20-60.混沌
ロゼッタが重々しい鉤爪との戦いで勝利を収めた頃、旧王都ラインヴェルトの東門の外壁の上で、玲奈が険しい顔を眼下に向けていた。
「降伏したいっていう人たちを見捨てたくはないけど……」
いっそのこと、壁の下に見える人たちが襲ってきた眷属だったならどれほど良かったか。そう思ってしまう玲奈の眉間に皺が深く刻まれる。
「ですが、レナさん。アシュレイさんの言うように、これまでの帝国のやり口を見ると簡単に受け入れるわけには……」
玲奈の隣で、困り顔のセシルが門の前で佇む黒色甲冑の騎士たちを見下ろしている。
敵襲を知らせる鐘が街に鳴り響いた頃に東門に現れたその騎士たちは、その場の守りに就いていたセシルに対し、降伏を申し出たのだ。壁の上下で距離があるため確実なことは言えないが、セシルによると、どうやらその者たちはコーデリアが帝都を脱出する際に帝都に残ることを選んだ奴隷騎士たちのようだった。
一様に兜だけ脱いでいる10人ほどの騎士たちの顔をしっかり確認することはできないものの、少なくとも降伏を宣言した声にはセシルをはじめ、カティアら他の奴隷騎士隊の面々にも聞き覚えのあるものだった。
まずは話だけでもと開門を求められたが、自身の一存で判断するわけにはいかなかったセシルはアシュレイとコーデリアの元に使いを送り、様子見と場合によっては攻撃も止む無しとの返答を得た。
そして、その使いと共に有事の際の備えとして派遣されたのが玲奈だった。
「うん、わかってるよ。街の中で暴れられたら困るからね」
玲奈としては降伏を受け入れてあげたいという気持ちもあるが、同情心のせいで街の皆を危険に晒すことはできない。
それもこれも、帝国がこれまで周辺諸国を落とすために使ってきた手法が問題だった。帝国は事前に潜り込ませた人員に魔人薬を使わせ、魔人擬きが暴れた後に悠々と軍を派遣して城や街を落としてきたのだ。
そうした前例があるため、安易に降伏を認めて街に入れることはできないというのがアシュレイらの判断だ。彼らが既にコーデリアの奴隷ではなくなっていることは間違いないため、コーデリアも庇うようなことはしなかった。
平時であれば万全の体勢を整えた上で徹底的な持ち物検査を実施するなどの方法もあるが、眷属が襲来している今、その余裕はない。
とはいえ、降伏を申し出てきた者らを一方的に攻撃することは憚られるため、降伏を受け入れない旨を伝えた上での様子見というのが精一杯の対応だった。
「本当に企みがないのなら、このままどこかに逃げてくれればいいんですけど……」
セシルは自身の願いを口にするが、何度大声でやり取りをしても、セシルの元同僚たちは頑なにその場を動かなかった。
「頼む! ちゃんと話をさせてくれ!」
外壁の下から叫ぶ声が聞こえた。黒甲冑の男は代表者だけでも入場させてほしいと訴えるが、玲奈やセシルには受け入れることはできない。セシルが何度目かになるやり取りを大声で続けた。玲奈は苦渋の表情でその様子を見守る。
そんな中、黒色甲冑の一団の一人が北西を指差した。男が慌てた様子で喚き、男女の悲鳴が響き渡る。
「あれは……!」
「眷属です!」
玲奈とセシルが男の指さした方を見遣ると、そこには駆ける魔王妃の眷属の姿があった。遠目だが、それが恐るべき鉤爪であることは間違いなかった。その後ろには刈り取り蜥蜴も目視できた。
「門を開けてくれ! 早く!」
黒甲冑の一団が門に駆け寄り、ドンドンと門を叩く。開門を訴える声は悲愴さに満ちていた。その真に迫った様子に玲奈の心が揺れる。
「開けてはダメです!」
セシルが門の内側に向かって叫ぶ。門衛が了承するのを確認したセシルが顔を上げ、玲奈に向き直った。
「レナさん。眷属だけを狙えますか?」
ハッとして玲奈が頷くと、セシルは部下や共に門を守る者らに眷属を攻撃するよう指示を出す。その間にも、恐るべき鉤爪は恐るべきスピードで近付いてくる。
「うっ」
玲奈の放った光の矢が1体の恐るべき鉤爪を撃ち貫くが、矢や魔法を掻い潜った残りの2体が黒い一団に突っ込んだ。玲奈は欄干から上半身を乗り出して真下に照準を合わせようとするものの、眷属と人が揉み合い絡み合い、眷属だけを狙い撃ちすることは不可能だった。
壁の下で悲鳴が木霊し、鮮血が飛び散った。
「レナさん、危ない!」
セシルが後ろから玲奈を抱えて引き戻し、そのまま背後に倒れ込む。その直後、渦巻く突風が壁に激突した。刈り取り蜥蜴の放った風の渦巻きが外壁に阻まれて四散する。
「あ、ありが――」
「隊長! あれを!」
玲奈の言葉をセシルの部下の叫びが切り裂いた。玲奈とセシルが慌てて体を起こし、刈り取り蜥蜴の攻撃に注意しつつ下を覗き込むと、門の外に灰色が見えた。
玲奈の脳裏に、以前対峙した灰色の巨人の姿が浮かんだ。膨張する体に耐え切れずに弾け飛んだ黒色甲冑の残骸が散乱する中、1体の魔人擬きが産声を上げていた。
「どうして……」
呟いた玲奈に、一部始終を見ていたカティアが額に汗を滲ませながら淡々と答える。それによると、どうやら元奴隷騎士隊の一人が逃げきれないと踏んで、仲間の口に自分の持っていた魔人薬と思しき液体を無理やり流し込んだようだ。
その証言を裏付けるが如く、辛くも恐るべき鉤爪の牙や爪を逃れた何人かが互いに他人を生贄にしようと醜い争いを始めていた。
そんな中に、前傾姿勢の刈り取り蜥蜴が頭から突っ込んでいく。数人が吹っ飛ばされ、もう1体、灰色の巨人が立ち上がった。
期せずして、黒甲冑の一団の、帝国の策謀は白日の下に晒された。しかし、その結果、玲奈たちの与り知らぬところで魔王妃の眷属対魔人擬きという混沌とした空間が生まれていた。
もっとも、魔人擬き同士も争っているので、その構図は正確ではないが、ともかく玲奈たちの予想だにしなかった光景が繰り広げられていることだけは間違いない。
それが魔王妃亡き今だからこその眷属の暴走なのか、それともこれ自体が何らかの思惑に沿って行われていることなのか、玲奈にもセシルにも判断できなかった。
二人にできるのは、自分たちを罠に嵌めようとしていた帝国の尖兵が惨たらしく死んでいくのを見守ることだけ。
「あ……!」
混沌とした場に更なる混沌が加わった。玲奈の視線の先で、新たな灰色が生まれた。しかし、その姿は巨人ではなく、灰色の怪物だった。それは玲奈が話に聞いていた、魔人薬を飲んだ恐るべき鉤爪の特徴に酷似していた。
「レナさん、あれは……!」
「うん」
必然か偶然か、恐るべき鉤爪は人の肉と一緒に魔人薬を口にしてしまったのだろうと二人は推測した。
魔人擬きが残りの恐るべき鉤爪の首を掴んで持ち上げ、そのまま縊り殺す。
2体の刈り取り蜥蜴と、同じく2体の魔人擬き、そして1体の元恐るべき鉤爪。それらが無秩序に暴れる中、ただ人である元奴隷騎士隊員たちが生き延びられる謂れはなかった。
玲奈はどうすることもできずに散っていく命から目を逸らしたくなるが、逃げてはダメだと自信を叱咤し、光の矢を番えた。




