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1-6.ニコの感動

「イリス……君は凄いね」

「そうでもないわ。凄いのは、自分を信じたあなたよ、ニコ」

「王都の人って言うのは、皆、こんなに魔法が使えるのか?」


 ニコは、床に屈み、桶に手を突っ込んで感動している。こんなにたくさんの水を、一度に出したのは、本当に生まれて初めてなのだ。透明な水の向こうで、彼の拳が、ぐっと力強く握り締められていた。

 魔法がどの程度使えるかというのは、この世界において、人生を左右する。控えめに言って、今ニコは、自分の人生を変えるかもしれない、それほどの希望を手に入れたのだ。


「……うーん、それは、違うかも。私はきっと、詳しい方だから」


 私ほど魔法を使いこなせる者が王都に数人でもいるのなら、この町は、もっと暮らしやすいはずだ。だからおそらく、そんな人は、この辺りにはいない。ニコが変な誤解をしてはいけないので、そこは否定した。


「イリスは記憶がないのに、魔法のことはよく覚えているんだな」

「……きっと、頭じゃなくて、体で覚えていたんだわ」


 そういえば私は、記憶喪失という設定なのだった。ニコの指摘にどきっとしつつ、適当に誤魔化す。彼はそれ以上、追及しなかった。


「とにかく、ニコ。私は自分の知っていることを、あなたに教えるわ。それで、あなたにかける迷惑と心労の、いくらかの対価になればいいけれど……」

「もちろん。俺は……」


 ちゃぷ、と水音を立て、桶からニコは手を抜く。ぐ、ぱ、と手を握り、開き。垂れ落ちる水滴を眺め、これが現実であることを確かめるような仕草。

 濡れた瞳が、私を見つめる。


「俺にはまだ可能性があると知って、本当に、嬉しいんだ。ありがとう、イリス」

「ううん。私こそ、助けてもらって良かったわ。そのお礼だから」


 元来、人の役に立つのは好きな方だ。国を北から南まで駆け回り、人を助けて回っていたのも、喜ぶ顔を見る度に達成感を覚えたから。わざわざ面倒な後進の育成に励んだのも、新しい自分を発見して、喜ぶ姿を見たかったから。

 前の肉体が病に侵されたとき、もう二度と、人の役には立てないのだと絶望した。あの頃の私は、まだ若かった。やりたいことがたくさんあった。全てが志半ばに終わることが、そんな自分が許せなくて……それで、精神を切り離すという、乱暴な魔法を考えたのだ。

 私自身は魔法が使えない状態だが、それでもこんな風に、人を喜ばせることができる。ニコに魔法を教えることは、私自身の喜びにも繋がるのである。


「……砂出しじゃなくて、もっと他の、魔法が使える仕事にしようかな」

「それはもう少し、後にした方が良いわね」


 魔法を学び始めたばかりの人には、職業として、安定的にそれを使うことは難しい。まだ訓練がいる。私が言うと、ニコは「そうかな」とがっかりしたように眉尻を垂らした。


「まあ、イリスが言うなら、そうした方が良いんだろうね」

「ええ。それに、その……砂出し、っていうの。私もやってみたい」


 王都を悩ませている、砂漠化。砂を出す仕事なら、その辺りの事情を、目で見て確認できるかもしれない。


「肉体労働だからなあ……イリスは、やめておいた方がいいんじゃないか」

「できるわよ」

「さっき倒れていた奴の言葉じゃないな」

「あっ……、そうだったわ」


 つい、普段の自分の感覚で、話してしまった。私は早朝から深夜まで働いても、疲れを感じない、いつでも元気な人間だった。いや、不摂生が祟って、いざその時になって、病に負けたわけだが。

 少なくとも私の今の肉体は、ついさっき、一度死んだ体。安易に肉体労働をしたら、また崩れてしまう心配もある。

 私のモットーは、見て確認すること。王都に起きていることを把握するには、ニコについて行って、その様子を見ることが近道だと思った。

 それに、今の私は、魔法が使えない。ひとりで行動するのは、不安が残る。


「でも私、ニコと一緒にいたい。ひとりでいるのは、怖いもの」

「イリス……その言い方は、あまり良くないな」


 ニコは複雑な表情を浮かべる。


「仕方ない。一緒に話を聞きに行こう。駄目だと断られたら、イリスは諦めてくれ」

「わかった」


 こうして私は、明日、ニコと共に働き口の相談に行くことになった。滑り出しとしては、なかなか順調。


「参ったなあ」


 と、頭に手をやるニコ。髪から、ぱらぱらと砂が落ちた。それを見て頭に手をやると、私の髪も、ざらざら。肌にも、汗で細かい砂が張り付いているような気がする。全身砂だらけ。そう意識すると、気持ち悪くって、ぞわぞわした。


「……お風呂入りたい」


 研究室には大きな浴槽があって、自分で水を出し、火で温めて入浴していた。ここに大きな浴槽があれば、ニコを励まして、お湯を張らせるのだけれど。残念ながら一般の宿には、そんな豪華なものはない。


「銭湯に行く?」

「せんとう?」


 すると、ニコはそう提案した。聞き慣れない言葉を、おうむ返しする。


「銭湯。王都は砂が多くて暑いから、砂と汗が流せるように、大衆浴場があるらしいよ。それを、銭湯って呼ぶんだって」

「……へえ。凄いのね」

「まあ、俺も噂で聞いただけなんだけど」


 そうした大衆浴場は、以前はなかった。たいていの民衆は、濡らした布で体を拭って清めるのが習慣。時折、水浴びをしていた。砂漠化に伴い、布で拭う程度では、太刀打ちできなくなったのか。事実、私の体に纏わり付いた砂は、ちょっと拭いたくらいでは取れない気がする。


「行きたいわ」


 私の趣味は、温かいお湯に、ゆっくり浸かること。湯の中でぼーっとしていると、たくさんのアイディアが浮かんでくる。実際、「領地を救った」と讃えられた素晴らしい業績のうち、いくつかは、湯船の中で思いついたものだった。


「じゃあ、行こうか。鍵を閉めるから、先に出て」

「わかった。……あっ!」


 ニコがポケットから取り出したものを見て、私は思わず声を上げた。


「……なに?」

「いえ、何でもないわ」


 ニコの手に握られた、やや黄色味がかった金属。あれは、私と数名の研究仲間が発見した、新しい素材だった。一度魔力を通して変形させると、基本的には、その人の魔力しか通さない優れもの。例えば今、ニコがその金属を変形させて鍵を掛けたら、他の人は開けられないのだ。

 とはいえ、力のある魔導士なら、その魔力を上書きして変形させることができる。私みたいな、ね。鍵は、その点では、あくまでも簡易的なものだ。

 当時はまだ一部にしか流通していなかったが、今ではこうして、一般庶民まで広がっている。それも悪用されず、良い形で。私にとってそれは、嬉しい事実であった。


「お待たせ」


 部屋から出てきたニコは、貴重品の入った鞄を持っている。無防備に置かないあたり、「鍵を開けられる人もいる」という難点も、きちんと伝わっているようで安心した。


「この辺りに、銭湯はありますか?」

「ございますよ。扉を出て、左に向かい、三軒隣の建物です」


 宿屋の主人に聞き、私とニコは町へ繰り出した。太陽は傾き、もうすぐ夜という風情。日中はあんなに暑かったのに、吹く風は肌寒いほどに涼しい。

 道行く人の数も、昼間よりは少ない。ただ、向かいの酒場や食事処からは、明るい光と、賑やかな声が漏れ出てきていた。人々はあちこちで友人と集い、楽しい時間を過ごしている。

 さて、目的の銭湯は、主人の言った通り、三軒隣にあった。想像していたよりも、大きな建物だ。戸をくぐると、目の前にカウンターがある。そこでは、頭に手拭いを巻いた威勢の良さそうなご婦人が、待ち構えている。


「はーい、いらっしゃーい!」


 見た通り、威勢の良い挨拶を繰り出してくる。恰幅の良い彼女は、丸みを帯びた指で、壁にかかった紙を指す。


「初めてのお客様だね! 料金はここにある通りさ」


 通貨の単位は、私の知っているのと同じものだった。その価値も変わっていないのだとしたら、銭湯で一回入浴するために必要なお金は、夕食を外で食べるときにかかる、半額程度の金額。高いものではない。


「前払いだよ!」

「二名で」

「入浴は男女別だからね、新婚さんだからって、一緒に入ろうとするんじゃないよ!」


 ニコの差し出したお金を受け取りつつ、彼女は豪快に笑う。嫌味というよりは、品のない冗談という感じ。悪気はないのだろうが、ニコの笑顔は、ちょっと引きつっていた。


「私たち、新婚に見えます?」

「見えるさ! こんなに若い奥さんじゃあ、新婚に決まってるからね」


 ニコが何も言わないので、私が会話を引き継いだ。彼女が笑うと、喉の奥まではっきりと見える。少々ガサツなところはあるが、悪い人ではなさそうだ。


「しっかり、汗を流しておいで!」

「後でね、ニコ」

「……ああ」


 カウンターの奥で、男女それぞれの入り口が、左右に分かれているらしい。私はニコと挨拶を交わし、女性用と書かれた方へ向かった。

 銭湯。未知の文化だ。私の胸は、わくわくしている。こういう新しいものって、大好きだ。

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