2-11.夜間張り込み
「……イリス、起きて」
「んー……」
「俺、ひとりで行っちゃうよ」
はっと目が覚めた。視界は暗く、薄明かりの中で、ニコの顔が見える。
「……起きたわ」
「危ないし、このまま起きないなら、ひとりで行っても良かったんだけど」
「だめ。起こしてくれてありがとう」
ニコだけに押し付けるのも嫌だし、砂漠での行き倒れは、私の肉体とも密に関わる部分だ。
体を起こし、服についた皺を伸ばす。
「行きましょう」
日が落ちて、少ししたくらいだろうか。この時間帯に出歩いたことは、何度もある。人通りは少ないが、夜であることもあって、涼しい街中を散歩している人の姿もある。
慣れ親しんだ浮遊感と共に、私とニコの体は、屋根より高く上がる。
「……イリスは正直、サラの言っていた誘拐事件って、あると思う?」
西側に向かって飛びながら、ニコに聞かれる。
「……わからないわ。本当に、ただの行き倒れかもしれない。行方不明者以外にも、普通に砂漠で命を落とす人は、しばしばいるみたいだし」
パトロール隊のヴァンやスミスの話も含めて、そう答えた。
「だよね。王都に住んでる人が、目的もなしに砂漠に出る、ってところに違和感はあるけど」
「それはあるわ。……もしかしたら長期間続けて何も得るものがない、ってこともあるかもしれないと思うの。ニコは、それでもいい?」
全てが徒労に終わる可能性は、正直言って、充分ある。
「いいと思ってるよ。イリスが砂漠で倒れていた理由がわかるかもしれないし」
「私も、そう思ってるの」
自分の肉体が、どこから来たものか。それが、魔法を使えるようになる、手がかりになるかもしれない。だから、西側の張り込みは、私にとってはそれなりに利のあることだ。ただ、ニコはそれに、付き合わされているだけである。
「私の個人的な問題だから、ニコを巻き込むのは……」
「イリスもそうだけど、俺たちがサラの話を信じて、真剣に解決しようとする姿が、サラに良い影響を与えるかもしれないとも思ってるんだ」
「あぁ」
ニコの言葉が腑に落ちて、納得の声が出た。
「何もないかもしれないけど、まあ、やってみようよ」
「ニコがいいなら」
「……どこに体を落ち着けるのがいいと思う?」
気づけば、既に西側の壁が見えるところまで来ていた。
「できれば座りたいわね。西の壁の見えるところに」
一晩中空に浮いているだけというのも、退屈だ。それに、相手も壁を越えられる程度に空を飛べるなら、飛んでいることの利はない。地に足をつけていた方が、安定感がある。
「……この辺りとか、どうかな」
「ここの屋根の上?」
ニコが飛んできたのは、他より一段屋根の高い家。ここなら、他の家から外を見ても、私たちの姿は見えなさそうだ。西の壁も、視界に入っている。住人を驚かさないよう、そっと屋根に降りる。
「西の壁一面に、膜を張れる?」
「やってみるよ」
ニコは、壁を見つめる。一度成功したことだから、あとは実践すれば良いだけ。壁がどこまで続いているかも、魔法で感じ取ることができるはずだ。
「……たぶん、できた」
「体調は?」
さすがに、王都中に広がる魔法である。今までのものとは、ちょっと規模が違う。
「厳しい……イリス、ちょっと来て」
応急処置の、魔力補給。私の胸元に手を当てたニコは、ふぅ、と安堵したように息を吐いた。
「……大丈夫。膜は維持できてる」
「こんなに広い範囲に魔法をかけてるのよ、すごいじゃない」
「いや……でもこれ、一晩中は無理。そんなにもたないよ」
ニコは顔を顰める。そういえばニコは、空を飛ぶ時も、何をするにも、余分に魔法を使っていることが多い。
どうせ、動きがあるまでは、一晩中待機なのだ。この機会に、魔力の節約を学ぶのも良さそうだ。
「せっかくだから、新しいことを勉強しましょう」
「この状態で……? 俺、壁の方に意識を向けるので、精いっぱいなんだけど」
「だからよ。身につけたら、もっと楽に魔法が使えるわ」
消費量を抑えるためのイメージは、いろいろある。一度に使える魔力量の増えたニコが、節約の考え方を身につけたら、一度に使える魔力が何倍にも膨れ上がるのと同じ効果がある。
「私の予想なんだけど、今ニコは、全身から魔力を放射して、その一部が壁に向けられてる状態だと思うのね」
「うーん……わかんないけど……」
「わかんないわよね。そのうち、魔力の動きを読むことも練習しないといけないわ」
生きている全てのものに、魔力は含まれている。生きるということは、呼吸することと、魔素を取り込んで魔力として出すことだからだ。
ニコがやっている「空気の膜」も、魔力を感知することに似ているのだけれど、それを意識的に行うのはなかなか難しい。まだ先の話だ。
「ただ、節約の考え方は、わからなくても何となく掴めるから」
「そうなの?」
「要するに、魔力の出し過ぎなのよ。空気の膜を維持するのに使っているのは、出ているうちの、一部だけ。他の部分を抑えたら、使う量は減るでしょ?」
「うーん……」
まずは理屈から。ニコは難しい顔をして唸る。難しいのだ、これは。砂を巻き上げたり空を飛んだりするように、目に見える変化があるわけではないから。それに、空気を冷やしたり人の動きを感じ取ったりするように、何か自覚できるはっきりとした感覚があるわけでもない。
「対象だけに、魔力を向けるの。今は全方向に向けて魔力が出ているから、それを、ぐーっと、壁側だけに向ける」
「ぐーっと……?」
ニコは首を傾げる。
「人によるんだけど、魔力を通す細い輪っかがあって、その中を通すイメージをもつ人もいるわ」
「細い輪っか……」
「実際に指を輪っかにして、その中を通すイメージから始めた人もいたわね」
今までの記憶を掘り起こし、あれこれと例を示す。要するに、何でもありなのだ。イメージをしっかり持てれば、自分なりのやり方で、魔力の節約はできる。
「イリスはどうしてたの?」
「私は、対象を意識する、って方法から始めたわ。それだけに集中して、他のことは考えないの。それと、ぐーっと、そのものに向けて魔法を出すイメージを持っていたわ、最初は」
そのうち意識しなくてもできるようになったけど、と付け足すと、ニコは曖昧に頷いた。
「やってみるよ」
「上手く行くと、魔法の保ち時間が、数倍になると思うから。毎日比べながら、少しずつやるといいと思うの」
なぜこのタイミングで節約の話をしたかというと、やるべきことは同じ、「西側の壁に空気の膜を作る」だからだ。魔力の節約は変化を感じにくいものであるが、毎日同じことをして、その持続時間が飛躍的に伸びれば、変化を自覚することができる。
「うん……でもちょっと、もう限界だから、補給させて」
「はい」
魔孔に触れ、ニコはまた壁の方に視線を向ける。こういう時は、邪魔しない方が良い。私は空を見上げた。
暗い夜空に、星がいくつも瞬いている。方位を確認するための目印にしていた星が、変わらず青白い光を放っている。
「あの星と、ほかの星との位置関係で、大体の時間がわかるのよ」
「どの星?」
「あの星」
「どの?」
私の手の近くにニコが顔を寄せ、位置を確認しようとする。
「……わからない」
「とにかく、時間がわかるの。今、補給したでしょ? 私、見ておくから、ニコは魔法に集中して」
「わかった」
星の位置を確認するといっても、魔法のない私には、正確な確認はできない。ただ、なんとなくの変化がわかるだけでも、やる気に繋がると思う。
沈黙。ニコは真剣に壁を見つめていて、こめかみに汗を垂らしている。集中していて、話す余裕はなさそうだ。初めてこれだけの広い範囲に魔法を使ったので、疲弊するのもわかる。
「……イリス」
「はい」
かなりの時間が経った。ニコに声をかけられ、体をそちらへ傾けると、魔力を補給してまた壁に向き合う。限界まで魔力を使い、戻ってから使い続けるというのは、精神的にきついものがある。それを続けるニコの実直さは、素晴らしい。
私は空の星を確認し、大体の時間を目測した。今回と比較して、どう変わっていくか、が重要だ。
静かなニコの息遣いと、ゆったり流れる空の雲。夜の雲は、うっすらと白く、ぼんやりと浮き出て見える。
ぐら、と頭が傾いた。はっとして、頭を上げる。寝そうだった、今。
「眠いなら、寝ていいよ」
気付いたようで、ニコはそう、静かな声で言う。
「いや……でも……」
「向こうの空が明るいし、もう朝になるよ。今日はもう、ないでしょ。俺、運んでくから、おいで」
眠い目を擦りながらニコに近づき、その腕に身を預ける。浮遊感があったかなかったかも近くできないまま、私は泥のような眠りに吸い込まれていった。いくら仮眠をとったとはいえ、徹夜というのは、この体には難しかったようだ。
ちなみにその夜(というか、朝)も、しっかり大蛇の夢を見た。今日は足蹴にしたら、蛇の方が逃げていった。初勝利である。




