1-24.ふたりで空中散歩
ニコは自分の足を見下ろす。
「できれば、進行方向を見たほうが良いわ。今なら、空を見上げて。足元の感覚は、わかるでしょ。自分の足なんだから」
「……見えないと、怖いね」
「大丈夫。自分の体の輪郭を、イメージして。それだけの体を持ち上げる強い風を、下から吹き上げるの」
ニコは両手を広げる。一瞬、強い風が吹き、両腕で風を受けたニコの体が、ふっと浮く。その後、より細く研ぎ澄まされた風に乗って、彼の体は上昇した。
「飛んでるよ! イリスー!」
頭上から降ってくる声。手を振るニコに、私は手を振り返した。私が先ほどいた位置の、たしかに倍ほどの高さ。あれだけ高いところにいても、恐怖を感じないあたり、ニコは高所に強いようだ。
良かった。高所恐怖症だと、いくら魔法が使えても、空は飛べない。
空中で風を操ることにもすぐ慣れたようで、ニコは体を縦に浮かすだけではなく、前後左右にすーっと移動させることを繰り返してから、ゆっくり地面に戻ってきた。
「最高の気分だったよ!」
その目は、ぎらぎらと輝いている。
「俺、空飛んじゃった!」
「空を飛ぶって、楽しいわよね」
空を飛ぶことは、人類の夢だった。風で空を飛べることが発見されて以来、頭を下にした飛込飛行や、宙返りを繰り返す急転飛行、数人で息を合わせる複合飛行など、さまざまな技が編み出されてきた。私も飛ぶのは好きで、特に高速飛行に執心していた。国の端から端まで、一日で移動できるほどの高速飛行を実現したときは、もう、目も眩むような爽快感を味わったものであるが……そんな素晴らしい飛行技術も、今となっては、誰も受け継ぐ者はないようだ。
「じゃあ、次は私も一緒に飛ばせて」
「できるかなぁ……」
「離れてるとやりにくいから、くっつかせて」
かつて私は、落石により崖に閉じ込められた商隊を救出するため、数十人規模の人を飛ばしたことがある。それぞれの体型や重さを考慮し、バランスを崩さないように気を配りながら飛ばすというのは、けっこう頭が疲れるのだ。
ましてニコは、今日初めて飛んだばかりのビギナーである。負担を軽減するに越したことはない。
ニコの広い背中に後ろから手を回すと、彼の体が、少し強張った気がした。
「楽にして。緊張すると危ないから」
「イリス……君、俺とくっつくの嫌じゃないの? 砂埃も浴びてるのに」
「別に? 空を飛ぶためには、ニコの力を借りないといけないもの」
はあ、と溜息が聞こえる。息を吐いたことで力の抜けたニコは、「いくよ」と声をかけた。
「おっ……と」
「あっ」
頭ひとつぶんくらい浮いたところで、ぐらりと後方に傾く。私の分の重さが加わったせいで、魔法の調節が難しくなったのだ。
ニコにしがみついてやり過ごそうとした私だが、この肉体は、力が弱い。傾く勢いに耐えられず、手が離れてしまった。
どさ。大した高さではない。後ろに転んで、尻餅をついた私。
「ぐえっ」
その上にニコが転んで来て、カエルの潰れたような声が出た。重い。転んだことより、こっちの方がよほど苦しい。
「降りて……」
「ごめん、イリス。難しかった」
「二人分だから、仕方ないわ。もう一回試しましょう」
ニコに次いで起き上がる。眉を下げて、本当に申し訳なさそうにするニコだが、私は特に気にしていなかった。失敗は当たり前。
「イリスが嫌じゃなければ、俺がイリスを抱えてもいい?」
「……構わないわ」
「後ろから抱きつかれるより、その方が良い。見えるからイメージできるし、その……重さもわかるし」
体重について触れるときに言い澱むあたり、さすがの紳士である。
「おいで、イリス」
「いいの? 本当に……」
「いいよ。田舎では、ちびたちを高く掲げて遊んでやってたんだ。……うん、軽い軽い」
ニコに近づくと、彼は私の膝と背に腕を添え、ぐっと持ち上げる。横抱きにされた私の視界に入るのは、ニコの顎と、青い空。
「ニコって、鼻が高いのね」
「下から見てるの? 辞めてよ、恥ずかしい」
顎が動いて、ニコが話す。こんな位置から人の顔を見たのは、私の記憶の中では、初めての経験だ。
「やってみるよ」
今度の飛翔は、安定感があった。ふわ、と浮き上がった体が、そのまま上昇していく。耳元で、ひゅうひゅうと風の音が鳴る。顔を横に向けると、先程まで見上げていた家の屋根を直ぐに見下ろすようになり、さらに上へ。
「ここが、さっきと同じ高さかな」
「良い気分ね」
そのまま、空中に停止する。風の力で宙に浮くには、落ちる速さと同じだけの量の風をぶつければ良い。理屈の上ではそうだが、実際はそんなこと考えなくても、感覚的に風の量は調整される。ニコは今、そうした高度な調整を、無意識に行っているのだ。
遮る物のない上空では、太陽も風も、四方からやってくる。暑いし、風は強いし、快適とは言い難い環境。それでも心地よさがあるのは、高いところから眺める、この景色があるからである。
連なる家々は、王都の区画に応じて、整然と屋根を並べている。その間を、忙しく歩く人々。同じような景色を、ずっと遠くまで、見渡すことができる万能感。
「あれが、王城だわ」
似たような高さの建物が並ぶ中で、ぽこんと頭を出しているものが、いくつかあった。図書館。教会。何よりも大きくて目立つのが、王城である。この肉体では、初めてーーそして久しぶりに見る王城は、砂によってくすんでいるものの、相変わらず荘厳な姿であった。
「俺、王城を見られるなんて思ってなかったよ。市民は、あの辺りには入れないらしいから」
「そうなの?」
「又聞きだから、本当かわからないけどね。俺も、王城を見に行くどころじゃなかったし」
私の知る国王は、市民による「陳情」も危険さえなければ受け入れる、心の広い人だった。国を束ねる者として、弱き者の言葉にも耳を傾けて、より良い方向に導く者。それが王としての理念だと聞いていた。
いったい、どんな理由があって、王城に市民が立ち入れなくなっているのだろう。
「街の様子を、上から見たいの。だから、もう少し上がりましょう」
「わかった。どのくらい」
「人が、豆粒に見えるくらいまで」
ぐんぐん上昇する、高度。リクエスト通り、ニコは人が豆粒に見えるくらいの高さまで上がってくれた。この高さからなら、見晴らしも良く、それでいて、道の様子もよくわかる。街の全体像がどうなっていて、砂はどの辺りにどう溜まっているのか。目で見て確認するには、ちょうど良い高さである。
地図の通り、王都は整然と区画されている。規則正しい、道の配列。門に近い、この辺りでは、通行者が多く、活気がある。これがもう少し王城に近づくと、家の雰囲気も、道の様子も変わるのだろう。
「動いていい?」
「うん、お願い」
ニコは、風を背後から吹かせて、前に進む。住宅街は、先を見ても、変わらない景色。同じような屋根が並び、同じような雰囲気の道が続く。ところどころ吹き溜まりが現れ、見たことのある規模の砂山が出来上がっている。
予想通りの光景。それが、王城へ近づいていくと、街の様子が怪しくなってきた。
「うわあ……」
図書館や教会のある辺りを通り過ぎた、王城の左右に広がる空間。そこは、門付近とは比べものにならないほど、砂に覆われていた。道路に降り注いだ砂が、左右に寄せられ、砂の壁を形成している。人の数も少なく、ほとんど砂に埋もれかけた建物もある。
「ここまで手が回っていないんだね」
「まあ、そうよね……」
砂出しの詰所から遠い、この辺りから、砂を門まで運んで行くのは至難の技だ。手作業で、少人数で行う仕事に、そこまで求めるのは高望みが過ぎる。
この位置からは王城の城壁も確認できるが、あの辺りはさすがに、砂は掃き清められ、手入れが行き届いているようだ。しかし、その程度である。
「奥も見に行く?」
「ううん、そっちは良い」
王城の周囲が綺麗なのだから、その奥の、貴人の生活空間もそれなりに保たれているだろう。こちらから、その生活空間は覗くことができない。高い壁で区切られているからである。
さすがに、あちらには、力のある人間もいるはずである。だからまずは、庶民の生活を向上させる方が優先。私はニコの申し出を断り、詰所まで戻ることにした。
「もう、飛ぶのにもすっかり慣れたわね」
「うん。鳥になった気分だ。もっと高く飛べるよ」
一度飛んでしまえば、飛ぶための仕組みは変わらない。下から風を吹き上げ、進行方向に向かって風を吹かせるだけなのだから。ニコは楽しそうに風を起こし、私たちの体を、また一段押し上げた。
「あれっ?」
「え?」
ニコが声を上げるのと同時に、体が、がくんと下がった。
「ごめん落ちる!」
下から吹き上げる風は、飛ばすためのものではない。落ちているから、その分、風を感じるだけだ。
「風を起こして!」
「やってるんだけど!」
確かに落下速度は緩やかだ。ニコなりに、魔法を行使しているらしい。それでも屋根がぐんぐん近づいてくる。この勢いで衝突したら、大怪我は免れない。
何が起きた? 魔力を使いすぎた?
迷ってはいられない。私は、背に触れるニコの手を強引に掴み、自分の胸元まで引き寄せた。魔孔の辺り。途端、ぶわっと強烈な風が吹き、体は再び浮遊した。
「……っぶねえ、落ちると思った」
ニコの顎から、ぽたりと汗が落ち、私の服を濡らす。
「肝が冷えたわね」
緩く吹く風に、ふるりと肩が揺れる。かいた冷や汗が余計に冷え、寒さを感じた。
「そこに降りて良い?」
「いいわ。ゆっくりね」
結局私たちは、図書館の近くに、下りてしまった。
「ごめんなさいね」
「いや、俺の方こそ。怖い思いをさせたね」
「私は平気。ニコこそ、大丈夫? ……気持ち的に」
魔法の新しい使い方を試すときには、命の危険を感じるような場面に出くわすことも多々ある。冷静でさえあれば、そうした状況も、魔法の力でなんとかなる場合も多い。
例えば今回だったら、落ちた原因は、おそらく魔力の使い過ぎ。「なくなった」というのではなく、今まで経験したことのない量を、一度に使ったから起きたことだ。落ち始めた時点でそれを察し、一旦魔法を全て止め、地面ぎりぎりで風を起こして、再度飛ぶこともできる。
それでも、その対策を練らずにいきなり長時間飛んだのは、私の失態であった。ニコが強い恐怖を感じてしまったら、それが魔法を使えない原因になる。
「大丈夫。イリスが助けてくれたから」
「何もしてないわ」
「そんなはずないよ。どうしてイリスの……イリスに触ると、魔法が出るの?」
今回は、ニコの一時的に減った魔力量を、私の内部にあるものを分け与えることで、強制的に増加させたのだ。
魔孔に手を当てると、魔力を吸い出せる場合もある。その辺りのことを説明すると、ニコは初めて聞いたと目を丸くしていた。
一般の人は、それすらも知らないのか。私たちは魔法の知識を普及させようと努めていて、私自身は志半ばで死んでしまったわけだが……その後の成果は、芳しくなかったらしい。
「イリスが胸ばっかり触らせるから、変態なのかと思ってたよ」
「はあ? そんなわけ、ないじゃない!」
「うん。理由が今わかって、安心した。ありがとう」
私とニコは、砂を踏みしめながら、ゆっくりと詰所へ戻った。