13-17.変質
恐るべき鉤爪の体が、ビクンと一際大きく跳ねる。仁は嫌な予感に駆られ、右手に黒炎刀を作り出した。仁は腰を僅かに落とすと、即座に横薙ぎし、黒炎斬を放つ。赤黒い斬撃が勢いよく飛び出し、その場から動かない恐竜に似た魔物に襲い掛かる。
「あれは……!」
黒炎斬が到達する直前、恐るべき鉤爪の体が一気に膨れ上がった。頭から灰色が現れ、全身に広がっていく。その様は、まるで脱皮して新しい体に生まれ変わるかのようにも思えた。灰色の体が黒炎斬を受け止める。遠目には僅かに喰い込んでいるように見えたが、赤黒い三日月はそれ以上斬り進むことなく空気に溶けた。
滝壺を中心とした安全地帯に、獣の咆哮が轟いた。
変質を終えた魔物は、見上げんばかりに大きくなった灰色の体と、3本に増えたトレードマークの足の指の鉤爪と、不釣り合いなほど長く伸びた腕を持っていた。
羽毛を失くした腕は不気味なほどに細く感じたが、その先の3本指の一本から、恐るべき鋭い鉤爪の足先に付いていたような湾曲した刃状の爪が生えている。
天を向いていた魔物の細長い口の先が仁に向いた。魔物の陥没した眼窩の内の瞳が憎々しげに仁を睨みつける。仁は眉間に皺を寄せて睨み返しながら、黒炎刀を消してアイテムリングから不死殺しの魔剣を取り出した。
「ジン殿。あの小瓶の中身はもしかして――」
「魔薬。いいえ、正しくは魔人薬、だったかしら」
仁が頷くより早く、エルヴィナが口を開いた。仁は自らの予想が当たってしまい、唇を噛んだ。
「魔人薬を飲んだザフィーダは坊やが倒したようだけど、その魔物はどうかしら」
エルヴィナが挑発するような声音で言う。
ザフィーダはかつてエルヴィナの所属していた闇の超越者のリーダーだった男だ。男は何も知らないまま仲間の手によって未完成の魔人薬を飲まされ、灰色の化け物と化したのだ。
目の前の魔物はメルニールで仁が玲奈と協力して倒した魔人擬きと似た特徴を持っていた。ザフィーダは元々、当時の玲奈とミル、ガロンの3人を軽くあしらえるほどの強さだったが、化け物と化した後は人間離れした膂力と魔力、並みはずれた再生力を誇っていた。
本来の魔人薬は飲んだ者に魔人族のような強力な魔力と強靭な肉体を与える秘薬とのことだが、元々の強さに依存するという話から推測すると、目の前の魔物の脅威度がわかるというものだ。
恐るべき鉤爪自体が素早さに特化しているとはいえ、その強さはザフィーダと比べるべくもない。そんな強力な魔物が魔人薬を飲めばどうなるか。それは言うまでもない。
現に、通常の恐るべき鉤爪を一撃で屠ったことのある黒炎斬が通用しなかったのだ。もちろん灰色の体が炎への耐性を持つことはわかっているが、仁は正面から放たれるプレッシャーの重さを感じていた。
ビリビリと張り詰めた空気が仁の肌を打つ。
「ロゼ。あいつは俺がやる。ロゼは邪魔が入らないようにしてほしい」
「あら? 私はそんな無粋な真似はしないわよ?」
「承知しました」
ロゼッタはエルヴィナの言を歯牙にもかけず、了承の意を示す。エルヴィナの嘆息が聞こえてきたが、仁は無視して前へ出る。
魔王妃の眷属と思しき古代の魔物が、帝国第一皇子の研究している魔人薬を使用した。この事実が示す事態は、決して歓迎されるものではない。帝国には戻れないと思っていたユミラの体を持つ魔王妃が第一皇子と繋がりを持ったかもしれないのだ。そのことが今現在帝国で起こっているかもしれない何事かに関わりがないとはとても思えなかった。
可能ならば関係者と思われるエルヴィナを捕らえて話を聞きたいが、今はそれよりも目の前の魔物をどうにかすることだと、仁は一旦いろいろな疑問を思考から追い出す。
エルヴィナの自信が気にはなるが、かつてよりも遥かに強くなったロゼッタを信じるしかない。最悪逃げられたとしても、ロゼッタが無事ならそれでいいと強く願った。
一直線で歩く仁を、長く伸びた腕以外は羽毛のない恐竜を思わせるシルエットの灰色の魔物が出迎える。
元の世界の映画で観たティラノサウルスほど大型ではないが、もはや小型とは言えない巨躯が仁を見下ろす。魔人擬きは意思を持っていなかったが、少なくとも目の前の魔物は仁に憎しみを向けているように思えた。
どす黒く濁った瞳に、仁は仲間を殺された憎悪の炎を見た。
仁は高まる鼓動を深呼吸で沈め、右手の魔剣に漆黒の雷を纏わせる。目の前の灰色の化け物が魔人擬きと同じ特徴を持つのなら、火属性は効かずとも、雷属性は有効のはず。加えて、驚異的な再生能力も不死殺しの魔剣の特性が打ち消すはずだ。
仁は落ち着いた気持ちで戦いに挑む。
先手は仁だった。一気に距離を詰めて、両手で握った魔剣を大上段から振り下ろす。大腿目掛けて振り抜いたはずの斬撃が、鋭い金属音を響かせた。弧を描く爪の刃が、魔剣を受け止めていた。
ギリギリと押し合うが、徐々に仁が押され、上体が起き上がる。仁の肩口を狙って、もう一本の細長い腕が振り下ろされた。
仁は力を振り絞って剣を押し出すと、その反動を利用して背後に飛びずさる。爪の刃が空を切る。仁は左手を柄から放し、手のひらを正面に向けた。
「黒雷撃!」
漆黒の雷撃が魔物の首筋を狙うが、灰色の魔物は大きくサイドに逃れた。巨躯を得ても敏捷性は健在だった。
そのまま仁の側面に回り込んだ魔物の鳥の嘴のように細長い口が上下に分かれ、口内に魔力が集まる。直後、深緑の吐息が放たれた。
仁は魔剣を盾にするが、放射状に広がった毒々しい緑の霧は障害物を物ともせずに回り込み、仁の全身を呑み込んだ。
深緑の毒霧に触れた地面の草花や背後の木々。生きとし生けるもの全てが見る見るうちに朽ち果てていく。
灰色の魔物が吐息を止めると、そこは死の大地と化していた。しかし、凶悪なまでの毒をもってしても滅ぼせないものがいた。
深緑の残滓の中から、漆黒の鎧を身に纏った仁が現れる。
仁の全身は黒雷の膜で覆われ、火竜鱗の軽鎧は、一部、その形を変えていた。黒雷刀のように固定化された黒雷が、元の世界のアニメで観たような前衛的で洗練されたデザインへと変えていた。
そして、いくら強力でも毒は毒。以前の戦いで毒耐性の技能を獲得した仁に、毒は効かない。
仁は左手に黒雷刀を作り出し、魔物に一気に肉薄すると、2振りの剣と刀で2本の爪の刃と切り結ぶ。一振り一振り打ち合う音が衝撃波となった。
力では敵わない仁は時に受け流し、時に位置を変え、五月雨の如く打ち続ける。巨躯になったことで小回りの利かない灰色の化け物は時に大きく跳んで避けるが、仁は逃がさない。
業を煮やした魔物は更に距離を取ろうと、広場を囲う木々を斬り倒し、押し倒す。荒れ狂う灰色の暴風が深い森を破壊していく。
根元から折れ、半ばから刈り取られた木々の間を、仁は縫うようにして追うが、灰色の魔物は長い腕や強靭な足を使って太い木々を投げ飛ばし蹴り飛ばし、仁への壁とした。
あまりの物量に、仁は足を止めると、両腕を体の前面で交差させ、斜め上方に向けて一息に斬り払う。クロスした漆黒の斬撃が木々を切り分け、仁の視界が開ける。
仁はハッと息を呑んだ。両手を地面に突き、地を這うほどに体勢を低くした魔物が四足の状態で黒雷斬の下を通り抜け、一気に跳びかかる。空中で体を反らした魔物は尾を引きずりながらも速度を落とすことなく、一直線に仁を目指していた。
灰色の鉤爪が、目前に迫っていた。




