3-14.懐かしいこちら側
「あんたたち! 久しぶりじゃないか、風呂にはちゃんと入ってたのかい?」
銭湯の女主人であるマーズは、相変わらずの調子で出迎えてくれる。
「こんばんは、マーズさん」
「お風呂にはちゃんと入ってましたよ」
「まあ、その身なりならそうだろうね! それにしても、よかった。あんたたち、外から来ただろう? 挨拶もなしに行っちまったのかと、残念に思ってたんだよ」
「残念に……?」
そんな風に言われるなんて、思ってもみなかった。いくら親しく話すようになったとはいえ、マーズにとって、私たちはあくまでも客である。
「特に、あんた。体が弱いんだから、どこかで倒れてるんじゃないかと、心配でねえ」
倒れてるというよりも、死にかけていた。そんなことを言ったら心配をかけるので、私は真っ正直に答えず、「まあまあです」と曖昧に相槌を打った。
「街を出るときは、ちゃんとご挨拶に来ますよ」
「ああ、ぜひそうしておくれよ。じゃ、ごゆっくり」
言いたいことだけ言って、マーズは仕事に戻る。私とニコは、それぞれ分かれて、浴場に向かった。
久々の銭湯。といっても、今借りている屋敷の浴槽もそう変わらないから、目新しさは感じない。
それでも、周りの人の顔もぼんやりとしか見えない薄闇の中。響く湯の音は、心を落ち着かせた。
ここで考え事をし始めるから、のぼせるのだ。私は努めて飛んでいく思考をつなぎとめ、今日は倒れずに浴槽から上がることができた。
「おかえり、イリス」
「ニコ。待たせたわね」
着替えて入り口に戻ると、ニコは既にそこにいて、マーズと談笑していた。見慣れた光景である。こういう姿を見るたびに、私はニコのコミュニケーション能力を尊敬したものだ。……過去のような言い方をしたけれど、今だって、それは変わらない。
「宿にも、顔を出していい?」
「もちろんよ。何か用があるの?」
「いやぁ、部屋を引き払うって、伝えてないんだよね。いつか戻ると思ってたし、何となくばたばたしてたのもあって」
ニコは気まずそうに、後頭部の髪を乱す。
「それは絶対に行った方がいいわね」
「迷惑だもんね」
「そうよ。それに、お金だってもったいないわ」
ベンジャミンに借りている部屋もあるというのに、宿もだなんて。いくら安くても、私たちの持っているお金にも限りがある。
「お金は、まだ前に払ったぶんが残ってると思うよ。あの頃は長居すると思ってたから、ずいぶんまとめて払ったんだ」
「そうなの。ずいぶん持ってたわね」
「砂出しで稼いでたの、イリスも知ってるでしょ」
砂出しは、成果報酬。まだ皆の魔法が上手く回っていないとき、私とニコは手が足りていないところを補助して、その分の給金を受け取っていた。
「そうだったわね」
あれは、ばかにならない額だった。
「ベンジャミンさんにも、払ってもらってるし」
「え? 部屋を借りたお金は払ってるって、言ってたじゃない」
「それはそれ、これはこれだよ。いくら俺でも、無給ではあんなに働かないって」
「へえ……」
そういえば、ニコの金回りを、私はあまり知らない。知らなくても心配は要らなくて、今まで来られたということが、恵まれた事実を物語っている。
「なんだか、懐かしいわね」
「本当だね。……お久しぶりです、ラルドさん」
「おや、お客様。ご無沙汰しております」
ラルドは今日も、素晴らしく紳士的な出で立ちだった。
「お部屋は、保持しておりますよ」
「ああ、そのことなんですけど」
しばらく来ないので一旦部屋を引き払いたいと申し出ると、ラルドは最初に、「差し引いたぶんの宿泊費を払う」と言った。
今まで顔を出さなかった理由も、部屋を引き払う理由も、聞こうとはしない。必要以上に踏み込まない姿勢に、ラルドの商売人としての一線を感じる。
「いえ。それは受け取れません」
「こちらでも、受け取れません。泊まっていらっしゃらないぶんの、宿泊費など」
押し問答の末、根負けしたニコが、お釣りを受け取る。
「すみません、お手数おかけして」
「いえ、当然のことですから。また、いつでもご利用くださいね」
「はい、ありがとうございます」
今の特殊な事情がなければ、ここにずっと泊まっていたかった。そのくらい、快適で、感じのいい宿だった。
「では、また」
あっさりとした挨拶を交わして、宿を出る。陽は落ちた。薄闇の中を、まだ人はまばらに歩いている。少し待てば、行き交う人は、もっと少なくなる。
「ねえ、ニコ。オアシスに顔出さない?」
「俺も、そう言おうと思ってたよ」
銭湯に、宿。私たちの行きつけは、もうひとつある。
「いらっしゃい!」
深緑のエプロンに、爽やかな水色のポニーテール。看板娘のサラは、今日も元気に働いていた。
「おぉ、二人とも。元気そうじゃねえか」
「ゴードンさん! お会いできて嬉しいです」
椅子にどっかりと深く腰掛けていたのは、ゴードンだった。相変わらず、よく焼けた肌に、豪快な食べっぷりである。
「おかげさまで、俺もこの格好でも、店で食事ができるようになったぜ」
「あっ、作業着で……」
「そう。前は、砂出しってだけで、遠慮するように言われてたのによ」
見慣れた姿だと思ったら、ゴードンは、砂出しの作業着のままだった。
ニコと私は、前に作業着のままこの店へ来て、追い出されたことがある。魔法を使えない砂出しを、嫌に思う客もいるから、と。
「今となっては、皆の憧れの存在だもんね」
私たちの目の前に料理を置きながら、サラが付け足す。
ふわっと立ち上る、食欲をそそる肉の香り。私は唾を飲んだ。ここの食事は、本当に美味しいのだ。
「すごいんだから。リックなんか、風をぶわーって起こして、あっという間に道を綺麗にしていくのよ」
「そうでしょうね」
魔法を使いこなせていない一般の人々から見れば、その姿は、さぞ迫力があることだろう。
魔法が使えない役立たずとしか見られていなかった砂出しの皆が、今ではしっかり、自分の居場所をもっている。
ナイフで肉を切り、肉汁滴るままに食べる。美味しく焼けた肉は、ほんのり甘い。王都のあちら側では、こうした野性味のある食事は、なかなか食べられなかった。
「ね、イリス」
「うん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、ニコが私の頭に手を置いた。
「砂出しの皆は、得意分野を生かして、あちこちで活躍してるんだってさ」
「リックとジャックは、砂出しをしながら、広場をうまく運営している。他の奴らも、それぞれに、副業をし始めたよ。……ま、どっちが副業がわからねえけどな」
歯ごたえのある肉をよく噛み切り、飲み込んだ。
「……そうなの! それは良かったわ」
ゴードンが目を細め、ニコがくすくす笑う。
「イリスって本当に、美味しいもの好きだよね」
「いいじゃねえか、気持ちの良い食べっぷりで。見てるこっちが、良い気分になるぜ」
「ほんとですね。邪魔してごめんね、イリス。いいよ、食べてて」
ニコが促すので、私はまた肉に集中する。付け合わせの芋とも、パンとも、良いバランスで調和する。
透明なスープも、こっくりとした味。スプーンですくって、息を吹きかけ、冷ましてから飲む。
「……美味しかったわ」
「食べ終わった?」
ゆっくりと堪能した。ニコは、ゴードンと喋っていたのに、もう食べ終わっている。早食いが良いわけでもないけれど、どうしたらそんなに、早く食べられるんだろう。
「行こうか、イリス」
「うん。行きましょう」
「またな、二人とも」
挨拶のためにゴードンが手を挙げると、大きな手のひらがこちらを向く。
「あっ、待って! ありがとう、また来てね」
他のテーブルに料理を置いてから、サラも来てそう声をかけてくれる。
こちら側の人々は、こんなに過酷な環境の中でも、優しさを失っていない。それって、すごいことだ。
サラは私の耳元に、唇を近づける。
「あのね、あたし、最近、少しだけ魔法が使えるの」
「そうなの?」
人差し指を唇に添え、「内緒にして」の仕草。
「まだ、ほんの少しなの」
私は頷いた。ニコは隣で不思議そうにしているが、サラが言わないでと求めるのなら、言う気はない。
ずいぶんな進歩である。何しろサラは、過去の嫌な思い出のせいで、魔法が全く使えなかったのだから。
何がきっかけになったのか気になる。だけどそれは、今聞くことではなさそうだ。
「ごちそうさまでした」
「はーい、ありがとうございましたー!」
看板娘らしい、明るい声と、元気な挨拶。サラはいつでも、感じがいい。
「美味しかったわ」
満ち足りたお腹を、服の上から押さえる。口の中に、まだデザートの余韻が残っている。幸せな味わいだ。
「もう、ずいぶん遅いね」
時間の経過に従って、道行く人はどんどん減ってきた。まだ、いないわけではないが、もうかなり少ない。
「ねえ、ニコ」
「うん、わかってる。このまま行こうか」
夜。人通りが、少ない。
この時間なら広場にも、誰もいないだろう。
ニコは私の手を取って、空に上がった。
「善は急げ、ってね」
「のんびりしたせいで邪魔が入ったら、やるせないもの」
もう、準備は整っているのだ。
私たちは、広場に降り立った。