21-24.訳
「恐るべき鉤爪!?」
マークソン商会の隊列の後方。荷車の脇に、魔王妃の眷属たる俊敏な魔物がいた。仁は見知った気配に気付けなかったことに驚きつつも、その傍らで尻餅をついている冒険者を救うべく、黒雷刀を振りかぶる。そのまま黒雷斬を放とうとした仁だったが、僅かな違和感を覚えた。
「待たれよ、英雄殿!」
仁は刀の先端を空に向けたまま硬直する。恐るべき鉤爪が対峙しているのは腰を抜かした冒険者ではなく、威嚇の唸り声を上げる熊の魔物だった。仁は眼前の光景に目を疑う。恐竜似の魔物が、あたかも冒険者を守っているかのように見えたのだ。
僅かな逡巡の後、仁は漆黒の刀を振り下ろす先を少しだけ変え、熊の魔物を黒雷斬で真っ二つに切り分けた。肉塊が左右に崩れ落ち、羽毛に覆われた恐るべき鉤爪の顔が仁に向いた。
「ジン殿」
警戒と困惑の同居したような表情のロゼッタが仁の横に並ぶ。ロゼッタも森の魔物を仕留めたようで、赤い槍の先が鮮血で濡れていた。
「ああ。あれは……」
のっそりと体ごと仁の方を向いた恐るべき鉤爪の隣に、目深にフードを被り、全身をコートで覆った何者かの姿があった。もちろんユミラではない。魔導人形の光線で胸を貫かれたユミラの遺体はコーデリアを介して帝国の手に渡ったが、この世界に蘇生魔法のようなものは存在しないはずだ。
仁の脳裏に、一瞬だけアナスタシアの生存の可能性が過るが、すぐに否定する。魔の森で恐るべき鉤爪とフードの何者か。この組み合わせに心当たりがあった。あのときも仁はロゼッタと一緒だった。
「エルヴィナ、さん?」
ロゼッタも同じ考えだったのか、仁の隣から驚く気配は感じなかった。そして、仁は強烈な違和感の正体に思い至る。仁の感じた違和感は、何も敵であるはずの恐るべき鉤爪が冒険者を守っていたからだけではない。
仁は感じなかったのだ。そして、おそらくオニキスすらも。
仁の視界には確かに恐竜の魔物とフードの女性が存在しているにもかかわらず、全くと言っていいほど、気配がなかった。
「久しぶりね、坊や。いいえ、魔王様」
フードを外した女性が仁に跪く。顔を伏せる前に見えたそれは、まさしくエルヴィナのものだった。気が付くと、一人と一体の気配が戻り、目の前の光景が現実のものだと仁は受け入れざるを得なかった。恐るべき鉤爪がエルヴィナに寄り添い、首を垂れていた。仁は瞳に困惑の色を浮かべる。
ふと視線を感じて仁が見回すと、クランフスをはじめ、皆の注目が集まっていた。その中にはマルコの姿もあり、仁は安堵の息を吐く。しかし、その無事を喜ぶ前に、すべきこと、いや、しなければならないことがあった。
「エルヴィナさん、何のつもりですか?」
「魔王妃様に仕えていた私が、その亡き今、魔王様に忠誠を尽くすのは自然なことではなくって?」
顔を上げたエルヴィナが、すまし顔で告げた。そもそもエルヴィナがどのような理由で魔王妃に与していたか知らない仁にとっては不自然この上なかったが、何を企んでいるにしても、なぜか敵意だけは感じられなかった。
「以前会ったときは、眷属の魔物をけしかけられたような気がしますけど」
チラリと仁がエルヴィナの傍らに目を向ける。当然あのときとは別の個体だが、同種の魔物は襲い掛かってくるような様子は全くなかった。今までが今までだけに、それはそれで仁は警戒してしまう。エルヴィナは仁の気持ちを察したのか、クスっと笑った。
「賢いこの子は勝てないとわかっている相手に襲い掛かったりしないわ」
様子を見る限り、エルヴィナの言は正しいように思えたが、仁は訳がわらなかった。エルヴィナが跪く理由も、魔王妃の眷属であるはずの魔物がエルヴィナに従っている理由も、マルコたちを襲うではなく守っていた理由も、何もかもが謎だった。敵ならば倒すなり追い払うなりすればいいが、状況だけを見ると敵だと断じるのは憚られた。
何をどうしたものかと仁が頭を悩ませていると、マルコがクランフスを連れて近づいてきた。マルコはエルヴィナたちに目を向けてから、遠慮がちに口を開く。
「ジン殿。お久しゅうございます。積もる話もございますが、まずはワシらの話を聞いてくださいますかな」
状況に理解が追い付かない仁は、渡りに船とその申し出に頷いた。仁はエルヴィナと魔物に注意しつつ、マルコとクランフスの話に耳を傾ける。先ほど遭遇した熊の魔物たちは既にすべて倒されるか逃げおおせるかしていて、次に何かあれば近くで待機しているオニキスとガーネットが知らせてくれるだろうが、それを知らない冒険者たちは周囲の警戒に当たっていた。
「あれはもう何日も前のことになります――」
マルコたちの話によると、商隊の面々が帝国の目を避けて魔の森を進んでいたとき、先ほどよりも多くの魔物に襲われたそうだ。まだ森に入って数日だったこともあり、万全の態勢だった冒険者たちは何とか撃退に成功するが、魔物除けの魔道具を物ともしない強力な魔物の襲撃はその後も続き、徐々に疲弊していった。そんな折、彼らに手を差し伸べたのが突然現れたエルヴィナと、それに付き従う恐るべき鉤爪だった。
エルヴィナたちは高度な気配察知によって強力な魔物たちの生息地を避け、先導役のエルフと協力して比較的安全な進路を示したのだという。はじめは半信半疑だったエルフやクランフスたちだったが、実際に魔物との遭遇が減ったことで一定の信頼を寄せていくことになったようだ。
もちろん、メルニール防衛戦の折にエルヴィナが帝国側についた事実は冒険者たちには広く知られていたし、恐るべき鉤爪が先のメルニール陥落に関係した魔物であることをクランフスらは正しく認識していたため、当初はエルヴィナらの同行を拒んだのだが、一行の代表者であるマルコがエルヴィナと交渉し、受け入れたのだという。
「そもそも、ワシらに危害を加えるつもりなら、わざわざ交渉などせずとも、この者らはワシらを簡単に一掃できるだけの力を持っておるのです」
確かに恐るべき鉤爪は魔の森の魔物と比べても強力な魔物だ。仁のパワーレベリングを受けた者ならともかく、一般的な冒険者たちが労せず対処できる類のものではないし、エルヴィナ自身も元A級冒険者であり、その力はその頃よりも格段に上がっている。敵対の意思があるなら、まどろっこしいことなどせずに魔の森の魔物の襲撃に合わせるなりして問答無用で襲い掛かればいいのだ。
「そして、そのときに手を貸す条件として提示されたのが、ジン殿との仲介だったわけです」
仁がエルヴィナを見遣ると、妖艶にも見える笑みを浮かべてから再び首を垂れた。
「ジン殿、勝手な真似をして申し訳ない。当然、どう判断するかはジン殿次第です。されど、この者らに敵意がないということだけはワシに免じて信じてやっていただきたいのです」
好々爺然としたマルコの真摯な言葉を、仁は無視することができない。もともと敵意を感じていなかったこともあり、仁は頷くしかなかった。
「それで、エルヴィナさん。マルコさんに接触してまで俺にコンタクトを取った理由は何ですか?」
仁の隣で、エルヴィナが不審な行動をしないようにロゼッタが目を光らせている。
「私、エルヴィナは、魔王様にお仕えいたしますわ」
冗談のようで冗談には聞こえないエルヴィナのその言葉に、仁は思わず天を仰いだ。




