3-9.風呂場での特訓
ベンジャミンに、新たな魔法を学ぶ気はないかと打診したところ、全てを説明する前から乗り気だった。「空気の膜」の話は祖母がしていたことがあって、興味をもっていたという。
父親に言わないでくれという頼みも、皆まで言わずとも受け入れられた。ベンジャミンの、未知の魔法に対する探究心は、私も感心するものがある。
ベンジャミンに空気の膜の張り方を教え、感覚をつかんでもらい、残りの練習は任せる。ベンジャミンの代わりに、王都のこちら側に雨を降らせる。そして私たちはまた、借家の浴室に戻ってきていた。
「先、復習させて。そのあとイリスね」
「わかったわ」
躊躇なく衣服を脱ぎ捨てるニコ。露わになる、筋肉質な引き締まった体。今日は私も、動揺せずに平然とその光景を眺めた。不意打ちなのがいけなかったのだ、昨日は。
ニコは昨日より少し温度を緩めた水に入っていく。池の水が冷たいなんて言っていないで、温めてしまえばいいと気づいたのだ。幸い、広場の池には、何の生き物も生息していない。
頭まで水に浸かる。ニコの頭の周り、ふたまわりほどの範囲に、大きめの空気の玉ができる。浴槽の中を緩急つけて泳ぎ、しばらくして、水面へ顔を出した。ニコの髪は、濡れてはいない。
「いい感じね」
「そうだね。もう少し練習がいるけど、俺一人なら、なんとかなりそうだ」
体から水を滴らせながら、ニコが上がってくる。肌に玉のように浮く水滴を払い、その視線がこちらを見た。
「ああ、次は私ね」
「そうだね」
まずはニコが、自分に空気の玉をまとわせる練習。そのあと、勝手に動く私に、空気の動きを連動させる練習。最後に、ふたり同時に水に入って、呼吸を維持する練習。その段階からすれば、次は、私が水に入る番だ。
上衣に手をかけて服を脱ぐと、ニコが「えっ、イリス」と声を上げた。
「あ、ごめんなさい。全身濡れるわけでしょ。もちろん、下着は脱がないから」
「……そうだよね、わかってる。ごめん」
視線をそらすニコ。私は下衣も脱ぎ、下着のまま浴槽に向かう。足の先から水に入り、とぷん。肩まで一気に浸かった。
「冷たいっ!」
全身をまとう、冷たい感覚。ぞくぞくとして、肩が震えて、動けない。
「大丈夫? イリス」
「ええ……ニコ、あなたすごいわね、こんな寒い中泳いでたの?」
「慣れれば、そうでもないよ。昨日より温かいし」
肩を抱く私は、歯の根も合わなくなってきた。寒い。
ニコが火の玉を出し、水中に投入してくれる。それで漸く、温水になった。ほっとして、自然と腕が緩む。
「……ありがとう。生き返ったわ」
「イリスって、寒いの駄目なんだね」
「そうみたい」
肌を擦って温度をなじませ、それからゆったりと、水中で四肢を伸ばす。
「とりあえず、潜ってみるわね。真下に」
「わかった」
一拍置いて、私は水中に頭を落とす。沈んでいくと、自分の周りだけ、水が避けるように広がっていく。
「成功だわ」
呟いた声が、自分の周囲にだけ、こもったように響く。水面越しにニコの顔が見えたので、小さく手を振った。そのあと、水面に頭を戻すため、上昇を始める。
「…………!」
いきなり水が顔面に降りかかった。予想していなかったので、目も鼻も口も、水に晒される。
「ごめん、うまく追えなかった」
水がおかしなところに入って咳き込む私の背を、ニコがさすってくれる。温かな手のひら。咳がおさまり、目尻に浮いた涙を拭った私に、ニコがそう謝る。
「私も、予想しておくべきだったわ」
「やっぱり、いきなり動かれると難しいね」
「合図してみる? 指差すから、行きたい方向に」
私は再度、水の中に潜る。頭を全部沈めてから、ニコの方を確認し、指先を前方に向ける。床を蹴りながら、ゆっくり前方へ。すると、動きに合わせて、空気の玉もゆっくり動く。
できてる!
嬉しくなって水面に顔を出そうとすると、また、途中で水を盛大に浴びてしまった。
「……で、できたじゃない!」
むせながら言うと、ニコは眉尻を下げた。
「でも、難しいな。今は上から見てるけど、本当は、俺も水中に一緒にいるんでしょ?」
「そうねえ……」
ふたり分の大きさの空気の玉を出せれば、その問題は解決するのだが。この広さでは練習のしようがないし、これ以上広い川なんて、この辺りには流れていない。
「頭だけ、一緒にしてみる?」
「どういうこと?」
「私とニコが近くにいて、頭を覆うだけの大きさの空気の玉を作るの。実際、そんなに速く泳ぐこともないだろうし」
「そうか……なるほどね」
個別に対応することにこだわっていたから、難易度が上がっていたのだ。大雑把にやれば、もうすこし容易になる。
ニコも、水に入ってくる。その体積の分、水が溢れる。
「やってみていい?」
「いいわ」
「……あんまり遠いと、難しいな……」
私には何が起きているのかわからないが、今ニコは、ふたりの頭を覆う程度の空気の玉を作ることを、試みているはずだ。難しい顔をしながら、ニコは徐々に近寄ってくる。
肩に手が乗った。顔が近づいた。ニコの手のひらが、濡れて冷えた肌には、やけに熱く感じられる。
真剣な表情をしたニコは、私を見ているようで、見ていない。目に見えない、空気の玉を見ているのだ。焦点の合わないその目を、私は見つめる。
「……このくらい、なら」
ニコの目の焦点が、私に合った。途端、彼は息を呑む。
「わっ、近かった……」
「この距離じゃないと、イメージしにくいのね」
ひとり分の大きさに、ふたり分の頭を突っ込んだような距離感だ。
「同じ方向を向くなら、こうなるわね」
ニコの腰に手を回し、体の向きを横にする。この距離感だと、肩に頭を添えるくらいの密着感で、なんとか、といったところか。
「ちょい、ちょい、イリス……」
「なに?」
「心臓に良くない」
ニコが、腰に回した私の手を振りほどく。ざば、と大きな飛沫を上げて、水中に腰を下ろす。ニコはそのまま、くるりと向こうを向いた。
「泳げる服を買おう。素肌でくっつくのは、教育上良くない」
「誰の教育?」
「……イリスの、だよ! 君は……君はまだ十代なんだから、男とこういう風に素肌を触れさせるのは、良くない」
「私はもう二十代半ばの大人なんだけど」
言動が混乱しているニコに事実を伝えると、彼は、水飛沫を浴びて濡れた髪をくしゃり、と乱す。
「俺の心臓がもたない。それに、城に入ってから、こんな格好で歩き回るのは気がひける」
「……確かにそうね」
私もニコも、下着姿。それも濡れて、肌に張り付いている。いくら王城に入ったあとは、見つからないのが前提だと言っても、この格好で歩くのは確かに気がひける。
「なら、そういう服を探した方がいいわね」
「そうだね」
私たちはそのまま借家を出て、服を探しに行った。暑い王都では、そうした服は豊富にあった。できるだけ薄く、露出が多く、水を含んでも動きやすそうな服を選んで、それぞれで購入した。
ちなみにニコの服は、袖なしの青い上衣に、太腿の半ばまで露わになった緑の短パンだ。それを着たニコは、きっと幼く見えるだろう。私は想像して、おかしく思いながら、空を飛んでまた王都の向こう側に帰っていった。




