21-36.外
「仁くん。ちょっといいかな?」
メルニールの屋敷のリビングで歓談を続けていると、玲奈が意を決したようにソファーから立ち上がった。仁は玲奈の真剣な様子に疑問を抱きつつ、頷きを返す。
「レナお姉ちゃん。ジンお兄ちゃんとお出かけするの?」
「ううん。ちょっとだけお話があるだけだよ」
出かけるのなら一緒に行きたいと言外に言うミルを、玲奈はすぐに済むから待っていてほしいと諭す。
「ミル様。仲良しの男女は、時に二人きりになりたいと願うものなのです。決して我らが邪魔者扱いされているなどと思ってはなりませんよ」
「わかったの。ミルはジンお兄ちゃんとレナお姉ちゃんに、もっと仲良しさんになってもらいたいの! だからここで待ってるの」
ミルが楽しそうにイムを抱きしめる。
「ロゼもミルちゃんも、そういうんじゃないからね!?」
玲奈は真っ赤になって反論するものの、ロゼッタたちは聞く耳を持たず、温かな笑顔で送り出す。仁はどう反応したらいいかわからずに大人しくしていたが、皆に促されて席を立った。
「仁くん、ごめんね。ロゼたちが勘違いしちゃって……」
「まあ、その、いつものことだし」
仁が苦笑いを浮かべると、玲奈も釣られたように笑った。そのまま二人は連れ立って進み、玲奈の自室へ入った。リビングもそうだったが、この屋敷には住環境を維持するための魔道具が備わっていて、しばらく人が住んでいなかったにしては、あまり埃っぽさを感じなかった。仁は玲奈に促されるまま、隣り合ってベッドに腰を下ろす。
「それで、玲奈ちゃん。話って?」
仁は内心のドキドキを隠しながら、努めて冷静に尋ねる。いくら妄想たくましい仁でも、さすがに告白されるかもなどとは考えていない。しかし、大好きな玲奈が望んで二人きりになったという事実に全く心が躍らないと言えば嘘になってしまう。とはいえ、このタイミングで甘い展開を夢想するほど仁は能天気ではなく、こっそりと深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻した。
「仁くん、実はね。黒いドラゴンが言ってたことに、心当たりがあるの」
「それは……」
「うん。仁くんの想像通り、私がアナスタシアさんに体を奪われていたときのことだよ」
仁の心の一部、浮かれていた部分が弾け飛ぶ。先ほど仁がリビングで尋ねようとして躊躇ったことがお見通しだったのか、玲奈は「私は大丈夫だから」と仁を安心させるように微笑んだ。
「どうやら、アナスタシアさんにはこの大陸のほかにも狙っている場所があったみたいなの。もしかすると、それがあの黒いドラゴンの住んでいる場所なんじゃないかって」
玲奈曰く、魔王妃は玲奈の体を奪っているとき、そのために眷属の一部を偵察に向かわせたということらしい。細かなことまではわからないが、玲奈は先ほど黒竜の話になった際にこのことを思い出したのだという。
「それで、その、仁くん。ジークハイドさんの記憶で、何か心当たりはないかな?」
「うーん……」
申し訳なさそうに尋ねる玲奈に、仁は先ほど玲奈がしたように大丈夫だと微笑みを返してから、深く記憶を探る。
「ジークハイドは魔王だったけど、力で君臨していただけで、今思うと実質的には魔王妃の操り人形みたいなところがあったからなー……」
確かにジークハイド自身も世界を滅ぼしたいと願っていたが、唯一の味方であったアナスタシアによって思考を誘導されていたことは否定できない。もっとも、それもレイナによって心を救われ、仁として生きてきたからこそわかることだ。当時のジークハイドはアナスタシアの望むまま、それを自身の願いだと信じたまま、世界のすべてを滅ぼさんとしていた。
「世界のすべて……」
「仁くん?」
「あ、うん。ジークハイドと魔王妃は世界のすべてを滅ぼそうとしていたんだ。だから玲奈ちゃんの言う通り、この大陸だけじゃなくて黒いドラゴンの縄張りや、それこそ海の向こうの別の大陸まで視野に入れていたんじゃないかなって」
黒竜の領域に関しては恐るべき鉤爪や刈り取り蜥蜴が到達できたことから海の向こうとは思えないが、もし仮に大山脈の西を魔人族の領域、東を広義の意味での人族の領域とした場合、例えば魔の森の奥の火山一帯はイムの一族の領域と言えるし、大山脈自体が黒竜、もしくは別種のドラゴンの領域と定義することができる。
そして海岸の一部地域や海は、それこそ海の魔物の領域だ。それらすべてを滅ぼし、更にその先、まだ見ぬ海の向こうまで滅ぼそうとしていたと仮定すれば、ジークハイドの復活を見越していた魔王妃が黒竜の縄張りにちょっかいをかけてもおかしくはなかった。
黒竜は仁の黒穴では自身は倒せないと言っていたが、ジークハイドは消滅の魔法で確かに黒いドラゴンを他のドラゴンたちとまとめて屠っていたのだから、魔王妃がドラゴンを殊更恐れていたとは思えない。
仁が自身の考えを説明すると、玲奈は得心が行ったというような表情で大きく頷いた。
「海の向こうの別の大陸……。そっか、だからあの人は“外の世界”って……」
「玲奈ちゃん?」
思わず口にしたような玲奈の言葉に、仁は何となく引っ掛かりを覚えた。
「あ、ごめんね。アナスタシアさんは『この世界も外の世界もジークと私のもの』って言ってたから。この大陸が“この世界”で、海の向こうの別の大陸が“外の世界”なんだって思って」
仁も玲奈も元の世界との対比で“この世界”という言葉を使ってきたが、二人はこの大陸の外を知らないし、それはこの大陸で暮らす人々も同様だった。仁も玲奈も、そしてこの大陸の人々も、この大陸こそが“この世界”のすべてなのだ。
しかし、元の世界に照らし合わせて考えると、この世界、言うなればこの惑星にこの大陸しか陸地が存在しないとは考えにくい。その可能性がないわけではないが、海の魔物の存在によって船舶や航海の技術が発展しなかったこの世界でそれを確かめるためには空を飛ぶ他ないように思えた。
「外の世界、か……」
「うん。海の向こうにどんな世界が広がっているのかな」
まだ見ぬ新大陸に思いを馳せる玲奈を横目に見ながら、仁は心の奥にしこりのようなものを感じていた。その正体に気付かぬまま、仁はドラゴンなら海の向こうについて何か知っているかもしれないと考える。
そして仁はイムがこのまま大きくなれば海の向こうに連れて行ってくれるかもしれないと思うと同時に、その頃には自身も玲奈もこの世界にはいないだろうと思い至る。
「あ。仁くん、そろそろ戻ろっか。ミルちゃんが待ってるし」
「あ、うん」
「わざわざごめんね。あの時のことをみんなの前で話すと気を使わせちゃうと思ったから」
そう言って謝罪する玲奈に、仁は寂しさを脇へ追いやって気を取り直す。元の世界に帰ると決めた仁がすべきなのはそのことを寂しがることではなく、今の時間を大切にすることだ。
「みんなと一緒なのも嬉しいけど、玲奈ちゃんと二人っきりで過ごすのも、俺にとってはご褒美みたいなものだから」
ファンとしても玲奈に恋心を抱く男としても、どちらにしてもその言葉に嘘はなかった。
「も、もう。仁くんは相変わらずなんだから」
玲奈が照れ笑いを浮かべ、ベッドから立ち上がる。
「さ、行こう?」
自然に差し出された玲奈の手を、仁がとる。当然その手は仁が立ち上がると離され、恋人同士のようにそのまま手を繋いで歩くことはしない。それでも仁は、今のこの関係を失いたくないと願った。




