8-15.脈動
悲鳴のした場所の近くから、ガチガチと歯ぎしりのような悍ましい音が聞こえてくる。仁が自身の予想が外れてほしいと祈りながら駆けていると、洞窟の壁が横穴の口側から順に他のダンジョンの壁のように発光を始め、光が仁を追い抜いて行く。淡い光が満ちていく洞窟の奥に、異形の姿が浮かび上がった。
「くそっ」
嫌な予想が当たってしまい、仁が悪態を吐く。異形の先に、尻餅をついて動けないでいるファムの姿が目に入った。
異形は銀色の甲殻で全身を覆われた巨大な蟻のような魔物だった。2本の突き出した強靭そうな顎が引っ切り無しに打ち鳴らされ、不快な音を撒き散らす。大きく膨らんだ腹部の先から長大な針が伸び、背からは半透明の翅が生えていた。ダンプカーほどの大きさの蟻の持つ極太の触角がファムの鼻先を撫でる。
「あ、あ、あ、あ」
腰が抜けて動けないのか、地面にへたり込んだファムの口から言葉にならない声が零れる。
「黒雷撃!」
仁の突き出した左の手のひらから漆黒の雷光が迸った。黒雷撃が巨大な蟻の魔物の背後から膨らんだ腹部に襲い掛かるが、銀の殻に沿って広がって掻き消える。
「それなら――黒炎!」
赤黒い火炎がゴウッと音を立てて放射され、魔物の腹部を覆い尽くす。蟻の魔物は身の毛もよだつ叫び声を上げ、大きく膨らんだ腹部を重たそうに引きずりながら黒炎から逃れるように反転を始める。
「ファムちゃん! 逃げて!」
仁が腹の底から大声を絞り出すが、ファムは怯えた瞳を揺らし、僅かに後ずさることしかできない。蟻の巨体がファムをそのまま押し潰さんと迫り、仁は突っ込むべく重心を落とした。その脇を、小さな影がすり抜けていく。
「ミル!」
仁と魔物の横を掠めて猛スピードで駆け抜けたミルが、小さな体でファムを抱えて転がるように離脱する。仁はミルの危険な行為に冷や汗をかいたが、無事な様子にホッと胸を撫で下ろしながら、こちらを向いた青い複眼を真っ向から見据えた。仁は左目に魔力を通し、魔眼を発動させる。
“女王殺人蟻”
それが魔眼によって判明した巨大な蟻の魔物の名前だった。
「お、おい、兄ちゃん。こいつはまさか殺人蟻なのか!?」
ギチギチと女王殺人蟻が音を立てる中、追いついてきたガロンが声を張り上げた。
「ガロンさん、知っているんですか?」
「ああ、いや、俺の知ってる殺人蟻は翅もなければこれほどでかくもねえんだがな。人も魔物もお構いなしに集団で襲い掛かって、殺人蟻の通った後には何も残らないとまで言われてる危険な魔物だ。このダンジョンで出たって話は聞いたことはねえが」
「そうですか。俺の魔眼によると、こいつは殺人蟻の女王みたいですね」
仁が女王殺人蟻から目を逸らさないまま告げると、ガロンが顔面を青くする。
「に、兄ちゃん! 早くこいつを倒さねえとまずいことになるかもしれねえ!」
「それはどういう――火盾!」
仁たちの様子を窺っていた女王殺人蟻が唐突に顎の間から毒々しい緑色の液体を噴射した。仁は咄嗟に魔法盾を発動して自身と横にいたガロンを守るが、斜め後ろから悲鳴が聞こえた。慌てて仁が振り向くと、クランフスを庇ったノクタの分厚い金属製の盾がドロドロに溶け落ちていた。
「皆さん、俺がこいつを引きつけている間に、ヴィクターさんを捜して退避してください!」
仁は再び毒液を吐かんと顎の間を広げる女王殺人蟻の鼻先に黒炎を放つ。黒炎から逃れるように上を向いた殺人女王蟻の口から毒液が周囲に撒き散らされ、地面を溶かす。
「さあ、早く!」
声を張り上げる仁に、ガロンとノクタ、クランフスがそれぞれ戸惑いながらも応じ、洞窟の壁に向かってひた走った。
一際甲高い叫びを上げ、女王殺人蟻が6本の足を動かして地を這うように仁に向かって突進を始める。火炎放射を頭から突っ切るように進んだ女王殺人蟻の顎を、仁は紙一重で避けて飛びずさる。仁は着地してすぐに前方に跳び、両手で持った不死殺しの魔剣を上段から振り下ろすが、頭部の分厚い甲殻に阻まれて刃が通らない。地に足を付けた仁の胴を狙って2つの大顎が合わさって轟音を鳴らした。仁は間一髪しゃがみ込んで難を逃れ、そのまま地面を転がって素早く立ち上がる。
仁はガロンたちが壁際から女王殺人蟻の反対側へすり抜けたのを横目で確認し、魔剣をアイテムリングに収納して両の手のひらからそれぞれ黒炎刀を作り出した。
「ハッ!」
裂帛の気合と共に、仁は2本の黒炎刀で頭部の側面を何度も斬り付ける。高速で振られ続ける黒炎の刃が銀色の甲殻に大小様々な傷を作っていく。堪らず顔を背けた女王殺人蟻は素早く反転しながら体をくの字に曲げ、長大な針で仁を狙った。女王殺人蟻は体の巨大さゆえに細かく狙いを定めることができず、仁は2本の刀で針を逸らしながら後ろに跳んで衝撃を殺す。仁の代わりに地に穿たれた針はそのまま地面を抉りながら180度回転し、元の位置に戻った。女王殺人蟻の腹部がドクンドクンと脈動する。
眉を顰める仁目掛けて、大量の毒液が放出された。仁は左の黒炎刀の先端を毒々しい緑に向けて、黒い火炎の竜巻を放った。高速で回転する黒炎は毒液を吹き飛ばしながら女王殺人蟻の顔面を穿つ。顔を天井に向ける女王殺人蟻の向こうで、ガロンが両手で大きな丸を作っているのが見えた。その横にはクランフスとノクタに支えられたヴィクターの姿があった。その後ろにファムとサポーターの少女の姿も見える。
ヴィクターたちの無事を確認し、仁は安堵の息を吐くが、洞窟の奥は2階層へ続く縦穴しかないと推測されるため、皆が逃げるには女王殺人蟻の横を通らなければならず、まだ安心はできない。それとも女王殺人蟻を倒すまで奥に避難してもらうのがいいか、仁は頭を悩ませる。その間、僅かな間ではあるが、女王殺人蟻は苦悶の叫びを上げ続けていた。いつの間にか腹部の脈動が止まっていた。
「ジンお兄ちゃん!」
悲壮感を漂わせたミルの叫び声が仁の耳朶を震わせる。ボコッというどこか気の抜けたような音が足元から聞こえた。
「え?」
仁の口から戸惑いの声が零れた直後、仁のすぐ下からカチカチと硬いものが合わさる音が響いたのだった。




