37 罠
「たしかこの先、あの崖の下だよ」
やわらかい晩春の陽光の下、クヌートさんがチョコレート色の髪を掻きあげ、その手で少し先の切り立った岩壁を指差しました。
私たちの後ろにはマグニフィカトの村。
昨日の魔物の襲撃で一部破壊された防魔柵を補修する村の人たちのかけ声が遠く微かに聞こえています。
騒動から一夜明け、熱が下がった私は今、クヌートさんの騎竜ティト君の背に揺られてこの村の奥にあるという守護龍アルゲオウェントスの祠に向かっているのです。
「アルゲオウェントスがここで何かを守り育ててるって通説なんだけど、まあ、誰も中には入れないんだけどね」
いつもだったら村に着いた翌日に祝福祭をやって、その次の日に豊穣祈祷なのですが、さすがに今回はイレギュラー。まずは防魔柵の修理をということで、何人かの騎士さんたちがそちらを手伝い、各種儀式は明日以降に延期されることとなりました。
私は昨夜ぐっすりと寝かせてもらったお陰か、朝起きたら熱もほぼ下がっていて、それなりに動けるようになりました。
そこで、それを確認したクラヴィス様の発案でこうしてティト君の背に乗って祠を目指している訳ですが――
なんか、色々と大丈夫なんでしょうか。
一緒にいるのは、地竜のティト君を別にすればクヌートさんとルカ君だけです。
ティト君は私を乗せて上機嫌にグルグルと喉を鳴らしっ放し、そこに相乗りしているクヌートさんは普段どおり気さくに喋っていて、緊張して動作が固いのは私と脇を歩くルカ君だけです。
まあ、この間アウローラが「お待ちしています」って言っていた場所はその祠だと思うので、私としても行ってはおきたいのですけれども。
クラヴィス様が太鼓判を押すこの行動、上手くいけばコリント卿を一網打尽に出来るそうなのですが――
「ほらほらフィリアちゃん、よそ見してたら落ちちゃうよ?」
無意識のうちに周りを見回そうとしていた私を、クヌートさんが軽く引き止めてくれました。振り返るとその目には、大丈夫だから安心して、と書いてあります。
むう。
信頼してない訳じゃないんですけど……。
「ほら、アレだよ」
クヌートさんの言葉に視線を上げると、小さな建物が崖に寄り添うように建っているのが目に入りました。
あれが、この国の守護龍アルゲオウェントスの祠。
苔むした緑色の屋根を背負った、前面が開放された質素な木造の社。随分と小さくて、でも、小綺麗に保たれているのがここからでも分かります。
ただ、何より気になるのは、その祠ではなくて背後の崖で――あれは、何?
「お、分かる? さすがフィリアちゃん、普通は精霊と契約してる人じゃないと気付かないんだけど」
あれ、結界だよ。
感心したように小声で答えを教えてくれたクヌートさんの声に、私は思わず違和感しかない岩壁をまじまじと見詰めました。
一見普通の岩肌に見えますが、明らかに何かの力の塊です。よく見ると幽かに精霊と同じ輝きを放っていて、それが大きく祠の後ろに立ちはだかっているのです。
まるで、岩壁にぽっかりと口を開く巨大な洞窟、その入口を覆っているかのような――
「そ。きっとあの向こうに空間があるよね」
クヌートさんが小さく肩をすくめました。
「まあ、騎士団総出で突っ込みゃ結界を壊せるかもしれないけど、冬の間のアルゲオウェントスのねぐらだって説もあるし、わざわざ守護龍様の機嫌を損ねてもね」
悪戯っ子のように片眉を上げるクヌートさん。
と、それまで黙って脇を歩いていたルカ君が、ふらふらと前に進み出ました。
「……フィリア様、光の大精霊様がこの先で呼んでる」
自分でも信じられないのか、その若草色の瞳をまんまるに開けてこちらを見上げるルカ君。
そんなルカ君の言葉にクヌートさんは、す、と表情を引き締めました。これまでの開けっぴろげな顔が嘘のようです。
「そう来たか。こりゃクラヴィス様も想定外だろうな」
油断のない眼差しで辺りを見回し、チラリと上空を見上げて頷くクヌートさん。
と、その瞬間。
私の背筋を強烈な悪寒が走り抜けました。周囲の精霊たちが一斉に元気をなくし、怯えたように私に寄り添ってきます。
それは、忘れもしない闇神官の気配。
――き、き、来ました。
ほ、本当に、来ちゃいましたよ。
クラヴィス様の言ったとおり本当に――
「フィリア!」
上空から矢のように濃緑の風竜が突っ込んできました。
オルニット殿下!
捕らわれの姫を助けに来た王子様よろしく颯爽と現れた殿下が、蜂蜜色の金髪をなびかせ、ティト君に跨がった私の安全を確保するように地上すれすれで鋭く旋回を始めて。
続いて、深紺色の鱗輝くマーテル様の騎竜、エズメラルダちゃんがその巨体をゆっくり降下させてきました。
「フィリア、大丈夫!?」
騎乗しているのはもちろんマーテル様。クラヴィス様も相乗りしているようです。
「奴らは上空から全て捉えた。魔物の数も少ない。じきに捕縛できるだろう」
エズメラルダちゃんの背からひらりと飛び降り、仄かに得意げな顔で歩み寄ってきたクラヴィス様が、木立の向こうをくいっと顎で差しました。
その視線を辿ると、騎乗したエンゾさんやら他の騎士さんたちが空から何者かに竜のブレスで激しい攻撃を加えています。
「あの数だ、例え精霊術を封じられたとしても、空を舞う竜の猛攻には敵うまい」
ご苦労だった、微かに口の端を持ち上げて目を細めるクラヴィス様。
地面に降り立ったエズメラルダちゃんがのしのしとこちらに歩いてきます。
「フィリア! 良く頑張った! もう大丈夫だ!」
油断なく旋回を続けていた殿下が、徐々にその速度を落として私の乗るティト君の脇に騎竜をふわりと着陸させました。
同時に流れてくる、労わるような暖かさ。
――ふうう。
どうやらクラヴィス様の策略どおり、コリント卿のおびき出しは成功したようです。
まだ膝がガクガクと震えています。
こんなことはもう二度とやりません!
◆ ◆ ◆
「マーテル様! クラヴィス様! 敵の制圧が完了しました! コリント卿他五名を無力化して捕縛、当方に損害はありません!」
祠の前の広場で待機する私たちのところへ、近衛騎士のイェスペルさんが報告に来ました。
「お疲れ様。彼らにはたっぷりお話を聞かないとね。簡単な手当てだけして、村に連れて行って監視しておいて頂戴」
マーテル様が毅然とした声で返しています。
ええと、どうしてこんな急展開を迎えているかというと。
昨夜、私が寝てしまった後、王都から至急の連絡があったそうなのです。
曰く、中央に送っていた間者から、霊峰テペの黒龍から漏れた神託の詳細が掴めた、と。
そう、王都の祝福祭で倒れた私にラエティティア様が腕輪を下賜してくれた、あの時の神託ですね。
随分と前の話に感じますけれど、それが今回の騒動の引き金ではないかとのことで。
中央神殿側にそれが具体的にどう漏れたかというと、
『ラエティティアの神具と、それを司る巫女がアルビオンに現れた』
という内容だったそうです。
はい、それがどうして魔物の群れを使ってマグニフィカトの村を襲うことに繋がるかは分かりませんが、クラヴィス様いわく、私が守護龍の祠に行けば、かなりの確率でコリント卿が現れるだろうとのことで。
マーテル様や殿下は私を囮に使うことに最後まで反対してくれましたが、結局、私から志願しました。
だって、昨晩は私だけしっかり寝てしまいましたが、皆さんはずっと再襲撃を警戒していたのでしょう、かなり疲れている様子だったからです。
考えてみれば、昨日の早朝に前の村を出てからというもの、移動中は激しく魔物と戦い続け、そしてこの村での大規模戦闘を経て深夜の襲撃、その後は朝まで厳戒態勢ですからね。
それでいつまでも警戒を続けなきゃいけないとか、さすがに厳しすぎます。
操る魔物も時間があればどんどん増える可能性が高いとのことですし、本当に来るかどうかは分かりませんが、一度クラヴィス様の言うとおりやってみようかと。
そうして見事にクラヴィス様の読みが当たり、コリント卿を捕まえられたのですが――
怖かったです!
クラヴィス様が言うには、あの闇神官ニゲルがいない今、まともな戦力はコリント卿一人であろうこと、昨日の今日で魔物の数もほとんどいないだろうこと、得体の知れない闇の精霊術も強化されたルカ君の加護の前では無力であろうこと等々、色々と安心材料を並べてくれましたが、それでも怖いものは怖かったです。
いざとなればルカ君を拾い上げ、そのまま地竜のティト君に乗って逃げる――そんな段取りだったのですが。
コリント卿が近寄ってきた時の、私の存在を真っ向から否定するような悪寒。
周りの精霊たちが急速に元気をなくしていくあの切なさ――
ううう。
その時のことが甦って、一人身体を震わせていると。
更なる急展開が私たちを待ち構えていました。
それは、クラヴィス様はもちろん、この場の全員が予想だにしていなかったことで。
――祠の向こう側、切り立った崖の奥から、この国の守護龍と崇められている大精霊アルゲオウェントスがその魁偉な姿を現したのです。
エンディングまで残る2話、今日中にもう1話アップします




