15-28.家名
「ご主人様、出口です」
先頭を駆けるファレスが後方を振り返って告げた。仁から未知の強力な魔物の話を聞いたコーデリアは速度を上げるように命じ、20名を超える一行は長い通路の出口へとようやく辿り着いた。
「コーディー。大丈夫ですか?」
「え、ええ。問題ないわ」
コーデリアと行動を共にすることを選んだ奴隷騎士隊の大半が肩で息をしている中、コーデリアは額から玉のような汗を流しながらも気丈さを失っていなかった。コーデリアはドレスの裾を翻し、途中で履き替えた底の平らな靴で硬い床を強く踏みしめた。
「セシル、開けて頂戴」
「は、はい!」
隠し通路を開閉したことのあるセシルが、隠された仕掛けの元に向かう。
「ジン、お願いね」
仁はコーデリアに頷きを返し、通路の行き止まりの壁の前に立った。仁は体内の魔力を高め、再び黒雷の鎧から漆黒の翼を生やす。出口の向こうは狭い滝の洞窟になっているが、万が一にも伏兵がいないとも限らないのだ。
現実的には仁たちが脱走してから動き出したのでは先回りはできないはずだが、驚異的な脚力と、とんでもない走破性を併せ持つ恐るべき鉤爪の存在を忘れてはいけない。
「ジンさん。開けます!」
セシルが仕掛けを操作すると、壁の下部に隙間が生まれ、徐々にせり上がっていく。仁は身を屈め、周囲の気配を探る。特に異変が見られないのを確認し、仁が隙間に身を潜らせた。仁は洞窟の奥側と滝の方面に魔力の網を広げるが、何の反応もなかった。
完全に上がりきった出口から、ファレスが出てくる。その表情には警戒の色が濃く滲んでいた。
「ジンさん。どうですか?」
「この辺りは大丈夫だと思う」
「そうですか」
ファレスが振り返って合図を出す。仁は脇に逸れ、ファレスを先頭に滝の向こうの広場に向かうコーデリアと奴隷騎士隊を見送る。最後にセシルが出てくると、仁は通路の中を覗き込んで追手が迫っていないことを確認し、出口を石の壁で塞いだ。
仁とセシルは頷き合い、水の流れ落ちる音のする方へ足を向けた。二人が滝と岩肌の隙間を通って洞窟の外に出ると、こじんまりとした広場ではコーデリアを中心に、奴隷騎士隊が全方位を警戒していた。仁とセシルは奴隷騎士隊の円に分け入る。
「ジン、セシル。ご苦労だったわね。それでこれからのことだけれど――」
続くコーデリアの言葉を、唐突な森の騒めきが遮った。コーデリアと奴隷騎士隊の面々の視線が一点に集まる。その視線の先にある木々の合間から、黒い影が飛び出した。
『主~!』
黒い影はあっという間に距離を詰め、奴隷騎士隊の円を一気に飛び越えた。唖然とするコーデリアに構わず、黒い影は仁の隣で急ブレーキをかけると、頬ずりを始めた。
『主、主、主~!』
「あー、うん。お待たせ」
仁はぶつかりそうになる黄金色の角を避けながら、逞しい首筋を撫でる。影の正体が敵ではないと判明し、奴隷騎士隊は肩を下ろすが、コーデリアだけは驚愕に塗れた目を大きく見開いていた。
「ジ、ジン。そ、それは一体……」
「え? あ、うん。この黒いのは八脚軍馬。見ての通り、馬の魔物です。名前はまだありません」
『主~。約束したんですから、早く付けてください!』
「ごめんごめん。それどころじゃなかったんだよ」
仁は言い訳しつつ、誤魔化すように撫でる手に力を籠めた。そんな仁に、コーデリアの怪訝そうな目が向けられていた。
「あ。これはですね、俺が独り言を言っているわけじゃなくてですね!」
仁は慌てて八脚軍馬に頼み、念話が皆にも聞こえるようにしてもらった。
「そ、そう。意思の疎通のできる魔物なのね。ま、まあいいわ。それより、今はこれからのことね」
いきなり魔物に挨拶されたコーデリアは戸惑いながらも、気を取り直して真面目な顔を仁に向けた。
「ジン。私たちはエルフ族の里を目指すわ。あなたは私たちに構わず、メルニールに向かって頂戴」
「それは……」
「あなたやセシルの縁に頼ることにはなってしまうけれど、メルニールが兄の手に落ちてしまった可能性がある以上、他に行く当てがないの。大丈夫。無理強いはしないわ。もし断られてしまったら、別の道を探すわ」
仁としてはエルフの里に迷惑をかけたくなかったが、だからといってここでコーデリアたちを放り出すわけにもいかない。ファレスは「ガウェインがエルフの里を見逃すわけがない。メルニールの次はエルフの里が狙われる。だとしたら協力すべきだ」と主張していたが、どうにも攻める口実を与えてしまうような気がして気乗りはしなかった。もっとも、口実などなくてもガウェインには関係ないだろうと問うファレスに、仁は頷くしかなかった。
メルニールが無事なら一旦屋敷で匿ってルーナリアに相談する手もあったが、本当にメルニールが陥落してしまったのだとしたら、ルーナリアの安否も気になるところだ。
「わかりました。セシルもいますし、アシュレイなら無下に敵対するようなことはないと思いますが、道中、何があるかわかりません。十分に気を付けてください」
「ええ。わかっているわ。だから、あなたはレナさんやルーナ姉様たちを、リリーさんを助けてあげて」
リリーの名を口にした辺りで、コーデリアの声が僅かに震えていた。懇願するような視線を受け、仁は大きく頷く。
「ご主人様、口を挟んで申し訳ありません。少しだけジンさんとお話しさせてもらってよろしいでしょうか」
「ええ。構わないわ」
「ありがとうございます」
ファレスが仁の前に進み出る。仁は何事かと首を傾げた。
「ジンさん。兄をよろしくお願いします」
「兄?」
仁の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
「はい。私は、今はただのファレスですが、以前は家名を持っていました」
「そういえば、ガウェインがそんなことを言っていたような……」
元々ファレスが取り潰しになった貴族の出身だとは知っていたが、ガウェインはあのとき、確かにファレスの家名を言っていたはずだ。そのとき、仁は何か引っかかるようなものを感じていたのだが、今の今まですっかり忘れていたのだった。
「私が無くし、捨てた家名は“ヴァーレン”。今はルーナリア第一皇女殿下のご尽力で、兄のみが名乗ることを許された名です」
「ヴァーレン……。ルーナ……? あ!」
仁の頭に、パッと電球が光を放ったかのように、一筋の閃光が走った。
「ファレスさんのお兄さんって、もしかして、ヴォルグさん!?」
「はい。ヴォルグ・ヴァーレンが私の兄です」
「そ、そうだったんだ……」
ここまでの道中、ファレスは遭遇したガウェインの部下相手に、元貴族の令嬢と思えないほどの鋭い剣筋を見せていた。それもヴォルグの妹だと言われれば納得できるように思えた。
「兄は私がご主人様に救われ、お仕えしていることは知りませんし、知らせるつもりもありませんでした。ただ、それでも、兄が私に残された唯一の肉親であることに変わりはありません」
仁が驚いている間も、ファレスは真摯な言葉を紡ぎ続ける。
「兄は強い。だけど、あなたはそんな兄に勝ったと聞いています。そんなあなただからこそ、兄の危機も救ってくれると私は信じられるのです。ジンさん。どうか、兄を助けてやってください。お願いします」
ファレスが深く頭を下げた。仁が力強く了承の意を伝えると、顔を上げたファレスの両頬に大きな窪みが生まれた。
「では、行ってきます」
「ええ。あなたたちの無事を祈っているわ」
「ジンさん。どうかご無事で……!」
「ご武運を」
仁はコーデリア、セシル、ファレス、その他の奴隷騎士たちに見送られながら、颯爽と漆黒の馬体に跨った。
「じゃあ、頼むよ」
『任せてください!』
八脚軍馬の念話が仁の心と頭に大きく響いた。仁が手綱で指示を出すまでもなく、八脚軍馬の八本に見える足が地面を強く踏みしめ、土埃を上げた。
代わり映えのしない魔の森の景色が、どんどんと後方に流れていく。
「玲奈ちゃん、みんな、リリー……。どうか無事でいて」
呟いた仁の言葉は、あっという間に置き去りにされ、夜の森に消えていった。




