#1 「幸せ」
◆
――私の人生は、順風満帆とは言えずとも確かに幸せだった。
お父さんとお母さん、私、そして妹の四人家族で、経済的には貧乏でも笑顔がそこにあった。
学校に通って、友達と会話して、家に帰ったら家事をお母さんと一緒にこなして。
お風呂上り、髪をふきふき疲れたと漏らすお父さんと、もの静かに宿題をこなす妹がいるリビングへ夕食を運ぶ。
一斉に感謝の「いただきます」、宵になっての「おやすみなさい」。
家族川の字で布団を被る夜は、明日への安心感を枕に眠っていた。
どうしてだろう?
互いに困ったら手を差し伸べあって、どんなときでも笑顔が絶えなかった、そんな生活が歪んでしまったのは。
――怒号。衝撃。
お腹を襲う鈍い痛みを堪えながら、頭から降り注ぐ理不尽な声に耐える。
怯える妹を後ろ手に守りながら、きっ、と怒号の主の目を見据える。
変わり果てた父の目。
将来の見えない不安と、上手くいかないもどかしさ――そして、お母さんが遠くに行ってしまった寂しさ。
そんなものがないまぜになったような、臆病な目。
多分、今日も仕事で悪いことがあったのだろう。
怒りの向かう矛先を求めて、捉えてしまった家に居る弱い私達の存在。格好の標的。
父の気持ちは、想像できる。
私が怪我することや、物が散乱し破壊されることは、仕方ないと思える。
でも、妹の笑顔が失われるようなことだけは、いけない。
だから、張りつめてしまう表情を必死に動かし、「笑顔」を浮かべる。
私に害は無くて、責める気持ちなんてなくて、味方になりたいんだよと伝えるような、そんな「笑顔」。
「――っ、――」
唾を吐き捨てて、乱暴な足取りで寝床へと去っていく父。
全身の力がふっと抜けて、床に倒れこみそうになるのを堪える。
「おねぇちゃん……ごめんね、おねぇちゃん!」
「――大丈夫。うん、もう大丈夫だからね」
抱きついてくる妹の、さらさらとした短い髪をおもむろに撫でていく。
家族で団らんとしていた時も、今も、私の心の支えとなっているのは妹だった。
お月様のような、安らぎを与えてくれる笑顔を見るたびに、頑張れる気がするんだ。
「だから、ほら、……笑って」
泣き疲れた顔に、きょとんとする変化を経て――ささやかな微笑みを浮かべてくれた。
この表情が見られるだけで、私は、幸せだから。
「――大好きだよ、珠麗」
◇
そうだ。
頭をひねりにひねって、最後に思い出せるのは、その記憶。
だからこそ、今の状況が理解できない。
正面に見えるのは、上部に横長の窓が付いた藍色の扉。
後は、上も、下も、右も左も、灰色の壁。
(何がどうして、こんな場所に……)
心当たりはまるで無い。見渡す限りの殺風景。
ならば動いてみるしかないと、床に手を付いて立ち上がろうとして――、
突然視界にざわりと砂嵐が走り、気づけば倒れていた後だった。
横向きに倒れたまま、茫然と何が起こったのかわからず数秒。
じんわりとこめかみ付近が痛くなってくるのを感じながら、左手を目の前に持ってくる。
そして、ぐーぱーぐーぱーと、手を閉じたり開いたりしてみる。
(腕……というか全身? 信じられないほど重い……力がびっくりするほど入らない……)
動かせないわけではないけど、立ち上がろうとして貧血じみた感じになるくらいには弱っている。
「……うっ、え? うぉ」
うっそ、と呟こうとした矢先、手を口に触れて困惑する。
発音が上手くいかない。
どうして、どうして、どうして。
頭の中はそのひらがな四文字でいっぱいになっていた。
ここは何処なのか、私はどうなってしまったのか。――妹は、無事なのだろうか。
あの子は優しい。同時に、凄く頼り下手なところがある。
私がいなきゃ。父だけでは、いや、まさか一人なのだとしたら心配だ。
もしここが、想像する限りの最悪な場所であったとしても、妹の無事だけは、確かなものにしないと――。
思考する最中、足音が聞こえた。
力強く、確かに近づいてくるそれは、去って欲しいという願いも叶わず、扉の前で止まった。
そして、ついにがちゃりと扉は開き、足音は私の近くまで来た。
「――――」
目を緩く閉じ続け、必死に呼吸を安定させ、体を動かさないように努める。
今の私に抵抗できる術はない。なら、あえて無防備を晒したほうが事を大きく荒立てずに済むんじゃないかという素人対策。
「――私は、ジール・アグライアという者だ。友好的な話を、したいと思っている」
温和な声。
友好的に、話を? でも、まって。
この人が、私をこんな部屋に入れたんじゃないの?
だったら、信用するにはまだ早いのかもしれない。
「突然、このような環境に身を置かせてしまってすまん。しかし、如何ともしがたい事情を推し量ってもらえると助かる。貴方がどちらなのか、判別がつくまでは。……望みがあれば、配慮しよう。では――」
コトリ、と倒れる私の傍に何かが置かれた音。扉が閉まり、遠ざかる足音。
それが途絶えて、ようやく私は知らずのうちに止めてしまっていた息を吐く。
「ふぅぅぅー……」
――緊張した。
でも、緊張しすぎてあの人が何を言っているのか解らなかった。
ずるずると、あたかも今起きたかのような動きで重い体を起こし、"それ"を見る。
小さな銀色の容器になみなみと盛られた、橙と緑の具が入ったスープみたいなもの。
優しく甘い匂いが鼻を刺激していたから、なんとなくこれが「料理」なのだと判断できるけれど。
(食べても、大丈夫かな……?)
その容器を両手で抱え込むように持ち上げて、価値のありそうな壺を目利きする人のように眺めまわす。
(変なところは……無さそう。じゃあ、もう一度、匂いを――)
容器をほんの少し傾け、顔に近づけてみて――。
ぐるるるるるる。
狭い部屋の中で、奇怪な音が反響する。
何の音だ。どこから出た音だ。聞き覚えがある。……私の、腹の虫。
お腹を押さえ、さすってみる。
ぐるるる……ぐるるる……ぐるるるるる。
留まるところを知らず、定期的に鳴り続ける腹の虫。
仕方がない。だってこんなに、無性にお腹が空いているんだから。
そう意識した途端、数週間何も食べていないかのように強烈な飢餓感が襲ってきた。
手元のスープみたいなものがとてつもなく魅力的に感じる。
危険かもしれない。でも、でも――もしこのまま何日も、安全に食べられるものが見つからなかったとしたら?
見つかるわけがない。こんななんにもない部屋で。
つまり、このままこの料理を、これから与えられるかもしれない料理を拒めば、待っているのは死。
なら、勇気を出すべきか、出さざるべきか。
答えは、決まってる――。
◇
――結果から言うと。
とっても、極上に感じるくらい、美味しかった。
身に染みる、とはまさにこのこと。
このスープ一滴一滴が私の生命を形作っているようだ、とやたらずれた神秘的な感想を抱くくらいには。
『望みがあれば、配慮しよう』
満足してぼんやりとした意識の中で、ふとあの人が発していた気がする言葉を思い出した。
望み。
妹の無事、さらに求められるなら妹の元へ返してほしいというのが、私の切実な願いだけれど。
それが叶わないなら、当てつけに最高級の料理でも要求したっていいかもしれない――。
想像する未知のご馳走。
こんな人の気配も薄く、どう見ても暗い未来しか見えないこの場所で。
私は、ささやかな幸福を味わっていた。