3-10.ベンジャミンの面倒
「……あ、おはよう~」
「もう昼よ、ベンジャミン」
「こんにちは、ベンジャミンさん」
屋敷を訪れると、ベンジャミンは部屋の中央に立ち尽くしていた。トレードマークの眼鏡はかけていない。
「眼鏡がないと、目が大きく見えるのね」
レンズ越しでない彼の目は案外大きく、透き通って見える。
「眼鏡がない……? あっ、本当だ、眼鏡がない!」
「ここにあるわ」
探すと、眼鏡は足元に落ちていた。慌てたベンジャミンが踏みつけそうになったので、拾って渡す。厚みのあるレンズは、ずいぶん重たい。
「いやぁ、なかなかできるようにならないね。僕、寝てないんだけどさ」
「寝てないの?」
「うん、寝てない」
頭をかきむしるベンジャミン。白いものがふわっと舞うのを、私は見なかったことにした。
「寝ないと駄目よ、集中力がもたないから」
「集中力は大丈夫。ただ、魔力がもう足りないや。休み休み、やってるんだけど」
ベンジャミンの頬はこけ、目の下には濃いクマ。一日で、ずいぶんやつれたように見える。
「それに、ニコラウスくんたちだって、夜通し同じことやってたんでしょう?」
「それは……まあ」
「あれは、特殊な事情があったからですよ。ねえ、イリス」
空気の膜に関しては、興味津々のベンジャミンに昨日根掘り葉掘り聞かれて、大体伝わっている。
「人のためにそこまでしてたんでしょ? かっこいいよねえ、僕も頑張らなきゃ」
「無理はしないでね」
「これがふたりのためになるんなら、全然! でも、僕が空気の膜を張れると、何の意味があるの?」
「ニコの練習になるのよ」
寝ていないはずなのに、ベンジャミンの瞳だけはぎらぎら輝いている。
「ニコラウスくん、新しい魔法を練習するの?」
「……まあ、そうです」
「えー! いいなあ! 僕もそれ、やりたい!」
「ベンジャミンにはまだ、できないわ」
くう、と悔しげに奥歯を噛みしめるベンジャミン。ニコはと見れば、またそっぽを向いている。彼は、ベンジャミンの研究者的な魔法熱には、付き合えないのだ。
「ニコラウスくんの使ってる魔法って、失われた魔法ばっかりなんだもん。羨ましいよ僕、僕も使えるようになりたい」
「使い方を研究するのが、あなたなんじゃないの」
「そうだけど、印刷魔法も、現物見て、イリスちゃんの助言があって、ようやくできたからさぁ~……」
今度はベンジャミンはしょんぼりし、うなだれる。感情の起伏が激しいのは、寝不足もありそうだ。
「とりあえず、仮眠を取ったら? 水撒いたら、報告がてら様子見に来るから。ね、ニコ」
「……あ、うん。そうだね」
ニコは上の空。ベンジャミンは机に伏せたまま、手のひらをひらひらはためかせる。
「イリスって、ベンジャミンさんの面倒、よく見るよね」
ニコと手を繋いで飛んでいると、そんなことをぽつりと言われた。
「そうかしら?」
「そうだよ。魔法を教えるのは、必要なことだからわかるけど……体調を気にかけたりとか、俺たちの話をしたりとか」
ニコにしては珍しく、はっきりしない言い方だ。
「そんなこと言ったら、ニコは私の面倒を、本当によく見てくれるわよね。私がベンジャミンにしているより、はるかにずっと」
「それは、俺がそうしたいからさ。……イリスは、ベンジャミンさんの面倒を、見たいと思ってやってるの?」
「えぇ?」
真剣なトーンで繰り出された突飛な質問に、つい吹き出した。
「そんなわけないじゃない、見たくて見てるんじゃないわ。必要だからよ」
「必要だから」
「そうよ。私たちは彼に、空気の膜を習得してもらわないと困るんだから。まあ、確かにベンジャミンは、面倒を見たいところはあるけどね。昔の研究仲間みたいで」
ああいう、身なりも外面も気にしない研究者は、周りに何人もいた。往々にしてそういう人たちは、世渡りが下手なせいで、割りを食っていた。実際は、かなりの実力があるのに、である。
「ニコは苦手よね、ああいうタイプと長話するの。もし苦痛なら、私だけで教えに行ってもいいわよ」
あの手合いは賛否両論あるし、否定的な見方をされやすい。ニコはコミュニケーション能力が高いが、だからこそベンジャミンとは、あまり分かり合えないのだ。
「いや。それは駄目」
「駄目なの?」
「……俺も行くよ、俺の練習につながるんだから」
ニコは定位置である王城の屋根に腰掛け、雨を降らせる。この、遠くまで見晴らせる気分の良い光景も、ずいぶん見慣れてしまった。
青々とした緑の町。対して背後には、荒廃した砂の町。この対比は異常だし、その背後に、魔力石を使ったなんらかの犠牲があるのなら、なおさら改善しなければならない。
私が誘拐されて魔力を抜かれていたのと同様の現象が、王城で起きていないとも限らないのだ。
「その方がありがたいわ。ニコがいないと、始まらないんだから」
「そんなこと……」
「あるわよ。私は、ニコとふたりで、魔導士として身を立てるんだから」
私がニコの知識になり、魔力溜めになる。そうしてニコは、ふたり分の魔力で魔法を使い、大きなことを成し遂げる。
「イリス、こないだもそう言ってたけど、それって……」
「ほら、虹よ」
ニコが水を降らせると、細かな水滴に光が当たって、時折美しい虹が現れる。
「きっと、これを見て、王都のこちら側の人たちは、幸せな気持ちになっているんでしょうね」
「幸せ、か」
「この幸せを、王都のあちら側にも、平等にもたらしたいわ」
魔法を使うのは、人のため。魔力石を平然と使い、その恩恵を一部にしかもたらしていない王都の魔導士のあり方を変え、皆に利益をもたらしたい。
「そのために私たちは、王城に行くのよ」
ついでに魔力不足の原因も探れれば、なお良い。
魔力石を売って利益を得ているのが王城ならば、そこに何かあるかもしれない。
「俺も、イリスに協力するよ」
「私が協力者よ。ニコは、当事者だわ」
それは、ニコがいないとできないこと。ニコは私の頭に手を乗せ、「ありがとう」と髪を乱した。
「……最近、ニコに触られることが増えたわ」
昨日は、浴槽で異常なほどくっついたし。何気なくそう呟くと、ニコはずるっと腰が落ち、屋根から落下しそうになった。
風を起こして、元の場所に戻ってくる。
「えぇっ? 寝てるとき?」
「寝てるとき? 寝てるときは、別に……前に話した大蛇の夢は、蹴飛ばしたら大蛇が逃げるようになったから、もう困ってないけど。ニコ、何か知ってるの?」
知らない、と答えるニコの声は、なぜか上ずっている。
「イリスが嫌なら、できるだけ、触らないようにするよ」
「いや、どうでもいいのよ。必要なことも多いから……ただ、思いついたことが口から出ただけ」
「どうでもいい、か……」
ニコは遠くを眺める目をする。水が降り止むと、街は全て、きらきらと輝く美しい景色に変わる。
「この眺め、素晴らしいわよね」
「こんな高いところから見下ろしたことがあるのは、俺たちだけ、っていうのもいいよね」
そう言われるとこれは、特別な風景だ。
「戻って練習しよう」
もう手なんか繋がなくても、ふたりを飛ばすことができるニコ。なのに差し出される手を、私も自然に取った。




