5-17.魔王
帝国軍の前方から後方へ、ざわめきが波紋のように伝わっていく。仁の力を目にしていない後列の帝国兵たちは話を聞いて失笑を零す。仁は右手の黒炎刀を掲げ、魔法名を口にした。
「黒炎地獄!」
次の瞬間、帝国軍の後方の上空にいくつもの黒炎の塊が現れ、地に落ちて轟音と共に黒円の渦を生み出した。仁の行動に身を竦ませていた前方の帝国兵は、弾かれたように後ろを振り向く。巻き上がる砂煙から、先ほど自分たちの目の前で起きたことが後方でも起こったのだと察して、肝を冷やした。
「跪かぬか。ならば死ね」
仁は黒炎刀と魔剣を触媒にして帝国軍の前方の両端に向けて黒炎地獄を同時に放ち、何十人もの帝国兵が命を散らした。
「ほ、本物の魔王……」
魔法名さえ省略した完全なる無詠唱の魔法を目の当たりにした帝国兵が震えた声を零す。芽生えた恐怖心が帝国軍を伝播していく。仁の持つ魔王の称号は、自身を魔王と認める者と対峙した際に自身の全ステータスにプラス補正をかけ、相手の恐怖心を増幅させ、更にその恐怖心を自身の力に変える効果を有していた。完全に戦意を喪失した前方の兵士たちの手から武器が抜け落ち、辺りに金属音を響かせる。
「魔王、魔王だ……」
震え上がった兵士は後ずさるが、すぐに背後の兵士にぶつかり、それ以上遠ざかることはできなかった。
「静まれ!」
帝国軍の中央から怒声が轟き、騎乗した赤色の騎士が兵士を掻き分けるように進み出る。その後ろには開戦前に降伏勧告を行ったゼイラムをはじめ、数名の帝国騎士が続いていた。
「それでも栄えある帝国の兵士か! 戯言に乗せられて恐怖に震えるなど、帝国軍にあるまじき振る舞い。恥を知れ!」
上級騎士は最前列に達すると、前方に広がる横長のクレーターを目にして表情を険しくさせた。上級騎士が顔を上げて仁を睨みつける。
「お前が魔王を騙る詐欺師か。どんなアーティファクトを用いたか知らんが、俺の目は誤魔化せんぞ」
仁は見当違いの見解を述べる上級騎士を鼻で笑う。上級騎士は不愉快そうに顔を歪めた。
「黒髪黒目の若者……。デレク殿。この者がガウェイン殿下の指名手配していた罪人では」
「ほう。これは探す手間が省けたな」
デレクと呼ばれた上級騎士はふてぶてしい笑みを浮かべる。
「俺の名はデレク・ランフォード。帝国第一騎士団長にして、かつて魔王を討ち果たした英雄の血を引く者。この俺が直々に偽物の相手をしてやろう。光栄に思え」
「哀れなものだな。真実を知らず、偽りの栄光を振りかざすというのは」
「何?」
「我はランフォードを知っている。帝国一の剣士を自称しながら、我の部下にあっけなく敗れた上に無様にも地に這いつくばって命乞いを繰り返した道化だ。殺す価値もないと逃がしたが、あのような者を英雄に祭り上げるとは、帝国はいったい何を考えているのか」
失笑と共に語る仁に、デレクは眦を吊り上げる。
「ふざけたことを! ランフォードを侮辱するとは、許せん!」
「デレク殿、待たれよ!」
デレクは怒りに身を任せ、愛馬に命じて抉れた地面に駆け出す。仁が右手を振り上げ、そのまま黒炎刀を振り下ろすと、その軌跡が黒炎の刃となって勢いよく飛び出す。あっという間にデレクとの距離をゼロにした黒炎斬は速度を落とすことなくデレクを切り抜け、轟音と共に大地に新たな傷跡を刻んだ。その直後、デレクの体が愛馬ごと縦に分かれ、左右に崩れ落ちる。切断面が高熱で焼け焦げていて、体の中身が散らばることはなかった。デレクの背後にいた馬の頭が巻き添えとなって切り裂かれて倒れ込み、乗っていた騎士が足を潰されて苦悶の声を上げる。
「彼我の力量差も測れぬ愚物が第一騎士団長とはな。ヴォルグ・ヴァーレンの方がよっぽど歯ごたえがあったぞ。我の力の前では無力なことに変わりはないがな」
仁が不敵な笑みを浮かべた。ほとんどの帝国騎士が銀甲冑を揺らして震え上がるが、ゼイラムだけは仁から目を逸らさないでいた。
「ヴォルグ殿が貴様に敗れたというのか!」
「ああ。それもあっけなくな」
「では、メルニールで任務中に捕らえられたという噂は……」
ゼイラムは信じられないといった表情で驚きを零す。
「これでも信じられぬか?」
仁は右手の黒炎刀を消し去ると、アイテムリングからどす黒い魔剣を取り出し、右手一本で軽々と掲げた。それと同時に仁の心臓がどくんと一際大きく鳴るが、仁は気にせず魔王の演技を続ける。
「それは魂喰らいの魔剣……」
ゼイラムは動かぬ証拠と共に、帝国随一の魔剣使いでさえも既に敗れているという事実を突きつけられて奥歯を強く噛みしめる。
「総員、かかれ! 相手はただ一人。増援が来る前に帝国に仇なす者を討ち取れ!」
ゼイラムは声を張り上げるが、それに応じる者はなかった。魔王の称号により底上げされた仁の強大な魔力を吸い上げた魂喰らいの魔剣が禍々しい紫の紋様を浮かび上がらせて、更なる恐怖を煽る。
「滑稽だな。そのたった一人にお前たちは敗れるのだ」
仁は高笑いを上げながら、全身から湧き上がっていた黒炎を何十倍にも膨れ上がらせる。メルニールと帝国軍を遮るように上下左右に大きく広がったそれから、何本もの黒炎の鞭が触手のように振るわれる。長大な黒炎の翼が、まるでそれ自体が意思を持っているかのように黒炎を操り、帝国軍を蹂躙していく。標的となった帝国兵はもはや戦意喪失どころの騒ぎではなく、帝国騎士ですら恐怖で暴れる馬を乗り捨て、仁に背を向けて我先にと逃げ出す。その場に立ち尽くす者や泣き崩れる者が逃げ出す者の邪魔をし、阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出した。その頃になってようやく第二軍として平原に残っていた半数の帝国軍が駆けつけるが、手遅れどころか、逃げ惑う兵士を遮る壁となっただけだった。
「化け物め……」
ゼイラムは妖しい笑みを浮かべながら殺戮を続ける仁の姿に、得も言えぬ恐怖を感じていた。
「もはやこれまでか」
ゼイラムは愛馬を降りて轡と鞍を外し、馬の臀部を手のひらで叩いた。
「今までよく耐えてくれた。好きに逃げるといい」
仁を間近にして唯一暴れることなく職務に徹していたゼイラムの愛馬は、主の意を察して馬首を返す。
「お前だけでも無事に逃げおおせてくれ」
ゼイラムが祈るように呟いた直後、黒炎の鞭が愛馬の首を焼き切った。ゼイラムは目を閉じると、覚悟を決め、確固たる意志の元、瞼を開く。
「化け物。いや、魔王。皇帝陛下より賜ったこの赤色甲冑にかけて、お前はこの場で討ち取る!」
長剣を片手に、ゼイラムは赤色甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、仁に向けて走り出す。当然、仁の目はゼイラムの動きを捉えていたが、黒炎の鞭はゼイラムの体の表面を微かに抉るだけで命を刈り取ることはなかった。
「遊んでいるつもりか! その油断が命取りだ!」
ゼイラムは柄を握る手に力を込める。あと一歩でゼイラムの間合いに仁が入るという瞬間、ゼイラムの視線の先で、仁の口の両端がこれでもかと吊り上がった。その直後、大股で駆け寄るゼイラムの片足が地面に着くと、ゼイラムは体勢を崩して地面に倒れ込んだ。ゼイラムの足を貫くように、大地から黒炎の尖った杭が生えていた。
「ご苦労様」
ゼイラムは地に伏したまま、悔しさに顔を歪めて仁を睨みつける。仁は嘲笑いながら右手を振り下ろし、ゼイラムの頭部を魂喰らいの魔剣で叩き斬った。
その間も黒炎の鞭は振るわれ続け、多くの命を刈り取っていく。無傷だった第二軍の両翼は逃げ惑う第一軍を避けて回り込もうと試みるが、更に広がった黒炎が行く手を遮った。赤黒い翼の壁は無数の黒炎の矢を雨のように浴びせかける。第二軍の両翼の部隊長は魔法に長けた騎士や兵士を前面に集め、それぞれが得意とする属性の魔法盾を展開させるが、今の仁の黒炎の前には何の障害にもならなかった。ある者は魔法盾ごと黒炎の矢に貫かれ、ある者は鞭で撫で斬りにされ、またある者は地面から生えた杭で、地面に縫い付けられた体を内部から焼かれた。
左右に展開した部隊も前列の兵から順に殲滅され、辛うじて生き延びた者は恐怖で逃げ惑い、仁に更なる力を与える。
「死ね。死ね。死ね!」
仁は妖しい笑みを浮かべたまま、自らも斬り込み、動ける者も動けない者も、区別なく両手の剣で踊るように切り刻んだ。仁の通った後は血の海と化したが、仁の全身はヴェールよりも薄い黒炎の膜で覆われており、血の一滴すら付着することはなかった。
死屍累々たる戦場で狂ったように高笑いを上げ続ける仁の姿は、まさしく魔王そのものだった。




