商人(6)
とある屋敷の一室。豪奢な家具に囲まれながら男は、たっぷりと脂肪を蓄えたその見た目にはそぐわず、部屋の中をうろうろと行き来していた。
「何故だ…何故まだ刺客からの連絡が来ないのだ…まさか?仕留めそこなったのか?」
男の名はマルカ、港町ポルトゥスに商会を構えるやりての貿易商である。彼こそがまさにグレンを裏切った貿易商であった。
「たとえ仕留めそこなったとて、やつは伝手もロクにない若造。また刺客を送れば良いのだが、刺客から連絡がないことが気がかりだな…」
報告は全ての基本である。やり手の商人であるマルカそのことを重々承知していた。常日頃から、部下には情報をもれなく伝えるように指導していたし、それは刺客に仕事を頼むときも同じであった。
「あの若造に護衛を雇える金があるとは思えんが、まさか返り討ちにあったか…?」
だとすると危険である。マルカが雇ったのは「普通の」刺客ではない。魔物や魔術を扱う御業については教会が禁止している一方、裏の世界ではそういった技術を利用して表沙汰にできない仕事をこなす人々もまたいる。マルカはそういった特殊な力を持つ強力な刺客に対して仕事を依頼したのだ。ただ一人の駆け出し商人に対して送る戦力としては過剰なようにも思える。しかし、マルカはその「若造」に対して何か底知れぬものを感じていたのだ。あるいは、その直観こそ、マルカが優れた商人であることの証左であったのかもしれない。
「どうする。さらに金を積んでより上等な刺客に調査をさせるか?金についてはこれから唸るほど転がり込んでくることになるのだからな。まあ良い、今日は一旦寝ることに…」
そう言ってベッドへと向かおうとした彼はふと奇妙な違和感に気が付いた。
「なんだ…?何かがおかしい」
違和感の正体は音であった。彼の部屋にはからくり時計がおいてある。東方から仕入れたそのからくり時計は、ぶら下がるおもりの重量によって時を刻む装置であり、一定間隔で刻まれるカチ、カチという音はいつも彼が眠りにつくときに聞いていたものであった。しかし、今はその音は聞こえず、どうやら時計はとまってしまっているようであった。
「はて、おもりを引き上げ忘れたか・・・?」
確かにその仕組み上、一定期間ごとにおもりを元の位置に戻さなければ止まってしまう装置ではあるのだが、彼の記憶が正しければ、おもりのついた糸が伸びきるまでにはまだかなり時間があったはずであった。
彼がおもりを確かめようと時計へと近づいていくと、彼の耳に窓をうつ細かな音が聞こえ始めた。どうやら雨が降り始めたらしい。
「雨は嫌いなんだがね」
そうぼやいたマルカ。彼がその昔駆け出しの貿易商だったころ、天候の急変で彼の乗っていた船が転覆しかけたことがある。それ以来、雨に苦手意識のある彼であった。しかし、無情にも雨は、どんどんと勢いを増していくようで、窓をたたく雨音はその激しさをましていく。彼が時計のおもりを確かめると、おもりの位置には特に問題は見受けられなかった。そのため、彼は時計が壊れてしまったのだと判断した。なんとも間の悪いことだ。
「こまったな、これでは今晩は眠れないかもしれない。」
しかし、致し方あるまい。悪いこと、というのは続くものである。こんな時は強引にでも寝てしまうに限る。そう思った彼がベッドへと戻ろうと体を翻し、そしてたまたまベッド際の窓を見たその瞬間―――それと目があった。
眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼
眼眼眼眼眼…
窓をコツコツとたたいていたのは雨などではなかった。途中から激しさをましたその音は、いくつもの眼球が窓にぶつかりつづける音だったのだ。そのうちいくつかは窓にぶつかった衝撃でひしゃげ、つぶれ、得体のしれない液体をまき散らしながら窓を滑り落ちていく。
「うぁ?あ…あ…」
悲鳴を上げようとしたのだろうか?頭が状況を理解できず、その声は声として形作られることはなかった。そのおぞましくも冒涜的な光景を見つめた脳が理解を拒んでいる。しかし、目の前のやまない雨が少しずつ、そう、それはまるで地面に雨がしみこむように、マルカの脳にじわじわと、恐怖を浸透させていく。
「ああ!窓に!窓に!」
ついに何かを理解し発狂したマルカは、絶叫しながら、窓から離れるようにもつれる足で後ずさりをしたが、転んでしまう。受け身も取れずしたたかに頭を床に打ち付けた彼の頭からは血が滴った。すると、恐ろしいことに、彼の流した血が次から次へと部屋へと吸い込まれていったのだ。
「ひぃぃ!ああああああ」
もはや意味をなさない鳴き声を上げたマルカは気が付いてしまう。ココは彼の自室等ではない。転んだ拍子に手で触れた床は体温を持っており、また、生々しいその感触はまるで、ひき肉に触れているような…
そう、彼の自室、その表面を覆いつくすように、なにかの生きた肉片がうごめいている。彼の部屋の調度品も、床も、壁も、窓も、何もかもをそのおぞましい生きた肉塊が覆い、そして、あたかも彼の部屋であるかのように擬態していたのだ。そして今、床は彼の流した血を、脈動しながらすすっているのだ!!!その身の毛もよだつ事実に気が付いてしまったマルカは辺りに転がっていた彼の万年筆をつかむと迷いなく自らの喉に突き立てた。
「あがっごぼっご…ごぼっ」
本来つながることのない気道と食堂とがつながり、身震いするような濁音を響かせる。しかし、それでも彼はその腕を止めず、ひたすら彼の喉へと繰り返し、繰り返し、万年筆を突き立てつづけた。狂ったように笑いながら。
やがて、彼がその腕を止めたとき、そこは果たして元の彼の自室であった。辺りにうごめいていた不快な肉塊はもうない。そこにあったのは、一人の男の死体。男は自らの喉を万年筆でえぐり、命を絶っていた。ふと、死体のすぐ横を人間大の影がよぎる。そこには、一体どこから入ってきたのか一人の少女の姿があった。
「ウフフ、お招きいただきありがとう。ご馳走様、港町のディナーはなかなかのお味でしたわ」
そう言うと少女は、一枚の手紙を彼のそばに置き、一瞬のうちにその姿をくらました。




