第一章 温もり 2
「むむむ。ミントか、イチゴか…それともキャラメル?いやいや、オーソドックスなミルクも外せない」
いつものコンビニで由希子は新商品のチョコレートを手に唸る。甘いものが特別好きなわけではないのだが、チョコレートだけは別だった。
幼い頃、学校の勉強やお手伝いを頑張ると母がいつもチョコレートをくれた。
家を建てたばかりだったため、普段のおやつは節約家の母が作るクッキーだったり、パンの耳を揚げたお菓子だったりしたので、チョコレートは頑張った時の特別だった。
そんな事もあり、平日めいいっぱい仕事を頑張った自分へのご褒美として、金曜日の会社帰りに自宅近くのこのコンビニでチョコレートを買っているのだ。
「先週はこのキャラメルのやつにしたし、今日はこっちの季節限定イチゴ味がいいかな…。うーん迷う…」
ブツブツと呟きながら由希子がチョコレートを物色していると、ふとレジに立つ男性店員と目が合う。
身長が高く、スラっとした体型に柔らかそうな髪の毛、少し切れ長の柔和な目元。大学生くらいだろうか、由希子より五~六歳は若そうなその男性店員は、両手にチョコレートを持ってブツブツと真剣に悩む様子の由希子を微笑みながら見ていた。
(見られてた!恥ずかしすぎる!)
由希子は恥ずかしさのあまり、パッと視線をそらして持っていたチョコレートをカゴに入れた。
土日は特に外出する気もないのでそのほかに飲み物やパンなどの食料もカゴに入れると、足早にレジに向かった。
「千八百二十円です」
先ほどの男性店員が会計金額を告げると、由希子は千円札を二枚渡す。
「百八十円のお返しです」
男性店員はお釣りの金額を告げると、小銭を落とさないようになのか、差し出していた由希子の右手を両手で包み込むように渡してきた。
一瞬触れたその手に温かい、確かな体温を感じ、由希子はハッとして、思わず男性店員の顔を見る。
「ありがとうございました」
ふわっとした爽やかな笑顔を浮かべた店員に見送られながら、店を出た由希子は、ぼんやりと右手を眺めながら先ほど感じた手の温もりを思い出していた。
「人の体温なんて感じたの、いつ以来だろう…」
由希子はそう呟くと今出てきたばかりのコンビニを振り返り、ふふっと自嘲気味に笑う。
就職してから六年、脇目も振らずにひたすら仕事に没頭してきた。気が付くと由希子の周りには友人も恋人もいなくなり、会社での人間関係以外の世界はなくなっていった。
職場でプライベートな話をあまりしない由希子は、日常で話す会話と言えばほとんどが仕事のことで、人の温もりを感じることなどはほぼなかった。
それ故に、久しぶりに感じた人の温もりに、なんだか感動さえ覚えてしまった。一瞬の、それも指先が少し触れただけの事なのに…。
由希子はその日以来、会計時にわざと小銭のお釣りが出るようにお金を出し、お釣りを受け取る際に、ごく自然なふりをして店員の手に触れるようになった。お釣りを受け取るタイミングでそっと指先で触れ、何でもないような顔でお店を後にする。自分でもそんな行為はおかしいとは思っているのだが、あの日の指先の温もりがどうしても忘れられず、この行為を繰り返してしまう。
しばらくそんな事を繰り返しているうちに、いつでもあの感動が得られる訳ではないことに気づく。
温もりに小さな幸せを感じるのは金曜日の夜の、自宅近くのコンビニ。あの日の男性店員のみだった。
彼の名前は壱岐と言い、金曜日の夜に固定のシフトで勤務している様だった。
◆
大学四年生の壱岐は、就職も無事に内定をもらい、残り少ない学生生活を謳歌している。大学入学と共に東京に出て、初めての一人暮らし、その頃から続けているコンビニのアルバイトも、今ではだいぶ日数を減らし、金曜日の夜は固定で勤務しているが、その他は基本的に人が足りなければ入るという形を取っていた。
卒業後の身の振り方も決まり、卒論も順調に進んでいる、このまま行けば単位も問題なく取れて、無事に卒業できそうだった。
平々凡々だが、充実した学生生活。壱岐は今の生活をとても気に入っていた。
そんな壱岐がシフトを減らしつつある現在も金曜日の夜だけ固定でシフトに入っているのには訳がある。
毎週同じくらいの時間になると来店する女性の常連客だ。
いつもキチっとしたパンツスーツに身を包み、どことなく涼し気な大きな瞳に、黒いショートヘアがよく似合う女性。会社帰りと思われ、恐らくいくつか年上であろうその女性を、壱岐は最初こそ特に気にも留めていなかったのだが、ある日、ふとお菓子売り場にいた彼女に目を向けると、両手にチョコレートを持ちながら、唇を尖らせ、何やら真剣な様子でチョコレートを選んでいた。
その上、よくよく耳を澄ませてみると、『先週はこのキャラメルのやつにしたし、今日はこっちの季節限定イチゴ味がいいかな…。うーん迷う…』などと、心の声が漏れてしまっているような呟きをしながら、チョコレートを棚に戻したり、手に取ったりを繰り返していた。
その様子に思わず微笑んでいると、不意に目が合ってしまう。
女性は瞠目し、耳まで赤くなるとパッと目をそらし、その時両手に持っていたチョコレートをそのままカゴに入れ、お菓子売り場を後にする。
普段の姿はよく知らないが、店にいつも来る際の印象とのギャップに、つい目を奪われてしまった。
(堅い感じの印象だったけど、なんか可愛い人だな。)
そんな事をぼんやりと考えていると、先ほどのチョコレートのほか、ペットボトル飲料や、パンなどの食料品をカゴに入れた女性がレジにやって来た。
壱岐はお釣りを渡す際、客が小銭を落とさないように、差し出された手を両手で包み込むように渡していた。
いつもならなるべく手に触れないように配慮しているのだが、その日はなぜか指が彼女の手に触れてしまった。
柔らかく、ひんやりとしたその手に触れると、壱岐の胸はなぜか高鳴った。思わず顔を上げ、彼女の顔を見る。薄化粧の小さなその顔は透き通るような色白で、涼し気な大きな瞳は長い睫毛に縁どられ、一見すると愛らしい印象なのだが、引き結んだ薄い唇が全体的に凛とした印象を与えている。すると、次の瞬間、ハッと顔を上げた彼女と目が合う。
壱岐は動揺を隠すように微笑むと、
「ありがとうございました」
と、何事もなかったかのように挨拶をし、店を出ていく女性を見送った。
鼓動は、速くなったままだった。
その日以来、彼女の会計の際にはさりげなく自分がレジに立ち、気付かれないように、あくまでも自然に、そっとその手に触れた。たまに入るくらいだった金曜日の夜に、確実に彼女が来店することがわかってくると、レポートが忙しかろうが、試験前だろうが、何としてもシフトを入れるようにしていた。




