた。当たり前のようだが、びくともしない。何だかむしゃくしゃしてきた和泉は、鉄の扉を思い切り蹴りつけた。

 「…体力の無駄だよ。その扉は、厚さが十センチあるんだ」

扉の向こうから、声が聞こえてきた。どうやら、番兵が配置されているようだ。

 「ドアに八つ当たりするくらいしか、やることがないからね」

 ちょっと笑って、和泉は扉にもたれかかるようにして腰をおろした。本当にやることがないので、しばらくこの番兵に話し相手になってもらおうと考えたのだった。

 「皇女様は、私をどうするおつもりなのかな」

 扉越しに問いかけると、番兵はしばらく黙っていた。が、やがて言いにくそうに話し始めた。

 「おそらく…あんたからロレーヌ姫に関する情報を搾り出そうとするだろうな。その為にはたぶん、手段を選ばないはずだ」

 その言葉を聞いて、和泉はベタな拷問の方法をいくつか思い浮かべてみた。

 …生爪を剥がすとか、焼き印を押すとか、水に沈めるとか、鞭とか鎖で叩きのめすとか?あるいはこのまま監禁されたまま、水や食料を断たれたりするとか??

 …どれも、イヤだな…。

 「痛いのはちょっと苦手なんだけどな」

 「じゃあ、とっとと吐いてしまえばいい。だが、必要な情報を得たら、あんたはもう用済みのはずだ」

 殺される、ということだろうか。

 「本当に…殺したりするの?」

 「さあ…今のところ、まだ姫様より美人の娘ってのが出てないからわからん。だが、あの姫様の性格からすると、おそらく本気でやるだろうな」

 和泉はちょっと肩をすくめた。

 「皇帝は、その好き勝手に何も言わないわけ?」

 「ああ、ここだけの話、陛下は重症のシスターコンプレックスなんだ。可愛い妹の為なら、大量虐殺だってしかねないさ」

 「妹か!なるほどね…」

 番兵の言葉に、和泉は思わず、声を大きくした。道理で、あんな大きな娘がいるには若すぎると思った。

 「ああ。父親の前皇帝ならこんな横暴、認めやしないだろうよ」

 和泉はちょっと頬を膨らませて腕を組み、いくらかふてくされたように足を投げ出した。

 「やっぱり納得いかないなあ。ルックスだけで人の命が左右されるなんてさ」

 「まったく、あんたの言う通りだ」

 溜め息まじりに、番兵が答える。

 「毎日鏡ばかり見て暮らす皇女と、そのワガママを叶える為なら何でもやらかす皇帝。政治はいい加減のくせに税ばかり重い。平和主義が聞いて呆れるってもんだ」

 「平和主義!?」

 思わず、声が裏返った。平和主義…どこが?

 「この国は一応、戦争を一切放棄して国際的に平和宣言をした、恒久中立を謳った国家なんだよ。核兵器はもちろん、銃火器のような近代兵器の類は一切保持しないことになっている。皇宮を守る兵士のみ、最低限の武器の使用が認められているだけさ」

 ここの兵士たちが、槍や剣など古風な武器ばかり使っていた理由がようやくわかった。和泉のいた世界で言えば、さしずめ日本かスイスあたりが近い感じだろうか。

 「なあ、戦争さえなければ、世の中は本当に平和なんだろうか」

 扉の向こうの番兵は、無表情な声で話を続けてきた。

 「俺にはどうしても分からないんだ。世間じゃ、戦争の対義語が平和のような言い方をしてるけど、この国が果たして本当に平和なのか?国のトップが自分の欲望の為に手段を選ばず、一部の人間だけがおいしい思いをしていて…一般の国民の生活は圧迫されている。それでも、戦争さえなければ…平和な国だと言い切っていいのか?そもそも、平和って一体何なんだ??」

 「…」

 和泉はその問いに、答えることが出来なかった。ただ、何だか初めて聞く話ではないような気はした。

 「…そんなの、私にだって分からないよ。でも、国民の百パーセントが満足する政治ってのも、絶対に有り得ないよね」

 「確かにその通りだが…。どうやら、俺には難しすぎる問題みたいだな」

 番兵は軽く笑った。

 「まあ、よその国のあんたにこんな話をしたって仕方ないよな。あんたももう、休むといい。退屈なら、また話しかけてくれよ」

 「うん、そうさせてもらうよ」

 扉から離れ、和泉は今度は窓際の壁にもたれかかった。会話が終わると、意外なほどの静寂が独房の中を支配した。

 …皇宮の中にも、色んなことを考えてるやつがいるんだな。

 和泉はひとりで考え込む。真の平和とは…か。永遠のテーマなんだろうな。

 おそらくこの番兵の考えてることは、間違ってはいないのだろう。だが、彼はどうやら少数派のようだ。あるいは、すぐ傍にいる同志に気付かないのか…。

 「待て待て、そんなことより、事務所に連絡しなきゃな…」

小さく独り言を言って、和泉はポケットから例の携帯電話を取り出した。独房に放り込まれる前に身体検査をされなかったのは、本当に幸いだった。武器らしい武器であった麻酔銃を取り上げることで、安心したのだろうか。

 番兵に聞こえないように、独房の一番隅っこにうずくまるようにして、和泉は電話をかけ始めた。


 「王女様…少し、お休みになったらどうですか」

 事務所の書類をパソコンに打ち込みながら、ロゼッタが声をかけた。

 「ありがとう…でも、何だか眠くないの」

 傍に座っていたロレーヌが、いくらか疲労の色が見える表情で笑顔を作る。和泉が失踪してからほぼ丸一日が経過しようとしていた。いくらか落着いた様子を見せていたロレーヌだったが、やはり不安な気持ちは抑え切れないらしく、昨夜から一睡もしていないのだった。

 「不安な時は、最悪の状況ばかり頭に浮かんで来るものなんですよ」

 ディスプレイから目を離さず、ロゼッタが言った。

 「気持ちだけ焦ったところで、何も変わらないでしょう。俺が同じように全く眠れなかったら、いざ動かなきゃいけないときに何も出来ませんからね」

 「そんなに落着いていられるってことは、ロゼッタさんは本当に、和泉さんを信頼してるのね」

 ロレーヌが感心するように、ゆっくりと言う。ロゼッタはちょっと笑った。

 「いや、想像がつかないだけですよ」

 「?」

 ロレーヌは不思議そうな表情をした。そこでロゼッタは打ち込みの手を止め、ロレーヌの顔を見た。

 「ちょっと話をそらすけど、あいつ…実は妄想癖があるんですよ」

 「…どんな?」

 「自分が、この世界とは違う世界…異次元から来た、って言い張ってるんです」

 いかにも可笑しそうな笑みを浮かべたまま話すロゼッタに、ロレーヌも思わず吹き出してしまった。

 「あの、SF小説とかでよくある話の?」

 「…SFなのか、ファンタジーなのか、よく分からないけど。あんまり突飛な話だから、悪いけど信じられなくてね。でも、いつだってあいつは大真面目な顔なんです」

 ロレーヌは何と言ってよいのか分からず、両手で口元を隠してそっと笑っていた。

 「俺はまともに話を聞く気になれなくて、いつも聞き流してるんだけど。何とかって国に住んでて、学生やってたとか言ってたかな?じゃあ、どうやってこっちの世界に来たんだ、って聞いたら、それが自分でも分からないんだって言ってましてね」

 「じゃあ和泉さんは、どうやってここでお仕事をすることになったの?」

 「もう一年くらい前になるかな…。ここからちょっと入った森の中で、行き倒れみたいになって意識のない人をバーゼル先生が見つけて…。ここまで連れて来て、俺と二人で介抱したんですよ。それがあの和泉だったんです」

 ロゼッタは一度言葉を切り、マグカップのお茶を飲んだ。

 「怪我をしてたり特に弱ってた訳じゃなくて、すぐに意識は戻ったんですが、とにかく話の辻褄が合わなくて…。しまいには、自分はこの世界の人間じゃない、とか言い出したわけなんですよ。帰る場所も分からないって言うから、バーゼル先生がここに住み込みで働く気がないか、誘ったんです」

 「そういう時って、何て言ってあげればいいのか分からないわ。でも、そんなに真面目な顔で、異次元から来たなんて言われたら、あたしは逆に信じちゃうかも」

 ロレーヌは言ったが、ロゼッタは手を振ってそれを制した。

 「甘やかしちゃダメですよ!そんなモンあってたまるかって感じです。あえて妄想じゃないって言うなら、記憶喪失ですかね。無意識のうちに記憶を捏造してるんじゃないかって考えたりもしましたよ」

 「まあ、結構冷たくあしらっちゃうのね」

 ロレーヌは笑い出した。ロゼッタはちょっと肩をすくめ、更に続けた。

 「それがねえ…和泉はホントに図太い奴で、何を言われようとも、全く動じないんですよ。それどころか、いつか元の世界に返るんだって言い張る始末で。変な奴なのに、不思議と妙に気が合って、俺といつも馬鹿なことばかり言い合ってる毎日なんです。そんなあいつがそう簡単に殺されたりとか、そういうイメージがどうしても涌かなくてね」

 「想像がつかないって、そういうことだったのね…」

話を聞いているうちに、ロレーヌの表情がいくらかほぐれてきたように見えた。そんな話をすることで、ロゼッタ自身も自己暗示をかけているのかも知れないが。

 バーゼルはその会話を聞いているのか否か、向こうの椅子にかけたまま、ずっと書類に目を通している。と、その時。

サイドテーブルに置いておいたバーゼルの携帯電話が、けたたましく鳴り出した。

 「!」

 ロゼッタもロレーヌも、同時に弾かれたように電話の方を見る。バーゼルは黙ったまま、落着いて携帯を手に取った。

 「…もしもし」

 「あ、バーゼル先生?私です、和泉ですよ」

 噂をすれば…と言えばいいのだろうか。元気そうな和泉の声が電話から洩れて来たのが聞こえた時、ロゼッタとロレーヌは驚きと安堵の表情で顔を見合わせた。

 「和泉くんか、無事で何よりだよ。状況はどう?ケガはしてないか?」

 「大きなケガは特にありませんが…監禁されています」

 和泉の返事に、事務所の中は新たな緊張に包まれた。バーゼルは落着いて尋ねる。

 「そこはどこか分かるかい?」

 「それが…アルデバラン帝国とかいう国なんです」

 バーゼルの表情がいくらか険しくなった。

 「アルデバラン?」

 和泉はこれまでの経緯を詳細に説明した。バーゼルはメモを取りながら、じっとその話を聞いている。

 「…というわけで、自力では脱出できそうにありません。何とか、お願いします」

 「…わかった。速やかに向かえるようにするよ。もうしばらく、辛抱しててくれ」

 電話を切ると、バーゼルはちょっと考え込むような表情をした。ロゼッタが椅子から立ち上がり、歩み寄ってきた。

 「ちょっと聞こえましたよ。和泉は隣のアルデバラン帝国にいるんですよね」

 「ああ、ちょっと面倒なことになったよ」

 バーゼルの言葉に、ロゼッタもロレーヌも、不思議そうにその顔を見る。バーゼルは渋い表情で言葉を続けた。

 「アルデバランは…前皇帝が平和宣言をして、戦争放棄の中立国ってことになっている。だが十年ほど前にその皇帝が死んで、現皇帝が即位したあたりからどうもおかしいんだ。一方的な条約を他国に迫ったり、国際会議の場なんかでも非常識な発言が多くて、現在ではレグルスとは国交がないんだよ。他の近隣諸国からも浮いた存在になっている」

 「あ…そんな話を、以前に父から聞いたことがあります。近くて遠い国があるって」

 ロレーヌが思い出したように手を叩いた。

 「じゃあ、レグルスの王女を誘拐して、強引に条約を締結させようとかいう話ですか?」

 ロゼッタが尋ねると、バーゼルは急に溜め息をついた。

 「そんな理由なら、まだまともなんだろうけど、ねえ…」

 拉致の首謀者が皇女であることや、くだんのバカバカしい拉致理由を話して聞かせる。

 「顔…比べですか?」

 「そんな自己中な要望が通るんですか!?」

 二人とも呆れ返って、何も言えなかった。

 「とにかく、僕は今からアルデバラン帝国に向かおうと思う。留守を頼みたいんだ」

 「先生、俺に行かせてもらえませんか?」

 ロゼッタが進み出て、まっすぐにバーゼルの目を見て言った。バーゼルは驚いた表情でその目を見返した。

 「しかし…」

 「和泉がいなくなった時から、絶対に俺が連れ戻しに行くんだって、決めてたんです。必ず、助け出しますから…お願いします!」

 ロゼッタはその場にまっすぐ立ったまま、じっと頭を下げた。

 事務所の居間に沈黙が流れる。

 やがて、バーゼルがちょっと苦笑して溜め息をつくと、肩をすくめた。

 「うちの社員は、ほんとに仕事熱心なのばかりで困るよ。社長の僕の立場がない」

 「…社長は、肘掛けの付いた回転椅子にふんぞり返って、偉そうに指示だけしていればいいんですよ」

 ロゼッタが顔を上げて微笑んだ。バーゼルも笑い返し、机の引出しの中から、小型の液晶テレビのような形のモニターを取り出した。

 「和泉くんに渡した携帯に、発信機が付けてあるんだ。バッテリーをかなり食うから、僕の携帯と連絡を取り合った直後に、電源が入るようにしておいた。かなり詳細な位置まで、ナビってくれると思うよ」

 「それは…助かります!」

 モニターを受取りながら、嬉しそうな表情でロゼッタが言う。

 「アルデバラン帝国は隣国で陸続きだから、うまく飛ばせば数時間で着く。頼んだよ」

 自動車のキーを一緒に渡し、バーゼルは椅子に座り込んだ。

 「皇宮だから、かなり警備が厳しいと思う。見付かって、和泉くんと同じ部屋に監禁された、なんて話は勘弁願うよ」

 「まあ、気を付けるつもりではいますけどね」

 「イヤな冗談を言わないで…。絶対に、無事に帰ってくださいね」

 ロレーヌがロゼッタの手を握って言う。ロゼッタはにっこりと笑った。

 「そんなことより、王女様はきちんと睡眠をとることを考えて下さいね。じゃあちょっと、出かけてきますから」

 軽い口調でそう言い残すと、壁にかけてあった革ジャケットを掴み、ロゼッタは素早く事務所を後にした。


 城内の明かりが消え、辺りもだいぶ静かになった。夜が更けてきているのはわかっていたが、いまいち眠気がさしてこない。和泉は両手を組んで枕にして仰向けに寝転がり、ぼんやりと薄暗い天井を見上げていた。

 …お迎えは、いつ頃こっちに着けるのかな…。

 夜明けまでにここを脱出できなかったら、何をされるのか分かったものではないのだ。そんなことを考えているだけで、余計に眠れなくなってしまう。

ぼんやりとしていると、つい先日まで、日本で大学生だった頃を思い出していた。

 …仲間と徹夜で麻雀をやって、翌日の講義で居眠りして、教授に名前を覚えられたっけ。当然、あの単位は落ちたんだろうな。試験を受けずにこっちの世界に来ちゃったし。

 …突然失踪したわけだから、家族も心配してるんだろうな…。捜索願とか出されてたりして…。これも親不孝っていうんだろうか。でも私の意志とは関係ないしな…。

 いろいろ考えているとホームシックにかかりかねないので、和泉は考えるのをやめた。ホームシックになったところで、帰りようがないのだから。和泉は寝返りをうち、鉄格子のはまった窓の外を見上げた。満天の星が輝く、晴れた夜空が見える。

 「…綺麗だな…」

 思わず独り言を呟いてじっと見入った。さまざまな色で輝き、時折すっと尾を引いて流れてゆく星々を眺めているのは、何もない独房の中を見ているよりは楽しかった。

 ――人は死ぬと、お星さまになれるんだよ。

 ふと、和泉の脳裏にある言葉がよみがえってきた。幼い頃、優しかった祖父が亡くなり泣きじゃくる和泉に、母親が言って聞かせた言葉だった。死んだら、あの綺麗な星の一つになって、今よりもっと幸せに生きることが出来る。だから、悲しむ必要はないんだ、と。幼かった和泉はその言葉を信じ、しばらくの間は毎晩、夜空を見上げては祖父の星を探したものだった。

 今はさしずめ、母が和泉の星を探しているところだろうか。いや、はっきり和泉が死んだと決め付けることは、誰も出来ないに違いない。実際、いまだに勝手が良く分からない異世界ではあるが、和泉はここにちゃんと存在している。そもそもこの話は、幼い和泉を泣き止ませる為に、母親がその場で作った方便であると考えた方が無難なのではないか。そう思えてきて、和泉はちょっと自嘲気味に笑った。

 それにしても、と和泉はなおも考える。大きくなって知識がついてみると、空の星って太陽と同じ、ただの水素の塊なんだよね…。そして、それが燃え尽きたらただのヘリウムの塊になって、縮んで消えるか、派手に大爆発するか…だったかな?

 …冗談じゃないよ、と和泉は目を伏せ、吐き捨てるように呟いた…。


 一方、ロゼッタは目いっぱいに車を走らせ、夜半にはアルデバラン帝国に到着していた。モニターを頼りに皇宮の前までは来ていたのだが、厳重な警備体制に、どうやって侵入したら良いものか思案にくれているところだった。

 …この中のどこかに、和泉がいる…。

 正門は、番兵が二人もいる上に、監視カメラが三百六十度体制で回っていた。普通に考えればまず、侵入は不可能である。皇宮をとり囲む城壁の上には有刺鉄線が張り巡らされており、電流が流されている可能性もあるので、乗り越えない方が良さそうだ。

 ロゼッタはそっと裏手の方にまわってみることにした。…ほどなく荷物の搬入口らしい、手狭な出入口を見つけた。見張りらしいのは一人だけ。監視カメラやそれをカモフラージュできそうなものは、付近に見当たらなかった。

 …ここから入るしかないな。

そう思ったロゼッタは、物陰に隠れたまま静かに肩のホルスターの拳銃を抜き、銃口にサイレンサーを取付けた。しかし、ここで番兵を撃てば、不審者侵入の旨がすぐにバレてしまいそうだ。しばし考えた末、ロゼッタは入口から入って奥の方に置いてある、素焼きのプランターに、銃口の狙いを定めた。

 身を潜めている位置から、ゆうに五十メートルはある。しかしロゼッタは躊躇する様子もなく、引金を引いた。

 ぱきんっ!

 狙い違えずに弾丸は標的に命中し、素焼きのプランターは派手な音をたてて粉々に砕け散った。その音は、深夜の閑静な空気の中に、驚くほど大きく響き渡った。

 「!?」

 見張りがびくっとして、プランターの方向を振り向いたのが見てとれた。サイレンサーを装着しているので、銃声はほとんどない。不審な物音に、番兵は何事かとプランターのある方向へと走って行った。ロゼッタの思惑通り、その瞬間に搬入口は無人となる。

 …今だ!

 ロゼッタは物陰から飛び出し、素早く皇宮の敷地内へと身を滑り込ませた。


 「和泉ってば!おいっ!!」

 こつんと小石が額に当たる。

 「…ん?」

 和泉はふっと目を開いた。いつの間にか、うとうとしてしまっていたようだ。

 まだぼんやりした頭で、和泉は窓の方を見た。誰かが、鉄格子の向こうに立っているようだ。ペンライトの光が、目の前でちらちらと動いている。

 「…やっと起きたな。うたた寝とはまた、いい御身分ですこと」

 …っと、その声は…。

 「ロゼッタ!来てくれたんだ!!」

 思わず大きな声を上げて跳ね起き、和泉は窓際へ駆け寄った。ロゼッタが慌てた表情になって、人差し指を口にあてる。

 「シッ!静かにしろよ。見張りとかいるんじゃないの?」

 「あ…」

 扉の方にちらっと目をやる。しかし番兵も仮眠をとっているのか、動き出す気配はない。

 「…大丈夫みたい」

 「よし、さっさと抜け出して、帰ろう」

 ロゼッタは、鉄格子を爪の先で叩いてみた。

 「たぶん、鉄パイプだな。切っちゃえ」

 そう言うと、黒い革靴の底部分に手をやった。左足の踵のところがずれて、内部に空洞が現れた。そこから小さなヤスリを取り出すと、ロゼッタは鉄格子を削り始めた。

 「助かったよ。でも、思ったより早かったね」

 「うん、だいぶ車飛ばしたからね。あと、先生がお前に渡した携帯に発信機がついてるんだ。近くまできたら逆に楽だったよ」

 「えっ、そうだったの?」

 小声でとりとめのない会話をしている十五分程度のうちに、ロゼッタは鉄格子を一本切り取っていた。

 「三本くらい切れば出られるかな。…っと!」

 一本切り取って気が緩んだのだろうか。ロゼッタが手を滑らせ、切り取った鉄の棒を取り落としてしまった。ガラン!と大きな音が響き渡り、棒は派手な音を立てながら、石の床を転がっていった。

 「…しまった!」

 「どーすんだよ!今の、絶対聞こえたよ!!」

 二人で慌てて言い合っていると、案の定、扉の向こうから眠そうな声が聞こえてきた。

 「ふぁぁ…何だ、今の音は…」

 扉の差入れ口の小窓が開き、番兵の目だけがのぞいた。

 「何をしてるんだ?」

 和泉は咄嗟に窓際に立ち、一本抜け落ちた鉄格子が扉の方から見えないようにした。ぼんやりと、窓の外を眺めていたように見えなくもない姿勢。窓の向こう側では、ロゼッタが膝を抱えてかがみ込み、息を殺している。

 「何かデカい音がしたような気がしたんだが、俺が夢でも見てたかな?」

 和泉は振り返り、何気ない表情で答えた。

 「あ、そっちも聞こえた?私の気のせいかとも思ったんだけど。何か金属みたいな音だったよね」

 適当に調子を合わせた方が疑われにくいと思ったのだ。

 「ああ。何かが落ちて転がったような…。いや、俺はてっきりあんたが何かやらかしたのかと思ってな」

 どきどきしながら、和泉はその言葉を笑い飛ばした。

 「ちょっと待ってよ。ここには、何も無かったんだよ。手品師じゃあるまいし、どうやってそんな音たてられるわけ?」

 「…それもそうだよなあ」

 …よしよし、ひっかかってくれそうだな。

 「だいたい今の音、ちょっと遠くから聞こえなかった?この辺じゃなくて向こうの方の部屋なんじゃないかな」

 この際なので、はったりをかましてみたりする。

 「いや、俺も仮眠とってたからな…。そう言われるとそんな気が…」

 …いい人だよ、あんた。

 「まあ、こうして話してても何の騒ぎも起きないし、大したことじゃなさそうだな。もう一度寝るとするか…。そうだ、そこの床じゃ背中が痛いだろうな。今、毛布を持ってきてやるよ」

そう言って番兵が腰を上げる気配がした。和泉は慌てて声をかけた。

 「いや、大丈夫!結構、雑魚寝には慣れてるんで、お構いなくっ」

 扉を開けられたら、さすがに鉄格子に気付かれてしまいそうだ。

 「そうか?ならいいんだが。何かあったら言ってくれ」

 「うん、ありがとう」

 小窓が再び閉じられ、静かになると、ロゼッタが立ち上がって独房を覗きこんだ。

 「すまん…!ちょっと気が抜けた」

 「勘弁してくれよ!まったく…」

 冷や汗を拭いながら、和泉がふーっと息をつく。

 「それにしても、ずいぶん親切そうな見張りだな」

 「まあね。だいぶ真面目そうだし、こんな場所にはもったいないくらいだよ」

 すぐに脱獄作業を再開する気にはなれず、二人ともしばらくじっとしていた。が、やがて扉の向こうから、かすかな寝息が聞こえてきたようだった。

 「よし、始めようか」

 「今度は気を付けてよ!」

 慎重にヤスリを使い、鉄棒を切り取っていく。幸い今度は誰にも気取られることなく、鉄棒をさらに二本ほど取り去ることが出来た。ようやく人間ひとりが通れるくらいの幅になる。

 「…こんなもんかな」

 「さんきゅっ!」

 和泉は弾みをつけて窓を乗り越え、無事に外に出た。

 「ふー、やっぱりシャバの空気は美味いぜ!」

 「バカなこと言ってないで、帰るぞ」

 ヤスリをしまいこみ、そっけなくロゼッタが声をかける。

 「それなんだけどさ…」

 一緒に駆け出しながら、和泉が心配そうに切り出した。

 「このまま我々がレグルスに帰ったら、何も変わらないんじゃないかな…」

 「…どういうこと?」

 不思議そうな表情で、ロゼッタが振り返る。

 「この国のアデレードとかいう皇女、はっきり言って異常なんだよ。自分より綺麗な女性は全部消さないと気が済まないとか言ってるんだ」

 和泉は険しい顔になって、さらに言葉を続ける。

 「実際、私は会って話したんだけど、もうホントにしつこそうなやつだった。もしこのままレグルスに帰ったら、きっとまた同じように人を差し向けて、今度こそロレーヌ姫を狙ってくると思う。そしたら結局、何も変わらないじゃないか」

 それを聞くロゼッタの表情も固くなった。

 「…じゃあ、どうすればいい?」

 「それは…わからない。ずっとお姫様の替え玉やるわけにもいかないし…」

 二人は黙り込んでしまった。深追いしてはいけない、とバーゼルには言われているが、今回ここで退いてしまえば、確かにもとの木阿弥なのだから。

 しかし、次の瞬間、ロゼッタがはっと顔を上げた。

 「…誰かいる!」

 「え?うそ…」

 和泉がびっくりしてきょろきょろと辺りを見回す。ロゼッタは素早く腰から拳銃を抜き、鋭い視線を周囲に走らせた。草木の生い茂る、庭園のような場所。植え込みや立木の陰に、いくらでも潜むことはできそうだった。

背後に気配を感じた。ロゼッタは反射的に身をひるがえし、その相手に銃口を向けた。

 「!」

 同時に、冷たい刃が、自分の眉間のあたりに突きつけられていることに気付く。銃口と切っ先が互いににらみをきかせ、双方とも身動きが出来ない状態だった。

 和泉がはっとして駆け寄ろうとすると、今度はその背中にぐっと硬いものが押し付けられ、動きを止められた。どうやら別な人物がいたようだ。筒のようなその感触からして、銃か何かのような感じだった。

 …警邏兵に見付かった…!

 ようやく状況を理解し、和泉が唇を噛んだ。ここまで来て、また捕まるのか!

 「何を…している?」

 ロゼッタに剣を突きつけている方が、低い声で尋ねてきた。月明かりに照らされ、ようやくその姿が見える。三十路を少し過ぎたくらいの、明るい茶色の髪をした男性。濃紺の、細身の軍服のような服に身を包んでいた。

 「ここは皇宮の庭園だ。何の目的で、ここまで入って来たんだ?」

 「…」

 和泉もロゼッタも、黙っていた。いや、正確には何を言えば良いのか分からなかったのだ。正直に話そうが、嘘を言おうが、状況が好転するようには思えなかった。

 「…ちょっと、待てよ」

 その時、和泉の背後をとった方が、相方の言葉を遮った。

 「こいつは…確か昼間捕まった、レグルスの王女のニセ者じゃないか?」

 「…マジでか?」

 こころなしか声色が変わり、何故かそいつはロゼッタに突きつけていた刃を引っ込めてしまった。よく見るとそれはただの剣ではなく、日本刀に酷似していた。やや反りが入った片刃の刀身に、柄や鍔の形状までがまるで日本刀のようだった。和泉は思わず何か言いたくなったが、そういった雰囲気ではなく、とりあえず黙っていることにした。

 武器を引っ込められ、肩すかしをくらったような感じで、ロゼッタも銃をおろす。

 「ああ、俺、昼間見たもの」

 和泉の背後にいる方が言い、こちらも和泉の背中に押し付けていた武器らしきものをおろす。和泉が振り向いてみると、それは銃ではなく、ただの濃紺色の雨傘だった。

 …騙された。そう言えば、この国は銃火器の所持は禁止だったっけ…。

 こちらも、刀を持った男と同じくらいの歳の感じで、良く似た服を着ていた。制服か何かだろうか。しかしこちらは裾の長いオーバーのようなものをまとっている。金色の、和泉と同じくらいの長さの髪を後ろでまとめていて、深夜にもかかわらず、黒くて丸いレンズのサングラスをしていた。そもそも、雨も降っていないのに傘を所持している時点で、何かがおかしいのかも知れないが。

 「本当に、あんたがレグルス国王女のニセモノなのか?」

 刀を鞘に納め、男が和泉に向かって尋ねてきた。

 「だったら、どうする?」

 油断なく、逆に尋ね返すような口調で、和泉が言う。相手はちょっと笑った。

 「そうだな、勝手に逃げ出されても困るしな。一応捕まえて、どっかの部屋に閉じ込めといて、明日には皇女様のところにお連れするだろうな」

 「…嘘だろう。だったら、ニセ王女だって聞いた時点で武器をひっこめたりしない」

 横から鋭く、ロゼッタが口を挟む。

 「へえ…なかなか鋭いね、おたく」

 雨傘を持った男の方が感心したように言う。日本刀を持った男は、更に尋ねてきた。

 「もうひとつ聞くが、お前らこのまま、レグルスに帰るつもりだったのか?」

 「それは…」

 返事に困って、和泉は言葉を濁した。何しろ、その話で迷ってるところにこいつらと遭遇したのだ。雨傘を持つ男が横から言った。

 「言っておくけど、うちのお姫様はあきらめが悪いよ。自分の思う通りになるまで、何度だってレグルス王女の誘拐計画を立て続けるはずだ。その度にあんたが、身代わりになるかい?」

 「…冗談じゃない!そんなふざけたお遊びに、いちいち付き合ってられるもんか!!」

 思わず語気を強め、和泉は言い放った。すると、二人の男はちょっと微笑み、顔を見合わせて互いにうなずき合った。

 「?」

 その意味が分からず、和泉もロゼッタも不思議そうに首をかしげる。日本刀の方が、ちょっと微笑んで言ってきた。

 「そう思うなら、俺たちと一緒に、モトを断たないか?」

「???」

 男の言葉の意味がすぐには理解できず、和泉たちはしばらく呆然としていた。

 「モトを…断つ?」

 「そう。ここから先、信じるかどうかはお前らの自由だ。レグルスの王女を消そうとか、アブナイことを企んでるのは、確かにここのアデレード皇女。だが、そもそもそれを野放しにして、一緒になって暴挙に出てるのは、シスコン兄貴のバカ皇帝・アゼルバイジャンなわけだ」

日本刀を持った男は、そこで言葉を切ってひと呼吸おき、真剣な目になって和泉とロゼッタを交互に見た。

 「奴を…暗殺する」

 「はぁ?」

 和泉たちは一瞬、耳を疑った。

 「だって…あんたら志願兵じゃないの?自分で望んでここで働いてるのに、皇帝を…って、ちょっと矛盾してない?」

 和泉の言葉に、雨傘を持った方が、言葉に迷うような様子で頭に手をやった。

 「う~ん、そうじゃなくてさ、何だかんだでワケありなんだよね。ここで話すと長くなる。見付かるとまずいし、俺たちの話に興味があるなら、待機所まで一緒に来る気ない?」

 和泉もロゼッタも、困惑して顔を見合わせた。にわかにはなかなか信じられない話だし、自分達の住む国でもないのに首をつっこむのもどうか…などという思惑にかられる。

 しかし、確かにこの連中の言葉通り、皇帝の動きさえ止めてしまえば、アデレードの暴走がなくなるのは事実だろう。

 「…イヤだと言ったら?」

 探るように言う和泉に、こともなげに雨傘の男は答えた。

 「何も見なかったことにするから、逃げ帰るなりなんなり好きにすればいいさ。だけど、替え玉やるくらいなら、レグルスの王宮関係者とかなんだろ?王女様をお救いすることが出来るって意味では、チャンスだと思うんだけど」

 …ちょっと違うけど、まあいいや。

 断っても見逃す、というのであれば、いくらか信憑性はあるかも知れない。確かにこのままレグルス王国に帰ったところで、ロレーヌを奪う・守るのイタチごっこになってしまう可能性は高いし、話くらいは聞いても良いような気はしてきた。

 和泉がいろいろ考えていると、横からロゼッタが話しかけてきた。

 「和泉…。俺、ちょっとこの話、聞いてみたいかも」

 「…マジで?私も今、同じ事考えてたんだ」

 面倒事に巻き込まれそうな匂いはプンプンする。だが、いくらか好奇心が刺激されたのもまた、事実だった。

 …バーゼル先生、ごめんなさい…。

 男たちの後に付いて、二人は一緒に歩き出した。


 しばらく歩いたのち、和泉達は皇宮の敷地のはずれにあった、一軒の家屋のような建物に案内された。やや小ぢんまりとしているが、ちゃんとした家のようだった。

 「城の中じゃないの?」

 ロゼッタが尋ねる。

「ああ、一軒まるごと、俺達の待機所兼宿舎をもらってるんだ。第一、城の中じゃあんたらを連れては入れないからね」

 雨傘を振り回しながら、男が答えた。確かに、その通りだ。

 「まあ入って…適当にかけてくれ」

 日本刀を持った男が、二人に椅子を勧めた。

 「申し遅れたな。俺の名前はトゥルファンだ。こいつと二人で、皇帝直属の警護兵に任命されている」

 「あ、俺はロズウェルだよ」

 雨傘を持った方が横から言う。和泉は軽く、一礼した。

 「ご丁寧にどうも。私は確かに、ロレーヌ王女の替え玉をした、虹野和泉といいます」

 「…俺はロゼッタ・ギルフォードです。捕まったこちらのニセ王女を連れ戻しに、先ほどこの国に来たばかりですが」

 隣でロゼッタも同様に名乗る。ロズウェルがちょっと笑った。

 「そうか、初めから一緒にいたわけじゃないのね。簡単に言ってるけど、よく敷地に入り込めたもんだな。警備が凄かったろうに」

 「ええ、まあ何とか…」

 「さっきの質問だが」

 和泉たちの向かいの椅子に掛けて膝を組み、胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながらトゥルファンが話し始めた。

 「確かに俺達は自分で志願して、この仕事についた。ただし…まだ若造だった頃、前皇帝が募集をかけた時に、だ」

 「現皇帝に仕えるつもりではなかった、というわけですか」

 つられるように煙草を取り出して口に咥え、ロゼッタが尋ねる。

 「当たり前だよ。あんなのに命張る価値はないからね!」

 ロズウェルが吐き捨てるように答えた。和泉は昼間見たはずの、皇帝の顔を思い返してみた。アデレードの顔はインパクトがあり嫌でも忘れないが、向こう側にいた皇帝の顔はいまいち思い出せなかった。だいたい、頑張って何か喋らない限り、その存在を見落としてしまいそうな奴だったのだ。

 「前は、俺達の他にもここに住む警護兵がいたんだがな…。この十年間でアゼルバイジャン皇帝に愛想をつかして、みんな辞めていったんだ」

 遠い目をして白煙を吐き、トゥルファンが言う。和泉は尋ねた。

 「あなた方は、辞めようとは思わなかったんですか?」

 「辞めたところで、今より余計に圧政を受ける一般市民側に回るだけだしね」

 ちょっと寂しげな笑顔で、ロズウェルの方が答える。トゥルファンは肩をすくめた。

 「俺は、実はこの国の人間じゃないから、関係ないんだがな…」

 「…どこの国ですか!?」

 いきなり、食いつくような強い調子で和泉が尋ねた。トゥルファンはびっくりした様子で、不思議そうに和泉を見た。ロゼッタやロズウェルも、呆気にとられた表情だ。

 「ベテルギウス公国だが…何か?」

 「さっきから聞こうと思ってたんですが…その刀は、故郷から持ってきたのですか?」

 トゥルファンの腰の鞘に納めてある日本刀…に類似した剣に目をやり、和泉が質問を続ける。

 「いや…こいつは、数年前にアンティークショップで見つけたやつだ。異国風の感じが一目見て気に入ってね。鍛えればまだ充分切れそうだったし、実際この通り、ずっと愛用している」

 言いながらトゥルファンはすらりと刀を抜き、テーブルの上に置いてくれた。和泉が食い入るような視線を注ぐ。間近で良く見るといよいよ…いや、まるきり日本刀にしか見えなかった。柄の部分は細い紐のようなもので緻密に編みこまれ、目釘の上には、鳳凰らしきものをかたどった細かい金細工のようなものが取付けられていた。鍔には螺鈿細工らしきものが施してある。銘も打ってあるようだったが、何だかミミズの這ったような文字で、日本語かどうかすら分からない。専門的な知識のない和泉には、それが日本の刀匠によるものなのかどうか、知る術はなかった。

 「そうですか…いや、この形状が、私の故郷の国で昔使われていたものに、よく似ているので…」

 「そうだったのか。どこの国のモノかはちょっと聞いてないんだがな。あんたの故郷はレグルスじゃなかったのか。どこなんだ?」

 「えっと…日本って国なんですけど」

 異世界がどうとか言えば話がややこしくなるのは分かっていたので、国だけ答えることにした。下手なことを口走れば、またロゼッタに怒られてしまいそうだ。現に、先ほどからロゼッタは煙草を咥えたまま、牽制するように冷ややかに和泉の方を見ている。

 「聞いたことのない国だな…」

 …そりゃ、そうだろうね。

 「ええ、まあ地方の島国なんで」

 嘘は、言ってない。

 結局、その刀の出所は分からないまま、ということのようだ。もし本当に日本刀なら、この世界のどこかに、和泉と同じ世界から来た人物がいる期待がもてたのだが。

 「あなたは、武器をお持ちではないのですか?」

 ロゼッタが、ロズウェルの方を見て尋ねた。確かにロズウェルは、例の雨傘を手にしているだけで、丸腰のように見えた。しかし、丸腰で皇帝の護衛が務まるほど、甘い世界であるとは到底思えない。格闘技の心得でもあれば、話は別かも知れないが。

 問いに対し、ロズウェルは黙ったまま、にこやかな笑顔で濃紺色の雨傘を取り上げた。

 「棍棒の代わり、とかですか?」

 和泉の問いにも答えず、ロズウェルは今度は傘の先端部を持ち上げ、和泉たちの方へ向けて見せた。

 「…!」

 それを見て、二人は同時に目を見張って息をのんだ。傘の先端部は筒状になっていて、拳銃の銃口とよく似た形状をしていたのだった。

 「仕込み銃か…!」

 ロゼッタが思わず身を乗り出し、まじまじと観察している。和泉もようやく納得出来た。先ほどこれを背中に押し付けてきたのは、はったりではなかったのだ。

 「いや、国の法律で銃火器は規制されてるからね。実はボウガンなんだよ。状況次第で、毒矢を仕込んだりも出来る」

 ライフルで狙うような姿勢で仕込み傘を構えながら、ロズウェルが言う。

 「最初のうちは、武器を持たないように思わせるはったりも通用したんだけどね…。最近はみんな分かってるみたいだから、ひっかかってくれなくてさ」

 肩をすくめて話す様子に、和泉たちはくすりと笑った。

 「それはそうと、今回、このクーデターに俺達を誘おうと思った理由は何ですか?」

出してもらった灰皿で、短くなった煙草を揉み消しながら、ロゼッタが尋ねた。

 「どちらかと言えば、革命と言ってほしいな。俺達がこの国を支配しようと思っているわけではないんだ。今の皇帝の圧政さえなくなればいいと思ってるからな」

 同様に煙草の火を消し、トゥルファンが話し始めた。

 「特に深い理由はないさ。たまたま会って、目的がほとんど同じだったというだけの話だ。危険な替え玉の役を引き受けるほどの度胸があるなら、充分に使えるだろうしな」

 早くも次の煙草を口に咥え、火は付けずに言葉を続ける。

 「それに気になったのは、…ロゼッタくんだったな。あんたの反応の早さだ。あの状況で俺が背後をとって、睨み合いの状態に持ち込まれるとは、正直思わなかった」

 ロゼッタはちょっと笑った。

 「ご自分で思ってるより、殺気立っていたみたいですよ。まあ警邏中のあなた方にしてみたら、俺達はただの不審者でしたからね」

 和泉は隣で黙って話を聞きながら、そんなロゼッタを見ていた。そう言えば、ほとんど自分と歳も変わらないのに、すごいんだよな…こいつは。銃器の知識と扱いにかけてはプロ並で、狙った標的をまず外すことはない。一瞬にして行われる正確な判断と行動。身のこなしから見て、反射神経や運動神経もおそらく半端ではないのだろう。バーゼルの会社で働く以前は、一体何をしていたのだろうか。

 和泉が自分の過去、すなわち異世界の日本にいた頃の話をしようとすると、ロゼッタは頭から信じてくれなくて、そこでいつも話題が途切れていた。当然、ロゼッタの方の昔話を聞く機会もないまま、現在に至っているのである。

 よく考えてみると…とさらに和泉は考える。この場にいる四人の中で、最も役に立たなそうなのは、明らかに自分なのではないだろうか。当然のようだが、これまで日本でごく普通に学生をやっていただけの和泉に、武器を手に戦った経験など皆無だった。いくらか不安にはなったが、少なくとも替え玉を引き受けた度胸は認められているようだし、何かしら出来ることはあるはずだ…と、和泉は自分に言い聞かせることにした。

 「…で、これから一体どうするかだが」

 火の点いていない煙草を咥えたまま、トゥルファンが話し始めた。

 「もうだいぶ遅い時間だ。あと数時間もすれば、明るくなってくる。少し、寝ておいた方がいいだろう」

 「俺も…実は眠いんだ。詳しい計画は明日たてないか?」

 ロズウェルが大きなあくびをしながらうなずいた。投獄中にいくらかでも仮眠をとった和泉はともかく、長距離ドライブをしてきたロゼッタにもいくらかの疲労があった。

 「以前、他の仲間が使ってた部屋があるから、そこで休んでくれないかな」

 ロズウェルが立ち上がり、奥の扉に手をかけて和泉達の方を見た。

 「分かりました。じゃあ、少し寝かせてもらいますよ」

 二人は立ち上がり、ロズウェルに案内されて家の奥へ入って行った。


 その頃、レグルス王国で待機していたバーゼルもまだ就寝せず、仕事の書類に目を通していた。正確に表現するとすれば、眠りにつくことが出来ない状態だった。

 表向き快くロゼッタを送り出したものの、その内心は不安にかられていた。ロゼッタまで捕まってしまったら…とか、和泉が何らかの危害を加えられ、もしくは殺害されたら…など、脳裏に浮かぶのは最悪の事態の可能性ばかりだった。

 …本当に、不安なときは悪い方向にばかり考えてしまうんだな…。

 先ほど盗み聞きしていたロゼッタの言葉を思い出し、バーゼルは自嘲気味に笑う。他に誰がいるわけでもないのに何だか決まりが悪く、やや大袈裟な仕草で髪を掻きむしった。

 ロレーヌの方は、ロゼッタに言われた言葉を守り、寝室で先ほどようやく眠りについたところだった。翌朝、自分の方が憔悴した顔を見せることになってしまうことだけは避けたかった。

 …バカだな、そんなにあの二人が信用出来ないのか?

 心の中で、バーゼルは自問した。

 電話で聞いた和泉の声は、敵に捕らわれた状態なのにもかかわらず、かなり冷静な様子だった。聞いた話から察するに、何らかの情報を引き出さない限り、すぐに彼女に手がかかることもなさそうである。ちょっと脅されたくらいで、容易に口を割るような根性なしにも思えない。

 ロゼッタの方にしても、射撃の腕をはじめとする身体能力や様々な状況における判断能力に、何も不安材料はないはずだった。むしろ彼女を雇い入れてからというもの、多岐にわたる場面において何度となく助けられている。考えようによっては、バーゼル自身がアルデバランに出向くよりも、頼りになるかも知れないくらいなのだ。

 では、いったい何が不安だというのか。

 バーゼルは厳しい表情のまま、机のパソコンのキーボードに何やら文字を打ち込んだ。インターネットにつながった状態のディスプレイに現れる文字を、無言のまま目で追ってゆく。そこは限られた情報ではあるが、アルデバラン帝国の内情が漏洩している掲示板サイトだった。

 皇帝の交代があってからというもの、この国の方針は大きく変わっていった。そこまではバーゼルも知っている事実である。そしてこのページではさらに、それは皇帝ひとりの裁量によるものではなく、他の何者かが指示のようなものをを出しているらしい、というような意味の一文がアップロードされていた。

 バーゼルはそれを見ながら椅子の背もたれに身体を沈め、腕組みをして考え込む。先ほど和泉から聞いた話と併せて考えてみると、その他の誰かとは、皇帝の妹であると考えるのが妥当な感じがした。

 …まさか、ロレーヌ姫と同じ歳だというその妹が、陰の黒幕だというのか…?

 もしその仮定が事実なら、判断力に乏しいと思われる若い娘の思うままに、一国が動いていることになる。実際、外見の美醜を理由とした拉致が、正式に指示されて行われてしまっているのだ。

 一般常識の通用する相手ではないのかも知れない…。

 不安にかられ、思わずバーゼルは携帯電話を握り締めた。注意を喚起するために和泉に電話をかけようとして、何とか思いとどまる。下手なタイミングで連絡を取ることによって、和泉の立場がかえって悪くなる可能性があることに気付いたのだ。

 …ダメだ。和泉くんの方から連絡が来るまで、待っていた方がいい。

 静かに自分を鎮めると、バーゼルは携帯電話を机の隅に置いた。しかし、理屈ではない漠然とした不安を、どうしても胸中から払拭することが出来ない。

 机の上には、他の仕事を依頼する手紙が何通か置いてあった。いつもならば、和泉やロゼッタと仕事を分担し、数件の仕事を同時進行でこなしていた。しかし、現在のバーゼルにあまりそのような余裕はなかった。

 とはいえ、まだしばらくは睡魔がやってくる雰囲気もない。バーゼルは半ば無意識に、依頼の手紙に目を通し始めていた。やや大きめの封書を開封して逆さに振ると、中から一枚の便箋とともに、色とりどりの千代紙がばらばらと落ちてきた。

 「…千羽鶴を折って欲しい…?」

 小声で便箋の内容を読み上げ、いぶかしげに首をひねる。何かの願かけをしたいところだが、自分で折る時間がなく、丸投げする相手を探した…といったところだろうか。

 …こういうのって、自分で折らないと意味がないんじゃないかな…。

 しかし外見的な体裁だけをつくろう場合もあるのだろうし、何らかの事情があるのかもしれない。いずれにせよ、何でもすると公言しているこの商売なのだ。バーゼルは気を取り直して千代紙を一枚手に取り、折鶴を折り始めた。

 いざ始めてみると、何も考えずに出来るこの単純作業は、そわそわ落着かない気分をだいぶ紛らせてくれた。後はただ眠気が訪れるまで、折り続けていれば良いのだ。

 …もし、千羽の折鶴を折ることで、本当に願い事が叶うのなら。

 黙々と指先を動かしながら、バーゼルはふと考える。子供でもあるまいし、本気でそんなことを信じていたわけではない。しかし、子供の遊びのようなこの作業を漫然と続けていると、不思議と何らかの効力があるのではないか…などという思いが頭をかすめるようになっていた。半徹夜の状態で、精神的にいくらかハイになりつつあるのかも知れない。

 そんな自分自身が可笑しくなり、バーゼルはくすりと笑ってしまった。しかし、せっかく労力をかけてこんなことをしているわけだし、たまには神頼みをしてみるのも一興であるような気がしてきた。

 バーゼルは背筋を伸ばし、新たに一枚の千代紙を手に取った。

 …願わくば、我が社の社員二人が、何事もなく無事に帰社せんことを…。

 パソコンのディスプレイでは、画面を動き回るスクリーンセーバーのオブジェが、そんなバーゼルを見守るかのように、ふらふらと無作為に形を変え続けていた。


 「和泉…起きろよ。おい、和泉!」

 「…う…ん…?」

 毛布の上からひとしきり揺すられ、和泉はようやく目を醒ました。昨夜案内された部屋で、思ったよりぐっすり眠りこんだようだ。

 既に夜は明けていて、明かりを点けずとも室内は明るかった。和泉が目をこすりながら半身を起こすと、隣のベッドで休んでいたロゼッタがそばに腰掛けていた。

 「あ…おはよう、ロゼッタ」

 「何か…様子がおかしくないか?」

 ロゼッタがやや緊張した面持ちで小声で言う。言われて耳をすませてみると、玄関の方向から、何か言い合うような強い調子の声がかすかに聞こえてきた。

 「まさか…あの二人がケンカしてるのかな?」

 「分からないけど…ここから動かない方が…いいのかな??」

 和泉はとりあえずベッドから出て、洗面台で顔を洗った。冷たい水が、まだいくらか残っていた眠気を流し去ってくれた。ロゼッタの方は既にきちんと服まで着込んでおり、やや不安げな表情でホルスターの拳銃を弄んでいる。

 和泉が顔を拭き、上着を羽織ったところで、部屋の扉がノックされる音が響いた。

 「はい?」

 二人で返事すると同時に扉が開き、ロズウェルの顔が覗いた。

 「あ、おはようございます」

 「それどころじゃないんだ!」

 低く、強い調子で和泉の挨拶が遮られた。

 「虹野くんの脱走が…城にバレた」

 「早いですね…番兵もいたしな」

 ロゼッタが唇を噛む。ロズウェルは厳しい表情で言葉を続けた。

 「敷地の外に出た形跡が無いから、皇宮の全ての部屋が捜索されてるらしいんだ。ここにも兵士が来ていて、今トゥルファンが足止めしている」

 先ほどから向こうで言い争う声は、それだったようだ。和泉は尋ねた。

 「我々は、どうしますか?」

 「とりあえずこの部屋でじっとしていて、見付からないようにして欲しいんだ。俺達で、何とか乗り切ってみる」

 「…わかりました。お願いします」

 和泉たちの返事を聞くと、ロズウェルは雨傘を握りしめ、早足で玄関へと向かった。


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