7-9.誘い
「君が噂の魔王か」
仁は無言でザスティンを睨みつける。腹違いとは言え、無実の妹を自らの野心のために殺すと言ったザスティンを、仁は許せなかった。世界の違い、常識の違い、文化の違い、環境の違い、価値観の違い。様々な違いがあるのは重々承知していたが、そんなものは仁の怒りを鎮める理由にはならなかった。元の世界でも歴史を紐解けば兄弟や家族が権力を巡って殺し合った例などいくらでも見つかるが、だからと言って濡れ衣を着せることを正当化していいとは仁には思えなかった。
仁の体の表面から静かに赤黒い靄が立ち昇り始めるが、薄暗い中では目立たず、気付く者はいなかった。
「ふむ。こうして見るとただの優男にしか見えないな」
ザスティンは首を上下に動かし、仁の姿をジロジロと遠慮なく眺め回す。その視線が再び仁の目に向けられた瞬間、ただ直立しているだけの仁の体表から黒炎の杭が何本も勢いよく飛び出す。
「ひっ」
ザスティンは悲鳴を上げて尻餅をついたが、一瞬のうちにザスティンの視界を黒く埋め尽くした黒炎の塊は檻の効果で全て霧散し、ザスティンに届くことはなかった。
「殿下!」
騎士たちが慌てた様子で駆け寄り、ザスティンを背にするように立ち並んだ。騎士たちが怯えを含んだ警戒の視線を仁に送る。ザスティンは自身を助け起こそうとする上級騎士の手を振り払って立ち上がると、引きつった笑みを浮かべた。
「な、なるほど。それが君の力か。そのような力があるのでは鎖で拘束する意味などないわけだ」
今更ながらに檻の中の3人が鎖で拘束されていない事実に気付いた騎士たちが、一様に息を呑んだ。
「先ほどの発言は取り消すよ。侮辱する意はなかったのだが、気分を害したのなら謝罪しよう。君は確かに魔王だ」
ザスティンは騎士たちを下がらせ、一歩前に出る。
「信じてもらえないかもしれないが、私は君と争うつもりはないよ。それどころか、君の力を高く評価している。君の優れた力を私の元で活かしてみないかい? コーデリアよりも厚遇すると約束しよう」
仁がザスティンを睨みつけたまま無言を貫いていると、ザスティンの斜め後方から声が上がる。
「で、殿下! 話が違います! 魔王は殺すとおっしゃったではありませんか!」
ユミラが必死の形相でザスティンに詰め寄ろうとするが、騎士に阻まれる。
「それは魔王が私の誘いを断ったときのことだ」
「そいつはあなたの部下を、タイロンを殺したんですよ!」
「タイロン? ああ、メルニールとの戦争で死んだ、あの役立たずか。せっかく私の自慢の一体を与えてやったのに、何の戦果も挙げられなかった恥さらしが」
ザスティンが眉を顰めて悪態を吐いた。ユミラは絶句し、一気に眦を吊り上げる。
「許さない……! お前も、魔王も、必ず殺してやる!」
「おい。こいつを連れて行け」
騎士の腕の中で歯をむき出しにして威嚇するユミラを、ザスティンは路傍の石でも見るように見下ろしながら騎士に命じた。
「皇子である私に対する暴言は万死に値するが、万が一にも証人として役に立つことがないとも言い切れない。まだ殺しはするな」
「はっ!」
ユミラの汚く罵る声は、下級騎士に引きずるように地下室から連れ出されるまで続いた。
「やれやれ。とんだ邪魔が入ってしまったな」
ザスティンは肩を竦めると、仁に向き直る。
「もう一度問おう。魔王よ。私に手を貸す――」
ザスティンが言い切る前に、ザスティンの視界が黒く覆われた。いつの間にか仁の背に生えていた黒炎の翼から、無数の鞭が振るわれ続ける。檻の内側に触れた鞭の先端は消失するが、すぐに長さを取り戻し、何度となくザスティンの顔面目掛けて襲い掛かった。黒炎の鞭は決して檻の外に出ることはなかったが、その常識の埒外の光景に、ザスティンは元より、コーデリアとセシルを含めた全員が言葉を失い、茫然と眺めることしかできなかった。仁は黒炎の鞭を乱舞しながら、姿の見えない相手へ低い声で問いかける。
「ザスティン殿下。あなたに聞きたいことがあります」
「な、何かな?」
ザスティンは震える体に鞭打ち、擦れた声を上げた。
「タイロンという騎士は、先の戦いで輜重隊の指揮を執っていましたか?」
「あ、ああ。兄上に手柄を全部持って行かれるわけにはいかなかったからね。輜重隊の大半は私が手配した者たちで、その指揮を任せていた」
ザスティンは引きつった顔に困惑の色を浮かべながら答える。
「では、輜重隊の陣にいた合成獣の管理も彼が?」
「そ、そうだ。あの個体は強力だが言うことを聞かなくてね。兄上には前線への投入を断られてしまったが、何とか機を窺って実戦で性能実験を行うように命じていた」
「そうですか……」
仁は黒炎を消し去りながら、ゆっくりと目を閉じた。仁はメルニールでの追撃戦で自身が手にかけた上級騎士の勝ち誇った笑みを思い出していた。あの笑みは合成獣をけしかけて逃走しようとするものではなく、第二皇子から与えられた使命を果たせるという意味だったのかと仁は悟ると同時に、ユミラの婚約者を殺したのは間違いなく自分だという確信を得て、胸の奥にチクリと棘の刺さったような痛みを感じた。
仁はきつく閉じた瞼を開くと、ザスティンに鋭い眼光を向けた。
「殿下。私にも妹がいましてね。私は妹を大事にしない兄が嫌いです」
仁は元の世界の妹を思い出していた。仁は一度目の召喚から元の世界に帰ってから、家族の温かさをそれまで以上に強く感じていた。2歳下の妹とは何でもないようなことで喧嘩をすることもあったが、それでもなんだかんだ仲直りしてしては笑い合った思い出を胸に抱く。
「それと、私は自らの使命のために命を懸けた人を悪く言う人間がもっと嫌いです」
仁の脳裏には、かつての召喚主や、ラストル、アシュレイをはじめとしたかつての仲間たちの姿が浮かんでいた。苦楽を共にした仲間はもちろん、自分の信じるもののために最後まで戦い抜いた名も知らぬ兵士や民たちのことを、仁は誇りに思っていた。
「これが、殿下の問いに対する私の答えです」
「そ、そうか。それは残念だ」
ザスティンは引けた腰を正すと、仁の黒炎による攻撃を完全に防ぎ切った檻の性能に、内心で安堵の息を吐いた。檻の中にいる限り、仁にはどうすることもできないと確信を得たザスティンの表情に少しずつ余裕が戻って来る。
「だが、もし考えが変わったのなら、その時は教えてくれよ。私は寛大だからね。もう一度だけチャンスをあげるよ。君は異世界から召喚された魔王と言えど、古の魔王とは違い、我々人族と変わらない。コーデリアに裁きを下す準備が整うまでの数日間、飢えと渇きに苦しみながら、自らの出した結論を存分に後悔するがいいさ」
最後に爽やかな笑みを浮かべたザスティンが騎士たちを引きつれて部屋を後にする。仁たちはその背中が階段の上に消えるまで無言で見送った。ガチャンとドアの鍵の閉まる音を確認した仁はコーデリアとセシルに向き直ると、先ほどまでの剣呑な雰囲気とは打って変わって悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「さて、今晩の夕食は何にしますか?」
黒炎の鞭を振るっていた仁の姿に圧倒されていたコーデリアとセシルは、左手のアイテムリングを胸の前に掲げる仁の様子に、拍子抜けしたように盛大な溜息を吐いた。その直後、二人はザスティンの去り際のセリフを思い出し、小さく噴き出したのだった。




