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1-28.日常に変わる

 部屋の温度が、ぐっと下がる。冷たい空気が一瞬のうちに、部屋を支配したのだ。私は、ニコに借りた服を羽織っている。冷気を出す練習をし続けたこの部屋は、外の暑さからは想像もできないくらい涼しい。


「今の、できたんじゃないかしら」

「そうだよね……もういい?」

「いいわ」

「ふぅー……」


 ニコが、深く静かな溜息をつく。私の隣にどさっと腰掛け、頭を下げて両手で抱えた。疲弊している様子だ。


「空を飛ぶときに今のを応用すると、必要以上に風を浴びなくて済むのよ」

「本気で言ってる? イリス、君って本当に、すごい魔導士だったんだね……」

「私のすごさがわかるようになったなんて、ニコも立派な魔導士の仲間入りね」


 自分の想像が及ばない範疇のことは、すごいのかどうかも、理解できないのが普通である。ニコの今の発言は、彼なりに「飛びながら周囲の風を操作する」ことの大変さを想像し、理解したということ。想像できたのなら、実現できる日も近い。そういうものだ。


「大丈夫、ニコならできるわ」

「いや……俺、室内を涼しくするのが、精一杯だから」

「それができれば、工夫次第で、王都全体も涼しくできるって」

「それは無理だよ……」


 項垂れたまま、ごにょごにょと、ニコは言う。そう思うのも、仕方がない。


「今はね。魔力の節約をしないと、さすがにそれは無理だわ」


 ニコが今やっている魔法の使い方というのは、要するに、力技である。実現したい事柄に向けて、フルパワーで魔力を消費する。だから消耗が早いのだ。今日は、使える魔力の幅を広げるために敢えてその状態で魔法を使ってもらったけれど、本来なら、魔力を節約すれば、魔法はもっと使いやすくなる。


「そんな方法があるの?」

「まあ、ちょっとしたコツが、ね。一度に使える魔力は、今日ずいぶん増えたと思うの。それで節約を覚えれば、文字通り、ニコは百人力ね」

「早く教えてほしかったよ……」

「それじゃ意味ないのよ」


 魔力の節約は、小手先みたいなものだ。無論、極めれば絶大な力を発揮するのだけれど……力押しで使える魔力を増やす方が、即効性がある。


「ああ、だいぶ楽になってきた」

「良かった。お風呂に入りに行く?」

「そうだね」


 ゆるゆると首を振り、ニコは顔を上げる。顔色が悪いなりに、先ほどよりは、はっきりとした顔をしていた。少しずつ魔力が回復してきたのだ。

 私とニコは連れ立って、銭湯へ向かう。いつの間にか、日は落ちかけている。遠くの空はまだ橙色に明るいが、頭上には紺色の空が広がっていた。もうすぐ、涼しい夜がやってくる。


「もう、この道も何回も通ったね」

「そうね……不思議だわ」


 銭湯に通って、ラルドのいる宿に帰って、二人で眠る。起きて、リンゴを食べて、詰所に向かう。そんな、以前の私では想像もつかないような日々が、もう日常に変わりつつある。

 それに。


「同じ人とこんなに長い間一緒にいて、嫌にならないのも不思議だし」

「そうなの?」

「そうよ。私、あんまり一つの場所に留まらない生活をしていたから」


 かつての私は、王国中を飛び回る生活をしていた。もちろん拠点は王都にあって、研究仲間ともそれなりに生活を共にしていたものの、ニコと私のように、目的も居場所も常に同じということはなかった。

 なぜニコといるのは平気なのか、よくわからないけれど。私が魔法を無くしたからなのか、ニコの人柄のなせる技なのか。何にせよ、それほど嫌な気持ちはしないのであった。


「ふうん……じゃあ、イリスは結婚とか、してなかったの?」

「えっ? してるわけないじゃない」


 暫く考えていたニコの突拍子もない質問を、私は反射的に切り捨ててしまった。結婚なんてこと、考えもしなかった。私は一人でも充実した人生を歩んでいたし、むしろ結婚なんてしたら、そこに留まらなければならないではないか、って。

 ああ、でも、死に際したときには、結婚しなかったことを後悔したのだった。私の病を心配して、気にかけてくれる人はたくさんいたが、彼らが惜しんでくれたのは、魔導士である私であった。一人ぐらい、私自身の身を案じる人がいても良かったな、と一抹の寂しさを覚えた記憶がある。


「すれば良かったかも、とは思うわね」

「そう。なら、俺とすればいいね。どうせ夫婦を名乗っているわけだし」

「え? 何言ってるのよ」


 適当な提案をするニコに、私は小さく吹き出した。


「そんな簡単な話じゃないでしょう。夫婦を名乗ったせいで恋人を作れないなら、宿を変えて、兄妹でも旅仲間でも、何でも名乗り直せばいいわ」

「構わないよ。イリスにその気がないなら、まだいいさ」


 ニコの言い方は何らかの含みを感じさせるものではあったが、何が含まれているのか、察することは難しかった。人の気持ちを想像するのは、苦手分野なのだ。


「俺は結婚したいけどね」

「ああ、そうだったのね。それは、悪いことをしたわ」


 かつての私と違い、ニコには結婚願望があるらしい。だとすれば、私が「妻」を騙っているのは、なかなか微妙なものがありそうだ。

 他人の人生を良い方向に変えることには興味はあるけれど、悪い方向に変えることには、全然興味がない。私が妻を名乗っているせいでニコが結婚相手を探せないのなら、それは近々、訂正しないといけない気がする。


「何にも悪くないけど。イリスは気にしないで」

「わかったわ」


 これ以上言い合っても、ニコは「気にしない」としか言わないだろうから、私はそこで会話を切り上げた。


「いらっしゃい、お二人さん!」

「こんばんはー」


 銭湯の女主人のマーズとも、もうすっかり顔馴染みになった。私も慣れてきて、最近は彼女の大声にも驚かず、挨拶を返すことができている。

 脱衣し、湯を浴び、さっぱりして受付に戻る。手馴れたものだ。


「お帰り、イリス」

「ああ、さっぱりしたかい?」


 私が上がると、ニコは楽しげに、マーズと談笑していた。つくづく、その才能が羨ましい。魔法という最大の武器をなくした今、私も、人とうまく関係を築くことの必要性を感じていた。


「さっぱりしました。いつもありがとうございます」


 ニコの真似をして、礼を言ってみる。マーズはくしゃっと、目のなくなる微笑み方をした。


「いいのよ。また来なさい」


 温かい声で、送り出される。そんなに、悪い気はしなかった。


「いい気分だわ」

「こんなに暑い街でも、お湯に浸かると、癒されるよね」

「本当ね。疲れは取れた?」

「あとはゆっくり寝れば、もう大丈夫」


 歩く人もかなり減り、静かになった街のぬるい空気の中に、私とニコの声がぼんやり響く。


「ただいま戻りました」

「お帰りなさい、お客様」


 夜はこうして更けて行き、私は今夜も、大蛇に締め付けられる夢を見るのであった。

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