2-7.空気の膜
「うーん……難しいな……」
ニコと考える「空気の膜」の仕組みは、なかなか難しいものであった。研究室にいた頃には、動物の腸で作った薄い膜なんかがあって、外側を振動が伝ってくるイメージを持たせやすかったものだが、ここには紙袋しかない。
「空気の膜……」
「あの……あたし、口を挟んでもいい?」
私とニコがうんうん唸っているのを、黙って見ていたサラ。二人の視線がそちらを向くと、彼女は一瞬口ごもってから、提案をした。
「ちょっと違うかもなんだけど……銭湯でお湯に浸かっているとき、人が入ってくると波が立つのと、似てるなあって気がしたりして……」
「……なるほど。そうだわ」
「え?」
空気の膜だから空気ということにこだわっていたが、イメージを持つという視点においては、それが水でも何でも変わりはない。
サラの発想は、新しく、はっとさせるものであった。
「どういうこと?」
「うーん……この桶を使ってみようかな」
部屋の隅に置きっ放しになっていた、手を洗う水を張るための桶。それは、ニコに初めて魔法を教えた日に使ったものである。
「ねえ、ニコ。ここに水を張って」
「いいけど……」
ざばあ。当然のように、難なく水が現れる。
「このくらいのことを、普通にできるようになったのね」
「そうだね。俺……成長したんだなあ」
しみじみ呟くニコ。この短期間で、水筒の水しか出せなかったニコが、空を飛び回り、風の渦で街中を綺麗にするだけの力を身につけた。
「ここに、手を入れてみて。それで、目を瞑って」
「……ああ、気持ち良いね、ひんやりして」
ニコが手を、水面に浸ける。手首ほどまでが、透明な水に包まれた。揺れる湖面の向こうで、彼の適度に焼けた肌がゆらめいて見える。
「目を閉じて、ニコ」
「……うん」
「今から、私が水面に手を入れるから。いつ手が入ったかを、感じ取って。神経を尖らせて」
「わかった」
目を閉じるニコ。睫毛を伏せ、静かに呼吸をしている。私は水面をじっと見つめ、先程立った波が、できるだけ鎮まるのを待った。
ゆらゆら小刻みに動いていた水面が、やがて、僅かな揺れになる。ほとんど水平になった水面へ、私は音もなく手を差し入れた。水音はならないものの、波紋が手から広がり、ニコの手まで伝わる。
「……あ、今でしょ」
「そう。わかった?」
「わかったよ。水が揺れたから」
ニコが目を開け、桶から手を出す。風を吹かせて、手についた水滴を軽く飛ばす。私が桶から手を引き抜くと、垂れる水滴を、同じように飛ばしてくれた。何気なく使う魔法の質が上がっていることに、ニコは気づいているだろうか。彼の生活に、着々と、魔法が息づいている。
「同じことを、空気でやるのよ。水に浸っている手が、水の揺らぎを感じたみたいに。空気の中にいる私たちは、空気の揺らぎを感じることができるの」
「空気の、揺らぎ……」
ニコは目を閉じる。自分の感覚に、集中しているのだ。
「イリス、ちょっと動いて」
私が手を挙げると、ニコがびく、と肩を跳ねさせた。
「……誰か、階段を上って来てる」
「え?」
「失礼致します」
ノックの音。「どうぞ」と声をかけると、ラルドが顔を出した。
「クッキーが焼けたので、いかがかと思いまして」
「ありがとうございます!」
クッキーの載った皿を受け取り、互いに会釈をして戸を閉める。
「……ラルドさん、隣の部屋にも、声をかけに行ったね」
「えっ……すごい。本当にわかるんですか?」
サラが目をぱちくりさせ、ニコに聞く。ゆっくり目を開けたニコは、頷いた。
「ありがとう、イリス。水の例えが、すごいわかりやすかった」
「アイディアを出したのはサラだわ」
「そうか。サラ、ありがとう」
「そんな、あたしは何も」
サラは照れたように頬を染め、毛先をくるりと指先で弄る。唇から覗く白い歯が眩しい。役に立つことは、嬉しいことなのだ。それは、サラのように魔法が使えないときには、特に強く感じられるものだ。
「……で、これを、西の壁全体に広げるわけ」
「そうか、壁に広げれば、余計なことを感知しなくて済むんだね」
「そう。膜状にしないと、何もかもが伝わってきて、頭が処理しきれなくなるわ」
私も、野営の時など、同様の膜を張って眠ったことがある。膜状にしないと、内部に寝る人々の動きが逐一伝わってきて、眠るどころではなくなるのだ。街中で使えば、それはなおさら。ひとりひとりの動きまで感知していては、頭が痛くなる。
ニコには予めそう伝えておく。彼も納得した様子だ。
「今のを、薄くしなくちゃいけないのか……ちょっとイリス、何度か扉を出入りしてくれない? 扉は開けっぱなしでいいから」
「わかったわ」
ニコの指示は的確である。自ら学び始めている証拠だ。私はベッドから立ち上がって、扉を開けた。ひょい、とそこから外へ一歩踏み出す。そのまま、ひょいひょい、と何度か出入りした。
「おや? お客様、どうされましたか」
「あっ……ちょっと、運動しようかと思って」
「そうですか……ここは通路ですから、お気をつけくださいね」
「はい」
その姿をラルドに見咎められる。どう見ても怪しい動きだ。しどろもどろになりながら適当な説明をすると、表情を僅かに緩め、注意を受けた。
ラルドの姿を見送ってから、足音が響かないよう余計に気をつけて、改めて出入りを繰り返す。
だんだん息が上がってきた。この体は、体力がない。はあはあという呼吸が、ぜえぜえとなり始めた時、ニコから「もう大丈夫」と声がかかった。
「大丈夫なの……?」
「え、イリス、大丈夫? 顔、すごい赤いけど」
「大丈夫。疲れただけ」
目を閉じて集中していたニコは、私の顔を見て、驚いて目を見開く。私は短く答えて、ベッドにどさりと腰掛けた。ぬるくなって丁度良い温度になったお茶の残りを、ぐっと飲み干す。人心地がついた。
「体力がないのよ……」
少し運動して、基礎体力をつけるべきかもしれない。
「俺も、ちょっと疲れたな。これ以上やると、具合が悪くなる気がする」
「いいんじゃない? 最近使える量が増えて、体調を崩すこともないから」
体調が崩れるほどに魔力を使うのは苦しいけれど、その先には多くの場合、成長がある。私の言葉に、ニコは「そうだね」と応えた。
「隣の道くらいまで、広げてみるよ」
「そんな、一気に……」
今までの魔法とは違い、この魔法は、範囲を広げると頭にかかる負荷が上がる。入ってくる情報量が、ぐっと増えるからだ。特にこの辺りは、人通りも多い。
止める間もなく、ニコはすぐに頭を抱えた。
「……やばい」
「人がいっぱい動いてた?」
「うん。こうなるの知ってたの、イリス。言ってよ」
「言おうとしたじゃない」
呻くニコは、私の体をぐっと引き寄せる。断りなく、魔孔に手を当てられた。
「えっ、ニコラウスさん……」
サラがぎょっとしている理由を、私は最近わかった。魔孔に手を当てて魔力を抜き取る行為は、知らない人から見ると、単に胸を触っているだけなのだ。
ニコだってそれに驚いていたくせに、サラの前で、躊躇なくそれをするとは。余程、体調に来たのかもしれない。
「これは、そういうのじゃないの」
「そういうのじゃないって、どういう……」
「……ありがとう、楽になった」
少しすっきりした表情で、顔を上げるニコ。サラが、ますます嫌そうな顔をした。
「……そういうことなの」
「そう。ニコは誰彼構わず胸を触るような変態じゃないから、安心して。普通の人は、魔力を抜かれるのも苦しいから、こんなこと私にしかできないし」
「いや、誰彼構わずとは思ってないけど……イリスちゃんは、ニコラウスさんの奥さんなんだから」
私が魔法を使えないことを明かし、魔孔について詳しく説明して、漸くサラの不名誉な誤解は解けた。ニコは、自分のことなのに、平気そうな顔をしている。私が苦労して説明するのは、なんだか違う気がするが、仕方がない。
「魔法が使えないことは、あまり言いふらさないで欲しいの」
「わかってる。あたしもだよ。お互いに、ね」
「そうね」
同じ問題を抱える彼女なら理解を示してもらえると踏んだのは、正解だった。約束、と言って、サラと左手の小指を絡め合う。約束を誓う、挨拶だそうだ。「指切りげんまん」と呟いて、指を解いた。
「そういえばイリスちゃんって、指輪はしてないんだね」
「指輪?」
「結婚指輪。そういう習慣って、王都にしかないのかな?」
「あっ……」
結婚指輪。そういえば、そんなものがあった。結婚した男女は、同じ指に、揃いの指輪をつけるのだ。それが結婚の証になる。結婚した研究仲間が、金属を捻じ曲げて自分だけの指輪を作るのを、手伝ったことがあるのを思い出した。
嘘がばれるのは、些細なことから。ここらが、嘘の限界だ。観念した私とニコは、顔を見合わせる。
「実は、私たち」
「俺たち、指輪はこれから買うんだよ」
私がしようとした説明と、真逆のことを、ニコが言う。嘘に嘘を塗り重ねている。嘘をつくのもサラに悪いし、ちゃんと説明すればいいのに。
咎める気持ちを込めてニコを見ると、ニコはわざとらしく、「ね、イリス」と念を押した。
ここで違うと否定するのも、ますます混乱を招く。言葉が二転三転したら、サラの信用も失うだろう。
「そうね」
諦めて肯定すると、サラは「素敵ね」と、自分のことのように嬉しそうに言った。