7-1.記憶
仁は夢を見ていた。夢を夢だと自覚しながらも、仁は夢の登場人物と一体化し、どす黒い闇で埋め尽くされた胸中が真っ白く塗りつぶされていくのを感じていた。
「大丈夫だから。もう大丈夫だから……」
石畳の床に膝を折った仁を正面から抱きしめた女性が、仁の耳元で優しく囁く。知らない女性であるはずなのに、それが当然であるかのように心の底から愛おしさが込み上げてきた。心地よさが体いっぱいに広がり、枷から解き放たれたような安堵と安らぎを感じる。そして――
「夢……か」
目を覚ました仁はゆっくりと瞼を持ち上げた。窓から差し込む日の光が仁の視界を白く覆い尽くす。一瞬の間の後、仁は記憶を取り戻した後で寝落ちしてしまったことを思い出し、ぼんやりとした頭を一気に覚醒させた。
「そうだ! 俺は……!」
仁は反射的に体を跳ね起こそうとするが、両手がベッドのマットレスから離れず、僅かに持ち上がった上半身はそのまま落下して再びベッドに沈み込んだ。
「ようやくお目覚めね」
混乱する仁の耳に涼しげな声が届いた。仁が首だけを回して声のした方へ顔を向けると、ベッドの側面に近付けられた椅子に、コーデリアが座っていた。
「とりあえず、意味があるかわからないけれど、手足を拘束させてもらったわ」
仁がコーデリアから視線を外して自身の手足の先に目を向けると、手足とベッドの四隅の支柱が鎖で結ばれていた。
「ご主人様、なぜこのようなことを……」
戸惑いの声を上げる仁に、コーデリアは大きく溜息を吐いた。
「あなたは私を馬鹿にしているの? 私が気付かないとでも思っていたのかしら」
仁は口を噤んだまま、視線を泳がせる。仁はなぜ記憶が戻ったことを既にコーデリアに知られてしまっているのかわからず、言い訳のしようもなかった。
「それで、記憶は全部戻ったのかしら?」
仁は誤魔化すのを諦め、コーデリアの方へ顔を向けたまま頷く。仁を見つめていたコーデリアは視線を僅かに外し、諦観したように深く息を吐いた。
「そう。でも、それなら尚更わからないわね。記憶が戻っていないならまだしも、なぜあなたは昨夜のうちに逃げ出さなかったの? それとも、何か企んでいるのかしら。隷属が解けて記憶も取り戻した今のあなたなら、ここから逃げ出すくらい訳ないと思うのだけれど」
「……え?」
コーデリアの物言いに違和感を覚えた仁は、口を半開きにしたまま動きを止めた。そんな仁の様子に、初めは歳相応の少女のように小首を傾げていたコーデリアだったが、徐々にその眉間に皺を寄せる。
「あなた、まさかとは思うけれど……」
仁は疑うような目を向けてくるコーデリアの視線から逃れるように目を逸らす。見慣れない天井を映した瞳が揺れた。仁の脳が事態を把握するためにフル回転を始めたが、すぐに辿り着いた現実に、全身から冷や汗が溢れ出る。仁は心の中で悲鳴を上げた。
「その様子だと、本当に隷属状態が解除されているのに気付いていなかったみたいね」
仁を見つめるコーデリアの視線に、若干残念なものを見るような成分が含まれていた。仁は再びコーデリアの方へ首を回した。
「あの、本当に?」
「こんなことで嘘を言ってどうするのよ。それに、私があなたを拘束する理由が他にあるのかしら。そもそも、あなたの記憶が戻ったかどうかなんて、さっきのあなたみたいに自己申告でもしてくれなければわからないわよ。私は今朝ステータスを確認した際に隷属が解けていることに気付いただけよ」
コーデリアの指摘に、仁は両手で頭を抱えたい気分だったが、繋がれた鎖が許さない。仁は昨夜、コーデリアへの不信感から記憶を取り戻すために解呪魔法を試したが、現段階では隷属魔法そのものを解除する気もなければ、解除できるとも思っていなかった。記憶を封じている部分だけをピンポイントに解呪することができず、魔力の流れの違和感を全てなくそうとしたのが原因だろうと仁は当たりを付ける。そうとしか考えようがなかった。仁の顔が情けなく歪む。
「この様子を見ていると、帝国軍3000を一人で壊滅させた魔王と同一人物とはとても思えないわ」
コーデリアが呆れたような声を上げた一拍後、部屋のドアが勢いよく開かれた。仁とコーデリアが反射的に顔を向けると、顔面を蒼白にしたユミラが仁を睨みつけて立っていた。ユミラは表情を険しくしたコーデリアに一瞬怯みはしたものの、意を決して大股で駆け寄り、コーデリアに詰め寄る。
「姫様! 今の話は本当ですか!」
「ユミラ。ここには近づくなと命じたはずよ」
「姫様! 答えてください。こいつが、この男が、本当にメルニールの魔王なんですか!」
普段コーデリアの前では見せないユミラの様子に、仁は面食らって目を丸くする。仁を見るユミラの瞳に、憎しみの炎が宿っていた。
「ユミラ。下がりなさい」
「いいえ、下がりません!」
目を吊り上げながら至近距離で見つめ合う主従を、仁は困惑の面持ちで眺める。仁はこの騒動の原因が自分の正体であると察し、気が気ではなかった。全く引く気配を見せないユミラに、コーデリアは諦めたように今日何度目かの大きな溜息を吐いた。
「ええ、そうよ。ジークが、いえ、ジン・ハヅキが、メルニールに現れた魔王よ」
「こいつが……。こいつがタイロンを……」
仁の方に向き直ったユミラはぶつぶつと呟きながら、ゆらゆらとベッドとの距離を詰めた。コーデリアが悲壮感の漂う背中に声をかけるが、既にユミラの耳は何も聞いてはいなかった。ユミラは憎々しく歪んだ顔でメイド服の前面のエプロンのポケットから先端の尖った果物ナイフを取り出すと、右手でナイフのハンドル部分を逆手に握りしめて、頭の上まで振り上げた。
「ユミラ! やめなさい!」
ユミラの振り上げた腕を、椅子から立ち上がったコーデリアが後ろから掴む。
「姫様、放してください!」
「ユミラ、落ち着きなさい!」
暴れるユミラが、後ろから抱き付く形で揉み合っていたコーデリアを弾き飛ばす。ユミラは床に倒れ込んで小さな悲鳴を上げるコーデリアを一瞥することもなく、憎しみに濡れた瞳を仁に向けた。
「タイロンの仇……!」
振り上げられたユミラの細腕が、渾身の力を込められて軋みを上げる。その先端が窓から差し込む白い光を反射して鋭く光った。ユミラが息を大きく吸い込む。鋭利なナイフが、仁の首目掛けて振り下ろされた。




