商人(1)
「くそがっ…嵌められたか…」
決して見晴らしの良くない森の中を走る一人の男。時折ぶつかりそうになりながらも見事に木々をかわしながら、景色は後ろへと流れていく。決して運動能力に秀でていそうな見た目ではないその細身長身の男は、仕立ての良い服を傷つけながらも、かなりの速度で森を走り抜けていた。グレン・マーチャンダイズ。彼は新進気鋭の商人である。
「まずいですね・・・もう加速術式用の魔力が尽きかけてます。」
男の速度の秘密はその胸にかけられたペンダントにあった。ペンダントには加速の魔法が一定量の魔力とともに込められており、使い切りではあるが一時的に使用者の歩行速度を加速させてくれる、という代物である。教会によって排斥されている魔術であるが、本質的には教会の使用する奇跡と違いはない。それなりに聡い商人や立場のある人間であれば、いくらかの寄付と引き換えに、あるいは秘密裏に、非常用の備えを持っていることは珍しくなかった。
焦りを滲ませる男の背後からは、猛々しい獣の唸り声が迫っている。どうやら男はこの声の主から逃走しているようであった。
「せめて、森を抜けて街道にたどり着ければ良いのですが・・・」
息を切らしながら走り続ける男の正面に、ついに光が差し込み、森の切れ目が顔をだした。と、その瞬間、男は体に突如重量を感じその態勢を崩してしまう。男はそのまま転がるように森の出口へとその身を突っ込むことになった。
「があああ、ここで魔力切れかっ!!」
男の目の前には整備された街道が。普通、それなりの街道には教会の講じた魔物除けの奇跡が埋め込まれている。あそこまでたどり着ければ男は何とか命を拾えるはずであった。しかし、既にペンダントの魔力を切らし、地面に転がった男の視界は迫る3匹の狼の姿をとらえていた。
「万事休すか、糞。私はこんなところで死ぬわけには・・・」
誰か、悪魔でもなんでも良いから、助けてくれ!
そう、男が考えたその瞬間。三匹の狼たちは一瞬にして萎れていき、まるで肉体が形を保てなくなったかのように、砂と消えていく。
「ウフフ・・・そうね、悪魔ではないけれど・・・魔女のたすけなんてのはいかがかしら?」
そこには全身に黒いローブを纏った黒髪の幼い少女の姿があった。
…
「魔女…ですか?」
目の前で突如として息絶えた狼と、さらにそれを成し遂げたのが恐らくは年端も行かない少女なのだという事実に、一瞬戸惑いを覚えたグレンであったが、すぐに気を取り戻して問いかけた。
「ええ、その通り。私は魔女よ…見たところ魔物に追われていたようだけど、余計な真似をしたかしら?今から教会にでも駆け込んで私のことを報告してみるつもり?」
すっと目を細めながら笑いかけるリリス。グレンは平静を装って返した。
「そんなまさか…いえ、助かりました。あなたがいなければ私はそのまま殺されていたでしょうから。改めてありがとうございました。」
そういって、すっと手を差し出したグレン。その態度にリリスは少し驚きを見せたがすぐに踵を返し街道へと身を向け言った。
「そう、それなら良かったわ…それじゃあ、私はこれで…」
しかし、言い終わる前にグレンが食い気味に返した。
「すみません、ちょっと待っていただけますか…?助けていただいたついでに、お願い事を…いえ、取引ができないでしょうか?」
その言葉に、場を離れようとしていたリリスの足が止まった。
「ウフフ………取引……?」
駄目でしょうか?とグレンが返すより早くリリスが返した。
「あははは、何それ。面白いのね、あなた。自分から魔女に取引を持ちかけようというの?とりあえず面白いから聞いてあげるわ。何が望みかしら?」
その返答にグレンはほっとしたような顔を見せた。
「ありがとうございます。実は私には、とある大きな商売の計画があるのです。これが成功すれば、今までにないほどの利益が…いえ、利益だけではありません。最終的には経済の仕組みそのものを根底から変えかねないほどの取引になるのです。」
一転グレンは表情を真剣なモノへと変えてつづけた。
「しかし、その商売は私のような信用がない駆け出しの商人が一人で行うことは難しい種類のモノでした。そこで、とある貿易商に取引を持ちかけたのですが…見ての通り裏切られてしまったようです。」
苦笑いを浮かべるグレン。
「この取引がもたらす利益は非常に大きい。あの貿易商がどこまで可能性に気が付いているかは定かではありませんが、少なくとも私を殺し損ねたことに気が付いたなら即座に殺しに来るでしょう。ですから、私があなたにお願いしたいのは、その取引が完了するまでの私の護衛です。」
並みの護衛では、大商人からの刺客を処理できるとは思えない。また、有名な護衛を雇うには信用も金も足りない。残された可能性はリリスだけなのだ、と告げ、リリスの反応を待つように、グレンはそこで一度言葉を切った。
「なるほど。私がそれを受けるかどうかはまだ決めかねているのだけど…ちなみにその取引がどういうものなのか、私に教えてくれるつもりはあるのかしら?」
いたずらな微笑みを向けたリリスにグレンは少し顔をほころばせながら口を開いた。
「ええ、それはかまいません。いずれにせよあなたに断られれば、おそらく私に未来はありませんからね。私が、始めようと思っている新しい商売、それを私はーーー」
ーーー株式投資、と呼ぼうと思っています。




