3-20.出発
「いってきます、ラルドさん」
「はい、またいつか」
宿の主人のラルドは、いつもと変わらない凛とした出で立ちで、見送ってくれた。
ニコと揃って、宿を出る。外は、快晴だ。心地よい日差しを感じながら、私は、首筋を撫でる。
「今日は、蛇に噛まれる夢を見たんだよね」
「へえ」
「首筋が、ひりひりする気がするの。赤くなってない?」
ニコは、私の首を覗き込む。
「そのブレスレット、やっぱり、よく似合うね」
「ありがとう。……お守りなの、私にとっては」
「嬉しいよ」
以前買ってもらった、ブレスレット。結果的に私を救うことになった、ニコの魔力が含まれたそれを、私は欠かさずに身につけている。
「朝風呂かい? やだねえ、新婚さんは!」
「もう、そんなんじゃありませんよ」
「最後に、マーズさんの顔を見ておこうと思って」
宿から歩いて幾ばくもしないところにある、銭湯。女主人のマーズは、相変わらず、朝から下品で、元気が良い。
以前の私なら、困惑するか、眉をひそめるか、その両方だったのだけれど。今日は素直に笑って、流すことができた。
「ふう……」
湯に浸かり、温かな温度を、肩にかける。
最後なのだ、と、私はしみじみ考えた。
あれから、王都では、小さな変化が、たくさん起き始めた。
不毛の地だった王都の中に、小さな植物が、芽吹き始めた。
自然の雨が、降るようになった。
砂だらけだった土地が湿り、砂が、吹き荒れなくなった。
少しずつ、確実に、王都はかつての自然の豊かさを取り戻しつつある。
それを確認した時、私は王都を、離れることを決めたのだ。
ぽたり、と湯に汗が垂れ落ちる。
朝から汗をかくのは、これはこれで、大変に気持ち良い。
「……ちょっと! あんた! 最後まで、手のかかる子だね!」
「あぁ、ごめんなさい……」
勢いよく体が引き上げられ、涼しい脱衣所に移される。
放熱される心地よい感触を味わいながら、私はうっすら、目を開けた。
「マーズさんに、こうして呼ばれたくって、長湯しちゃった」
「はあ? 悪い冗談はよしなさいよ、もう!」
渡された布で体を拭い、着替えに腕を通す。ふらつく体を支えてもらいながら、出口まで向かう。
「何してるんだよ、イリス……」
「ごめんなさいね、ニコ」
ニコは、出会った時に着ていた、旅装束だ。私の体は、マーズの手から、ニコの手に渡される。
軽々と横抱きされ、私は、そのまま銭湯を出る。
「また来なさいよ!」
「はい」
踏みしめる地面は、砂というよりも、踏み固められた土だ。地面を軽く蹴り、ニコは、宙に浮かぶ。
同じように空を飛ぶ人影が、僅かではあるが、見られる。王都のあちら側から、こちら側に来ている魔導士の姿だ。
「いらっしゃいませ!」
「こんにちは、サラ」
サラは、私たちを見るなり、駆け寄ってくる。その深緑色のエプロンで、視界がいっぱいになった。
「イリスちゃん、本当に、もう会えないの?」
「また来るわ、いつか」
「絶対だからね。その頃には私、一人前の、料理人になってるから!」
サラはあれ以来、少しずつ魔法が上達しているという。
「楽しみにしてるよ」
「二人に……会えなくなるの、寂しいです」
ニコの優しい声かけに、サラが腕の力をなくす。脱力した腕から、私はそれとなく離れた。こうして触れられるのは、あまり得意ではない。
サラが運んでくれる食事は、今日もおいしい。
「これが食べられなくなるのは、本当に悲しいわ」
「おいしいもんね。……お弁当、買っていこうか」
「そうしたいわ」
ニコが、サラに二人分の弁当を注文する。私たちは、食事に舌鼓を打ちつつ、弁当の完成も待った。
「この後は、広場に行くの?」
「そのつもりだけど」
「あたしも行きたい! ちょっと、声かけてくるね」
会計を済ませたサラは、店の奥へ行き、戻ってくる。その手には、大きな袋。
「重そうだわ」
「そんなことないの。これ、魔法で軽く浮かせてるから!」
サラは、片手で袋を担ぎ、先んじて店を出た。
「最後に、空を飛びたいな」
「……わかった。やってみるよ」
サラの依頼に、ニコが頷く。
私たち三人の体が、ふわっと、浮き上がった。
「ああ、すごい……!」
「動かないでね。制御が難しくなるから」
瞳を輝かせて、サラが街を見下ろす。
「あたしも、飛べるようになるかな」
「できるわ。この感覚を、覚えておけば」
「うん……あ、あの辺、緑になってる」
上から見ると、王都の変貌は、一目瞭然だ。かつてはどこまでも黄土色だった世界が、今では、少しずつ、緑に変わってきている。
「ああ、待ってましたよ!」
広場に降り立つと、リックが駆け寄ってくる。
「ずいぶん、賑わったわね」
「ですよね! 隊長が取り仕切ってくれるんで、出店しやすくなったんです!」
広場に並ぶ屋台は、以前よりも格段に増えた。広場の一部に陣取り、足を豪快に組んで、焼いた肉にかぶりついている男性がいる。
「ゴードンさん」
「おう、お前ら。支度は済んだのか?」
「一応は」
口端についたタレを拳で拭い、ゴードンは歯を見せて笑う。
「それは良い。お前らを待ってる奴は、他にもいるだろうから」
「ゴードンさんは、ここを取りまとめてるんですね」
「おう。荒くれ者をまとめるのは、俺の専売特許なんでな」
砂出しの皆をまとめていたゴードンは、ここでも皆に慕われているらしい。サラが持ってきた果実水を受け取り、喉を鳴らして飲んでいる。
「おかげで、砂出しの連中も、路頭に迷わなくて済んでる。あいつらの魔法の腕なら、引く手数多なんだってよ」
「よかった」
「だろ? 行く前に、あいつに声をかけてやってくれ」
「あいつ?」
見回すと、視界の端で、きらっと丸い光が反射した。
「僕も、連れていってよぉ~!」
「嫌ですよ」
「ひどいよ! 王城の大樹を見に行くのに教えてくれないし、旅に出るのに教えてくれないし! 僕ほど、僕ほど未知のものを愛する人はいないのに!」
駆け寄ってきたベンジャミンは、ニコにすがりつく。ずり落ちかけた眼鏡に、くるくるの髪の毛。見た目はだらしないが、今では彼は、王都の魔導士として魔法の研究に精を出し、成果を上げている。
私たちのしたことを理解しているのは、王子を除けば、ベンジャミンだけだ。執拗に追及する彼の言葉から逃れきれず、つい白状したら、それ以来こうしてずっと責め立てられている。
「俺とイリスの仲を、邪魔するんですか?」
「それはっ……なんだよ君たち、いやらしいな!」
ニコが私の肩を抱いて茶化すと、音が立つほどの勢いで顔を赤くし、ベンジャミンは憤慨する。
「そんなつもりはないってば!」
「わかってるわよ。だけどあなたには、この王都で、失われた魔法の研究を続けてほしいわ。また戻ってきたときに、その成果を教えてちょうだい」
「全く……仕方がないね!」
踏ん反り返るベンジャミンを見て、私とニコは、密かに視線を交わして笑った。
「じゃあ、また」
「いってらっしゃい」
広場から、空へ。
噴き上がる噴水の水を眺めつつ、私たちは、見送る皆に手を振った。
「……良かったの、ニコ」
「うん? 何がさ」
「ニコが王都に残れば、稼げる仕事はいくらでもあったわ」
「まあ……それなりに、稼がせてもらったし」
ニコは、膨らんだ鞄を叩く。その中には、王城から秘密裏にベンジャミンに渡り、そこから私たちの元へ届けられた金貨が、詰め込まれている。
「イリスといれば、都市も救えるんだよ? こんなに刺激的なこと、ほかの奴には味わわせられないよ」
「……そうね」
「何より、俺はイリスと離れると、死んでしまうから」
「あ、パトロール隊のふたりだわ」
王都の壁も、そのまま越えようとしたとき。眼下に、手を振るふたつの影が見えた。スミスと、ヴァンだ。
「何か言ってるよ」
耳を傾けると、「降りて、出る手続きをしていけ」と叫んでいる。
「面倒だわ、聞こえなかったことにしましょう」
「悪い子だね」
「ニコだって同じよ」
私たちは笑顔で手を振り返し、そのまま壁を通り過ぎた。
「さ、行こうか」
次の目的地は、もう決まっている。
ところどころ緑の植物が顔を出している砂漠の、地平線に、沈みゆく夕日。
ーー大魔導士、イリスと、ニコラウス。砂漠化に悩む王都を、豊かな土地に戻した。
私たちの逸話は、今、刻まれ始めたところだ。
「……ニコの住んでた田舎に寄るのも、楽しみだわ」
「俺の両親に、イリスを紹介したいからね」
「長い旅に連れ出すんだから、挨拶くらいしないといけないわね」
顔の向く方は、同じ。
太陽に向かって、一直線に、私たちは飛んでいる。
「……まあ、イリスは俺に、任せといてくれればいいから」
「そう?」
この後、ニコの両親に「妻だ」と紹介され、盛大な歓待に私が困惑するのは、また別のお話である。