2-19.あのときのブレスレット
その日現れた大蛇は、妙に可愛らしい顔をしていた。締め付けがきついのは相変わらずだが、がばりと開けた口から覗く牙は、まるっこい。そんな牙じゃ、噛んでも痛くないだろう。しかも、いつもは怖い目も、今日はぱっちりして愛らしい。
気乗りして抱きしめてやると、大蛇はぴゃっと跳ね、急いで逃げていった。なるほど、こういう撃退の仕方もあるわけだ。足蹴にするのも忍びないと思っていたので、こちらの方が、いいかもしれない。平和的な解決法。
……くだらない、夢の話である。目覚めた時、いつもより少し、寝覚めが良かった。
「おはよう、イリス」
「ずいぶんと寝てしまった気がするわ」
「俺も。久しぶりに、のんびりと眠れた感じだよ」
仮眠を挟みながら動いていた体は、知らず知らずのうちに、疲れを溜めていた。うーん、と伸びをすると、肩がいつもより軽い。
「昨日は、大変だったわね」
「イリスも、お疲れ様」
「あの子……アルは、大丈夫かしらね」
「大丈夫でしょ。教会の人が見てくれてるし、見つけた時よりも、顔色はずいぶんマシになってた」
年齢の割に頬がこけ、栄養状態の悪そうだったアルの姿を思い浮かべる。確かに彼は、砂漠で見つけた時よりは、はるかに回復していた。オットー達のおかげである。
「……見つけられて、良かったわね」
私たちがああして夜の張り込みをしていなかったら。ずいぶん衰弱していた様子だったし、スミスやヴァンが明け方にパトロールをしていた頃には、命を落としていてもおかしくはなかった。
それだけで、毎晩張り込んだ甲斐があった、というものである。
「ああ、良かった。人の命を救ったんだからね」
ニコも同じ気持ちのようで、頷いてそう言う。
「あのさ、イリス。俺、アルの話していたことが、気になってるんだけど」
「『ダメになったら砂漠に捨てられる』とか、その辺の話よね? 私もよ。なんとなくだけれど、アルが置かれていた状況と、私の肉体が置かれていた状況は、同じだったような気がするの」
「だよね。なんとなくだけど、そんな気がする」
アルに話を聞けば、そのあたりの事情が、もう少し詳しくわかるのだろう。
「だけど、今は、アルからは聞き出せないわよね」
「そうだね。傷をえぐることになりそうだ」
昨日のアルの様子を見るにつけても、そう気軽に、今までの話を聞き出すことはできなさそうだ。
「昨日、壁を越えた気配のあったあたりを、探るのがいいのかしら」
「ああ……大体の場所はわかるからね」
「そう。また、地道なやり方になりそうだけど……」
いつ成果が出るかわからない深夜の張り込みの後は、どこにあるかわからない場所を探す。私がニコに持ちかける話は、先の見えないものばかりだ。
結局、魔法を使うのはニコばかり。横から口を出すだけの自分が、度々、情けなくなる。
「俺も気になるから、構わないよ」
それでも嫌な顔ひとつしない、ニコは優しいのだ。
「それに、イリスがアルと同じなら、イリスのことを探している人だって、いるのかもしれない」
「私というか……この肉体を、ね」
「そうなんだけどさ」
ニコは、齧り終わったリンゴの芯を、ぽいっと捨てる。
「イリスの……その肉体の、家族がいるんなら、やっぱり見つけた方がいいと思うんだよね。心配しているだろうし」
「そうね。私もそう思うわ。こうして体が動いているのに、元の魂は死にました……なんて、信じてもらえないと思うけれど」
「確かにそれは、家族だったら信じられないだろうね……」
私は、別にこの肉体の家族を探して、家族として生きたい訳では、今はない。ニコと一緒に行動する中で、王都での居場所が出来つつあるからだ。
ただ、肉体に起こったことを知って、その死を悼むのが誠意だとは、思っている。
「家族がいるとして、実際に対面するかどうかはわからないけれど……でも、知らないというのは、ダメだと思っているわ。私の体は、砂漠で死んでいたわけだし」
「何があったかは、はっきりさせてあげたいんだ」
「そういうことなの」
そのために、アルのいた場所を見つけたいのだ。
「とりあえず、昨日の場所に行ってみようか」
「……それしかないわね」
「昨日、空気の膜を通り抜けた人の、魔力を追うことはできないの?」
「そうねえ……」
私は首をゆるゆると振った。
「私には、わからないわ。直後ならまだしも、もうずいぶん時間が経ってしまったもの」
できるかもしれない。しかし、方法がわからない。時間が経つにつれ、そこにあった魔力の痕跡は、消えてしまう。
かと言って、昨日追えたかというと、そういうわけでもない。アルを見つけてしまった私たちは、その時点で、壁を越えた人間を見つけることはできなかったのだ。
こればかりは、仕方がない。
「イリスにもわからないことがあるんだね」
「わからないことばかりよ」
前にもこんな、会話をした気がする。わからないことばかりだ。本当に。魔法は、具体的にイメージができないと、うまく使えない。だから、今みたいに対象がはっきりとしていないことに関しては、良いアイディアが浮かばないのだ。
「まあ、考えててもわからないね。とりあえず行ってみよう」
停滞した空気を打破するのは、ニコ。彼はおもむろに立ち上がる。
「イリス、行こうか」
「うん」
ニコの手を取る私の手首には、今日もブレスレットが付いている。噴水を調べた日に、ニコが買ってくれたものだ。
ニコはちら、と私のブレスレットに視線を落とした。
「それ、毎日付けてくれてるね」
「ニコが買ってくれたものだし、気に入っているから。似合うんでしょ、この色」
「うん。イリスには何でも似合うけど、その色はイメージに合ってる」
オレンジ色のブレスレットが手首を一周することで、この腕は、余計に華奢に見える。
「この間読んだ恋愛物語でさ」
「そんなの読んだの?」
「ああ……図書館に行ったとき。俺、ターニアさんと話してただろ。話の流れで、勧められたんだよ」
ターニアとは、例の図書館の司書。ニコは持ち前の愛想の良さで、ターニアとも親しくなっている。
彼女、堅物そうに見えるけど、そういう大衆小説も読むのね。私も、大衆小説も好きだ。良い気分転換になる。
「ごめんなさい、話の腰を折ったわ。それで?」
「読んだ本にさ、相手のアクセサリーに自分の魔力を込めて、それを追って居場所を把握するシーンがあったんだ」
「すごいシーンね。熱烈だわ」
「熱烈だったよ。……俺気になってたんだけど、それって、可能なの?」
可能か不可能で言えば、可能である。
「難しいけど、できないことはないわ」
「できるんだ」
「そう。特に、自分の魔力って、わりと捉えやすいから。多少離れていても、感覚が鋭ければ、追えると思う」
自分の体の中にあるから、他より意識しやすいのだろうか。魔力は、他者のものより、自分のものの方がはるかに認識しやすい。
「その応用で、アルの魔力を追って、元いた場所に辿り着けないかなって思って」
「それは……不可能では、ないとは思うんだけど。通ってきた道に残る魔力なんて、ほとんどないから、それを感知できるくらいにならないといけないっていうのは……」
ほんのわずかな魔力を感知する、飛び抜けて優れた才能がないとできない。そこまで明言しなくても、その難しさは、ニコに伝わったようである。
私にも、そこまでの能力はなかった。実際、空気が同じところに留まることがないように、魔力もすぐに散逸してしまう。
「でも、試しにやってみていい?」
「いいわ。このブレスレットに、ニコの魔力を込めてみる? まずは自分の魔力を追うところから、始めるのがいいと思うのよね」
挑戦することを、否定するのは私の主義に反する。飛びながら複数の魔法を使うのはニコにはまだ難しいので、そのまま歩き始める。
「魔力を込めるのは簡単よ。鍵をかけるときと、同じだから」
「ブレスレットにも込められるの?」
「生きている肉体以外になら、基本的には込められるわ」
普通に生きていれば、意味もなく魔力を込めようとすることは、あまりない。試せばわかるが、実際は、実に多くのものに魔力を込められるのだ。
それを追うことができる魔導士は、それほど多くはない。込めたところで無意味なのも、また事実である。
「ふうん……付けてみて」
ニコが手渡したブレスレットを、受け取る。
「これで、魔力は込もってるのかな」
「わからないわ。私、魔力の動きはとらえられないから」
「そっか……俺にはまだわからないや」
そう言って、首を傾げる。
「まずは、自分の体の中にある魔力を、しっかり捉えることから始めるの」
体には、多くの魔力が含まれている。その揺らぎを捉えるのが、第一歩だ。
「あとはそれを、追うだけだから」
「体の中の魔力ね……」
「なにかの拍子に、ふっとわかるものなの。日頃から意識して生活してみて」
すぐに身になるものでもない。そう促すと、ニコは頷いた。