7-18.温もり
仁は夢を見ていた。みすぼらしい少年が、貧しい農村の片隅にひっそりと佇むあばら屋で母親らしき女性に顔を殴られていた。女性は憎しみの炎を瞳に宿していた。母と違って耳の少しだけ尖った少年は、ごめんなさいごめんなさいと何度も繰り返すが、それによって女性の手が緩まることはなかった。それは幾度となく、それこそ毎日のように繰り返された光景だった。
まだ幼い少年はそれでも母親を愛していたし、殴られても仕方がないと受け入れてもいた。なぜなら、母親は少年を殴り、貶すものの、食事も寝る場所も与えてくれた。少年が病に伏せれば看病してくれた。しかし、村人たちは違った。村人たちは見た目の少し異なるだけの少年を人間扱いしなかった。唯一の例外は同い年の少女だけ。少女は傷ついた少年に何度も手を差し伸べ、温かな手のひらで少年の冷たい手を包み込んだのだった。
意識がゆっくり浮上し、仁は重たい瞼を持ち上げた。見覚えのあるような天井が仁を出迎える。木製の窓枠の間から朝の陽ざしが差し込んでいた。
「玲奈ちゃん!」
仁は覚醒するなり上半身を跳ね上げ、ベッドが軋む。柔らかな掛布団を跳ね除けた仁の左手が、優しく温かな手で包み込まれていた。握る手を辿っていくと、ベッドの縁に顔の側面を乗せて静かに寝息を立てている黒髪の少女の姿が目に入った。仁は目頭の奥に熱いものを感じた。
「玲奈ちゃん……」
仁は自然と顔の強張りが解けていくのを感じながら、柔らかく目を細めて少女の横顔を見つめる。
「女の子の寝顔をそんなに見つめるものではないわ」
ビクッと背筋を震わせた仁が声のした方を向くと、少し離れたところで椅子に腰かけたコーデリアが仁に半眼を向けていた。
「コ、コーディー。いるならいるって言ってくださいよ」
「ごめんなさいね。愛しのレナさんと二人っきりでなくて」
仁はばつが悪そうに空いた手で頭を掻く。
「レナさんはこのまま少し寝かせてあげて。この三日三晩、ろくに寝もしないでほとんどあなたから離れないでいたのよ」
コーデリアはそう言って玲奈に優しげな視線を送った。仁は再び玲奈に目を向け、玲奈と繋がっている手に少しだけ力を込めた。
「って、三日三晩?」
目を丸くした仁がコーデリアを見遣ると、コーデリアは大きく頷いた。
「あなたがドラゴンを倒した晩から数えると、今朝で正確には三日と四晩かしら。外傷は大したことなかったのだけれど、限界を超えて魔力を消耗したようで、魔力が枯渇してなかなか回復しなかったのよ。あまり知られていないことだけど、MPというのは安全に使用できる魔素量を現していて、実を言うと人の体にはそれ以上の魔素が含まれているの。だけど、その魔素は生命活動に必要だとされていて、今回のあなたのように無理やり使用してしまうと命に関わる危険があるわ。気を付けなさい」
仁はドラゴンに消滅を放ったときの、全身の魔力を根こそぎ持って行かれるような喪失感を思い出した。意識を失う直前、無意識に解除した黒炎の鎧から魔力を回収できていなかったらと思うと、仁は俯いて身を震わせた。
「ジン殿」
コーデリアの真摯な声に、仁は反射的に顔を上げるが、呼ばれ慣れない呼び方に違和感を覚えて首を傾げた。立ち上がったコーデリアは疑問符を浮かべる仁の目をジッと見つめながら口を開く。
「ジン殿。この度はドラゴンから帝都を救ってくださり、誠にありがとうございました」
コーデリアは深く頭を下げた。
「あなたやレナさん方がおられなければ、帝都は、帝国は滅亡の憂き目にあっていたことでしょう。帝国の皇女として、一帝国の民として、心からの感謝を捧げます」
「コーディー。今更そんな他人行儀な態度はやめてください。俺が守りたかったのは帝国ではなく、玲奈ちゃんたちと、コーディーやセシルの居場所なんですから。それに、これまで通りジークと呼んでもらって構いませんよ」
「ジークは死んだわ」
「え」
顔を上げたコーデリアは自身に言い聞かせるかのように言葉を紡ぐ。
「遊撃騎士隊長の奴隷騎士ジークは、メルニールの英雄ジンやメルニールの勇者レナたちと共闘し、遂にドラゴンを倒して帝都を救ったものの、その戦いで名誉の戦死を遂げたわ」
「コーディー……」
仁は決意に満ちたコーデリアの瞳を見つめて頷く。
「わかりました。ですが、俺は俺です。これからもコーディーと呼ばせてもらいます。ですので、コーディーも俺のことはジンと呼んでください」
「ええ。それでいいわ。ありがとう」
コーデリアが優しく微笑み、仁も笑みを浮かべた。心地よい風がコーデリアの綺麗な髪をサラサラと流す。仁たちはしばらく見つめ合っていたが、ベッドに顔を伏せていた玲奈がもぞもぞと動きを見せると、どちらからともなく視線を逸らす。コーデリアの色白の肌に、僅かに朱が差していた。
「さ、さぁ、ジン。あなたのお姫様がお目覚めよ。お邪魔虫は退散するわ」
コーデリアはそれだけ言うと足早に部屋を後にした。帝都の城の一室に、仁と玲奈だけが取り残された。仁は僅かな緊張を感じながら、仁の手を握ったままの手の甲に瞼を擦り付ける玲奈の様子を眺め続けた。玲奈がゆっくりと瞼を開け、体を起こす。玲奈のクリッとした瞳に仁の姿が映り込んだ。
「や、やぁ、玲奈ちゃん。おはよう」
パチパチと瞬きを繰り返す玲奈の双眸から、ジワリと涙が込み上げる。
「仁くん……」
玲奈は可愛く整った顔をくしゃりと歪め、一際強く仁の手を握りしめた。直後、手を離してベッドに乗り上げると、縋りつくように仁の上半身に抱き付いた。
「仁くん! 仁くん仁くん仁くん仁くん……!」
仁の肩口に玲奈の額が押しつけられ、玲奈の瞳から止めどなく溢れ出る涙が仁の服を濡らす。玲奈の華奢な両腕が仁の背中に回され、強く抱きしめられた。お互いに鎧を身に着けていないため、薄布2枚を挟んで密着した仁は身を硬くしながらも玲奈の柔らかな感触を味わう。
「仁くん、無事でよかった……」
仁の胸の辺りからくぐもった声が聞こえた。仁の胸を温かな感情が満たし、仁の体の強張りが解ける。
「それは俺のセリフだよ。玲奈ちゃんが無事で、本当によかった」
「仁くん……」
玲奈の両手が仁の存在を確かめるように仁の背を撫でる。仁は垂れ下がっていた両腕を玲奈の背に回すと、そっと玲奈に触れ、ギュッと力を込めて抱き寄せた。2人の周囲から雑音が消える。お互いの存在以外、何もいらない。そんな空気が辺りを満たした。
どのくらいそうしていただろうか。永遠にも感じられる時が過ぎ、仁の腕の中で玲奈が身を捩った。
「あの、仁くん。自分から抱き付いておいてなんだけど、そろそろ離してもらえると……。その、恥ずかしい……」
「もう少しだけ」
泣きはらした目と同じくらい顔を真っ赤にした玲奈がぼそぼそと主張するが、仁は玲奈のサラサラの髪を頬に感じながら、息を大きく吸って玲奈の甘い匂いを満喫する。
「玲奈ちゃんの体、柔らかくて温かい。それにいい匂いがする。ずっとこうしていたい……」
「あの、仁くん。そういうことは口に出さないでくれると……」
仁が情感たっぷりに呟くと、玲奈の耳が茹蛸のように赤く染まった。玲奈が恥ずかしさに耐えていると、ドアの外からどたどたと足音が聞こえてくる。
「ジンお兄ちゃん!」
「ジン殿!」
「隊長!」
ドアが勢いよく開け放たれ、ミルとロゼッタ、セシルが部屋に飛び込んできた。玲奈は仁の両肩に手を置いて腕を突っ張り、バッと仁から体を離す。
「あっ」
仁は残念そうに情けない声を上げるが、玲奈が茹で上がった顔で僅かに目を伏せる様子を見て、照れの混じった苦笑いを浮かべ、右の人差し指で頬を掻いた。仁は多大な名残惜しさを感じながらも、3人を笑顔で出迎えたのだった。




