8-1.デート
仁は澄み渡った青空を見上げる。周囲の喧騒を遠くに聞きながら視線を下ろすと、立派な銅像が仁の視界を埋め尽くした。懐かしさを喚起させる初代ギルド長、ラストルの銅像は、今日も真っ直ぐな眼差しをメルニールの街中に向けていた。
「そういえば……」
いろいろあって後回しになってしまっているが、仁は以前ダンジョン内で遭遇した観測者を名乗る存在を思い出す。ダンジョンの最下層に何があるのか、観測者とは何なのか、なぜラストルの記憶を持っているのか。仁は気にはなりつつも、そこに向かうようなことはないだろうと思っている。
仁は玲奈たちを守るための強さを得るためならどんなことでもする覚悟はあるが、前人未到のダンジョンの深層に玲奈を連れて行くような危険は冒したくなかった。もっとも、コーデリアからの依頼を果たした後は帰還の方法が見つかるまでメルニールを拠点にする予定なので、最下層とは言わないまでも、また皆でダンジョンに潜るのも悪くはない選択肢ではあった。鍛えることを疎かにして、何か起こったときに後悔するようなことはしたくなかった。
今もどこかで生きているかもしれないかつての仲間のことも気になるが、召喚魔法陣と研究資料や研究道具を手に入れた今、仁は帰還方法を探ることを優先させるつもりだった。基本的にはルーナリア任せになってしまうのが心苦しくはあったが、何の知識もない仁にできることは少なかった。
「けど、それより先に」
アイテムリングから取り出した魔法陣を屋敷の地下室に設置した際、仁は帰還方法の研究を依頼する一方で、ルーナリアにそれより先にあることを頼んだのだった。ルーナリアはメルニールの代表との会合で忙しくする傍ら、仁の願いを叶えるべく作業を進めていた。
「ジ・ン・さーん!」
遠くから自身を呼ぶ声に釣られた仁が思考を打ち切って視線を巡らせると、手をぶんぶんと振りながら駆け寄ってくるリリーの姿が目に入った。リリーは情熱的な赤のワンピースに身を包み、満面の笑みを浮かべていた。リリーが近づく度に、短めのスカートの裾がツインテールと一緒になってひらひらと舞い、仁の心を刺激した。仁が慌てて視線を上に動かすと、今度は上下に揺れ動く二つのものが目に飛び込んできて、仁はきょろきょろと視線を泳がせた。
マークソン商会と一緒に帝都を発って、仁たちがメルニールに到着したのが3日前のことだった。いろいろとすべきことはあったが、仁の帰りを今か今かと待ちわびていた人々は大盛り上がりで、鳳雛亭の食堂を貸し切って仁の帰還を祝う宴が催された。
仁としては子竜という爆弾を抱えての帰還に不安や申し訳なさを感じていたが、バランはすぐにどうこうなる問題ではないだろうと一時的な受け入れを許可した。メルニールの冒険者ギルドとしても魔の森の奥のドラゴンの動向に注意を向けつつ、無用の混乱を避けるために子竜は秘密裏に仁の屋敷へと搬送されたのだった。
仁は早々に依頼を果たすために出発したかったが、自身や玲奈たちの装備を整えるためにある程度の日数を必要とするのは仕方のないことだった。今も仁の依頼を受けたマークソン商会と懇意にしている職人たちが必死になって火竜の素材から仁たちパーティの装備一式を急ピッチで製作していることだろう。当時、火竜の解体に駆り出されたミルが「とっても大変だったの」と度々漏らしていたが、ドラゴンの体は解体や加工がとても難しく、装備が完成するまでに今しばらく時がかかりそうだった。
ドラゴンとの戦いの後、仁が眠っている間に玲奈と帝国の間で話し合いが持たれ、ドラゴンの首と肉を帝国が、それ以外のすべての部位を仁たちが得ることで話が付いていた。ドラゴンの肉は大変な美味として伝わっていて、惜しみなく振る舞われた帝都の民たちは涙を流していたという。肉親や親しい友人を失った人たちは仇の肉を食べることで少しでも溜飲を下げることができたのか、仁は思いを馳せたが、それは当人たちにしかわかりえないことだった。
「ジンさん。こっちですっ!」
仁はリリーに手を引かれ、メルニールの街中を進んでいた。羨望や嫉妬、好奇に満ちた視線や生暖かい眼差しが注がれる中、リリーは全く気にする素振りを見せず、迷いなく歩を進めていた。仁は多少の居心地の悪さを感じていたが、度々振り返っては向日葵のような明るい笑みを浮かべるリリーを見ていると、周囲の視線などどうでもよくなっていった。
リリーとの約束を果たすために買い物に付き合うと言う話だったが、これは所謂デートというものではないのかと、仁は歳相応にドギマギしていた。リリーと二人きりで出かけるのはこれが初めてというわけではなかったが、一度デートだという意識を持ってしまうと、仁は胸の鼓動が速まるのを止められなかった。高まる緊張が繋いだ手からリリーに伝わってしまわないかとソワソワしながら、仁の頭の中に様々な感情が渦巻いていた。
リリーから伝わってくる好意は、いくら恋愛経験の浅い仁にも勘違いで済ませられる域を超えていた。もし仮にリリーが本気ではないとしたら、仁は女性不振に陥る自信があった。
仁は以前、ベッドの中で玲奈に問われた際、リリーの思いに応えるつもりはないと答えた。元の世界に戻ることを目的としている以上、その気持ちは今でも変わらないが、リリーが彼女だったら楽しいだろうな、などと考えてしまうのは仕方がないことだった。人並みには異性に興味津々な高校生男子の仁にとって、リリーはとても魅力的な女の子だった。高鳴る鼓動の陰でチリッと心に小さな針を刺したような痛みが走るが、その正体を探る前にリリーの元気な声が仁の思考を遮る。
「ジンさん。ここですっ!」
仁は熱を持った頭を小さく振り、リリーの視線の先に目を向けた。予想外の店構えに仁は目を丸くするが、リリーに手を引かれたまま店のドアを潜る。仁はてっきり服でも買いに行くのかと少ないデート経験値なりに考えていたが、リリーが仁を連れてきた店の中にはオシャレな服などは一切なく、武骨さを感じさせる武器や防具が所狭しと並んでいた。
仁はパチパチと瞬きを繰り返す。この店は以前リリーの紹介でダンジョンの10階層のボスに挑む玲奈たちの装備の製作を依頼した職人の店だった。確か、今回の装備の新調にも携わっていると聞いていたが、装備が完成したとは聞いていなかった。
「あ。ジンさんやレナさんたちの装備はまだ鋭意製作中みたいですよ。加工がすごく大変で、まだ時間がかかるみたいです」
「えっと。それなら、なんでこの店に?」
仁が当然の疑問を口にすると、リリーはこてんと頭を肩に乗せた。リリーはしばらく不思議そうな表情を浮かべていたが、合点がいったのか、勢いよく頭を跳ね上げた。
「ジンさん、ごめんなさい。昨日ちゃんと伝えたつもりでしたけど、言葉が足りなかったみたいですっ」
仁は昨夜、リリーに買い物に付き合う予定を念押しされた際のことを思い出す。仁はリリーに言われたように、コーデリアに召喚される前に使っていた軽鎧を身に付け、腰からは不死殺しの魔剣を提げていた。買い物をするのになぜ武具が必要なのかと思いはしたものの、何度も危険な目に遭ってきたリリーが、子竜のことを知っている以上、万が一の事態を心配していても不思議ではないと仁はそれ以上深く考えることはしなかった。それ以上に、リリーも仁にとって守るべき大切な存在であることに疑いようはなく、少しでも不安を振り払ってあげられればと思っていたのだった。
「ジンさんっ。わたしの武器と防具を見繕ってくれませんか?」
リリーは商会の跡取りとしてマルコに従って度々遠出をしている。今回仁を探すために帝都まで赴いたときもそうだが、商会が十分な護衛を雇っていることもあり、リリーはこれまで特に武装することはなかった。しかし、武器はともかく、戦う力を持たなくても最低限の防具を身に付けることはリリーの身を守る上で悪いことではなかった。ドラゴンのような規格外な存在が相手でなければ、防具のあるなしが生死を分けることも十分にあり得ることだと仁は思った。
仁は一人で納得してリリーに合った防具の検討を始める。
「予算はそれなりに用意してありますから、ジンさんの御眼鏡に適うものを選んでくださいねっ!」
手に取った鋼の胸当てを眺め、仁はリリーには小さすぎるかなと苦笑いを浮かべながら、ここは自分が出すべきだろうと考える。玲奈たちに装備をプレゼントしたときもそうだったが、仁は何とも言えない気恥ずかしさを感じて人差し指で頬を掻いた。
「ダンジョンに入るのは初めてですから、ちょっと怖いですけど、ジンさんが一緒なら安心ですっ」
朗らかなリリーの言葉に耳を傾けていた仁は、自身に寄せられる信頼を嬉しく思う一方、その信頼に応えられるよう頑張ろうと気を引き締めてリリーの装備の物色を再開する。
「え? ダンジョン?」
一拍置いて、仁はリリーに顔を向けて呆けたような声を上げた。
「はいっ。今日はよろしくお願いしますっ!」
にっこりと笑顔の花を咲かせるリリーを、仁は瞬きするのも忘れて見つめ続けた。




