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さる聖女の後悔と信仰の対価(8)

「何か…大切な事を忘れている…そんな気がするんだ…」


 日がすっかりと落ちた夜の路地裏。一人の男がふらふらと、おぼつかない足取りで歩いている。男は頭を抱えており、どうやら強い頭痛に苛まれているのであろうか、時折壁に持たれかかり、溜息をついては再び歩き出す、といった様子であった。よほど体調が悪いのか、どうやら自身が見通しの悪い路地裏に入り込んでいることにすら気が付かず、心ここにあらず、といった風である。


「あら、お兄さん…こんなところを一人で歩いていると、危ないわ…くすくす」


 そんな男に、一体どこから現れたのか、突然一人の少女が声をかけた。少女は、まだ幼く、しかし全身を黒で統一したそのいでたちは、どこか不吉なモノを感じさせた。


「え?あれ、そうか…いつの間にか路地裏に入り込んでしまったのか…」


 男は、そういうと、改めて状況の奇妙さに気が付き、少女へと尋ねた。


「いや、ちょっと待ってくれ、君のような女の子こそこんなところを歩いてたら、良くないな…どうしてこんなところに?」


 それを聞くと少女はフフフ、と笑うと男へ言葉を返した。


「くすくす、だって、知ってるお兄さんがふらふらと路地裏に迷い込んで行くから、気になっちゃって…ごめんなさい」


 それを聞いた男はばつの悪そうな顔になった後、驚いたような表情を見せた。


「あ、僕のせいだったのか…ごめんよ―――って、知ってるお兄さん、って、僕の事かい?あいにく僕には君の、ああ、というか昔の記憶が全然ないんだけど…」


 男がそう返すと、少女は微笑み、その勘違いを訂正した。


「ああ、違うのよ。直接の知り合いじゃないわ。サナ、知ってるでしょ?私は彼女の友達だから、彼女からあなたについて聞いたことがあったの」


 それを聞いた男は、なるほど、と頷くと、少女へ諭すように声をかけた。


「そっか、ああ、でも彼女の知り合いなら猶更こんなところにいちゃ駄目だ、一緒に表通り間で出ようか」


 男がそういうと、少女は顔をほころばせ、男の手をとった。


「ウフフ、お兄さん優しいのね?それじゃあ、エスコートをお願いしようかしら?」


 その少女らしからぬ態度に戸惑ったのか、男は苦笑いをしながら言葉を紡いだ。


「あはは、まいったね、君は随分大人びた子なんだね…分かったよ、少しの間だけど、エスコートさせてください、お嬢様。」


そうしてまもなく二人は表通りへと出ることができた。別れ際になり、少女は男へと振り返ると、男に声をかけた。


「うふふ、ありがとう、素敵なお兄さん。エスコートのお礼に、私からプレゼントがあるの。少しかがんで下さらない?」


 そういって微笑んだ少女に、特に警戒心を抱くこともなく、男は言われたとおりに腰を曲げる。すると、少女は男に、近づき不意打ち気味にその額へと唇をこぼしたのだ。


 突然のことに驚き目をぱちくりとさせる男に向けて少女は、動じた様子もなく、言葉をつづける。


「ウフフ、これは私からのお礼よ、ただのキスじゃなくて、魔法のキス。きっと、あなたに素敵な事があるわ…あ、でもサナには内緒よ?」


 そういって少女は、男が何かを言う前にどこかへかけていってしまった。その場に取り残されたのは一人の男。男はそれからしばらくその場を動けず、まるで、先ほどの出来事に惚けているかのようであった。


 しかし、実のところ、男は突然のキスに惚けている訳ではなかった。いや、原因は間違いなくそのキスであるのだが、男がその場を動けずにいる理由は違った。


「思い…だした…違う…そう…僕は…俺は…」


 男は体を抱えて、がくがくと震えだすと、次にひときわ大きく絶叫した。そこは、大通り、夜とはいえ、まだ人通りもそれなりにある路地。しかし、男にそれを気遣う余裕はなかった。


「ああああああああああああ!!!」


 一体、何事かと辺りの家からも人々が顔を出す。人々がその、往来の真ん中で絶叫する男を、遠巻きに見つめていると、やがて男はふっ、と糸が切れるように意識を失い、その場に倒れこむ。そうして、ようやく人々は恐る恐る男へと近寄り、そして彼は、聖女のいる教会へと運び込まれたのだった。


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