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2-16.壁を越えたのは

「ニコ、もっと高く飛んで」

「そうだね。何があるかわからないから」


 高度を上げると、地表の様子は、月光の下で薄っすらとしか見えない。


「壁を越えたの?」

「うん、越えた。勘違いじゃなければ」

「勘違いってことはないと思うわ」


 少なくとも、ニコの空気の膜は、きちんと機能していた。目視するよりも、よほど確かな感覚だ。


「通ったのは、あの場所だよ」

「まだ、膜は張ってる?」

「一回外した。飛ぶのと同時にはできない」

「……なら、降りましょう。それで、膜は張っておいて。越えていったということは、戻って行くこともあるかもしれないわ」


 砂漠で行き倒れる人は、自ら外に進んで出たのか。それともサラの言う通り、本当に誰かの手でさらわれたのか。定かではないが、万が一後者の場合、また壁を越えて戻って行く可能性はある。

 夜も深い。普通の人なら、眠っている時間だ。この時間なら、周囲に気をつけて行動すれば、人目につかずに一瞬のうちに壁を越えることは可能だろう。ニコの口ぶりだと、壁を飛んで越えたのであり、そこに梯子などが使われたわけではなさそうだ。


「……どっちに行ったかな」

「地面の起伏を探るなら、空気の膜を広げて行く方法があるわ。何か落ちていたら、人くらいの大きさなら、わかるはず」

「なるほどね」


 ニコが降り立ったのは、壁の外側の、砂の上。砂漠に出たのは、ニコに会って以来だ。月の淡い光に砂が照らされ、どこまでも幻想的に光っている。目に見える範囲に、怪しいものはない。

 ニコは砂を踏みしめて立ち、広大な砂漠を見据える。

 私は、そっと左右に視線を向けた。ニコの気付かない場所に、何か見えるかもしれない。壁を越えたということは、今の王都の人々が知らない魔法の知識を、持つものがいるということだ。警戒するに、越したことはない。私自身は、無力だとしても。


「……あの砂丘の向こうに」

「誰かいる?」

「うん。人かな? 倒れてる」

「王都から、すぐには見えない場所なのね。私と同じだわ」


 私が、ニコと初めて会ったとき。私は砂漠に倒れていて、砂丘をひとつ過ぎると、王都の壁が見えたのだ。


「イリスと同じ? そうだっけ」

「そうよ」


 王都の壁が砂漠の向こうに見えた時の衝撃は、よく覚えている。


「……行ってみようか、イリス」

「……うん」


 私もニコも、足取りは重い。そう言葉を交わして、ゆっくり、ざく、ざくと砂漠を進む。なかなか歩が進まない理由は、二人とも、同じはずだ。

 私たちの予感が当たっているのなら、砂丘の奥にある人影というのは、つまり。


「……ああ」


 同時に発したのは、諦めにも似た、力無い声。砂漠に横たわる人影は、完全に脱力し、顔を砂に埋めている。私は直視していられなくて、思わず視線をそらす。あんまりだ。

 ニコが、倒れた人の傍で身を屈めた。


「イリス。息があるよ」

「……え」

「どうしよう。こういう時って、どうしたらいいのかな」


 そらした視線を戻して、よく観察する。微かに動く胸。口元に手をかざすと、僅かながら、空気の流れを確かに感じる。

 こんな深夜に、誰に声をかけたら、この人の命は助かるのだろうか。体がまだ小さい。子供かもしれない。


「……教会に行きましょう。あそこなら、誰かいるかもしれないわ」


 教会はその特質上、朝早く、夜遅い。私たちが鐘の間を使うときに挨拶をするのも、深夜や早朝であったが、必ず起きて働いたり祈ったりしている人がいた。

 それに、人を癒すということについても、ある程度の蓄積があるはずだ。食べ物がなくて痩せこけた人や、病に侵されて行き場のなくなった人が最後に縋るのは、教会だから。


「イリス」


 ニコは、倒れている人の手を掴む。反対の手を差し出され、私はそちらを掴んだ。ニコはこのまま、三人で飛ぶつもりらしい。

 一度に三人も飛ばしたのは、ニコにとって初めてのはず。しかし危なげなく、私たちの体は壁を越え、教会の鐘の間に戻る。


「ここにいて、イリス。俺、人を呼んでくる」

「わかったわ」


 倒れていたのは、やはり、まだ子供だった。髪は短く切り揃えられており、ぱっと見には、男か女かわからない。床に仰向けに寝かされた彼女の隣に、私は座る。ニコはそう言うと、階下に駆けて行った。


「ねえ……意識は、ないわよね」


 話しかけても、瞼はぴくりともしない。私も専門家ではないのでわからないが、衰弱しているのは間違いない。魔法は何でもできるが、唯一、人の体自体に影響を与えることはできない。それは神の領域。こうした病を瞬時に回復する魔法は、結局、発明の手がかりもないままで、私が先に死んでしまったのだ。

 あるのかないのかわからないほど、微かな呼吸が、夜の闇に溶けていく。ニコは、なかなか戻ってこない。この間にも、その呼吸は、止まろうとしているというのに。


「……どう、まだ大丈夫そう?」

「息してるけど……呼吸が、ずっと浅くて」

「……ああ、いたわしい……」


 ニコの後からついてきたのは、オットー。いつもの神父服よりもゆったりとした衣装を着ている。その大柄な体躯に見合わぬ風のような歩みで近づくと、子供の額に手を当てた。


「熱がありますね。下に降ろして、水を飲まして、様子を見るしかありません。日が昇ったら、医者を呼んで薬を出してもらいましょう」

「熱……?」


 確か、私が目覚めた時も、熱があった。魔力が体内に濃縮されすぎて、熱が出るという現象。

 この子は私と同じように、砂漠に倒れていた。私と同じように、その衰弱の原因が、魔力の過剰蓄積だとしたら、同じ対処が可能かもしれない。


「ニコ、この子から魔力吸い出してみて」

「……ああ。わかった」


 ニコが、迷いなく子供の魔孔に手を当てる。吹き荒れる、暴風。闇をつんざく、金切り声。私は思わず、耳を塞いだ。悲鳴を上げているのは、先ほどの子供である。


「イリス、今のは……」

「君たちはこの子に、いったい何をしたんです?」


 即座に子供から手を離し、戸惑った顔をするニコ。声を尖らせ、詰問する調子のオットー。


「魔孔から魔力を抜くのって、本来、苦痛なのよ。でも、見て。少し顔色が良くなってる」


 私はふたりの視線を、子供の顔に誘導した。顔面蒼白でぴくりとも動かなかった表情が、今は頰に僅かに赤みがさし、瞼がぴく、と動いている。


「え……魔力を抜かれるのって、こんなに辛いの?」

「そうみたい」

「じゃあ、イリスも……」

「私はなんだか、その辛さを感じないのよ」


 改めて、この肉体は異質なのだとわかった。やはり一度、死んだ肉体だからだろうか。


「何の話ですか、魔力を? 抜く……?」


 オットーの視線は、厳しい。訳のわからない会話をする私たちを、怪しんでいる目だ。


「いいえ、こちらの話です」

「とにかく、この子をこのあと、どうしてあげたらいいんでしょうか」


 子供は今は黙り、先ほどよりもしっかりした呼吸で、今は眠っているように見える。


「……下のベッドに寝かせて、様子を見ましょうか」

「はい」


 ニコが子供の体を抱え、オットーに続いて階段を下りていく。私もそのあとを追った。

 私たちもその日は教会のベッドを借り、仮眠を取ることになった。質素で底の薄いベッドは、硬くて背中が痛くなりそうだったが、よく眠れた。何か聖なるものが悪夢を跳ね除けたのかどうか、わからないが、大蛇の夢も見なかったのだ。

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