9-12.名前
「あ、あの……?」
「す、すみません。少々取り乱しました」
エルフィーナは小さく咳払いをして再び柔和な笑みを浮かべるが、仁にはどこか引きつっているように感じられた。仁が戸惑っていると、信じられないものでも見たように目を丸くしたアシュレイが渇いた唇を動かす。
「ジ、ジン。お前たちは知らないかもしれないが、基本的に竜は名を持たない。ごく限られた特殊な事例を除いて……」
「え?」
アシュレイの口ぶりから、仁はもしかしてイムに名前を付けたのがいけなかったのかと思いはするものの、そこまで驚かれることなのか疑問に思い、ますます首を傾げた。ミルとイムも、きょとんとした目で仁たちのやり取りを見守っている。
「竜が名を持つのは、自尊心の強い竜が自らの主と認めた者から与えられた場合のみ。我々エルフが知る中で名前を持つのは、かつて世界が滅びに瀕していたとき、エルフ族の英雄シルフィーナと契りを結んだ偉大なる竜王ヴェルフィーナただ一人」
重々しいアシュレイの雰囲気に呑まれ、仁は喉を大きく鳴らした。アシュレイの言葉をエルフィーナが引き継ぐ。
「竜が名前を受け入れるというのは、名付けをした者を主とし、生涯を通してその者と共にあるという盟約を交わすことに他ならないのです。お見受けしたところ、炎竜の御子、イム様はミル殿――ミル様より授けられた名前を受け入れておられるご様子。誠に失礼ながら、その事実に驚いてしまいました」
仁はイムがミルに一番懐いているのは、もちろん人懐っこいミルの性格をあるのだろうが、皆に先んじて大好物の串焼きをくれた相手だからだと思っていた。生まれたばかりのイムが名を受け入れる意味を正確に理解していたかどうかはわからないが、玲奈がイムに芸を仕込んでいたときにミルの頭に決して乗ろうとしなかったのも、主に失礼な行為だと考えていたからだと思えば納得できる話だった。そもそも名前を受け入れたのが食べ物に釣られたからではないかという疑念は生じたが、理由はどうあれ、イムがミルを主だと思っている証左の一つにはなるかもしれないと仁は考えた。
「それでミルの言うことはよく聞いていたのか……」
仁がイムを見つめていると、イムは気まずそうにふいっと仁から視線を逸らした。少しでも竜と人の溝を埋められればという打算もあっての名付けだったが、それがこのような大きな意味を持っていたことに仁は驚きを禁じ得なかった。しばしの間、静寂が辺りを満たした。
「さて」
エルフィーナが気を取り直したように声を上げた。仁たちの視線がエルフィーナに集まる。
「それでは、ジン殿たちがイム様を連れてここまで来られた経緯をお聞かせいただけますか?」
エルフィーナの柔和な中に真剣さを増した瞳が仁を射抜く。仁は未だ驚きから覚めない気持ちを何とか切り替え、自身の知る帝国のしたこととドラゴンとの戦い、イムとの関わりについて話して聞かせた。
「そうですか。話はわかりました。あなた方に非はありません。竜の習性とはいえ、かの火竜の報復は度を超したものだったようですね。大切なものを守るための戦い。誰がジン殿の行いを責められましょう。アシュレイもいいですね。結果としてそれが帝国に利する行為だったとしても、決してジン殿を責めてはなりませんよ」
エルフィーナがアシュレイに言い聞かせるように言うと、アシュレイはばつが悪そうに視線をそっと逸らした。
「アシュレイ、あなた……」
エルフィーナは額に手を当てて溜息を吐いた。
「あなたの気持ちはわかりますが、あなたももういい歳なのだから、感情に流されるのはやめなさいといつも言っているでしょう」
「うぐ……」
痛いところを突かれたのか、アシュレイの口からくぐもった声が零れる。
「そんなだから嫁の貰い手が見つからないのです。反省なさい」
「は、母上! それは関係ないでしょう!」
アシュレイが眦を下げながら、情けなく声を張り上げた。
「え。母上?」
仁が思わず声を上げると、エルフィーナは殊更ニッコリと笑みを深めた。
「申し遅れました。私はアシュレイの母です。ジン殿。娘がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません」
「い、いえ。アシュレイが怒るのももっともだと思いますし。それに、こちらこそ危ないところを助けていただいて、迷惑どころか感謝してもしきれないくらいです」
「そう言っていただけると助かります。ジン殿のことはアシュレイからよく聞かされていましたが、話通り、とてもできた人のようですね。ジン殿のような方に貰っていただければ私も安心できるのですけど」
仁が答えに窮していると、アシュレイが顔を真っ赤にして立ち上がった。
「母上! ジンは私の弟子であり戦友です。そのような物言いはやめていただきたい!」
「あら? そうは言ってもそこは男女のこと。いつ何をきっかけにどうなるかわかりませんよ」
「わかります! というより、母上。今はそのような話をしている時ではありません! 長老なのですから、ふざけるのも時と場所を選んでいただきたい!」
突然言い合いを始めた母娘に仁が面食らっていると、隣に座っている玲奈がちょんちょんと仁の肩を突いた。
「仁くん仁くん。アシュレイさんってもっと怖い人だと思ってたけど、案外可愛い人なのかな?」
玲奈の言葉が聞こえたのか、アシュレイはキッと目を細めて玲奈を睨みつけた。玲奈はビクッと肩を震わせ、体を縮こまらせて仁の体の陰に隠れる。
「ともかく、今は今後のことを話し合うべきでしょう!」
「わかっています。アシュレイも落ち着きなさい。はい。座って座って」
声を荒げるアシュレイを軽くあしらい、エルフィーナは再び仁に向かい合った。アシュレイは不満そうに口を尖らせていたが、言われるまま着席する。
「ジン殿。あなた方はイム様を竜の棲家に帰すつもりとのことですが、それは叶わぬでしょう。なぜなら、今、竜の棲家はある魔物に乗っ取られているからです。この一帯を統べる炎竜の留守を任されていた火竜がジン殿に討たれたことで、それまで息を潜めていた力ある亜人が台頭したのです。その者は同種のみならず、この森に暮らす多種多様な魔物たちを従え、竜から版図を切り取るつもりでしょう。ジン殿たちを襲ったのも、イム様の存在に気が付いたためかと思われます」
仁はイムが狙われていると感じたのは間違いではなかったのかと思い、どうしたものかと頭を悩ませる。エルフィーナの言う通り、竜の棲家が他の魔物の領域になってしまっているのであれば、イムを帰す意味がなくなってしまう。火竜を殺してしまった以上、無事にイムを親竜の元に帰すことが仁にできる最低限の誠意だと考えていた。イムの名付けという別の問題が発覚してしまったが、今は考えないでおく。
「ジン殿。我々エルフは長い間、竜と一定の友好関係を築いてきました。火竜の件、イム様の件できっとお力になれるでしょう」
それは仁たちにとってありがたい申し出だったが、話はそこで終わりではなかった。
「そこでジン殿にお願いがあります。我々は竜のいぬ間にこの森で我が物顔にふるまう無作法者を放っておくわけには参りません。未だ竜が帰還の気配を見せない今、このまま増長を許せば、いずれこのエルフの里にも危害が及ぶことでしょう。ジン殿。火竜をも倒すそのお力、ぜひ我々に貸していただきたい」
「ジン。頼む」
エルフィーナが頭を下げ、アシュレイもそれに倣う。仁はエルフの母娘に顔を上げるよう言いながら、玲奈たちに視線を巡らす。仁個人としては多少の危険を受け入れてでもエルフにドラゴンとの仲立ちをお願いしたいと思っていたが、仁が亜人との戦いに赴く以上、玲奈たちも巻き込むことになる。仁自身の一存で答えていい問題ではなかった。
「仁くん。また置いて行くなんて言わないよね?」
「ジン殿。今度こそはきっと力になってみせます」
「ミルはいつもジンお兄ちゃんと一緒なの!」
「あ、足手まといにならないよう、がんばります!」
それぞれに仁の目を見つめて告げる仲間たちに、仁は頼もしさを感じた。
「うん。正直、できることならみんなには危険を冒してほしくない気持ちはある。だけど、みんなの思いを嬉しく思うよ」
仁は笑顔を浮かべながら、もう一度一人一人と視線を合わせていく。
「みんな。みんなの力を俺に貸してほしい」
仁の言葉に、玲奈とミル、ロゼッタ、セシルは力強く頷いた。仁は火竜との戦いで自身を庇って倒れた玲奈の姿を思い出し、戒めとして胸に刻む。絶対に同じことは繰り返さない。仁は玲奈を見つめ、拳をきつく握りしめたのだった。




