18-16.鰐型の魔物
鰐型の魔物が頭と尾を繋ぐ中心軸に沿って空中で90度回転し、細長い上下の顎で仁の体を左右から挟まんと迫っていた。
仁は右手に黒炎刀を作り出そうとするが、その刹那、仁の脳裏に目の前の魔物が湖の主ではないかという考えが過った。
冷静になって考えれば、湖底の洞穴で長い眠りについているはずの主がこのタイミングで目覚め、尚且つ問答無用で襲ってくるとは思い難いが、万が一にも魚人族に崇拝されている存在を倒してしまうわけにはいない。
短い時間でそう判断した仁はアイテムリングから魂喰らいの魔剣を取り出した。最大限の身体強化を施し、右手で柄を握る。大剣の刃を上下に向けて、地面と平行に持ち上げた剣の腹を左手で支えた。
直後、鰐の魔物の顎先が凄まじい勢いで漆黒の大剣の腹に激突する。仁は僅かに体を捻って衝撃を斜めに受け流しながら、左手に目一杯の力を込めた。5メートルを超える巨体の魔物が僅かに角度を変え、仁の右斜め後ろに飛んでいく。
魔物は仁の背後にいたロゼッタとガーネットの脇を掠めると、地面に一筋の軌跡を描き、ラインヴェルト城と湖を隔てる壁に衝突して動きを止めた。仁が魔物を受け流した方向と逆側にいたオニキスがロゼッタたちを庇うように前に出て、鰐の魔物に警戒の視線を送る。
『メーア! 主じゃないね!?』
体勢を崩した仁が湖に向かって大声で叫ぶ。すぐに激しい水音が聞こえ、仁はメーアから肯定の言葉が返ってくると予想したが、湖面から跳び上がったのは麗しの人魚ではなかった。
桟橋からほど近い湖に水柱が上がり、男の魚人族が2人、元の世界の槍投げ選手のように、銛に似た槍を持つ手を体の後方に引いていた。そのまま投擲された2本の銛のような槍が仁の頭上を通過し、地に伏したままの鰐型の魔物に突き刺さる。魔物が鋭い悲鳴を上げた。
こうなってしまえば、メーアの返事を待つまでもない。槍の行く末を目で追っていた仁は鰐の魔物が魚人族の敵だと判断し、藻掻いている魔物に止めを刺すべく素早く近付いた。仁が禍々しい漆黒の大剣を両手で持ち、大上段に振りかぶる。
黄金色の瞳が恨めしそうに仁に向けられるが、仁はそのまま鋭く魔剣を振り下ろした。漆黒の刃が分厚い鱗を力任せに切り裂き、大地を穿つ。鰐の頭と胴が、真っ二つに切り分けられていた。
完全に動きを止めた魔物を前に仁が一息ついていると、半魚人型の魚人族が1人、桟橋を上がって仁に近付いてくる。仁は敵対する意思がないことを示すために魂喰らいの魔剣を構えないまま向かい合った。
『ジン。無事だべか』
鋭い歯の並ぶ男の魚人族の口から仁の名前と訛りのある言葉が飛び出し、仁は安堵の息を吐いて肩を脱力させた。
『うん。俺は大丈夫。さっき槍を投げたのはハギール?』
『オラがわかるだべか?』
仁が口調でわかったと答えると、ハギールは『それもそうだべ』と再び訛り交じりに答えた。むしろ、仁としては陸の人間の顔を識別するのが苦手だと話していたハギールが即座に仁だと認識していたことに驚いたが、ハギールはメーアがそう言っていたから仁だと思ったのだと、獰猛そうな顔に苦笑いを浮かべた。
ちなみに、槍を投げたもう一人は昨日会ったハギールの相方のようだ。
『勇者のお兄ちゃん!』
仁が振り返った先で、メーアが湖面から大ジャンプを決めていた。仁は魔剣を放り出し、僅かに位置を調整して空から降ってくる人魚を受け止める。
『おい、そこのお前! 激しく不本意だが、メーア様をお前に任せる。しっかりお守りしろよ!』
桟橋の向こうから顔を出した男の魚人族が大声で叫んだ。ハギールの相方と思しき魚人族は、ハギールに早く戻るよう言ってから湖の中へ姿を消した。仁が戸惑っていると、ハギールもメーアを頼むとだけ訛り交じりに言い残し、慌てた様子で湖に飛び込んだ。
辺りに静寂が訪れるが、ざわざわとした不安が仁の胸中を駆け巡る。
「ジン殿!」
『主!』
仁の身を心配するロゼッタとオニキス、ガーネットに大丈夫だと返し、仁は腕の中から頬ずりしてくるメーアをお嬢様抱っこの状態に抱え直した。
『メーア。何が起こっているのか説明してくれる?』
『うん。少し桟橋から離れてもらっていい?』
仁はメーアを抱えたまま膝を折って魔剣をアイテムリングの中に回収すると、メーアの言葉に従い、皆を促してラインヴェルト城の半壊した門を潜る。仁は周囲を見回して門のすぐ傍に腰掛けにできそうな瓦礫を見つけ、メーアに一言断ってから、そっと下ろした。
『お兄ちゃん、ありがとう』
仁たちは事情を聞くべく、メーアの周りに集まって耳を傾ける。もちろん仁しか魚人族の言葉はわからないが、仁は適宜通訳するつもりだ。
『殺人鰐――さっきの魔物のことだけど、その仲間がまだ数頭、湖に入り込んでいるみたいなの』
そう語り始めたメーアの話によると、近年、たびたび湖に侵入して魚人族を襲うようになった鰐型の魔物が、昨夜も現れたのだという。
水陸どちらでも生きられる殺人鰐は元々湖周辺に住んでいたが、あまりに傍若無人な振る舞いから、あるとき、湖の主が群れのリーダーを倒して湖から追い出した。
それ以来、湖の主を恐れてか、長きに渡って殺人鰐が湖の中に入ってくることはほとんどなくなったようだが、約100年前を境に再び姿を見せるようになり、湖の毒が薄くなっていくにつれて、徐々にその頻度が増したそうだ。
その話を聞き、仁はドラゴンの居ぬ間に魔の森で勢力を広げた猪豚人間を思い出した。
殺人鰐は亜人である猪豚人間ほどの知能は持っていないようだが、ドラゴンに匹敵するとも言われる強大な力を持つ湖の主が眠りについたことで、殺人鰐たちの縄張り意識に変化が現れたのだとしても不思議はなかった。
『みんなには止められたんだけど、何も知らない勇者のお兄ちゃんたちが襲われちゃうかもしれないと思って、飛び出してきちゃったの……』
メーアは、ばつが悪そうな顔で仁を窺い見る。メーアの事情を知るハギールとその相方が討伐隊を離れてメーアを連れ戻すために追いかけていたところ、群れから離れていた一頭を見つけて今に至ったそうだ。
広大な湖を捜索するのに、ハギールの相方はメーアを一人で魚人族の街に戻すより、仁たちに守らせることを選んだようだ。
『迷惑かけて、ごめんなさい』
湖の安全がある程度確保されればハギール達が迎えに来ると告げたメーアが、申し訳なさそうに頭を下げた。
『迷惑だなんて、とんでもない。メーアは俺たちのために危険を冒して伝えに来てくれたわけだし、俺で良ければ力になるよ』
仁が自身の言葉を意訳してロゼッタたちに伺いを立てると、仲間たちは間髪入れず頷いた。
『お兄ちゃん! みんなも、ありがとう!』
メーアが数度反動をつけてから、仁の胸に飛び込む。水中とは違って高く跳べないメーアを慌てて抱き留めつつ、仁はこれからどうしたものかと頭を悩ませたのだった。




