1-13.就寝問題
「あんた、昨日の! もう体調は、大丈夫なのかい?」
銭湯の戸をくぐった途端、大きな声をかけられる。
「こんばんは、マーズさん」
「ああ、こんばんは、旦那さん」
目を吊り上げていた彼女は、ニコが話しかけると、目尻を僅かに垂らす。
「おかげさまで、元気です。昨日はご迷惑をおかけしました」
「いいんだよ、元気なら良かった」
相変わらず、物言いはぶっきらぼう。怖い印象があるだけで、言っていることは優しい。
「この服、明日にはお返ししますね」
私が服を示して言うと、大袈裟に「いやいや」と片手を顔の前で揺らす。
「いいのよぉ、娘はもう着られないから。あんたにあげる」
「でも……」
「気に入らないならうちで捨てるけど、どう?」
実際、服は足りていない。
「じゃあ……ありがたく」
「そうしてそうして! その分、うちの銭湯に来てくれればいいから!」
豪快な大声。それに圧倒されていると、ニコがカウンターに硬貨を置いた。
「はーい。ごゆっくり」
「イリス、寝ちゃだめだよ」
「わかってる」
私は、同じ失敗は二度繰り返さない。
二度目ともなれば、銭湯での振る舞いも慣れたもの。頭から被った砂を綺麗に落とすため、念入りに身繕いをした。
ニコが買ってくれた新しい服を着て、脱衣場を出る。さっぱりした。
「あ、出てきたよ」
「イリス。良かった」
ニコはカウンターにもたれかかり、楽しげにマーズと話をしていた。風呂上がりに着替えたようで、ニコもさっき買った、王都風の服を着ている。薄手の生地を着ると、意外と胸板が厚いのがわかる。これはこれで、印象が変わって良い。
「似合うね、その服」
「そう? ありがとう」
「美男美女じゃないか。羨ましい夫婦だねえ」
ニコを褒めると、マーズがそれに被せてくる。
「また来ますね」
「外は暗いから、気をつけて」
マーズに見送られて外に出ると、濡れた髪が外気に触れ、涼しさを感じた。
「美男美女だって」
「イリスは可愛いけど、俺はついでだよ。リップサービスってやつ」
「可愛いの? 私」
頬をぺた、と触る。この肉体がどういう顔をしているのか、私はよく知らない。窓に映る自分を見たことはあるが、ぼんやりして、はっきりとはわからなかった。
私は研究に生きていたから、可愛いとか美人とか、そういうものに価値を置いていなかった。周りの人もそうだった。だから、「可愛い」なんて褒め言葉は、違和感がある。
「……可愛いよ」
「そうなんだ」
「今の、言わせたかったんでしょ」
くす、と笑うニコ。からかわれた気がして、私はむっとした。言わせたいわけじゃない。ただ、違和感があっただけ。
「違うんだけど」
声のトーンを落として言うと、ニコは「ごめんごめん」と慌てて謝った。
「おかえりなさい。今日もお疲れ様でございます」
「ありがとうございます、ラルドさん」
宿屋では、主人のラルドが出迎えてくれる。夜でも相変わらず、折り目正しく、品がある振る舞い。
「部屋は、空きましたか?」
「いえ……申し訳ありませんが、皆さま、長期滞在を考えていらっしゃるようで」
ニコが訊くと、俯いて首を左右に振るラルド。昨日提案した別室での滞在を、ニコはまだ考えてくれている。ニコも紳士的だ。お金もかかるし、私は特に気にしていない。
「帰ってきたわね」
「今日は、なんだか長く感じたよ」
「いろいろなことがあったから」
どさ、とニコはベッドに座る。私は椅子に腰かけた。
「砂出しの仕事、楽しかったわね」
「砂出しが、というか……魔法があんなに使えて、楽しかった」
「私もニコがすぐに上達するから、楽しかったわ」
私の助言を素直に聞き入れ、魔法の腕を短期間で着実に上げたニコ。優秀な弟子がいると、教えるのが楽しいのは、前も今も変わらない。
「昼も言った気がするけど……イリスのおかげで、俺の人生は、変わると思う」
「魔法の腕は、人生も変えるものね」
「そうなんだよ。本当に……ありがとう。出会えて良かった」
ニコが差し出した手を私は握り、互いの手を、ぎゅ、と握り合う。握手を終え、手を離す。ニコの手は、意外と大きくて、温かかった。
銭湯で温められた体から、少しずつ温度が抜ける。人の体は、温まってから冷えていくうちに、眠くなるようにできている。自然と、欠伸が出た。
「魔法もいっぱい使ったし、もう疲れたでしょ。……寝る?」
「ああ……ううん、まだいい。イリス、寝てなよ」
ニコは立ち上がり、私の背を軽く押す。促されるままに椅子を立って、ベッドに腰掛けたものの。
「そういえばニコは、昨日どこで寝たの?」
「うん? ちゃんと寝たよ」
言われたことに答えずに誤魔化すのは、私もよくやる技。何か言いたくないことがあるのだ。ニコの目元に、疲れの色が見えた。
「ちゃんとって……どこで?」
「うーん、ここ」
「ここ、って……」
ニコは今、椅子に座っている。ニコは今朝も、私が起きたとき、椅子に座っていた。
「座ったまま寝たの?」
「……まあ」
「駄目だよそんなの、疲れちゃうじゃない」
部屋には当然、ベッドはひとつ。私がそこに寝たらニコがどうするのか、そこまで考えが及ばなかった。
そもそも最初は、別室での宿泊を提案していたニコ。こういう配慮がなされることは、予想しておくべきだった。
「今日は私が、椅子で寝るから」
「座って寝ると、体が痛くなるからダメ」
「それ、経験談でしょ」
ニコは昨日椅子に座っていたから、体が痛いのだ。私は顔を顰める。そんなことを続けたら、すぐに体を壊してしまう。高いパフォーマンスを維持するために、睡眠は必須である。
「ベッド半分こして、一緒に寝ない?」
「え? それは……」
「私、別に気にしないよ」
研究室では、気づけばソファに何人か折り重なっていたり、床で眠るうちに手足が絡んだり、そんなこともあった。異性でも、同性でも関係なく。さすがに男性と同じベッドで寝たことはないが、似たようなものだ。
「ニコは変なことしないだろうし」
「どうしてそう思うのさ」
「変なこと考えてるの?」
「考えてないけど」
聞き返すと、ニコは不機嫌そうに答える。変なことを、考えるはずがない。行き倒れていた見知らぬ人を助け、初対面でも多くの人と打ち解けるニコ。その優しさと誠実さは、この1日で、私にもよく伝わった。
「なら、問題ないじゃない」
「あるでしょう、問題は……」
まだ何かぶつぶつ言うニコだけれど、私は敢えて聞こえないふりをする。
「そっち空けとくから、寝てね」
私は横たわり、ベッドの奥に寄る。強引に一緒に寝かせるのも違うし、あとはニコの判断に任せよう。
目を閉じて暫く待っていると、本当に眠くなってきた。今日は疲れた。手足の力が抜け、全身がぽかぽかする。私の意識は、すぐに、夢の世界へ引き込まれて行った。