1-19.イリスの告白
「ゆっくりできたかい?」
「はい」
銭湯の女主人であるマーズは、いつでも、声が大きくて元気が良い。頭から湯を浴び、砂と汗を流してさっぱりした私は、出迎えてくれたマーズに微笑みを返した。
「……あれ、いない」
辺りを見回すも、ニコの姿はない。まだ出てきていないのだろうか。
私はその場に佇んだ。沈黙。なんとなく、間が持たなくて落ち着かない。ニコはこんな時、私を待ちがてら、マーズと楽しく会話ができる人だ。私はどちらかというと、そういうのは苦手な性質である。
私はちらりとマーズを見た。マーズは特に私のことを気にしていない様子で、何やら仕事をしている。こめかみを押さえて、難しそうな顔つき。
……忙しそうだし、話しかけたら迷惑だろうか。だけど、ここには二人しかいないのに、話しかけないのは愛想が悪いかもしれない。そもそも話しかけるにしたって、何が良いのかわからない。悩むだけで、声がなかなか出なかった。
「あれ、イリス。今日は早かったね」
「ニコ!」
ぐるぐると思考が回っていた私の肩を、ぽんと柔らかく叩かれる。もう聴き慣れた声に、自分でも驚くほど、喜んだ声が出てしまった。気まずい状況から解放された、安堵感もあっただろう。
濡れた髪をかきあげながら、ニコはマーズに顔を向ける。
「今日も良いお湯でした。ありがとうございます」
「仕事で疲れた体には、あったかいお湯が一番だからねえ。旦那さんも、あんたも、お疲れ様」
たった一言。ニコが声をかけただけで、マーズは表情を和らげ、話しかけにくい雰囲気は緩和される。
その一言が、言えないんだよなあ。昔、家族との会話の中でも、「イリスは一言足りない」とよく言われていたのを、不意に思い出した。大人になってからは、自分と似て人付き合いの苦手な仲間とばかり一緒にいたから、そんな指摘を受けなくなったのだ。
「ニコって、人付き合いが上手よね」
「えっ? そんなことないよ」
宿へ向かう、帰り道。ほんのり冷えた夜風に当てられ、濡れた髪をなびかせながら、ニコは驚いたように目を丸くした。
「そんなこと、あるよ。私、うまく話せないもの。銭湯のマーズさんとも、宿屋のラルドさんとも」
「ふーん……言われてみればそうだけど、リックとは普通に話せているじゃない」
「リックは……弟子だから」
教える立場になると、何を言ったらいいのか、はっきりしている。だから話せるのだ。世間話とは、少し違う。
私の言ったことが何かおかしかったのか、ニコはくすりと笑った。
「普通の、世間話ができないの」
「そんなの簡単なのに」
「私には難しいの」
自分の能力が足りないということをありありと感じたのは、久しぶりだった。魔法は大得意だったし、それによって、多少の難は見逃されてきた。「イリス・ステンキル・ブロット」という賢者の名を失った、ただの少女になったことで、改めて、自分の弱点が目につくようになったのだ。
「じゃあ俺が、世間話を担当するよ。イリスは魔法担当。ちょうど良いね」
「そうかしら。私、魔法は使えないのに」
「君の知識は、何にも代え難いよ。イリスの代わりに、俺が魔法を使う。支え合いだね」
「支え合い、か……」
支え合いなんて言葉に、自分が巻き込まれるとは思わなかった。
私は今まで、たくさんの人を支えてきたという自負がある。困っている人々の悩みを、魔法の力で解決する。そうして得た感謝を胸に、また新しい課題に取り組む。無論、その意欲は、誰かからの感謝や仲間との絆に支えられていた。しかし、「足りないところを補ってもらう」という意味での支え合いには、新鮮味がある。
「自分のできないことを肩代わりしてもらうなんて、気が引けるわ」
「そう? 当たり前のことだよ。人は足りないから、支え合えるんだから」
「そっか……」
「イリスが完璧だったら、俺の助けなんかいらないからね」
言いながら、ニコは宿の扉に手をかける。軽く軋んで扉が開き、中から室内の明かりがこぼれてくる。
「ただいま、ラルドさん」
「おかえりなさいませ、お客様。夜分遅くまで、お疲れ様でございました」
「……ありがとうございます」
「奥様も、お疲れ様です」
ラルドの柔和な笑顔が、私にも向けられる。ニコが、私の頭をさらりと撫でた。
「ちゃんと話せてる。それでいいんだよ」
「そう……」
褒められると、心がぽわっと温まる。単純なのだ。つい、照れたような笑いを浮かべてしまいながら、私は部屋に向かった。
「お茶、美味しいわね」
「働いた後に、こうしてお風呂に入って、ゆっくりお茶を飲んで……田舎では、こんな贅沢、想像できなかった」
ラルドがサービスしてくれたお茶を、座って飲む。熱い茶が喉元を通り、最後に淡いお茶の香りが鼻を抜ける。
ほう、と同じだけの長さ、吐息が揃った。口からカップを離すと、同じ姿勢のニコと目が合う。彼は目元と口元を緩める。
「魔法が使えるって、素晴らしいことだね」
「ええ。それを知らない人に広めることが、私の夢なのよ」
魔法を使えば、なんでも実現できる。私の考えは、たとえ肉体が変わっても、変わらない。
「イリスって、本当に記憶喪失なの?」
つい熱くなってしまった頭が、ニコの問いですっと冷えた。私はニコに対して、記憶喪失だと誤魔化している。自分の名前も年齢も、住んでいる場所もあやふやなことを。
それでいて、これだけ明瞭に魔法や自分の目標について語っていたら、疑われるのも無理はない。
「んー……」
どうする? 真実を告げることは、リスクがある。「死体に精神が入って蘇った」など、常人には理解できないはずだ。理解できないものに、人は畏怖を抱く。ここでニコが、私に対して得体の知れないものへ抱く恐怖を覚え、放り出されたら、露頭に迷う。
では、このまま誤魔化し続けるのか。いくら待っても「記憶」は蘇らないし、私の言動には、辻褄の合わない部分がたくさんあるだろう。何より、気を遣って真実でないことを言うのは、精神的に疲弊する。
私を見つめるニコの、澄んだ黒い瞳。純粋な瞳が、私に、前者を選ばせた。
「実は私、イリス・ステンキル・ブロットっていうのね」
「ああ、やっぱり覚えてたんだ」
「そう。……驚いたと思うけど」
「驚かないよ。記憶喪失にしては、ずいぶんはっきりものを言うなと思ってたから」
意を決して発した言葉は、案外あっさり受け止められた。ニコの反応は、単に「イリスはやっぱり記憶喪失ではなかった」程度の受け止め方でしかない。
「私の名前……聞いたことない?」
「ないよ。王都では有名な人なの?」
そんな気はしていたが、私の名は、九十年経った今では、誰の記憶にも残っていないのだ。私は肩を落とす。あれだけの「奇跡」を起こしたのだから、少しくらい「あの、イリス?!」的な反応があってもよいと、期待してしまった。
「ううん。いいのよ。私が抱えている事情は、ただの記憶喪失より、少し複雑なの」
「それ、俺に話しても構わないの?」
「構わないわ。突拍子も無い話なんだけど、聞いても気持ち悪く思わないでね」
気休めの前置きをして、私は今までの経緯を端的に話す。ニコは徐々に目元が険しくなり、顎に手を添えて、うーん、と低く唸った。
「つまりイリスの中身は、九十年前の、俺と同い年くらいの女性ってことね」
「そう」
「で、その体は本当に砂漠で死んでて、そこにイリスが入ったんだ」
「そういうこと」
「へぇー……」
常識外れの話にも、ニコは案外、理解を示した。
「俺、魔法に詳しくないから、イリスの心? がその体に入っていることのすごさが、よくわからないんだけど。それって、他の人にはできないんだよね?」
「ええ、おそらく」
理解度の高さは、私の予想を超えた、無知ゆえのものらしい。彼は、魔法を使う上での前提となる常識を知らないのだ。何にせよ、過剰な反応をせずに話を聞いてくれて、私は安堵した。
「じゃあ、他の人にはむやみに話さない方がいいんだね」
「そうなの」
なるほど、と頷く。ニコはそこで、複雑な表情を和らげた。
「俺に話してくれて嬉しいよ。信頼してくれてる、ってことだろうから」
「信頼……してるわ。確かに」
優しい彼なら、という信頼感は、間違いなくあった。
「それに、イリスがあんまり大人っぽいから、俺、自信をなくしてたんだ。中身が大人なら、納得」
「それは、悪かったわね」
私の肉体は、十代半ば。精神年齢と十歳は乖離しているのだから、ニコの言うことはもっともだ。
「帰る家も特にないなら、俺も心配しなくていいし」
「好意的に受け止めてもらえて、何よりよ」
最悪の想定は、ニコに気味悪がられ、部屋を追い出されること。それから考えれば、私の告白は、大成功だったと見える。
「……じゃあ、寝ましょうか」
空のカップを置き、そう促した。部屋の電気を消し、ニコと私は、それぞれベットの端に寝転がる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
その夜、私はまた、大蛇に巻き付かれる悪夢を見たのであった。