5-25.共闘
平穏だった避難所にいくつもの悲鳴が轟いた。人々は無秩序に逃げ惑い、混沌とした空間が生まれる。我先に災厄から逃れようと体を押し合い、力なきものが地面に倒れ込んだ。エクレアたち冒険者ギルドの受付嬢が声を張り上げて避難誘導を試みるが、至るところから湧き上がる悲鳴と異形の咆哮によって掻き消された。
ほんの少し前まで、避難所には城壁から届く知らせによって戦闘が有利に進んでいることが伝えられ、しかもそれがたった1人の手によるものだという俄かには信じがたい話に人々は湧き立っていた。話を聞いたリリーはそれが仁であると確信し、フェリシアと一緒になって鳳雛亭に滞在している冒険者だと自慢げに語った。誰もが英雄の誕生を予感し、もうすぐいつもの日常が戻ってくるのだと安堵していた。そんな中、不吉さを撒き散らす悍ましい咆哮が轟いた。人々は緩んだ空気を一気に吹き飛ばされ、不安げな表情で互いの顔を見合わせた。地響きが近付き、一目散に避難所に迫る異形の化け物の姿を目にした住人の悲鳴はパニックを起こすには十分な切っ掛けとなった。
避難所の入口近くで炊き出しの仕事を手伝っていたリリーは、昼食を受け取りに来ていた子供たちに声を掛け、避難所の奥へ誘導する。おろおろと行動を起こせないでいた子供たちはリリーに従い、フェリシアに先導されて手を取り合って逃げ出す。子供たちの背を見送って辺りを見回したリリーの瞳に、逃げ遅れて地面にへたり込んだ犬人族の小さな少年の姿が映った。リリーは慌てて駆け寄り、手を取って立たせようとするが、少年は腰が抜けてしまっていて起き上がることができない。化け物の大地を踏みしめる音が近付き、化け物の進行を妨げるように次々と地面から伸び上がる石の壁が体当たりで破壊されるたびに轟音が響き渡り、リリーの恐怖を煽った。石壁で隠れていた化け物の姿が露わになり、リリーは化け物の視界から少年を隠すように覆いかぶさる。リリーは自身に降りかかる最悪の未来を想像し、目をきつく閉じた。
「ジンさん……」
リリーの口から最愛の人の名が零れ落ちた。その直後、甲高い金属音が鳴り響き、リリーの鼓膜を激しく震わせた。
「リリー、呼んだ?」
揺れる頭で仁の声を認識したリリーは反射的に瞼を開ける。一瞬の眩しさの後、リリーの目に飛び込んできたのは、以前、殺人狼からリリーの窮地を救ったのと同じ、頼もしい背中だった。リリーの双眸から涙が溢れる。
「リリー、その子を連れて早く避難を!」
仁は自身を押しつぶさんと左右から加わる圧力を、両手の剣に力を込めて跳ね返す。仁の剣と化け物の爪がギリギリと不快な音を奏でた。
「ジンさん! この子、自分じゃ立てなくて!」
仁は背に黒炎の翼を広げ、化け物の顔目掛けて黒炎の矢を何本も撃ち出す。顔面を僅かに穿たれた化け物は悲鳴を上げて後退するが、魔法の矢が役目を終えて消えるのと同時に、化け物の顔に開いた穴も綺麗に消え去った。
「ロゼはリリーと子供の避難! ミルは負傷者の手当てを! 玲奈ちゃんは俺の援護をお願い!」
仁は追いついてきた3人に大声で指示を出すなり、魔眼を発動する。仁の視界の端に化け物の情報が表示された。
「魔人擬き……?」
化け物は元通りになった灰色の顔面を手で弄りながら首を傾げている。仁の隣に玲奈が並ぶ。
「玲奈ちゃん、あいつは?」
玲奈は謎の秘薬を飲まされたザフィーダの姿が変わって理性をなくしたことを簡潔に説明した。
「さっきの反応は人だったときの名残か……?」
魔人擬きが前傾姿勢をとって仁を見据え、唸り声を上げる。
「俺が前で戦うから、玲奈ちゃんは氷弾であいつの顔を狙って」
「うん、わかった」
「じゃあ、行くよ。黒炎斬!」
仁が右手の黒炎刀を横に払い、三日月の斬撃を放つ。魔人擬きは左の手のひらで黒炎の刃を受け止める。黒炎斬は皮膚の表面を切り裂くが、魔人擬きの手で握りしめられて霧散した。仁は黒翼から黒炎の矢を乱射しながら駆け寄り、魔人擬きの股を潜る。仁を捕らえようと動いた手が、玲奈の放った氷弾から顔面を守るべく反射的に持ち上げられた。仁の魔力が全身に満ち、鋼色の軽鎧が漆黒に染まる。仁の両手の剣が四方八方から高速で振るわれ、魔人擬きの脚の裏側を滅多切りにした。魔人擬きは鬱陶しそうに振り向きながら仁を手で払いのけるが、仁は再び股の下を潜り、背面へ回った。
「やっぱりそうか」
仁の目が先ほど攻撃を加えた脚の裏側に向く。魔人擬きに付けた細かな切り傷のうち、右手の黒炎刀で付けた傷だけがすぐに癒えて元通りになっていた。仁は魔人擬きの蹴りを避けて素早く後退すると、黒翼と黒炎刀を消し、不死殺しの魔剣を右手に持ち替えた。
「玲奈ちゃん、どんどんよろしく!」
「うん。氷弾!」
魔人擬きが顔の前で手を振って氷の弾丸を打ち落とす。執拗に顔面を狙う氷弾に、不気味な顔が不愉快そうに歪む。魔人擬きの咥内に魔力が集まり、下顎がこれでもかと下がる。大きく開かれた口から圧縮された魔力が一条の光線となって放たれた。玲奈を狙ったそれを、玲奈の前面に躍り出た仁の魔剣が切り裂く。真っ二つになった光線は玲奈の両脇をすり抜け、誰もいなくなった避難所の広場の地面を抉り取った。仁は一直線に魔人擬きに迫ると、爪の剣と切り結ぶ。
「石壁!」
仁は剣戟を続けながら魔人擬きの片足の真下から石の壁を出現させる。体勢を崩しかけた魔物擬きは持ち上がる片足を強く踏みしめて背後に跳び、一回転して着地する。その着地点に狙いを定め、仁は地面に対して斜めに石壁を出現させた。魔物擬きが着地に失敗し、前方に倒れ込む。その真下に潜り込んだ仁は心臓目掛けて魔剣を突き上げた。魔力で強化された魔剣は灰色の皮を貫くが、切っ先が僅かに突き刺さっただけだった。
「玲奈ちゃん!」
魔人擬きの巨体を一本の剣で支える仁の両腕が悲鳴を上げる。仁の意図を察した玲奈が特殊従者召喚を発動させ、仁の体を呼び寄せた。支えを失った魔人擬きの体が倒れ込み、地面を揺らす。
「玲奈ちゃん、来るよ!」
両手を地について跳ね起きた魔人擬きが仁の作った石壁を砕き、残骸を無造作に掴んで次々に放り投げた。仁と玲奈は風を切って飛来する石塊を避けながら、二手に分かれて魔人擬きの側面に回り込む。魔人擬きの陥没した眼球は仁を追って動く。
「石弾!」
「氷弾!」
仁と玲奈の左手から放たれた魔法の弾丸が魔人擬きの頭部の前後にぶつかって砕け散る。魔人擬きは苛立たしげに唸り、仁に向かって突進を開始した。仁は不死殺しの魔剣を下段に構えて魔人擬きの接近を待ち受ける。嵐のように振るわれる凶器と化した両腕を回避し、時には受け流しながら、仁は隙を窺って魔人擬きの胸の傷に攻撃を重ねていく。
魔物擬きは大口を開き、胸元に張り付く仁の真上から極太の光線を浴びせた。仁は魔剣を切り上げて光線を二条に分かつと、そのまま胸を突き上げるが、胸の中心の傷を隠すように宛がわれた魔人擬きの左手の甲に防がれる。魔人擬きの薄い唇の両端が不気味に吊り上った。仁は足先からのスライディングで横から襲い掛かるもう一方の腕を避けて魔人擬きの股下を抜ける。片手を突いて反転した仁は素早く起き上がり、魔人擬きの大きな背に左の手のひらを向けた。
「黒炎!」
仁の左手から火炎放射のように放たれた黒炎が魔人擬きの背を覆うが、あまり効き目はなかった。
「くそっ。やっぱり黒炎は効きが悪いか」
振り向いた魔人擬きの顔面を玲奈の氷弾が小さく穿ち、魔人擬きが右手で顔を覆う。
「仁くん!」
仁は魔人擬きの動きに注意を払いながら、すぐ近くまで来ていた玲奈と合流する。
「仁くん、私に考えがあるんだけど――」
仁は玲奈に頷き返すと、氷弾を放つのを止めた玲奈の代わりに魔人擬きの顔面に石弾を放つ。仁と玲奈は魔人擬きを中心に円を描くように逆方向へ駆け出した。その間も仁は石弾を放ち続けた。魔人擬きは狂ったように口から光線を放ち続けるが、魔剣を持つ仁には通じない。
魔人擬きは一際大きな咆哮を上げると、顔の守りを捨てて仁に向かって全力で駆け出す。力強く踏みしめられた踵が摩擦を失い、前方へ滑って魔人擬きの巨体が後ろに倒れ込む。魔人擬きの周辺の地面がいつしか氷で覆われていた。魔人擬きの背後に回っていた玲奈が凍結の魔法で地面を凍結させ、魔人擬きの動きに合わせて着地点まで一気に凍結の範囲を広げたのだった。地に倒れた反動で胸から手をずらした魔人擬き目掛けて、仁が大きく跳び上がる。落下の勢いそのままに、両手で逆手に握った不死殺しの魔剣で一点を貫く。極限まで圧縮した魔力を乗せた魔剣は黒い雷を纏っていた。何度も何度も同じ場所に攻撃を受けていた魔人擬きの胸の傷は仁の渾身の一撃に耐え切れず、剣身の8割を体内に埋め込んだ。
「黒雷爆!」
魔剣を伝って注ぎ込まれた黒い雷が魔人擬きの体内を蹂躙する。魔人擬きの全身が痙攣を起こしたかのようにバタバタと動いた。仁は再度、魔力を練り上げて黒雷爆を放つ。その瞬間、仁の体内の魔力が暴れ、全身から漏れ出て黒い稲妻となった。仁は体の周りを漂うバチバチと放電する可視化した黒い魔力を感じ、自身が新たに得た力を理解した。くぐもった唸り声を出して起き上がろうともがく魔人擬きの胸の上で、仁は魔剣を引き抜き、上段に構えた。不死殺しの魔剣を黒雷が覆い尽くす。魔人擬きの虚ろな眼球が仁を捉えた。
「黒雷斬!」
真っ直ぐ振り下ろされた魔剣が魔人擬きの体表を切り裂き、放たれた黒く輝く三日月の斬撃が閃光となって切り抜ける。魔人擬きの上半身を真っ二つに切り分けた黒雷斬は大地を深く抉りとり、魔人擬きの咆哮にも負けない轟音をメルニール中に響かせた。不死殺しの魔剣によって不死性を打ち消された魔人擬きの傷は、二度と塞がることはなかった。




