14-32.景色
「それで、君は俺たちに力を貸してくれるのかな?」
仁は頭上のイムを両手で掴んでミルに渡してから立ち上がり、どことなく名残惜しそうにしているようにも見える八脚軍馬と向かい合った。
八脚軍馬が人を乗せることを受け入れたこと、そして先ほどまで大人しく撫でられていたことからも、仁は肯定的な返答が聞けるのではないかと期待し、その想いを視線に込める。
しかし、八脚軍馬から返ってきたのは否定の言葉だった。
『ボクはあなたを乗せることができて嬉しかった。できることなら、また乗ってほしいって思います。だけど、ボクはここを離れるわけにはいかないんです。またあんな化け物が現れたとき、ボクは今度こそ、この場所を、群れのみんなを守りたい。守らなきゃいけないんです』
八脚軍馬の瞳は真剣だった。「お父さんやお母さんの代わりに戦いたい」と真摯に告げる八脚軍馬を前に、仁はそれ以上勧誘することができなかった。もし八脚軍馬の両親が生きていれば、八脚軍馬が責任を感じる必要はないと言うだろうが、両親の守ったものを守りたいと思う子の気持ちは簡単に否定していいものではなかった。
一角馬に乗せてもらえそうにない仁にとっては八脚軍馬が唯一の希望だったが、無理強いはできない。仁としても、もう一度馬上からの景色を見たい気持ちもあり、残念であることは言うまでもないが、八脚軍馬の気持ちを尊重したいと言った仁の言葉に嘘はない。
「そっか。残念だけど――」
『その必要はありません』
仁が諦めようとして口にした言葉が、突然の念話に遮られる。仁が驚いて辺りを見回すと、仁たちを少し遠巻きに眺めていた一角馬たちの後ろから、純白の一角馬が現れた。その一角馬は足を引きずるようにゆっくりと歩を進め、八脚軍馬の目の前までやってきた。
『我々はお前の力に依存するほど落ちぶれてはいません。あの化け物に後れを取りましたが、次代を担う若者たちが育ってきています。お前がいなくとも、別のものたちが立派に務めを果たしてくれるでしょう』
戸惑いを見せる八脚軍馬を余所に、まとめ役の一角馬は一切の迷いのない瞳を仁に向けた。
『先ほど皆様から伺いましたが、あなた方が敵対しているのはあの化け物をこの世に生み出したものたちだとか』
仁が頷くと、八脚軍馬からハッとしたような雰囲気が伝わってきた。
『なればこそ、この者をお連れ下さい。この者はまだ幼く、至らぬ点も多々あるでしょう。しかし、こと戦いにおいては我らの群れの中でも抜きん出ています。その力を、ぜひあなた方の元で活かしてやってほしいのです』
仁はまとめ役の言葉を受け、八脚軍馬を見遣る。直接的な仇は既に仁が取っているが、本を正せば合成獣を造り出した上で逃がすという失態を演じた帝国が元凶であると言うこともできる。一角馬たちの群れにとっては帝国が仇だという面は確かにある。しかし、仁は、だからと言って悪戯に復讐心を煽ることはしたくなかった。
仁は悩むような素振りを見せる八脚軍馬から目を離し、まとめ役の一角馬に向き直る。
「気持ちは嬉しいですが、俺は本人の意思を尊重したい」
仁と純白の一角馬が見つめ合う。仁にも帝国への復讐心は存在するが、人はそれだけに囚われては生きられない。
仁は時々考えることがあった。
メルニールでの帝国軍との戦いで魔王を演じたときに感じた、心の底から湧き上がるような黒い感情は、帝国に対する復讐心の現れだったのではないか。あのまま心の闇に呑まれてしまっていたら、自分はどうなってしまっていたのか。
そのことを思うと、復讐を餌に八脚軍馬を駆り出すことはしたくなかった。
復讐は何も生まないなどと綺麗ごとを言うつもりはない。復讐したいと願うことで救われる心はきっとある。復讐心は心の拠り所になり得る。
しかし、それと同時に、心の全てがそこに依存してしまっては、心が生きているとは言い難いのもまた事実。
仁の場合は玲奈の存在が、玲奈を元の世界に戻すという目的が復讐とは違う道となったが、仁は八脚軍馬も、八脚軍馬本人が口にした通り、この地を、群れの仲間たちを守りたいという願いが、八脚軍馬の道となることを願う。
「それに、確かに俺たちが身を寄せているエルフの里が合成獣を造った帝国に狙われているかもしれないのは事実ですが、俺たちが戦うのは大切なものを守るためで、帝国を滅ぼそうとしているわけでありません」
降りかかる火の粉は払わざるを得ないが、積極的に炎の中に飛び込んでいくつもりはない。魔王妃のこともあり、エルフ族の決断次第では防衛戦だけに留まらない可能性はあるにしても、できることなら全面戦争といった事態に陥らないことを願う仁の心に嘘はない。
『そうですか。わかりました。そんなあなただから、あなた方だからこそ、この子をお任せしたいと思ったのですが、私にできるのはここまでのようですね。後はお前が決めなさい』
仁の心を見透かすような澄んだ瞳が、今度は八脚軍馬の姿を映す。
『後悔することのないように』
最後に群れの子に向けてそう告げた純白の一角馬が遠ざかる。仁たちの注目を一身に受けた八脚軍馬はおどおどした様子を見せていたが、一際大きく鼻息を吐き出すと、仁の正面まで移動した。
『今のお二人のやり取りで、色んな人がボクを大切に思ってくれているんだって気付かされました。ボクは本当に果報者です。両親に恵まれ、群れの仲間に恵まれ、そして乗り手にも――』
曇りのない赤い瞳が仁を捉えて離さない。
「乗り手……?」
『これからもボクに乗ってくれるんですよね?』
「戦いに巻き込むことになるけど、いいの?」
『今更それですか? 散々強引に迫ってボクの初めてを奪っておいて』
聞く人が聞けば誤解してしまうかもしれない八脚軍馬の言い回しに、仁は内心でビクッとするが、相手は馬の魔物だ。玲奈が誤解してしまうようなことがあるはずがない。真面目な話をしている最中に何をおかしなことを考えているのかと反省し、仁は気を引き締め直す。
「さっきも話した通り、俺たちといてもご両親や仲間たちの仇は取れないかもしれないよ?」
『あの化け物はあなたが倒してくれたんですよね? それならボクの復讐はもう終わっています。後はこの場所とみんなを守るだけだって思っていましたけど、どうやらボクは必要とされていなかったみたいです』
「それは――」
『大丈夫ですよ。ちゃんとわかっています。また自分の気持ちに嘘を吐こうとしたボクのためを思って言ってくれたんですよね。だから、ボクは決めたんです。ボクはボクの背中を押してくれたみんなのためにも、自分の気持ちに正直になろうって』
念話が途切れる。心地よい風が通り抜け、八脚軍馬の赤い鬣をはためかせた。
『ボクはあなたと一緒にいたい。もっとあなたに乗ってほしい。あなたを乗せて走った森は、いつもとは全く違った景色に見えました。またボクに、新たな景色を、世界を見せてほしいんです。だから――』
仁がゴクリと喉を鳴らし、続く言葉を、心の声を待った。
『――ボクを、あなたの馬にしてください』
言葉が、心が仁の胸にしみわたる。仁は高鳴る心臓の鼓動を感じながら、満面の笑みを浮かべたのだった。




