2-10.宿屋
青い光が霧散するように消えていく。巨体から零れ落ちた光が辺りをほんのりと照らした。仁が召喚されたのはガザムの街の倉庫だった。玲奈が片手を小さく振っていた。
「仁くん」
「玲奈ちゃん、ありがとう」
仁と玲奈が笑顔を見せ合っていると、倉庫の入口からマルコが入ってきた。その隣にリリーの姿があった。
「ジン殿。ご無事で何よりですな」
「マルコさん。倉庫を提供していただき、ありがとうございます」
仁と玲奈がマルコに頭を下げた。
「いえ、礼には及びませんよ。この借りた倉庫にも余裕があったことですし、何より、メルニールを拠点とするワシらにとっても決して無関係な話ではないですので」
「そう言っていただけると助かります」
「ただ、ここからメルニールまでレナ殿の技能で運ぶのは止めた方がよいでしょう」
当然そのつもりだった玲奈が首を傾げた。
「レナ殿の技能は、ジン殿と一緒であれば遠く離れた場所のものを瞬時に取り寄せることを可能にする、とても貴重なものです。お二人がワシや孫らの恩人でなければ、是が非でも取り込んでその力を自分らの商売に使わせようとしたことでしょう」
「なるほど。そうでなくても玲奈ちゃんの技能を喧伝するのは避けたいですしね。でも、それならどうすれば?」
「ここに暫く置いておき、メルニールの冒険者ギルドに話を通して運ぶための人員を派遣してもらうのがよろしいかと。ギルド長であればすぐ動いてくれることでしょう。万が一断られたならば、責任を持ってワシが買い取らせていただくのでご安心ください」
商売人の顔になったマルコが不敵な笑みを浮かべた。それはそれで金になると思っているのだろう。
「わかりました。マルコさんがそれでいいのなら、俺に不満はありません。よろしくお願いします」
満足げに頷いたマルコが顎鬚を撫でる。
「ただ、せっかくの良い状態のものが傷んでしまわないかが、ちと心配ですな」
この倉庫には冷却の魔道具が設置されているがあまり質の良いものではないらしかった。ガザムの街からメルニールまで移動し、輸送のための人員がメルニールからガザムまで移動し、さらにそこから運ぶとなると、かなりの日数が経過してしまう。
「あの。仁くん、ちょっと試してみたいことがあるんだけど」
見ると、玲奈が目を輝かせていた。
「玲奈ちゃん、どうするの?」
「私の魔法で凍らせるんだよ」
自信満々な玲奈の様子に、仁は任せてみることに決めた。仁はマルコとリリーを連れて下がる。玲奈が合成獣の胴体に手を触れさせて瞑想に入った。
「凍結!」
それは凍結の魔法だった。この魔法は触れた相手を内部から凍らせて、主に動きを封じるのに用いられる魔法だ。玲奈はそれにありったけの魔力を込めているようだった。三人が見守る前で、玲奈の触れた先が変化を始めた。生まれた小さな霜が時間をかけて徐々に広がっていく。
「これは……」
「すごい……」
マルコとリリーの口から感嘆の声が漏れた。
ついに霜が合成獣の全体を覆い尽くした。しかし、玲奈の魔法は止まらなかった。霜が空気中に伝わっていく。辺りに寒々とした冷気が満ちていく。玲奈が凍結の発動を止めたとき、合成獣はその巨体をすっぽりと氷の棺に捕らわれていた。
「はい。できました。合成獣の氷漬けです!」
得意げに満面の笑みで宣言した玲奈の体が揺れた。仁が駆け寄って肩を支える。
「仁くん、ありがとう。昼間と逆だね」
玲奈は疲れた表情を浮かべるが、それでも笑みは絶やさなかった。
「す、すごい! すごいです、レナさん!」
規格外の玲奈の凍結に驚いて動きを止めていたリリーが賞賛の声を上げた。隣のマルコは我を忘れて氷漬けにされた合成獣を見つめていた。
「本当にすごかったです。レナさん!」
リリーの興奮は止まらなかった。玲奈が褒められるのは仁も悪い気はしなかった。
「さすが、ジンさんのご主人様ですねっ!」
仁と玲奈はリリーの案内でガザムの街の宿屋に向かっていた。薄暗くなってきた通りを3人で並んで歩いた。仁の左右にリリーと玲奈が陣取っていた。リリーの左右の髪がぴょこぴょことご機嫌に揺れていた。
「ジンさんとレナさんの部屋も空いてるといいんですけどね」
このガザムの街はそれほど大きな街ではないが、帝都とメルニールの間を行き来する商隊や、この近辺で活動する冒険者たちが一時滞在する街として利用するため、宿はすぐに埋まってしまうとのことだった。通り沿いの食堂や酒場から明るい笑い声が漏れ出していた。平和な光景だと思った。向かっている宿屋も宿泊用の部屋は2階と3階で、1階は食堂兼酒場になっているようだった。
「到着ですっ」
リリーの元気さに思わず笑みが零れた。
「なんでダメなんですかっ!」
石造りの宿屋の受付カウンターにリリーが両の拳を叩きつけた。
「あんた何を言ってんのさ。奴隷なんかに部屋なんて貸せるわけがないじゃないか」
どこ吹く風な態度の女将に、リリーが激高する。玲奈はおろおろしていた。
「何も泊まるなって言ってるわけじゃない。主人の部屋に一緒に泊まれって言ってんのさ。何が気に食わないんだい」
「ベッドが1台しかないじゃないですか! 床で寝ろとでも言うつもりですかっ!」
女将が眉をしかめた。
「本当にあんたは何を言ってるんだい。奴隷が床で寝るなんて当たり前のことじゃないか。それに、野宿しないで済むだけで主人に感謝するってもんだろうに」
「もういいです! ジンさん、レナさん、別の宿屋に行きましょう!」
「そりゃ好きにしてくれていいけど、他の宿屋も同じだと思うがねぇ」
リリーはメルニール以外での奴隷の扱いに思うところはあったが、それが帝国での普通であることは間違いがなく、唇を噛んだ。
「リリー。俺のために怒ってくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。俺はマルコさんに頼んで倉庫にでも泊めさせてもらうよ」
「ダ、ダメですよ! あんなところで寝たら風邪を引いちゃいます!」
仁はふと先ほどの氷の棺を思い出して身震いした。
「そ、そうだね。じゃあ街の外で野宿してくるよ。テントは持ってるし、野宿は慣れたものだからね」
「1人だと見張りがいなくて危険ですっ! それにジンさんだって疲れてるのに。しっかり休まないとダメですよ」
受付前で揉めている仁たちを女将が迷惑そうにしている。
「どうでもいいけど、あたしも暇じゃないんだよ。さっさと決めてくれないかねぇ」
営業妨害と取られかねない状況に、仁は宿の出入り口に足を向けた。
「仁くん。待って! 私は一緒の部屋でいいよ」
それまで俯き加減で成り行きを見守っていた玲奈が、顔を上げて仁を制止した。玲奈の頬が赤く染まっていた。
「え。でも、いいの?」
玲奈は紅潮したままの顔で小さく頷くと、服の隠しポケットの金貨でさっさと宿代を払ってしまった。
「はいよ。夕食と明日の朝食の2食付きの一人部屋ね」
お釣りと鍵を受け取るなり、さっさと2階に上がって行ってしまう。仁は呆気にとられているリリーに別れを告げ、慌てて追いかけた。
「玲奈ちゃん、ありがとう」
奴隷は食堂を利用できないと言われたため、別途購入した夕食を玲奈に部屋まで運んでもらった。久しぶりの保存食以外のきちんとした食事はとてもおいしく感じた。
食事の後にはいつものように交互にお湯で体を清めた。もちろん片方は部屋の外で待機した。お互い寝間着ではなく、野宿の時と同じくチュニックとズボンのままだった。トイレなどを除くと6畳もないくらいの広さの部屋の半分をベッドが占め、テントを張れるほどのスペースはなかった。
「玲奈ちゃん、ごめんね。俺は毛布に包まって床で寝るよ。それでも外で寝るよりは余程快適だよ。ありがとう」
仁はそう言ってアイテムリングから毛布を取り出した。
「待って。私が床で寝るよ。仁くんがベッドを使って。せっかく久しぶりにベッドで寝られるんだもん。今まで私を守ってくれた仁くんがベッドを使うべきだよ!」
「いや、さすがに女の子を床に寝かせて自分がベッドで寝るっていうのは……。それに、玲奈ちゃんはさっき魔力をいっぱい使って疲れてるんだから、ベッドでゆっくり休まないと」
「それを言うなら、仁くんこそあんなに強そうな魔物と一人で戦って、みんなを守ってふらふらだったじゃない。仁くんがベッドを使って。これは決定事項です!」
玲奈が人差し指を顔の横に立てて宣言した。どこまでも平行線だった。それでも仁は折れるわけにはいかない。
「わがまま言ってないでベッドで寝てね。俺はもう寝るから。おやすみ」
仁はもう言い合いは終わりだと言わんばかりに、毛布に包まって床に寝転がった。ベッド脇に立っている玲奈に背を向けた。
「仁くんこそわがまま言わないでよ。お仕置きしちゃうよ!」
納得のいかない玲奈は首輪の電撃を仄めかして脅しにかかるが、仁は無視を決め込んだ。
「うぅ……。ひとつだけ言うこと聞いてくれるって約束したのに……」
仁は玲奈との約束を思い出して心が揺らぐが、それとこれとは別の話だと言い聞かせた。
「わかった。もういい。私も床で寝る!」
玲奈はそう言うなり、ベッドと仁の間の床に毛布もなく潜り込むようにして寝そべった。仁を背にし、ベッドの方を向いた。
「え。玲奈ちゃん、何やってんの!」
玲奈はさっきのお返しとばかりに応えない。仁は思わず体を起こした。
「ちょ、ちょっと玲奈ちゃん? さすがに毛布もなしじゃ体壊すよ!」
無反応を決め込んだ玲奈に、仁は諦めてアイテムリングから毛布を取り出し、玲奈の上にかけた。仁はよく知っていた。玲奈が負けず嫌いで、そして頑固なことを。
「玲奈ちゃん。床は硬いんだから、ちゃんと毛布に包まらないとダメだよ」
それだけ言うと、仁は追加でもう1枚の毛布を玲奈に重ねがけして、再び床に横になった。いくら結果的にベッドが空いているからと言って、玲奈を差し置いて自分だけがベッドで寝るわけにはいかなかった。背後で玲奈がもそもそと毛布に包まる気配を感じた。
(どうしてこうなった……)
仁の目の前には備え付けのテーブルの脚が迫り、これ以上動くことができなかった。仁は毛布越しの背中に玲奈を感じながら、眠れない夜を過ごした。
翌朝、心配して様子を見に来たリリーが呆れていた。




