6-26.動揺
「まさか、俺はご主人様に危害を加えようとして記憶を……?」
仁は頭を振って、その考えを否定する。隷属魔法は既に失われた魔法だ。自身がコーデリアの奴隷になっているのは双方の合意の元で正式な奴隷契約を結んだからであり、一方的に隷属魔法をかけられたわけではない。仁はそう思う一方で、今の仁自身には肝心のその記憶がないのだということに思い至り、思考を混乱させた。
仁はこれまで、記憶がないことに不便さを感じたことはあるものの、特段記憶を取り戻したいという思いに駆られなかった。思い起こせば、何度か不思議と心にざわめくものを感じた際も、それを失くした記憶に結びつけることはなかった。たった数時間前、マークソン商会の名前を聞いたときも、なぜ過去の自分と関係があった可能性を微塵も思い浮かべなかったのか。もしかしたら、それすらも隷属魔法の精神への影響なのではないかと、仁は薄ら寒さを感じて身を震わせた。
それでもまだ、仁の心の中は考え過ぎだという思いが大勢を占めていた。生まれ出でた疑惑よりも、コーデリアの言うことを信じたい気持ちが強かった。もしそれすらも魔法の影響だと疑い出してしまったら、それこそ何も信じられなくなってしまう。そもそも、隷属魔法は現代には残っていないのだから杞憂に違いない。しかし――
仁は視線を手元の黒本から上げ、チラッと本棚に目を向けた。そこには昔話やおとぎ話から難解そうな専門的な書物まで、多くの資料が並んでいる。仁はそれらの大半が召喚魔法と魔法陣、奴隷契約、そして失われた隷属魔法について書かれたものであることを、以前整理した際に知っていた。
「そんなまさか……」
コーデリアの研究に隷属魔法が含まれているという事実が、仁の乱れた心に突き刺さった。仁は自身に生じた疑念を払拭する材料を求め、黒本の続きを読み進める。しかし、そこには仁の求めるようなものは記されておらず、隷属魔法の付随効果の他にも、程度の差はあれど他者の精神に様々な影響を与える魔法が存在しているという新たな事実が突き付けられただけだった。それらは術者によって効果は千差万別で、対象者の魔力の流れに干渉することで効果をもたらすという共通する一点から、便宜上、呪詛魔法として一括りにされていて、解呪魔法と呼ばれる対抗手段が紹介されていた。
仁は注釈に従ってページを飛ばし、解呪魔法の項目に目を通す。解呪魔法は簡単に言えば対象の魔力に干渉し、魔力の流れを正常に戻すことで呪詛魔法の効果を打ち消すというものだった。
仁はぐちゃぐちゃになった思考をまとめようと、視線だけ黒本に固定してページをパラパラと捲る。知っている単語、知らない言葉が次々に視界を通り過ぎて行く。
「ステータス魔法……?」
仁の脳が本に書かれていた単語に反応して手の動きを止めた。ステータスが存在することは記憶をなくした仁も知っていたが、ステータス魔法というものには覚えがなかった。仁の目が文字列を追うにつれて、仁の顔が歪んでいく。魔法に分類されてはいるものの、誰でも目を閉じて念じるだけで使えるステータス魔法が現代に伝わっていないとは思えなかった。そして魔法の存在を覚えているにも関わらず、神の祝福と呼ばれて一般常識とさえ言えるステータス魔法を覚えていなかったという不自然さが、仁の心をきつく締め上げる。
「どうしてセシルは……」
自分が使える魔法や技能を確認する方法を尋ねたとき、急に苦しみ出したり、魔道具で確認できるとだけ早口で告げて話を打ち切ったり、セシルの様子が少し変だったことを仁は思い出す。なぜステータス魔法について教えてくれなかったのか。仁はあっさりと最も簡単な答えに行きつく。セシルはコーデリアの奴隷だ。奴隷には様々な制約を課すことができる。きっとセシルはコーデリアによって仁にステータス魔法の存在を伝えることを禁じられていたのだろう。それはなぜか。仁には、コーデリアが仁に仁自身のステータスを知られたくないからとしか考えられなかった。
「ジーク。何か興味深いものでもあったのかしら?」
仁はビクッと体を揺らし、黒本を慌てて閉じる。黒本をもう一冊の下に重ね、コーデリアの視線から隠して振り返った。
「い、いえ……」
「そう? 熱心に読んでいたように見えたけれど」
仁は何か言い訳をしようと頭を回転させるが、仁の口はパクパクと動くだけで、何の言葉も出てこなかった。胸の鼓動が速まり、生唾を何度も飲み込む。コーデリアが小首を僅かに傾げて目を細める。輝くような金髪が片側に垂れた。仁は覚悟を決めた。
「ご、ご主人様。今後、ご主人様の騎士として戦っていく上で、自分が使える魔法などを確認しておきたいのですが、ステータスを調べる魔道具をお貸しいただけませんか?」
「その必要はないわ。あなたが使える魔法は火魔法と闇魔法、それから雷魔法と土魔法よ。4属性もの魔法が使えるなんて、あなたはとても優秀よ」
「あ、ありがとうございます。」
「優れた魔力操作の技能によるものかしら。最も得意なのが火魔法で、それから雷魔法、闇魔法、土魔法の順ね。魔法の他にも武器術の技能も多く持っているわ。記憶がなくても体が覚えているのは技能のおかげよ。それから――」
コーデリアは滞りなく、事細かに説明を続けた。あまりの澱みのなさに、仁は逆に不自然さを感じた。
「あ、あの、ご主人様。自分の都合で申し訳ないのですが、自分の目で確認しながら技能を一つずつ試したいので、やはり魔道具を貸していただくわけにはいきませんか? もしくは、他にステータスを知る方法があれば、教えていただきたいのですが……」
仁が言葉を遮って言うと、コーデリアの瞳が鋭く細められた。
「わかったわ。明日にでも用意させるわ」
「あ、ありがとうございます」
仁はコーデリアに頭を下げながら、表情を歪ませる。なぜステータス魔法について教えてくれないのか。仁の心が寂しさと悲しさで満たされていく。仁は表情を取り繕うと、ゆっくりと顔を上げた。
「ご主人様。記憶を失う前の俺は、ご主人様にとって、良い奴隷でしたか?」
仁とコーデリアの視線が重なる。音の消えた地下室で、2人は暫しの間見つめ合った。仁の心音だけが己の存在を主張するように激しく鳴り、仁の体の各所から汗がにじみ出た。仁が渇いた唇を結んで、舌先で潤す。コーデリアがゆっくりと時間をかけて瞬きをした。コーデリアの小さな口がゆっくりと開かれるのを見て、仁は反射的に耳を塞ぎそうになるが、何とか押し留まる。仁はコーデリアを信じたかった。
「どうしてそんなことを聞くのかわからないけれど、あなたは昔も今も私の忠実な奴隷で、私だけの騎士よ」
「そ、そうですか……」
「ええ。そろそろ一旦切り上げて夕食にするわ。あなたも部屋に戻って食事をして、明日に備えなさい。ユミラに案内させるわ」
「はい」
コーデリアが机に向き直って片づけを始めたのを見計らい、仁は背後を向いて手元の本を急いで本棚に戻す。コーデリアの返答は仁の望む答えそのものだったにも関わらず、仁の心には響いていなかった。仁はコーデリアに背を向けたまま、目をきつく瞑った。瞼の隙間から、ほんのりと涙が滲んでいた。




