10 目醒め
…………。
…………。
……私、夢を見ている、のかな。
人の身体を得る前の、まだふわふわと漂っていた頃の夢。
真冬の夜。雪に埋もれた街の上で。
金色の光に包まれて、たくさんの精霊たちを引き連れて。
何かに焦がれるように、ドーム状の建物をひたむきに目指して、私は飛んでいます。
――あ、これ、神殿の礼拝堂です。
ということは、オルニット殿下の出生に力を分けた後、フィリアとして「生まれる」直前の夢でしょうか。
そういえば、それからどうやってこの身体を得たのか全然記憶がないのでした。
このまま見ていればそれも分かるのかな。
礼拝堂に行けばきっと――夢の中の私はそう考えているみたい。
礼拝堂の丸屋根がどんどん迫ってきます。
大きな窓から漏れる、やさしく誘うような灯り。
あれ? こんな夜中には誰もいないから、灯りがついているはずはないんだけど。
でも、私は焦がれるような何かに急き立てられ、まっすぐそこへ飛んで行きます。
いつにない速度で、色とりどりに輝くたくさんの精霊を引き連れて。
遠くの山にいた筈の、私と同じぐらい濃くて大きな存在が驚いたようにこちらに向かってきているけれど、そんなことはすぐに意識から消えて。
礼拝堂の丸屋根に体当たり――いや、すり抜けたみたい。
後ろから精霊たちもどんどんすり抜けてきて、まるで祝福するように私を囲んで。
礼拝堂の正面、女神ラエティティア様の像があるところに誰かがいて、その人が――
そして礼拝堂の中、広い空間の天井付近で、私はひときわ強い光に包まれて――
◆ ◆ ◆
「マーテル様、フィリアが!」
どこかで誰かが叫んでいます。
聞いたことのある声。
たぶん、怒ってばかりだけど本当は優しい、ツンデレ気味のあの人。
「フィリア!」
これはマーテル様の声。
ここはどこ……ああ、神殿の私の部屋。
お日様の匂いがするベットに、私はぐてんと横たわっているようです。
あれ、私は確か、町の広場に行って――
「フィリア!」
マーテル様が私を覗き込んでいます。
いつもの暖かさが私を包んでいて、うふふ、本当にマーテル様は暖かいな。
でも、少しだけ暖かいを通り越して「熱い」ような。何か切実なものが混じっている気がします。
マーテル様の若々しい端麗な顔はどこかやつれたようで、目尻に小さなしわが出来ていたりして。いったい、どうしたんでしょう?
「……マーテル、さま?」
私が声を絞り出すと――ものすごく出辛くて、掠れたものしか出ませんでした――、すぐ脇で同じように私を覗き込んでいたエマ姉さまの瞳に、みるみるうちに涙が溢れてきました。
「フィリア……良かった。本当に、良かった」
エマ姉さまがベッドの上の私をぎゅううっと抱き締めて、小さく嗚咽をこぼし始めました。
「もう、三日も眠ったように……このまま目を覚まさないんじゃないかって……でも意識が戻って、本当に良かった……」
少しずつ記憶が甦ってきました。
そうか、私は祝福祭の最後に、光がいっぱい溢れて気を失ったんでした。
それから――三日?
そんなに経ってるの?
「フィリア、どこか痛いところとかある? 気持ちは悪くない? 具合はどう?」
矢継ぎ早のエマ姉さまの質問に、私は自分の身体に意識を向けてみました。
……ものすごくだるいです。高熱を出した後の、お馴染みのあの感じ。それが何回分も重なっているように酷いです。
でも、それだけです。それと、少し――
「……のど、かわいた」
私が掠れた小さい声で伝えると、皆まで言わないうちにエマ姉さまが動きだし、コップになみなみと注いだお水を持って来てくれました。
「飲める? これでどう?」
エマ姉さまがそっと私の背中に手を入れ、やさしく体を起こしてくれました。
起き上がった瞬間に頭がぐるぐるしたけど、すかさず差し込まれたクッションに支えられ、体の平衡はすぐに戻りました。
エマ姉さまからコップが慎重に手渡され、私はゆっくりとお水を口に含みます。
冷たくて、おいしい。
よほど身体が求めていたのかな、結局全部飲んでしまいました。お陰で頭が少しはっきりしてきたようです。
…………そうだ私、祝福祭で大暴走しちゃったんだ……。
「マーテル様、私……」
「フィリア、心配しなくていいのよ。クラヴィスと私でもう対応は済ませたから」
するりとベッドに腰掛け、慈しむように私の髪を撫でてくれるマーテル様。
「それより、その後すごい熱が出てしまって。体は平気?」
対応、してくれたんだ……。
祝福祭に出かける前の、私の祝福を咄嗟に誤魔化してくれた二人の姿が脳裏に浮かびます。
今回はそれ以上だからきっと大変だったと思うけど、大丈夫だったのかな……ごめんなさい……。
それにしても、なんという暖かさでしょうか。
マーテル様からの暖かさはもちろん、目を真っ赤にしたエマ姉さまからも特大の暖かさが流れてきていて、この部屋はもう暖かさで蕩けんばかりです。
「……ありがとう、ございます。身体は、もうちょっと寝てれば大丈夫、です」
「それなら少し安心ね。フィリアのいつもの熱だとは思うけれど――」
そう、これまでも祝福が大きく暴走した後には高熱で寝込んでいたのです。
……幼い頃の話で、最近はあんまりなかったですけど。
「――今回は溢れた祝福も、その後の貴女の発熱も、かつてないぐらいに大きかったの。……それに、それ以上に大変なこともあったし」
……ん? どういうこと?
「フィリア、これ何だか分かる?」
マーテル様が私の右手首をちょん、とつつきました。
そこに付けられていたのは――見たこともないぐらいに美しい腕輪。
ほえ?
つるりとした触り心地、太さが指一本分ぐらいの半透明の貴石で、手首にぴったりと周るだけの素朴な形状。
けれど、指一本分の太さのその中には、金色の霧のようなものがゆるやかに流れているのが見てとれます。ちらっと見ただけでは、まるでその金色の霧が手首の周りに物体化したように見えるかもしれません。
神々しいほどのオーラを帯びた、あまりに現実離れした美しさを持つ腕輪。
きれい……。知らぬ間に口から言葉が零れていました。
「……それはね、女神ラエティティア様が貴女に授けてくださった神具よ」
へ? 神具?
「そう、倒れた貴女を神殿に連れ帰ってすぐ、礼拝堂にラエティティア様がこれを顕現させたの。貴女に付けさせてって神託と一緒に。本当に驚いたわ」
私をじっと見ていたマーテル様は小さくため息をつき、困ったように微笑んでまた私の頭を撫でました。
「ふふふ、その様子じゃ覚えていなそうね。ラエティティア様はフィリアの夢に入って説明しておくとおっしゃっていたけれど。……そうね、私が神託で聞いた範囲では、貴女の高熱を吸い取って、そして、貴女の祝福の元となる力を整えるとかなんとか。確かにこれを付けたら、目は覚まさなかったけれどすぐに貴女の熱は治まったわ。後半の、祝福の元となる力を整える云々はよく分からないけれど」
うう……。なにか、とんでもないことに……。
夢で覚えているのは、最後の方に見ていた生まれる直前の光景だけです。ラエティティア様が何かおっしゃってくれたなんてことは、さっぱり。
きっとあの光景を見る前のことだと思うのですが、そのまま寝続けて、その最後の夢が綺麗に記憶を上書きしてしまっています。寝る子は育つというけれど、これはさすがに寝すぎですよ私。
神託なんて滅多にないことですし、ラエティティア様が神具を誰かに下賜したなんて聞いたことありません。そもそも、他の神様の神具は存在していますけれど、ラエティティア様ご自身の神具はこれまでひとつもなかったはず。
そんな稀有なことなのに、その説明を私本人が覚えていないなんて。
うわあ。
ものすごくやらかした、ぽいです…………。
「まあ、大切なのは今後その腕輪を外さずに付けておくことだって、ラエティティア様はそうおっしゃっていたから。なんでも、これまでよりも貴女の力が大きくなっているけれど、その腕輪を外しさえしなければ上手く整えてくれるとかなんとか。だからそうやって身に付けておけばきっと大丈夫よ。――それより」
マーテル様の頭を撫でる手が止まり、真剣な面持ちで私の目を覗き込んできました。
「それより、その腕輪。正真正銘のラエティティア様の神具よ。その意味が分かって?」
「……ええと、なくしたら怒られる、とか?」
「ぷっ、違うわよフィリア。ええとね、こんな腕輪があって、貴女が身に付けているってことが広まったらとても危険ということよ。貴女の祝福と同じ、いいえそれ以上だわ。どんなことがあっても隠し通すこと。分かる?」
マーテル様が私の手首の腕輪を指差し、そしてまた深い海のような蒼い瞳で私の目を覗き込んできました。
腕輪にチラリと視線を落とすと、それは半透明の貴石の中で金色の霧がゆるやかに流れている、まさに神の装飾具です。
記憶を必死に辿っても、ラエティティア様が神具を下賜したなんて話はやっぱり聞いたことがないですから、きっとこれは歴史が始まって以来の唯一無二のもの。
財宝的な価値はもちろんのこと、ラエティティア様を祀るコンコルディア教が深く根付いているこの大陸ですから、政治的な価値もすごく高いことでしょう。
なんでそんなものが私に、と戸惑うばかりですが、私は確かにちょっと人とは違う部分もあり。
その辺の理由はラエティティア様の御心なのでよく分かりませんが、でも、そんな貴重な神具をこんな貧相な娘が持っているなんて噂が広まってしまうと、それはもうとんでもないことになるってことは馬鹿な私でも分かります。
強奪や誘拐といった個人的な危険はもちろん、何よりこのアルビオンは辺境の小国です。ラエティティア様唯一の神具なんて、強大な中原諸国との外交上の悶着の種にすらなってしまうのではないでしょうか。
体が勝手に震えてきました。それはつまり――
「あ、あの……迷惑、ですよね……」
「まあ! 何言ってるのっ!」
マーテル様がガバッと、がくがくと震え出した私の両肩を掴みました。珍しく声を荒げています。
「フィリア、そんな事は絶対に言わないで!」
マーテル様は大きく深呼吸をし、落ち着きを取り戻してからゆっくりと話し始めました。
「そうね、どこから話せば良いのか……一度きちんと話しておきましょうか。私がフィリアと出会った一番最初――貴女を見つけたあの朝、戸締りがしてあった礼拝堂で赤ちゃんの貴女を抱き上げたあの時、貴女が巨大な砂漠のように渇ききっているという圧倒的な錯覚を覚えたわ。なぜそんな風に感じたのかは分からないけれど――」
「――でも、貴女は必死に私に手を伸ばし、私に笑いかけてくれたのですよ。理屈なんて関係なく、この子は私が守らなければ、そう思ったわ。それが出来ないくらいなら私という存在の意味はない。礼拝堂に突如として現れた奇跡の幼子、この子は何より尊い私の娘だって、そう悟ったの」
穏やかな大海原のような蒼い瞳に昔を懐かしむ色を浮かべ、私にふわりと笑いかけるマーテル様。
「その後、成長するにつれて、貴女は不思議な力を発揮するようになったわ。精霊と契約してもいないのに祝福を周囲にふりまいたり、ね。精霊に愛されているとしか思えない貴女は、この国にとって救いの星となるかもしれない――王太后であり、この国も巫女長でもある私にとって、そこに打算があるのは否定しないわ。でもね、そのずっとずっと前に、貴女は私の大切な幼子なのよ」
マーテル様のあたたかい手が、そっと私の頬に添えられました。
「だから私は貴女を守る。奇跡に居合わせた者の責任として、そして何より、フィリア、貴女の母として。この国に住む人達は大切だけれど、その為に貴女を傷つけるようなことは絶対にしない。王族でもないから、政略結婚なんてこともさせない。そして今回、ラエティティア様まで貴女を守る神具を下賜してくれたわ。前代未聞のことではあるけれど、母親としてその奇跡に感謝することはあっても、迷惑なんて思うものですか。ね?」
「マ、マーテル、様……」
「フィリア! 私のことも忘れないでくださいませっ!」
言葉に詰まった私に、エマ姉さまも凄い剣幕で詰め寄ってきました。
「わ、私だってフィリアのこと、本当の妹みたいにっ! クロエ様や他の巫女たちも、みんな同じで!」
「エマ姉さま……」
もう。
もう、なんて私は幸せなんでしょう。
マーテル様と並んで、エマ姉さまもまっすぐに私の目を見詰めています。
二人とも目を赤くして大変な顔だけど、それがとても眩しくて、きれいで。
二人からの暖かさが潮のように私を包んで、その透きとおった暖かさが嬉しくて、ありがたくて。
奇跡云々はよく分からないですけれど、人として二度目の生を授かって、本当によかった――そう、じんわりと幸福感が込み上げてきます。
やっぱり人の生活って素敵。
ふわふわと流れるままに漂っていたあの長い間、どうやってあんなに孤独な時を過ごせていたのでしょうか。
「マーテル様、ありがとう、ございます。エマ姉さまも、ありがとう、ございます」
乾ききった心を潤してくれる二人の感情の暖かさを噛みしめながら、私は心を満たしている想いをそのまま言葉にしました。
しっかりと伝わって欲しかったから、泣きそうで引きつりがちな口を、しっかり動かして。
「こんな私にそこまで……何てお礼を言っていいか……でも……本当に、嬉しいですっ!」
そうしたら。
そんな私の言葉と同時に、全身を祝福の波が嵐のように駆け巡りました。
――ッ!
この間の大暴走、また来た!?
祝福祭の時と同じ、抗いようもない金色の巨大な波が、身体の中で激しく暴れ回っています。
気を失った直前と同じ感覚、だけど、今回は意識が遠のくほどの衝撃はありません。
……腕輪が、光を吸い込んでいる?
あの時は体中がみしみしと軋んで、迸る光が内側を削っていくような強い痛みに襲われたけれど、今回は少しだけ滑らかになって、光が溢れ出る前に腕輪に吸い込まれているようです。
体の内側を逆撫でされているような妙な感覚はありますが、意識を失うほどのものではなく。
そして、ラエティティア様の腕輪から、金色の光と共にふわりと祝福が漂い出ました。
これまで私が出してきた祝福や、祝福祭で精霊たちがふりまいた祝福と違うのは、その大きさと色。祝福祭の儀式では親指の先ぐらいの金色の粒だったけれど、これは人の握りこぶしぐらい大きくて、色ももっと濃厚で眩しいぐらい輝いているのです。
そんな濃厚な祝福が、マーテル様とエマ姉さまに降り注いでいます。
二人とも、あまりの光景に揃って口をぽかんと開けています。
私の手首で、ラエティティア様の腕輪が小さく震え始めました。
まるで、これまでずっと身体の中にたゆたっていた金色の光が体の外に飛び出そうとしていて、そして、それをこの腕輪が精一杯なだめて最低限を適切な祝福に変えて放出したような、そんな不思議な感覚が私を包んでいます。
……これ、昔の私自身の光…………?
理屈ではない部分で、なんとなくそう理解してしまいました。今更ですが、おそらくそういうことで間違いないと思います。
私が暴走する度に溢れ出るこの光。それは、世界を漂っていた時の私の存在を示す光と同じ色。
これまで見てきた金色に輝く祝福よりひと回り濃厚な、かつての私という存在の光。
それがこうして未だに残っているなんて思ってもいなかったけれど。
というか、漂っていた当時よりも濃く大きく育った光が、今の私の身体の中で目を覚まして落ち着き先を探しているというか。
あちこちから精霊たちがこの部屋に集まってきて、お祭りのように飛び回り始めました。
どんどん、どんどん集まってきて、もの凄い数になっていきます。みんな、本当に嬉しそう。
そういえば、精霊たちは昔からこの光が大好きだったっけ。
大きくもない私の部屋の中は色とりどりの光で渦巻いて、とてもきれいで眩しくて。
そう。
それなら。
私はもう少しだけ祝福を送り出して、マーテル様たちを包み込みました。
これまで私に向けてくれた暖かさ、その千分の一でも私からの暖かさを返したいから。
あの無感動に漂う乾いた時間の後では、それがどんなに貴いものだか分かるから。
エマ姉さまの身体の奥に、良くないしこりを見つけました。
それは緩やかに命を蝕むもの。
私は光を集め、ひと息にそれを滅します。
ああ、これでよし。
私はいつにない満足感に満たされ、そのまま再び意識を失いました。