始まり
―私は何も出来ない。
―ただ黙って想い人を見る以外には――。
その日、桃崎結月は朝からずっと緊張した面もちだった。
「もう、ユヅってば。緊張し過ぎじゃない?」
苦笑しながら結月のもとへ歩み寄って来たのは、結月の中学からの親友である高本葉琉だった。
「だって……告白するんだよ? 緊張しないでいれるわけないよ~……」
と結月。
葉琉は「まぁそうだね」と言って、結月の席の机に腰掛けた。
葉琉の地毛でライトブラウンを、左右で緩く三段にしている三つ編みが揺れる。
結月には、好きな人がいる。
幼なじみの、川嶋翔だ。
いつ頃から好きになったのかは明確ではない。
ただ翔を異性と意識し始めた辺りから、淡い恋心が芽生えたのだ。それが今は、確かな恋心に変わっている。
今は高校二年生の冬。二月だ。
もう直ぐ本格的な受験勉強が始まる時期だ。
結月は、それまでに翔に想いを伝えようと考えていた。
それはつまり、告白するということだ。
以上の理由で、結月は緊張しているのだ。
「はあ……もう、フラれたらどうしよ……」
結月のネガティブ発言に、葉琉は優しく笑って言った。
「大丈夫だよユヅ。翔くんとユヅは結構仲良しだし、私が見るには、幼なじみの枠を越えて仲良くなってると思うよ。だからうまくいく確率のが高いよ」
その言葉に、結月は元気を取り戻して笑った。
「うん……ありがとうハル!」
地毛で焦げ茶でストレートのセミロングを揺らしながら、結月は葉琉の手を取って両手で握った。
「ううん」
葉琉が優しい笑顔を崩さず言ったとき、教室のドアが開いて一人の男子生徒――翔が入ってきた。
「あ……! か、翔!」
結月は椅子から飛び上がって驚いた。
その結月の挙動に、翔は怪訝そうに眉をひそめて言った。
「ん? 何だよユヅ」
「やっ……別に何でもないよっ! 何でもなくないけど……やっぱ何でもないっ」
結月は赤面しながらも、慌てて手を振った。
「はあ? どうしたユヅ。寝ぼけてんじゃねぇの? 起きてるかー?」
翔は右手を結月の顔の前で振った。
「起きてる起きてるっ! ちょー目ぇ覚めてるよ」
翔は笑いながら右手を戻すと笑って言った。
「おう、おはよう、ユヅ」
結月は再び赤面して答えた。
「うん! おはよう」
その時丁度翔の友達が翔を呼んだので、会話は終了してしまった。
「ああ……行っちゃったね、翔くん」
「うん……でも挨拶出来たからいいかな」
葉琉の問い掛けに、結月はふわりと笑って言った。
「そっか」
葉琉も笑って応える。
「でも……今、放課後に告白する時間つくってもらうチャンスだったのにね」
「あっ、そっか!」
葉琉の意見に、結月はガッカリしてしまった。
葉琉は慌てて取り繕った。
「あっ、でもまだチャンスはたくさんあるよ!」
「ま……そうか」
その時チャイムが鳴り、再び教室のドアが開いて、担任教師が入ってきた。
「おはようございます、みんな席つけー」
教室の喧騒が静まり、日直の「気をつけ、礼」の号令で挨拶をする。
その間も結月は翔が気になって、何回もチラ見をしていた。時々、目が合うのがまたドキドキするのだ。
そして昼休み、昼食の時間に結月は葉琉と翔のもとへ行った。
翔の隣には、友達の勇希がいる。
葉琉が勇希に問い掛ける。
「ユウくん、私達も一緒にお弁当食べていい?」
「ああ、いいよ。おいでハル」
勇希は葉琉に笑顔で了承し、葉琉を傍らへ招いた。
因みにこの二人は交際をしている。
結月は翔の隣に座って、努めて自然な笑顔で言った。
「隣、座っちゃうね♪」
「ああ」
翔も笑顔で応えた。
結月がお弁当箱を開けると、翔の声が飛んできた。
「うわ、うまっそ。よく思うけど、ユヅの母ちゃんすげえよな」
「そうかな? ありがと」
結月が、自分の母を褒められた事に照れていると、翔は楽しそうに言った。
「どれか頂戴」
その様子に母性本能をくすぐられた結月は、優しく応えた。
「はいはい、どれがいいですか?」
「んー……卵焼き!」
「いいよ。じゃあ翔も何か頂戴」
「ああいいよ。ピーマンあげる」
「わーい、ピーマンだぁ。……ってうぉい! それ翔の嫌いな食べ物押しつけてるだけでしょうよ!」
「あ、バレた?」
そんな他愛もないやり取りをしていると、不思議と緊張が解けていくのを結月は感じた。
―このまま、永遠にこの時間が続けばいいのに――。
しかし時間は進んでいき、ついに放課後になってしまった。
「ユヅ、ほらガンバ!」
「う、うん……」
結局時間をつくってもらうのを忘れた結月は、もう今呼び出して告白するしか方法が残っていなかった。
しかし、緊張で足が動かない。すぐ目の前にいるのに、声が出ない。
―もし、告白してうまくいかなかったら。
昼のように楽しく喋れないかもしれない。
それは一番嫌だ。
そんな考えが結月の足を、手を、声の動きを止める。
どんどん生徒が部活動に行ったりするなかで、翔は結月の方を向いて言った。
「じゃあな」
「……っ! 翔っ」
「ん?」
チャンスは今しかない。
結月はネガティブな思考をむりやりせき止め、言葉を発しかけたその時――。
「翔、何してんだ? 早く帰ろうぜ」
勇希が翔にそう言った。
「ん? あ、ああ……でもユヅが……」
翔がそう言い掛けた時、結月はとっさに嘘をついた。
「あっ、いいの。別に何でもないよ。バイバイ」
結月はそれだけ言うと、翔はもう一度「じゃあな」と言い残して教室のドアに向かっていった。
因みに翔の所属しているバスケ部は、今日は顧問が出張のため部活動がない。勇希もだ。
女子バスケ部の結月もだ。
翔の背中が遠くなっていき、見えなくなった。
「……っ!」
結月はよろけ、近くの机に手をついた。
そんな結月に、葉琉優しく言った。
「ユヅ、元気だして。また明日があるじゃない。それとうちのバカはちゃんと叱っとくから」
「私……勇気でなかった……意気地無しだよね……怖かったの。今の関係が壊れるの」
結月の弱々しい声に、葉琉はしばらくかける言葉が見つからなかった。
「ごめん、ハル。付き合ってもらったのに……」
「ううん。大丈夫だよ」
葉琉は結月の頭を撫でながら言った。
しかし、結月の中には、何かモヤモヤしたものが残っていた。
何か根拠があるわけでもないが、感じる。
嫌な予感――。
チャンスを逃したことに対する、必要以上の後悔。
「どうしたの?」
そう葉琉に訊ねられたのも聞こえず、ただ結月は立ち尽くした。
しかし次の瞬間、結月は通学鞄も持たずに教室を飛び出していた。
「ユヅ!?」
葉琉の声も無視し、一気に廊下を駆け抜ける。
階段を二段とばしで降り、昇降口を抜けて門ね間も駆け抜ける。
道路に飛び出して走ると、すぐに翔の後ろ姿が見えてきた。
「翔! 翔!!」
結月の声に翔が振り返った。
その瞬間、翔と、隣の勇希の顔が驚きに染まるのと、けたたましいトラックのクラクションの音が聞こえたのは、同時だった。
「……!!」
瞬間、結月の身体に凄まじい衝撃と、遅れて激痛が走った。
結月は、視界が一瞬真っ白になった後、じわじわと暗くなっていくのを感じた。
その視界の端で、信号が赤くなっているのを見た。
遠くで誰かが結月を呼んでいるが、それも昔のことのようだ。
やがて、結月の意識は遠い暗闇へと飲み込まれていったのだった――。