受付嬢に届く春の便り
読んでいただいた方に感謝を。
「また数字が間違ってるよ。ジェシカ君。チェックは必ず二重にね。」
もう陽もとっぷりと暮れて日付も変わろうかという頃、ギルド窓口の奥にある事務所では、ジェシカと窓口係長が帳簿の計算をやり直していた。
「はい…すみません…。最初から見直します。」
この仕事は本来はジェシカのものでは無かった。
いつも隣に座っているユッタが今日はどうしても外せない用事があると言うので、仕方なくジェシカがやる事になったものだった。
だが、その帳面は計算ミスや記載ミスが多すぎて、最初からやり直した方が早いのではないかと思うような状態だった。
だが、帳面については、数字を直した場合、必ず訂正と確認のサインをしていかねばならない。最初から作り直すのが許されるなら、簡単に横領が出来てしまうからだった。
「おつかれさまです。」
やっと帳面の精査が終わり、金額も賤銅貨一枚単位まで合った。ジェシカはホッと胸を撫でおろすと、ギルドを出て自宅へと歩き始めた。
*
ジェシカはギルドの受付嬢をしている。
毎日の煩雑な仕事が終わり、ギルドを出る頃にはすでに日付が変わるか変わらないか。
そんな生活がずっと続いていた。
自宅に帰っても、湯船に湯を張る気にはならず、お湯をかけ流して身体を洗い、後は朝まで死んだように眠る。
たまの休みも外に出る気すら起こらず、起きたら昼を回っている事もざらだった。
「はあ…。わたし何やってるんだろ…。」
都会での生活にあこがれて街へと出て来たものの、仕事に追われて買い物に行く事すら出来ない。
ご飯はギルドで出されるお弁当だけ。
それでもジェシカは毎日仕事に行き、窓口では笑顔を振りまいて、その業務が終わってからは数字と格闘していた。
茶色い髪に瓶底のようなメガネを掛けた新任の窓口係長は、極端に数字に細かい。
彼がチェックを入れれば必ず誰かのミスが見つけられ、直すまで帰れなくなるので、ジェシカは彼の事が好きになれなかった。
「ただいま…。」
やっと自宅のアパートメントに着いたジェシカは、真っ暗な部屋に向かって一人つぶやくと、魔力を熾してランプに火を付ける。
同じくらいの年代の娘は、皆下宿に入るのがいっぱいいっぱいだったが、ジェシカはそれなりに広い部屋を借りる事が出来ていた。
たまに同郷の娘と食事に行けば、その生活を羨ましがられはするものの、帰って寝るだけの暮らしなら下宿でも良いんじゃないかとジェシカは思う。
*
ジェシカを悩ませるのはそれだけでは無い。
初心者の冒険者は、早く上の魔物を討伐させろと言ってくる。
身体の大きなハンスと言う男は、いい仕事を回せと恫喝してくる。
冒険者と喧嘩となった市民が苦情を申し立てに来る。
一番キツかったのは、死んだ冒険者の遺族がギルドに責任があるんじゃないかと申し立てて来た事だった。
しかもこれはここ何日かの事ではなく、今日一日でジェシカが応対したものだけでだ。
その他にも、期日のある依頼の進行状況の確認や、依頼を放棄したかどうかの確認、そして罰則の適用など、窓口の業務は多岐に渡る。
受付の仕事は、窓口が閉まってから始まると言ってもいい。
今度は冒険者が持ち込んで来た物の再鑑定と、業者への売却の事務手続きが始まるのだった。
盗品として届けが出ているものでは無いか、鑑定額に間違いは無かったかの確認が終わると、入札をしている商人たちに高い順から数量を割り振って行く。
割り振った商品を今度は箱に詰めて、倉庫へと流す。
そして入金が確認出来てから現物を間違いなく引き渡さなくてはならない。夕方から来る来客に金貨と交換で倉庫の預かり札を渡すのも窓口の仕事だった。
また、現金を扱う仕事の性質上、金庫の金額と現金出納帳の金額が完璧に合うまで、原因を追究しなくてはならない。
人が行う事である以上、間違いなくミスは起こる。冒険者のもたらす商品は高額なものが多いので、少しのミスが大きな損失を産む。
ジェシカは幸い渡し間違いのミスをした事は無かったが、記載ミスで数字が合わず夜明けまで掛かって何とか原因を突き止めた事はあった。
ジェシカの毎日は、本当にそんなことの繰り返しだった。
*
「こんにちは! 」
ジェシカが次の方どうぞと言う前に、その若者はこぼれるような笑顔をジェシカに向けて来た。
金色の髪に青い瞳。
南方で数々の偉業を成し遂げた冒険者がそんな容貌をしているとジェシカも聞いた事はあった。
ギルドで噂になるのもこういった英雄譚が多かったが、同じギルドと言う組織に居ても彼女の中ではおとぎ話と同じ、自分からは遠くで紡がれる物語にしか過ぎなかった。
「この仕事を請けたいんだけど。」
「えーっと。サイラスさん? 一応等級的には請ける事が出来ますけど、経験者じゃないとこの依頼は厳しいと思いますよ? 」
「それについては大丈夫。オークなら一人で狩った事があるから。」
銀等級を示すタグを見せながら言うサイラスから依頼書を受け取り、ジェシカは帳面に冒険者タグの番号と依頼番号、そして期日を書きこんでから返す。
「それでは気をつけて。討伐が完了したら指定部位を持ってくるのを忘れないでくださいね。」
「わかったよ。ありがとう! 」
それからサイラスはほぼ毎日ジェシカが詰めている窓口に来て、依頼を受けては簡単な世間話をして帰って行くようになった。
「ねえ。あのサイラスって人ってジェシカに気があるんじゃないの? 」
人の波が切れたのを見計らって、隣の窓口に入っていたユッタが話しかけて来る。
「違うと思うわ。」
そうは言ったものの、どうにもジェシカはサイラスの事が気になりだすのだった。
*
ジェシカは朝から憂鬱な気分だった。
昨日提出したある商人との取引記録だったのだが、途中で一か所計算を間違ってしまっていたところがあり、それに気が付かぬまま提出をしてしまったのだった。
「ジェシカ君。計算は二重にチェックをしなさいと言ってあっただろう。」
窓口係長がその間違いに気が付き、ジェシカに小言を言う。
担当の人間が帳尻だけは合わせてあったため、途中の計算が間違っていた事にジェシカは気が付かなかったのだった。確かに途中の計算もチェックはしなければならないのは当然と言えば当然だった。
だが、根本的に時間が足りないのだ。
こういった理不尽に思えるようなお叱りが続いて、いよいよジェシカも限界が近いなと思ってしまっていた。
「今日の分の依頼をこなして来たよ。査定をお願い。」
「まさか、昨日の今日で終わらせて来たんですか?しかも単独で! 」
ジェシカの前にはミノタウロスの角と拳ほどもある魔核が置かれていた。
ここ数日で彼が討伐をして来た魔物の数は、銀等級どころではなく、金等級と言っても良い位のものになっている。
「あの、これだけのお仕事をこなしていただけるのなら、金等級への昇格申請をされた方が良いと思いますよ? 」
「そっか。じゃあ、その辺りの話も聞かせてもらえないかな。昇格試験とか、日程とか。」
「良いですよ。試験は金等級の冒険者から…。」
「あ、そうじゃなくって。今日飲みながらでも教えてくれない? 」
「仕事が終わってからならいいですよ。」
「了解。それじゃ終わるまで待ってるね。」
普通はこういった誘いは断るジェシカだったが、今日はむしゃくしゃとしていた事もあって、思わず誘いに乗ってしまったのだった。
「係長。今日は申し訳ないですが、定時で上がらせてもらいます。」
ジェシカは驚いた顔で見つめる窓口係長にそう告げるのだった。
*
「実はね、僕は元々貴族だったんだ。だけど家に大きな借金が出来てしまって、こうやって冒険者として稼いでいるんだ…。」
サイラスが下を向きながらぽつりとこぼす。
「そう…だったの…。良かったら話を聞かせてくれない? 」
ジェシカもエールのジョッキを机に置いたままそう答える。
彼女の困った人を放っておけない性格が、さらに続きを話して欲しいと言ってしまう。
「お恥ずかしい話なんだけど、父が賭け事にのめり込んでしまってね。その借金を今週中に用意しなくちゃならないんだ。だから毎日何とか仕事をこなしてはいるんだけど焼け石に水でね…。」
「その借金っていくらくらいあるの? あなた今週だけでも金貨20枚は稼いでいるじゃない。」
「元金が金貨で1000枚分あるからね…。」
「そんなに…。」
ギルドの力でもどうにもならない金額だなとジェシカは思う。
「ただね、当座の金額として金貨が100枚あれば、この辛い暮らしからは脱却出来るんだ。月が明ければ貴族の年金も入って来るしね。」
「それくらいなら…。」
思わずジェシカは言ってしまう。金貨が1000枚も掛かるような取引はギルドには無いが、百枚程度ならしょっちゅうとは言わないまでも、月に二、三度はあったからだった。
「ジェシカ。出来たら頼めないかな…。君だけが頼りなんだよ! 今月を乗り切ればすぐにお金は返せるから! 」
サイラスは、ジェシカの両手を自分の両手で包みながら頼み込む。
「わかったわ。何とかしてみる。」
その真剣な眼差しに、ジェシカは思わず答えてしまうのだった。
受付嬢の立場なら、ギルドに大量に保管されている金貨を帳面を誤魔化して出す事は出来る。
ただ、全ての取引の有無を調べる監査が入る二か月後には全て明るみに出てしまうのだ。
サイラスは直ぐに返せると言った。その言葉を信じるしか無い。
ジェシカはギルドへ戻ると、最後まで残る事が多いため渡されていた鍵で事務所を開けて、金庫の前に立つ。
あとは金貨百枚に分かれている袋を取り出して、帳面に取引があったように見せるだけ。
ジェシカは金庫に手を掛けようとして…出来なかった。
このお金は自分が稼いだものじゃない。冒険者たちが自分の命を懸けて得たものを売ったものだ。
だからこれは彼らの命そのものだとも言える。
それを自分の欲の為に使うことなど出来なかったのだ。
「ジェシカ君。良いのかい? 」
「ええ。良いんです。やっぱり出来ませんでしたと伝えて来ます。処分はどのようなものでも受けます。」
いつの間にか後ろに立っていた窓口係長にジェシカは告げた。
*
ジェシカの気分はいっそ清々としていた。
これで都会の生活も終わりどころか、牢屋に入る事になるかも知れない。
それでも実際にギルドの金庫に手を付けなくて良かったと思う。
「持って来れたのかい? ジェシカ。」
「いや。やっぱり出来なかったわ。力になれなくてごめんなさい。」
ジェシカは待ち合わせ場所となっていた墓地跡に来ていた。
木の下に見えるサイラスは、その影しか見えなかった。
「なんだよ。この役立たずめ。こいつには顔を覚えられてる。薬漬けにして奴隷商にでも売るか。」
木の陰から、数人の男たちが出て来る。
ジェシカも見た事がある男がいた、素行が悪く冒険者資格をはく奪された者だった。
「女一人に何人で掛かるつもりだ? 」
覚悟を決めて震えていたジェシカの後ろから、係長の声が聞こえてくる。
ジェシカが振り返ると、丁度そのカツラを取ってメガネを外すところだった。
金色の髪の髪が夜風に揺れ、深い青色の瞳がジェシカを見つめていた。
「お前は何者だ? 」
「この娘の上司だよ。ちょっと困った事に巻き込まれてると相談されててね。」
そう言うが早いか、サイラスの周りに居た男たちが倒れる。
「君たちは殺さない。色々と話してもらわなくちゃならない事もあるしね。」
あっという間に無力化された男たちを見て、サイラスは恐怖に震え、ぺたりと尻もちをついた。
どこに潜んでいたのか、暗がりから衛兵たちが現れて、詐欺師一味を縛って行く。
「実は僕はね、南のギルドから依頼されて、この詐欺師一味を追っていたんだ。」
「そうだったんだ。ごめんなさい。迷惑を掛けてしまって。私はどうしたら良いの? 」
ジェシカはじっと沙汰を待つ。
「ジェシカ君。君はまだ何もしちゃいないだろう? 君の心の中でどんな葛藤があったのかは解らないけど、金庫に手をつけた訳でも無い人を裁く法はないよ。」
「でも、それじゃあ。」
「君の仕事ぶりにはね、本当に感心してたんだ。初心者には丁寧に説明をし、威圧的に迫って来る者に対しても決してひるまず、困った人を見たらすぐに声を掛け、遺族と共に泣く。そんな優秀な受付嬢は他には居ないよ。だから、このまま仕事を続けてくれないか? 」
この人はそんな所まで見てくれていたんだ。ジェシカは自分のやって来た事が認められていた気がしていた。
「わかりました。係長。これからも頑張ります…。」
ジェシカは涙声で何とかそれだけ絞りだす。
「僕はね、そんな君の姿が好きになってしまっみたいなんだ。僕とお友達からでもはじめてもらえないだろうか? 」
「そうですね。上司と部下ではなくて、お友達からなら。」
そう言ってジェシカは差し出された手を取るのだった。
いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたなら幸いです。