第一章 温もり 1
「佐野さん、先日の見積の件なんですが…」
「それなら既に修正してクラウドに上げてるから、部長に確認して先方に提出して」
キーボードで入力しながら、隣の席に座る女性社員に指示を出す。
「佐野くん、横浜の案件ってどうなったんだっけ?」
「メーカーの返事待ちになっています。その件についての資料を纏めたので、課長のフォルダに入れておきますね。後程ご確認お願いします」
そう話すと今出来たばかりの資料のデータを上司に送信する。
「佐野さん、三番にA社からお電話です」
「わかりました。ありがとう。田中さん、時間だから、そろそろ上がって下さいね」
勤務時間が過ぎているが、電話対応が忙しく、帰りづらそうにしていた同僚の女性社員に声をかけつつ、受話器に手をかける。
毎日朝から晩まで忙しく駆け回り、あれやこれやと動いて、上司に部下、同僚からも頼りにされ、由希子の仕事は充実していた。
二十八歳。大学を卒業して東京に出てきた。就職してから六年、がむしゃらに働き、気が付くと地元に残った友人達とは疎遠になり、遠距離恋愛だった恋人とは三年前に別れた。
お盆休みに帰省した時、既に新しい恋人――それも自分の友人と同棲している彼を見た。高校・大学と、長く付き合っていたし、最近連絡が減ったなとは思ってはいたが、将来もし誰かと一緒になるなら彼だと思っていたし、友人は一番仲が良いと思っていた人物だった。まあ、そう思っていたのは自分だけだったのだが。ショックで何も言えなかった。しばらく塞ぎ込んだが、幸せそうな二人の様子を聞き――ああ、もう彼の中では終わっていたのだな――と無理やり納得した。
地元の他の友人たちは、その事が気まずいのか、元々疎遠になりつつあった事も手伝って、ほぼ誘いも連絡もなくなった。
斯くして恋人と友人を一度に失くした由希子はそれ以降、自分を腫れものの様に扱う地元にはほぼ帰らず、新しい恋をすることもなく、ただひたすら仕事に打ち込んできた。その結果が今である。
仕事をしている時は充実感を感じていたが、一人住まいのマンションの部屋は物寂しさを感じていた。何かが欠けているような、よくわからない焦燥感の様なものが時折波の様に押し寄せてはまるで溺れているように息苦しくなる。
そんな感覚が嫌で、ますます由希子は仕事に没頭していった。
そんな由希子の唯一の楽しみは金曜日の会社帰りに自宅近くのコンビニでチョコレートを買うこと。
週末はそのチョコレートを少しずつ食べながら溜まった家事や、持ち帰った仕事をする。休日に約束してまで会うような友人はいない。必要最低限の買い物など以外は自宅に籠っていることが多かった。
「最近、仕事以外の会話っていつしたっけ?」
ふとそんな事を口にするが、その言葉は一人の部屋にむなしく消えていく。
由希子は溜息をつき、リビングの床にゴロッと横たわる。
仕事は充実しているし、会社の環境にも不満はない。でも代わり映えのない日々。なんだか満たされない。何が足りないのか、由希子にはわからなかった。ふと壁にかけてあるカレンダーに目をやる。
明日は金曜日。また週末がやってくるのだ。
「明日はなんのチョコ買おうかな…」
由希子は独り言ちると、さっさと寝てしまうことにして、寝支度の為にむくっと起き上がった。
◆
金曜日の終業後のフロアで由希子は一人パソコンに向かっていた。同僚たちは飲みに行く為だったり、家族や社外の友人、恋人などと過ごす為だったりと、足早に退社していった。由希子も同僚にたまには一緒に飲みにいかないかと誘われていたが、急な見積依頼と週明けの会議で使う資料の準備などが残っており、遠慮した。
とは言え、仕事がなくても由希子はそういった席には積極的に参加しない。
皆で飲んでいる時はそれなりに過ごせるのだが、帰宅すると、いつも以上に一人の部屋が冷たく、寂しく感じた。
「…これでよし、と」
カタカタとせわしなくキーボードを叩いていた手を止め、由希子は時計を見る。
「九時か。チョコレート買って帰ろうっと」
そう呟くと、手早く帰り支度を済ませ、退勤処理を行い、帰路についた。