第4章
第4章
(1)
まるで初夏のような陽気の下を、ただひたすら歩く。あの家に行くのはこれで二度目、道ならもう覚えている。最寄りの駅からはそう遠くはない。俺はただひたすらに歩く。
『私のお父さんは、お母さんに殺されました』
昨日の惣乃の衝撃的な告白が頭に浮かぶ。俺がずっと求めていたもの、それを惣乃はあの公園ですべて語ってくれた。お父さんのこと教えてくれと言っただけなのに、それがすべてにつながった。
一歩一歩、固いコンクリートの感触を確かめるように歩き続ける。
『別に言葉通りの意味じゃないですよ?もし本当だったら今ごろお母さんは刑務所ですから』
『じゃあ、どういう意味なんだ?惣乃のお父さんは……?』
あの時の会話が次々と頭の中に浮かんでくる。あの時の惣乃はずっと空を見ながら話していた。自分自身、思考を整理させながら話していたのか、時々言葉を詰まらせながら一言一言ゆっくりと言葉を絞り出していた。
『お父さんは、私が生まれてくる前に死んじゃってました』
その言葉も口にする前にしばらくの間があった。
『だから、私はお父さんのことをなんにも知らないんですよね。小さいころにお母さんがどんな人だったのか聞かせてくれましたけど、優しくてまじめな人くらいの印象しか残ってないです』
それが惣乃が語った父親についての情報、香織さんが再婚していることを知った時から、お父さんが亡くなっている可能性については考えていたけど、まさか惣乃が生まれる前に亡くなっていたとは思わなかった。
惣乃は父親を知らない。だけど……
『お母さんが何度も話を聞かせてくれる中で、私は私の中に自分の父親を作り上げたんです』
完全に服装を間違えた。日はどんどん高くなり風も全く吹かないせいで、額に汗が溜まっていく。けど、香織さんの住む家まではあと少しだ。腕で額の汗をぬぐって、また歩き出す。
『お母さんは、私がお父さんの話を聞かせてほしいって言えば必ず話を聞かせてくれました。私が本当に小さい子供だった時からずっと……
けど、たった一つ大事なことは教えてくれなかった』
香織さんの家のある通りにさしかかる。公園で聞いた惣乃の言葉がいまだに頭の中で再生され続けている。
――そして、ついに核心。
『お父さんはもう死んでいると、その事実を教えてくれることはなかったんです。お父さんはずっと遠くへ旅に出ていて、当分帰ってくることはないんだと、そんな言葉でごまかし続けていました。そんな見え透いた嘘に気づけないほど私は幼くて、ある時までずっと信じつづけていました』
そこで足を止める。目の前には香織さんと、彼女の新しい家族の住む家。
わずかに、躊躇する。
『別に何があったわけじゃないんです。ただ、成長した私はお母さんの嘘に気づいて、それを指摘しました?“お父さんは死んじゃってるの?”って。本当は否定してほしかった。けど、あっさりお母さんは肯定しました。
その瞬間、私の中のお父さんはお母さんの手によって殺されたんです』
インターフォンの前、目の前にある小さなボタンが押せずに立ち尽くす。
『それで、喧嘩しちゃいました。どういうわけかお母さんも私を憎むようになって、お互いに憎みあって、気付いたら全く口を利かなくなってました。友達もいなくて、きょうだいもいない私にはお母さんしかいなかったのに。
その時、私、片桐惣乃は死にました』
惣乃が自分のことを地縛霊だとか、幽霊だとか言っている理由がようやく本当に分かった気がした。誰ともつながることが出来なくなったら、そんなのは生きているなんて言えない。誰一人話すことが出来る相手がいなくて、何一つ頼れるものもない、そんな一人ぼっちの惣乃の姿を想像するだけで、胸が押しつぶされそうになる。
けど、もう惣乃は一人じゃない。チャイムの前で一分くらいは立ち尽くしただろうか、覚悟を決めようとしたその瞬間、ポケットの中で携帯が鳴る音がする。
『やっぱりあんたか。いつまでも玄関の前で不審者みたいなことしてないであがりなよ。どうせ暇だし、茶の一つくらい出してやる』
ふと視線を上に上げると、窓からこちらを覗き込む香織さんの姿が見える。その姿はすぐに消えて、やがてガチャリと鍵の開く音。
ドアが開き、そこから香織さんが顔をのぞかせる。
「あんまり片付けてないから汚いけど、立ち話よりはマシだろうよ」
いつもの少し不機嫌そうな声で、そう口にした。
(2)
「それにしても、わざわざ家に来るなんてさすがに驚いたよ」
「すいません、お昼時にお邪魔しちゃって」
「いいよ、別に私一人でどうせ暇だから」
香織さんの口ぶりからしても、家の中を見渡してもあの日家の前であった、あの女の子は今は家にはいないようだ。そんな考えがばれたのか、「娘なら今は幼稚園に行ってるよ」と説明された。
けれど、その説明に違和感を覚える。そう、香織さんは知らないはずなんだ。
「俺が香織さんにもう一人娘さんがいるってことを知ってるって、どうして知ってるんですか?」
そんなこと、知りえたはずがないのに。不気味な感覚が湧き上がってくる。
「なんでって、あんた昨日のお祭りにいただろ?私が気付いて無いとでも思ったかよ」
結局のところ、単純な話だった。俺だけが気付いていたのかと思っていたがそうじゃなかった。それだけの話。
「まあ、昨日見かけた男が、電話の男だって確証はなかったけどな。まさかあいつの隣にいるような、もの好きな男が二人もいるわけないけど」
そんな話をしながら玄関をあがって、廊下を歩く。そして、家の奥まで案内されるとリビングまで連れてこさせられる。香織さんはそのままキッチンに向かってお茶を用意する。それをリビングの椅子に座って、少しの居心地の悪さを覚えつつも静かに待った。
その時、嫌でも目に入るのが棚の上に見せつけるように飾られた家族写真。そこに写っているのは当然惣乃じゃない。あの時お祭り会場で見かけた3人の家族、幸せそうに笑う彼らが写されている。本当にもう惣乃の居場所はここにはないみたいだ。
「ほらよ、普通に緑茶で良かったか」
「ありがとうございます」
テーブルに二人分のお茶を置いて、俺の目の前の席に座った。お互い一口ずつお茶を飲んで一息をつく。
「で、わざわざ家まで押しかけて今日は何の用だ?まさか世間話をしに来てくれたわけじゃないんだろう?子育てしてるとストレスたまるから、そういう何気ない会話に付き合ってくれるとありがたいんだけど……」
「……すいません」
一応、小さく頭を下げる。もしかしたら、この前の電話の時のように、ここで追い出されてしまうんじゃないかと心配したが、そんなことはなさそうだ。
「まあ、別にいいさ。私だって多少はきな臭い話になるのを覚悟であんたを呼んだわけだし」
ここで、突然香織さんの顔つきが険しくなった。
「ただ、最初に一つにこれだけは言っておく。後にも先にも私の娘は“篠崎夏帆”ただ一人だ」
篠崎、それが香織さんの新しい苗字。香織さんは、片桐という姓よりも新たな篠崎という姓を名乗って生きていくことを選んだ。でも、惣乃はどうなる。片桐の姓と一緒に捨てるなんて勝手すぎる。
別に新しい男と再婚したって自由だけど、そのことで惣乃の帰ってくるべき場所が失われたんだ。それは許されるようなことじゃない。
「でも、本当に惣乃のことを嫌ってるんですか?本当に、心の底から縁を切りたいって思ってるんですか?」
「なんだと?」
「香織さんはそうやってずっと惣乃の存在を否定し続けているけど、心の底から否定しているようには思えないんですよ」
できるだけ挑発するように言い放つ。初めて電話で話したときはこの冷たい声に萎縮して何もできなかったけど、今は違う。
「とりあえず、根拠を言ってみろよ」
俺の態度が癪に障ったのか、椅子に深く腰を掛けていた香織さんが、テーブルに頬杖をついて威圧的な態度になる。けど、こんなところで引くわけにはいかない。
「あれだけ惣乃のことを嫌ってるくせに、なんでこうして俺のことを家に呼んだり、拒絶しないんですか?自分の嫌ってるやつと近しい人間なんて無視すればいいのに。俺のこと、惣乃の今の状況を知るために利用してるんじゃないですか?」
ずっと気になっていた。最初の電話の時から、一見冷たくあしらいながらもそれでも香織さんは俺のことを完全に拒むことはなかった。
「だから、惣乃のことを忘れきれないあんたは……!」
小さく鼻で笑う音、それだけで言葉が遮られた。
会話の流れの一切を絶つように。
「バカじゃねえの?」
どこまでも冷たい一言が部屋中の空気を包み込む。もはやさっきまでの威勢は一瞬にして部屋に隅の方へと消え去った。
そして、さらに心を砕くような、聞きたくもない言葉が襲い来る。
「私がわざわざ今日家に招いてあげた理由も、なんか勘違いしているみたいだし教えてやるよ。
“もうこれ以上、私に付きまとうのやめてくれ”あんたにはっきりとそう伝えたくて、わざわざ家まで入れてあげたんだよ」
これ以上言うことはないと、そう言いたげにテーブルのお茶を一気に飲み干して湯のみを小さく叩きつけた。
これ以上反論する言葉が見当たらない。何か言わなきゃいけないっていうことくらいは分かっているけど、圧倒的壁のようにそびえる香織さんに威圧されて何も身動きが取れない。
「もう少ししたら、あの子の幼稚園のお迎えの時間だ。いつまでもいられても邪魔だし、さっさと惣乃とか言う女のもとに帰りな」
そう言って香織さんは席を立つ。
こんなことが許されていいのか、俺にはもう分からない。たとえ親子でも、一緒にいない方が幸せな例もあるのかもしれない。二人にとって何が幸せなのか、まだ答えは出ていない。
だけど、だけど。そんな結論でいいのか?
そんなの関係ねえだろ……?
なにが二人にとっての幸せなのかとか、そんなことは関係ない!
膝に爪が食い込むまで強く握る。確かな痛みが全身を包み、少しずつ冷静な思考が戻ってくる。
初めて惣乃と会ったとき、自分自身を幽霊と名乗るその寂しげな目がよみがえる。細かい理屈なんてどうでもいい。惣乃を何年間も一人ぼっちにさせたこの人を許せるわけがない。
「――勝手に終わらせないで下さいよ」
「ああ?」
ちょうど椅子から立ち上がったままの態勢で香織さんは動きを止める。完全に黙らせたと思った相手から反論があったのが意外なのか、少し驚いたような顔でこっちを睨んでいる。
「あんたは、惣乃が一人ぼっちになってから、どんなふうに生きていっているのか知ってるか?」
「はあ、知るわけもないだろう。どこかで適当に誰かさんからもらったお金で細々と生きてるんじゃないのか。大嫌いな母親から離れて暮らせるんなら、満足な暮らしだろ」
誰かのお金と、あえてそう表現したのは惣乃との関係を作りたくなかったからだろうか。
「本気で言ってんのか?あんたは、たった一人ぼっちで、まるで死人のように生きていく人生の、どこかが満足のいく暮らしだって思えるんだ!?」
「なに熱くなってんだよ」
呆れたような顔をしながらも、香織さんはもう一度椅子に腰を掛けた。まだ話を聞いてくれる意思はありそうだ。
無駄に熱くなってもいいことなんてないと、一度小さく息を吐き呼吸を整える。冷静になって、しっかりと香織さんと目を合わせ向かい合う。
大丈夫、頭はしっかりと回っている。
俺はまだ戦える。
「俺が初めて惣乃と会ったとき、あいつは自分のことをなんて言ったと思います?」
「だからさ、そんなこと知るわけないだろ。そんな女のこと私は何も知らないんだ」
それでも香織さんの態度は変わらない。無関心を装って、何も知らないようなふりを続けている。
「あいつは、自分のことを幽霊だって言ったんだ。どんな気持ちであいつが自分のことを幽霊だなんて言ったのか、あんたは分かるかよ!」
「なんだそりゃあ、相変わら変な奴だな。分かんねえよ、あいつの考えてることなんて。これっぽっちも、理解できるもんかよ」
分からないんじゃない。理解することを放棄している。
「だったら教えてやるよ。あいつは!誰も頼れる人がいなくて、話をするような相手も一人もいなくって、本当にたった一人ぼっちで、死んでるのと同じだった。だから自分はもう死んでるだなんて、自分は幽霊だなんて言ったんだ!!」
ほんの一瞬、香織さんがひるんだのを見逃さなかった。たたみかけるように、強い言葉で叫ぶ。
「間違いなくあんたは惣乃の母親だ。あんたがあいつのことを守ってやらないでどうすんだよ!!」
香織さんはいつも不機嫌そうで、いらだった表情をしていることは何度もあった。不快そうに、冷たい目を向けられることも何度もあった。
けれど今確かに、明確な怒りが向けられた。冷たかった目には怒りの炎がともり、燃えるような瞳で睨んでくる。こんな香織さんの表情は初めてだ。
――怖い。こんなに明確な怒りを向けられて、恐怖で足がすくんでしまいそうになる。
だけど、俺と香織さん二人のこの勝負、この時点で俺の勝ちだ。ずっとまともに取り合ってくれさえしなかったこの人から、こんなにも純粋な怒りという感情を引き出した時点で、もう勝負は決まっている。
「あんたは、私が悪いって言いたいのか……?」
「そうだ。あんた以外に誰がいる」
間髪入れずに言い放つ。
「ふざけんじゃねえぞ。事情も知らないせに私ばっかり悪者扱いしやがって!もうこれ以上聞きたくない。金ならあいつが20になるまでは仕送りしてやるから、私の目につかないところへ、さっさと二人で消えてくれ!!」
もうこの人の言葉は何も怖くない。いつの間にか惣乃との関係を否定することも忘れて、ただ俺の言葉に怯えている。
「悪いですけど、まだ帰るわけにはいきません。あなたがちゃんと、もう一度惣乃と向き合うって言うまで、俺は絶対に帰りません!」
「無茶を言うな!そんなこと、あの子が望むわけない!あんたは一つ勘違いしてる。私があの子を捨てたんじゃなくて、あの子の方からこの家を出ていったんだ!
今さら、あの子が私に会いたいなんて思うわけないだろう!?」
香織さんは、もう怒っているのか泣いているのか分からないような声で、ただひたすら感情をぶつけるように叫び続ける。今の香織さんはもはや感情の塊でしかない。
「関係ねえよ。惣乃がどう思おうが関係ない」
だからもう、終わりにする。ずっと言いたかったことを、ただ心の底から叫ぶだけ。
初めで電話で話したときのような冷たい殻を失って、俺の口から放たれる言葉に怯えている。あの時惣乃が公園で語ってくれた言葉を手繰り寄せて、言葉の武器を作る。
「あんたは惣乃のことを、女手一つで一生懸命頑張って育ててきた。きっと俺には想像もつかないような苦労をして育ててきたんだと思う」
そうだ。香織さんは頑張ったんだ。お世辞にも人付き合いが上手いとは言えない惣乃のことを、たった一人で育て上げた。相当苦労もしたし、努力もしたはずだ。
「なのにある日、自分のすべてをかけて育ててきたはずの惣乃に嫌われた。何よりも大切だったはずの惣乃に……
それはあんたにとって相当なショックだった!惣乃に嫌われることは、今までの自分の努力が否定されることと同じだった!」
ひとつ、ひとつ言葉を発するたびに香織さんの顔は歪んでいく。今まで気づかないふりをしてきた自分の正体を、包み隠さず突きつけられるような気分だろう。
「やめろ、やめてくれ。もう聞きたくない……」
心の奥から漏れ出す悲鳴も、聞こえないふり。あとはもう、仕上げだけだ。
「だから、あんたも惣乃を嫌いになった。相手から一方的に嫌われるだけは辛かったから。そうすることで、自分は傷つかないで済むとでも思ったんだろうな」
自分の一人娘を捨てて新たな家庭を作った、非情な大人の女を演じてる彼女に、本当の正体を突きつける。
ずっと言いたかった最後の一言。今ようやく告げられる。
「あんたのやることはさ、全部ガキっぽ過ぎるんだよおおおおおおおおおおお!!!!」
こんなに腹の底から叫んだのはいつぶりだろう。音の振動のせいか、飲みかけのお茶の水面が揺れている。気付けばさっきまで肩にあった重圧はなくなって、すっきりとした気分になっていた。
「うるさい、うるさい、うるさい……知ったような口をききやがって」
なんとか絞り出すように、抗議の言葉を口にしている。けど、そこにもう最初のころのような力強さはない。
まるで駄々をこねる子供のように、感情のままにただ悔しさだけを吐き出していた。
「今さらどんな面をしてあの子に会えばいいんだよ!こんな私にもう一度母親面しろっていうのかよ……」
香織さんは当てのない悔しさをぶつけるように、テーブルクロスを両手で握りしめる。倒れそうになった湯呑を慌ててつかんで避難させた。そう言えば、もう少ししたら娘を幼稚園まで迎えに行くなんて言っていたけど、大丈夫だろうか。なんて余計な心配をしてしまう。
「そうだよ。母親はあんた一人しかいないんだから」
「あの子は私を許さない!大好きだったあの子の中の父親を殺して、何年間もずっと一人ぼっちにさせて!」
「香織さんは最初、俺に一つ勘違いしてるって言いましたよね?その言葉きれいにそのまま返しますよ」
そうだ、勘違いしているのは俺じゃない。最初から前提が間違っていたんだ。
「別に惣乃は、今でもあんたのことを心から恨んでるわけじゃない」
香織さんは俺の言葉を聞くと、驚いたように目を丸くした後、信じられないとばかりに薄く笑った。
「バカバカしい、どうせならもっとうまい嘘をつけよ。そんな嘘じゃあ、あの子に会ってあげようなんて気にならないよ」
「嘘なものかよ。あいつは確かに自分の言葉で、あんたのことを恨んでなんかいないと言ったんだ」
「……嘘だ」
惣乃があの時公園で語ってくれた言葉、そのすべてを思い出す。『その時、私、片桐惣乃は死にました』そのあまりにも悲しい言葉の続きを。悲しげに笑う惣乃の顔が再び頭の中に浮かんでくる。
『でも、今考えればバカみたいな話ですよね。お母さんが話してくれたからお父さんを好きになれたのに、本当に大切だったはずのお母さんを嫌いになっちゃうなんて』
ありのままの言葉を、香織さんに届けよう。
『ひどいですよね。お母さんはずっと頑張って女手一つで私のことを育ててくれたのに、喧嘩したからって口も利かなくなるなんて。私の家出を引き留めてくれなかったのも、私がバカだから愛想つかしちゃったんですかね』
あの時の公園は街灯もほとんどなくて、惣乃の表情まではっきりとは見えなかった。だけど確かに、目には小さな水滴が光っていた気がした。
だから、その悲しみも後悔も全部、俺が代わりに伝えなきゃいけない。頭の中に聞こえる惣乃の声に、自分の声を合わせていく。
「嘘だと思うのはあんたの勝手だ。けど、それでも惣乃は確かに言った」
俺の声は――惣乃の声は届くだろうか。
『それでももちろん、家出をする私を引き留めてくれなかったのは確かに悔しかったです。けど、今でも私は信じてます。きっといつか、お母さんが私を探しに来てくれるって』
そう告げた惣乃の顔は、泣いているのか笑っているのか分からなかった。
「頼む、惣乃に会ってくれ。遅すぎるなんてことはないんだ……!!」
惣乃の想いも背中に乗せて、ゆっくりと頭を下げる。頭をテーブルに押し付けたまま、返事が聞こえるまで動かない。香織さんがどんな決断をするのか、ただひたすらそれを待ち続ける。
「とりあえず、頭あげろよ」
言われたままに顔を上げると、そこには抜け殻のような顔になった香織さんがいた。
「確かに、あんたの言う通り私は惣乃に会うべきなのかもしれない。けどさ、あの子には私一人しかいないのかもしれないけど、私には新しい家族がいる。間違いなくあいつらも私にとっては家族だから、そう簡単に割り切れないんだよ……」
惣乃は香織さんが再婚していることも、自分に片親違いの妹がいることもまだ気づいていない。再婚相手の男の人も、夏帆と呼ばれていたあの女の子も惣乃の存在を知っているのかも分からないし、たぶん知らされてないだろう。
「けど、その二つって本当に両立できないものですか?」
実は自分にはもう一人家族がいましたなんて、簡単には受け止められるものじゃないだろう。でも、絶対に不可能というわけじゃない。それに、惣乃と再会すらしていないのに、そんな後のことを心配しても意味がない。
「無茶を、言うなよ……私にどうしろって言うんだ」
香織さんはずっと、うつむいたまま顔を上げようとしない。もう考えることを拒絶しているようにも見えて、少し気の毒になってくる。きっと今はこれ以上話ても時間の無駄にしかならないだろう。
カバンからメモ帳を取りだして、テーブルの上に置く。そこに記されているのは、俺たちの住んでいる家からの最寄り駅の名前と時間。それを小さくたたんで差し出した。
もし香織さんがまともに取り合ってもらえなかった時のために用意していたものだったが、こんな風に役に立つとは思わなった。
「この場所で、惣乃と待ってます。絶対、絶対に来てください」
そう言って椅子から立ち上がる。香織さんは相変わらず何の反応も示さないが、言葉は届いているはずだ。
「信じてますから」最後に惣一言だけ念を押してから、この家を後にした。
(3)
暑い日差しの降り注ぐ中の帰り道、どうしてか胃がキリキリ痛んだ。それはたぶん暑さのせいなんかじゃない。けれど、どんなに考えても原因は分からない。言いようもない不安が、どうしてか頭を離れなかった。
(4)
結局家に着いたのは夕方ごろ、ずいぶん香織さんの家に長居し過ぎたのか、傾いた夕日が俺たちの住むアパートを照らしている。
「ただいまー」
いつものように勢いよく開けると、部屋の中に西日が差し込んでいて、あまりのまぶしさに思わず目を閉じる。恐る恐るゆっくりと目を開ける。すると、真っ先に目に入ってきたのは部屋の真ん中で棒立ちになっている惣乃の姿。何をするわけでもなく、ただ突っ立っている。
「なにしてんの?」
「……隆司さん?ああ、お帰りなさい!すいません、ぼーっとしてて全然帰ってきてたことに気づきませんでしたっ」
惣乃は慌ててパタパタと駆け寄ってくる。まるで主人の帰宅を喜ぶ犬みたいだなんて思いながら荷物を床に放り投げる。その瞬間、緊張の糸がほどけたのか一気に疲れが押し寄せてきた。自覚はしてないなかったけど、香織さんの説得のためにずいぶんと気を張っていたみたいだ。
「だいぶお疲れみたいですね。今なら特別に惣乃のスペシャルマッサージのサービスが受けられますが、どうでしょう!?」
「骨へし折られそうだから遠慮しとくわ」
「あれえ!?私ってそんなキャラでしたっけ!?」
別にパワーバカって言いたいわけじゃなくて、ただなんとなくすごく不器用そうなイメージのせいだった。そんなこと、本人の前で言えないけど。
クッションの上に座り込んで身体を休めようとした時、小さく腹の虫が鳴った音が聞こえてふと気づく。
「なあ、それよりちゃんと飯の準備してるか?あんまりその様子が見られないんだが」
キッチンの様子を見ても、何か下準備のようなことをしている様子もない。なにを作る予定なのかは分からないけど、腹の虫が暴れ始めてて夕食が待ちきれる気がしないから、そろそろ準備してもらいたい。
「あ……!すいません、忘れてました、今すぐ準備します!!」
惣乃はずいぶんと慌ててキッチンに駆けていく。朝はあれだけ張り切っていたのに、まさか忘れているなんて、ここまでドジな奴だとは思わなかった。キッチンの上には、お昼のうちに買っておいたのか、スーパーの袋が置いてある。だが、よく見るとその袋はなぜかボロボロだった。
「ああっ!」
キッチンの方から、惣乃の悲鳴のような驚く声が聞こえる。
「どうしよう、卵が割れちゃってます……」
何があったのかは知らないが、それだけ袋がボロボロになるようなことがあったのなら卵くらい割れるだろ。
「卵がないと作れないメニューなのか?」
「うう、卵がないとただのケチャップチャーハンです。それでもいいですか……?」
なるほど、オムライスが作りたかったわけか。スーパーはここからそんなに近いわけでもないし、今からまた買いに行くのも面倒だった。幸い、袋のなかの商品は卵以外無事みたいだ。
「気にすんな。オムライスはまた今度挑戦すればいいって」
「うう、私がふがいないばっかりにすいません……」
「オムライスは難易度高いし、惣乃にはちょうどよかったんじゃないか?まあ、チャーハンすらまともに作れるのか怪しいけど」
「失礼な!!あっと驚くようなチャーハンを作って、私に対しての評価を改めさせてあげますからね!?」
「はいはい。まあ、楽しみにしてるな」
任せてくださいと言わんばかりに、惣乃は一気に表情を引き締めて調理場と向き合った。さっそく作業に取り掛かかり、野菜を細かくカットし始める。けど、あまりにも不慣れな手つきで包丁を握るものだから、見ているだけで指を切らないかハラハラしてくる。
「ば、バカにしないでください!これくらい私一人でちゃんと作りますから、隆司さんは亭主関白っぽく、テレビでも見ながらゴロゴロしててください!」
母さんからこっぴどく料理を叩きこまれたせいか、さっきから包丁の使い方とか口出しをしたくてたまらない。せっかく一人で頑張ってくれているのに、横槍を入れるのも野暮だからお言葉に甘えてゴロゴロさせてもらうことにした。
トン……トントン……トンと、不規則な包丁の音が聞こえてくる。怪我だけはしないでくれよと心の中で祈りながら、一人暮らし用の小さなテレビの電源をつける。
『見てください!このおっきなアワビ!』興味のない内容の番組を変えていく。『ええ~!なにこれ、わかんない~』最近流行りの、いかにもバカっぽそうな女タレント。『はい、先ほどこちらの交差点で起きた事故についてですが』あ、これ近所だ。『ああっと、これは手痛いフォアボールになりましたー!!』まあ、これでいいか。
別に応援している球団ではなかったけど、とりあえず面白そうな番組もなかったし、野球中継で落ち着いた。普段は家にいて料理を作らないことはないから、この時間にのんびりしているのはなんだか不思議な感覚だ。
「ほあああああ!!!」
なにか雄叫びのような悲鳴と、ガシャーンと何かが盛大に落ちる音がする。まあ、この音お感じからして割れたわけじゃなさそうだから大丈夫だろう。しばらく放っておくと、そのうち作業が再開された。
そう言えば、と今日の昼間の出来事を思い出す。「明日の夜って空いてるか?」
調理する手を止めてこちらの方を振り返る。その顔はなぜだか少し不満そうだ。
「隆司さんは、私に空いていない時間があると思ってるんですか?」
「その、なんかすまん……」
「いいですけど、どうしたんですか?お出かけですか!?」
惣乃はさっきまでの不満そうな顔を一変、きらきらと期待に目を輝かせる。
「明日の夜、惣乃のお母さんと会う約束を取り付けてきた。まあ、約束って言っても俺が強引に取り決めただけなんだけどな……」
本当に香織さんが来てくれる保証はもちろんない。あれだけ悩んでいた姿を思い起こすと、来てくれない確率の方が高いようにも思える。それでも、黙って次の言葉を待っている惣乃に、告げなければいけない。
「だから、惣乃もついて来てくれないか?」
やはりまだ迷いがあるのか、少し不安そうな顔で見つめている。けど、やがて勇気を振りしぼり覚悟を決めたのか、小さく「はい」と言ってうなずいて見せた。
「明日、香織さん来てくれるといいな」
もう一度、小さくうなずいた。
明日、きっとすべてが動き出す。そのためには香織さんに今を変える覚悟を決めてもらわないといけない。惣乃だって、もう一度向き合う覚悟を決めたんだ。
「って、あれええ!!??火が、火が点けっぱなしでしたああああああ!!火があああああああああ!!!!!」
鼻をつく焦げ臭いにおい。炎やコゲと奮闘する惣乃の様子が見るまでもなくひしひしと伝わってくる。
どうやら、まず覚悟を決めなきゃいけないのは俺のようだ……
(5)
その日は珍しく(?)ちゃんと朝から大学に行き真面目に講義を聞いていた。相変わらず大学に行くような気分ではなかったのだけど、惣乃の方から大学に行けと言われた。今まで散々一人にするなと言っていたくせに、どういう心境の変化なのか。
今までは散々集中できなかった授業だけど、なぜか今日は集中して受けていられた。俺も惣乃も、何か少し吹っ切れたのかもしれない。
家に帰ると、いつものようにベッドの上でゴロゴロしている惣乃が目に入ってくる。こんな日だっていうのに、まったくいつもと変わらない。家に帰ってきたころにはもう夕方近くで、適当に夕食の下ごしらえをすることにした。
約束の時間までの少しの間、俺たちは思い思いの時間を過ごす。下ごしらえを終わらせると俺は、テレビを眺めながら携帯をいじる。惣乃は前に買ってあげた女の子向けの漫画雑誌を寝そべりながら読んでいる。
そんな風にのんびりと時間は過ぎていく。
――そして、その時間が来た。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
ひんやりと肌寒い風が吹き抜ける。昼間の暑さが嘘みたいに、静かで冷たい空気があたりを包み込んでいる。駅前の小さなベンチは風をさえぎるものもなく、じっとしているとどんどん体温を奪われていく。そんな寂しい場所で、惣乃と二人で待ち人が来るのを待っていた。
「お母さん、まだいませんね」
「まだ約束の時間よりは少し早いからな」
指定した約束の時間の10分前、当然と言えば当然だがまだそこに香織さんの姿はない。やはり緊張しているのか、隣で座っている惣乃はどこか固くなっているような気がする。しばらくの間、お互いに何も話さずにじっとベンチの上で待ち続けた。
ちょうど帰宅ラッシュの時間で、会社での仕事を終えたサラリーマンや下校途中の学生たちなど、たくさんの人たちが目の前を通り過ぎていく。その中に香織さんの姿を探してみるが、一向にその姿は見つからない。
電車が止まり、一気に大量の人たちが改札から吐き出されてくるたびに、惣乃は期待と不安の混ざった顔で、懸命に人混みの中から母親の姿を探している。その姿が、どうしてか痛々しくて、見ていて少し辛かった。
ずっとずっと改札の前を睨み続けて、いったい何分経ったのかも分からない。やがて帰宅ラッシュのピークが終わり駅の人通りがまばらになってきたころ、惣乃は改札を睨むのをやめて大きく伸びをした。
「お母さん、来ませんでしたね」
駅に着いてからあえて時間は確認していなかったけど、わざわざ時計を見るまでもなく分かる。約束の時間をもう、最低でも1時間は過ぎている。
「まだ、分からないさ。ひょっとしたら、何か事情があって遅れてるだけかもしれないし」
香織さんに確認の電話をすることはできるけど、やっぱりそれはしちゃいけない気がする。俺たち二人にできるのは、ただ信じて待つことだけだった。
「やっぱり、私は幽霊のまんまです」
隣にいる惣乃の表情を覗き見る勇気はなかったが、その声は少しだけ震えているような気がする。
「いきなりなに言ってんだよ。おまえは幽霊なんかじゃないさ」
「ありがとう、ございます」
惣乃は薄く笑う。お母さんに会えてると、俺の言葉を信じてここまで来てくれたのに結局裏切ってしまった。それなのに……
「私、隆司さんに会えてすごく幸せです」
そんな言葉を俺に微笑みかける。嘘をついたはずなのに、裏切ったはずなのにまだそんな顔を見せてくれる。それがものすごく悔しかった。
「ごめんな、本当に。俺がもっとうまく説得できればよかったんだ」
「別に落ち込んでないですよ!隆司さんがいてくれれば、それだけで私は十分ですから」
その言葉は本心なのか、それとも強がりなのか分からなかったが、そんなことはどうでもいい。惣乃がそう言ってくれただけで、もう十分だ。
「ねえ、隆司さんは初めて私と会った時のこと覚えてますか?」
惣乃は突然そんなことを聞く。あれだけインパクトのある出来事を忘れる訳がない。忘れたくても、一生トラウマとして残り続けるだろう。
「ああ。もちろん覚えてるよ」
そう言えばあの時は、どうにかして惣乃を追い出そうと奮闘していたような気がする。結局あの時も、惣乃がかわいそうになって家にいれてあげることにしたんだった。まさかこんなに長いこと居候されることになるとは思ってなかったけど。
「私、実はあの日隆司さんが家に来ることを知ってたんですよ?あの大家さんがしゃべってるのが聞こえたんです」
「そう、だったのか」
でも、と少し考える。もし俺が入居してくることを知っていたのなら、あの日扉を開けた瞬間に部屋の中でくつろいで惣乃の行動の意味は変わってくる。自分の寝床にしているところに人がやってくるとなれば、普通新たな場所を求めて移動するはずだ。それをしないで部屋の中でくつろいでいたということはつまり……
「だから、隆司さんが家に来てくれるのを楽しみに待ってたんです」
俺が扉を開ける瞬間まで、どんな人が入居してくるかも知らずにずっとドキドキしながらあの家で待ち続けていたのだろうか。
「どんなやつが来るのかも分からなくて、怖くなかったのか?」
当たり前の質問。普通だったら、どんな人が来るかもわからないで待ち続けるなんて怖くてたまらないはずだ。
「そんなの、怖いにきまってるじゃないですか。男の人が来るのか、女の人が来るのか、どんな性格の人が来るのか、まったくわからないんですよ?不安で不安で、何度も家から出ていこうかと考えましたよ」
俺と出会う前惣乃が、どんな風にあの部屋で待っていたのかなんて考えたこともなかった。
「じゃあ、どうして惣乃は待ってたんだ?」
怖かったら逃げればいい。新たなな寝床を探すのは簡単じゃないかもしれないけど、見ず知らずの人間といきなり二人で暮らすことになるよりはよっぽどマシだろう。
それなのに逃げることをしなかった。惣乃は決して強い奴なんかじゃない。それにもかかわらずに。
「なんで、逃げなかったんだよ。怖い男が来るかもしれなかったのに、普通出ていくだろ」
「うーん、自分でもよく分からないんですけど、たぶん直感です!」
「はあ?」
予想もしてなかった返答に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。なんだよ直感って、理由になってないぞ。
「なんとなく、ここで待っていれば何かが変わるような気がしたんです。ずっと小さな部屋に引きこもってるだけの私を、変えようって思えたんです」
惣乃は足をぶらぶらと前後に揺らしながら、照れたように笑う。
「もし変な人が来たらすぐ出ていけばいいやって、そんな風に割り切ってましたんですけど……来てくれたのが隆司さんでよかったです。私の賭けは大成功ですね!!」
きっとそれは賭けなんかじゃない。不安なことから逃げ出さずに、今を変えることを決意した瞬間から、俺と惣乃が出会うという巡り合わせは決まっていたんだと思う――なんて、柄にもなくそんな恥ずかしいことを考えてみる。
「勇気を出してくれてありがとう」
今ではもう惣乃のいない生活なんて考えられない。東京という騒々しい街で一人暮らしをする予定だった俺の前に、突如現れて生活を一変させてくれた少女に、心からの感謝を告げる。
できるだけ真剣な顔を作って、すぐ隣にある惣乃の顔を見つめてみる。
「感謝しなきゃいけないのは私の方です。こんな得体のしれない私を受け入れてくれて、本当にほんとうにありがとうございます」
すぐ隣にあった惣乃の顔が急にこっちに向けられる。その顔も真剣な表情。お互いの前髪が触れてしまいそうなほどすぐ近く、目と目が合わさった。
そのままの姿勢で、しばらくの間と気が止まったみたいに見つめ合った。そして、お互いどちらからともなく、自然に微笑みがこぼれる。
俺たちは少しの間、そうやって二人で笑い合う。そして終わるときも同じ、どちらともなく真顔に戻っていく。
香織さんは結局、約束の場所には現れなかった。そんなことを不意に思い出す。これが香織さんの出した答えなら、俺がこれ以上口出しできることはない。惣乃も同じことを考えているのか、寂しそうに目を伏せる。
「隆司さん。私、少しは人間に近づけましたか?」
「大丈夫、おまえはもう十分普通の人間だよ」
惣乃はもう死んでなんかいない。俺は絶対に惣乃を一人ぼっちにしたりなんかしない。あの人のように、見捨てたりなんかしない。
「絶対に、“死んでる”なんて言わせないからな」
そう、惣乃には聞こえないほどの小さな声でつぶやき、自分の中で誓いを立てる。その言葉を合図に、ベンチから飛び上がるように立ち上がる。
「さ、帰ろうぜ」
もう全部忘れて、ここから俺たち二人で新たなスタートを切ればいい。まだベンチの上で座る惣乃に、手を差し伸べる。
「はい。おなかがすいたので、帰ったら夜食にしましょう!」
その手を取り、立ち上がる。もう改札の方は見向きもせずに、俺たちの家に向かって歩き出す。足元の感触を確かめるように、一歩一歩確かに歩みを進める。
――歩く。
俺たち二人は肩を寄せ、並んで歩く。何気ない会話をしながら、急ぐことなくゆっくりと家に向かっていく。夜食には何が食べたいとか、今度の休みの日はどこかに出かけたいとか、そんな話をずっと繰り返す。
すると突然、なにかが俺の肩をドンと押した。始めは、惣乃が俺の肩に寄りかかったのかと思ったが、それにしては力が強すぎる。
「すいませんっ、ちょっとよろけちゃいました」
どうやら、よろけたせいで肩にぶつかってしまったらしい。そう言って笑う惣乃の顔は、少し力がないように見える。
「大丈夫か?少し夜風に当たり過ぎたかもな」
俺よりも厚手の服を着てはいるが、女の子が春の冷たい夜風に何時間も当たっていたら具合が悪くなるのも当然だ。惣乃は「大丈夫」と言って笑っているが、その顔は少し血色が悪い。
「ほら、家に着いたら今日はさっさと寝るぞ」
ちょうどアパートまではもう少しの距離。だんだんとアパートの光がぼんやりと見えてくる頃。一歩一歩歩くたびに、その光が鮮明に見えてくる。
その光が強くなっていくと、周りの景色も明瞭になってくる。アパートの入り口周辺、そこに何やら異質な影が見える。
「誰かいるんですかね?」
アパートの目の前まで行くと、その姿ははっきりと見えてくる。まだ影の輪郭はぼんやりと見えるが、その顔立ちまでははっきりと見えない。
けれど、どうしてか嫌な汗が噴き出して止まらない。そのシルエットを、俺は知っている。
いつの日か、ちょうど同じこのアパートの入り口で出会った3人組の怪しげな中年男性たち。彼らがあの日と同じように、再びこの場所にやってきている。
けれどどうして?誤解は解けたはずなのに。もうこんな嘘っぱちの心霊アパートに用なんてないはずなのに……
俺たちが来たことに気が付いたのか、彼らが一斉にこちらを振り向いた。暗闇の中でよく見えないのか、眉間にしわを寄せて懸命にこちらを睨んでいる。やがて顔はみるみる驚きに変わっていき、そしてさらに歓喜の表情へと変化した。
「すごい、やっぱり本物だ!」
小太りの男は興奮気味にこっちを見つめて叫ぶ。正確には惣乃の方を見つめて。
「すごい、世紀の瞬間だ!まさかニセモノがホンモノになるなんて!」
なにがそんなに面白いのか、ガリの男は大きなカメラを取り出して、何度も何度も惣乃に向けてシャッターを切る。何が起きているのかまるで分からずに、俺たち二人はどうしていいのかその場で立ち尽くす。
ニセモノとかホンモノとか、こいつらが何を言いたいのかさっぱり理解ができない。惣乃のなにがそんなに珍しいのか。
そんなことより早く家に帰って寝かせてやりたい。こんな訳の分からない三人組は無視して家に入ろうと、彼らをよけて歩いていく。
彼らのすぐ真横を通り抜けていこうとしたその時、小太りの男のつぶやく声が聞こえた。
「すごい、まさかこんな目の前でホンモノの幽霊を見られるなんて……」
“幽霊”その単語が聞こえた瞬間、思わず身体が動いた。
「さっきからお前らはなんなんだよ!変なものを見るような目で惣乃のことを見て、それに挙句の果てに幽霊だって?」
掴みかかるくらいの勢いで小太りの男の前に立ちふさがる。人の家の前でたむろして、さらには訳の分からないことを言われ、もう我慢の限界だった。
「ちょ、ちょっと、何キレてるんですか。別にあなたを撮っていたわけじゃないんです」
小太りは怯えたように後ずさりながら、必死に弁明をする。俺が怒っているのはそんなことじゃないと言うのに、まるで見当違いの謝罪だ。
「あのなあ、俺が言いたいのはそんなことじゃない。どうしてあいつのことを幽霊だなんて言ったんだよ」
今にも殴りかかりそうな勢いで詰め寄ってはみたが、自分でもどうしてここまで激怒しているのか、いまいち分からなかった。
「あんたさっきからおかしいよ……もしかして、気付いてないんですか?」
男は困惑したような顔で俺のことを見つめている。いったい何に気づいていないというのか、恐ろしくて次の言葉を聞く気にはなれなかった。惣乃は彼らから見えないように、俺の背中に回って隠れている。身構えるように、俺の服の裾をきゅっと握っていて、全身に力が入っているのが分かる。
「惣乃は俺がいる限り幽霊なんかじゃない」そう誓ったはずなのに。男は無情にもはっきりと告げた。
「その子、間違いなくホンモノの幽霊ですよ。残念ですけど」
冗談にしては本当に笑えない。確かに惣乃は俺と出会う前は死んでいたのかもしれないけど、今はもうあのころとは違う。全身全霊で否定しようと思っても、何一つ言葉は出てこない。
「だったら自分の目で確認してみればいい」
ガリの男がいじわるっぽくそう言った。
服を引っ張りながら上目づかいに見つめる惣乃の顔からは、不安の色がうかがえる。視線をその彼女の顔から首へ身体へ、そして足先へと移していく。
「嘘だろ……?」
惣乃の足先に目をやれば、嫌でも目に入ってきてしまう。いや、それとも目に入ってこないと言うべきか。
惣乃には、およそ人間の足と呼ばれるものが付いていなかった。膝のくらいから徐々に薄くなっていて、靴の部分は全く見えず地面から浮いている状態。これじゃあ、まるで……
突然、全身から力が一気に抜けて思わず地面に膝をついてしまう。すぐに立ち上がろうと思ったはずなのに、どういう訳か力が入らない。もう、どうやって立ち上がればいいのかもわからない。
「惣乃は、知ってたのか?自分がこんなことになってるって」
惣乃はその質問に小さく首を振って答えた。いったいいつからなんだろうとか、そんなことを少し考えてはすぐにやめた。そんなことはどうだっていい。
これからどうすればいいのか、俺たちはどこから来たのか、どこにアパートがあるのか、もう何一つ分からない。
その瞬間、携帯が震えたの感じて、少し現実に引き戻される。こんな時に電話をかけてくるなんてと、心の中で悪態をつく。携帯を取り出して画面に表示された番号を見た瞬間、誰からの着信か理解した。
「今さらいったい何の用なんですか、香織さん」
不快感を隠すこともせずに、イライラをぶつけるようにマイクに向かって言葉をぶつけていく。自分が今どんな顔をしているのか知りたくない。
『何の用かだって?そんなこと、十分分かってるくせによ』
香織さんの声もいつにも増して冷たくて厳しい。いや、冷たいわけじゃない。俺と同じ、怒りの感情が前に出ているだけだ。
「知りませんよ。あなたが今さらになって電話してくる理由なんて」
『さっき、私のところに電話が来たよ。惣乃が死んだって』
嘘なんかじゃないと、この人の言葉を聞いて初めて実感した。聞きたくもない言葉を聞かされた気分だ。
『なんでも、身元確認に時間がかかって、私のところに電話が来るのが遅くなったらしい。なあ、あんたは何してんだよ?惣乃のことが家族にもばれるし、もうどうしていいかわかんねえんだよ……』
さっきまでは淡々と事実を告げるように話していたのに、香織さんは急に泣き出しそうな声で悲痛な思いを言葉にして漏らす。
だけど、今さら泣き言を言う権利が、この人のどこにあるというのか。自分が弱いせいで惣乃を傷つけて、今度は俺に何を求めるというのか。
「俺に責任を押し付けないで下さいよ。本当は、あなたが守ってあげなきゃけないはずなのに」
『うるさい、私に叶いもしない約束を押し付けたくせに!あんたのことは信じてあげてもいいかもしれないって思ったのに!!』
香織さんの言葉を聞いて、ハッとする。もし惣乃のことを告げる電話が、今日香織さんが家を出る直前にかかってきたのだとしたら。
ひょっとすれば、香織さんは直前までちゃんと家を出るつもりでいたのかもしれない。そこに惣乃の訃報を聞いて、裏切られたと感じたのかもしれない。叶いもしない嘘の約束だと、そう思い込んでしまったのかもしれない。だけど、今でも本当は惣乃に会いたいという願いがあるのなら……
だったら、それは叶わない願いなんかじゃない。
いつまでもこんなところでうずくまっているわけにはいかない。まだ、俺にやれることがあるのなら……
「香織さん、今すぐ約束の場所に来てください」
もし、今からでも間に合うのなら、お互いの誤解を解かなきゃいけない。いくら電話で話たって、こんな嘘みたいな話信じてもらえるわけがない。
『はあ?なんで今からそんな面倒なことをしなきゃいけないんだよ。あんたとの約束を果たす義務なんて――』
「いいから、今すぐ来てくくれ!!!!!」
腹の底から、すべてを込めて叫ぶ。どんな風な言葉をかければ香織さんの心に届くのか分からないから、もう力技でしかなかった。
ただ、信じて返事を待つ。なんの理屈もない暴論みたいなお願いだけど、それでも信じて待つしかない。
やがて聞こえてきたスピーカーからの声。
『私をこんな夜に呼び出しておいて、しょうもない用事だったら許さないからな』
それだけ告げると、そこで通話は終了された。
ふと気づけば、いつの間にか俺は立ち上がっていた。立ち方すら分からなくなっていたのに、無意識のうちに。
大丈夫、まだ終わってなんかいない。
「さあ、行こうぜ。もう一度、約束を果たしに」
その言葉に、惣乃はしっかりと力強くうなずいて見せた。
もう道が分からないなんてことはない。惣乃の手を引いて再び歩き出す。その手からはもう体温は感じられないけれど、確かにしっかりと握って離さない。つないだ俺の右手を、惣乃の左手が握り返してきたのを手のひらから感じる。
後ろにいる惣乃の顔は見えないけれど、最高の笑顔になっているのが俺には分かる。
しばらくして約束の駅に到着すると、駅前はもう一日の終わりの準備を始めていた。そこに当然香織さんの姿はなく、改札の前のベンチで少し間俺たちは香織さんの到着を待つことにした。
ベンチの上でぶらぶらと足を揺らして遊ぶ惣乃の足先は霞んでいて見えない。そんなことにもさっきは気付けなかったのか。
夜風はさっきよりも涼しくなっていて、必要ないとは分かっていたけど、俺たちは温め合うように寄り添った。
そんな風にして待っていると、やがて一本の電車が到着し、人々の集団が改札からあふれてきた。
そして、その中に見知った顔を見つけた。
(6)
電車を降りると、そこはもう見知らぬ駅で、どこに向かって歩いていけばいいのか、少しの間戸惑った。しかし、どうやら出口は一つだけのようで、迷う心配はなさそうだ。
改札を目の前にして、また気だるさが襲ってきた。あの少年のあまりの剣幕に押されて、思わず家を出てきてしまったことを後悔する。一瞬本当にこのまま回れ右をして家に帰ろうかとも思ったが、なんとか踏みとどまる。
せっかくここまで来たんだ。あいつが私に何を伝えようとしているのか、それだけでも確認してからでも遅くない。
止めていた足を再び動かし、改札に向かう。改札を出てすぐのところには、一本の大きな木。その下に小さなベンチが設置されている。駅前は、たった今一緒に電車を降りた乗客であふれて、いまいち見通しが悪い。だが、ちょうど人と人の隙間から、その大きな木の下にあるベンチにあの少年の姿だけが見えた。
やがて、彼の周りを隠すように立っていた人々は、自分たちの家を目指し霧散していく。私の視界を遮っていた物は無くなって、目の前の視界が開ける。
――その瞬間、比喩なんかじゃなくて、確かに間違いなく私の心臓が止まった。
(7)
改札を出てすぐのところで、香織さんは立ち尽くしている。惣乃の姿を見つけて困惑しているのが、痛いほど伝わってくる。
「すいません、無理を言ってわざわざこんなところまで来てもらって」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、驚きに見開いた目で惣乃のことをずっと見つめている。それがホンモノじゃなく幽霊や亡霊、そう言った類のものだっていうことは、分かっているようだ。
「なあ、あんたは私にこんなものを見せつけて、いったい何をさせたいんだ?」
いったいこれが二人にとっていつ以来の再会なのか、まるで見当もつかない。惣乃が家を出たその日も、二人の間にまともな会話があったとも思えない。
お互いに直視できないといった感じで、目をそらして見つめることをしない。喧嘩中の親子が再開を果たす時なんて、そう劇的にはいかないのかもしれない。
今の俺にできることは、あくまで二人の背中を押すことだけだ。
けど、香織さんは想定外の事態に思考停止してしまっている。きっとこのままではお互いに平行線だ。
だから、言葉で伝える代わりに、文字通りに惣乃の背中を押して母親のもとに向かわせた。突然のことに驚いたのか少しよろけたが、覚悟を決めたように一歩一歩確かに自分の足で香織さんのもとへ歩いて行った。
少しずつ惣乃が近づいてくるたびに、怯えるように後ずさる。やがて二人が今にも触れ合えるくらいに距離にまで近づいたとき、惣乃は大きく息を吸った。それを見て、香織さんは身構えるようにわずかに身体を震わせる。
惣乃は身体を大きくくの字に折り曲げて、そして……
「お母さん、今までいっぱいいっぱいごめんなさい!!」
心からの叫びが、静かな夜の駅前に響き渡る。
喧嘩をしてしまったあの日から今日までの悲しみや反省を言葉に込めて、惣乃は全力で叫んだ。喧嘩して相手を傷つけてしまったから謝る、そんな当たり前のことのはずなのに何年もの時間をかけてしまった。その時間は取り返しもつかないほどに、あまりにも遅すぎた。
だけどせめて、最後には二人が許し合えればいい。
「なんで、あんたが謝るんだよ……悪いのは私だろう?あんたを見捨てて、たった一人ぼっちの幽霊にしてしまったのは紛れもない私だ!今さら謝られたって、私はもうどうもしてやれない」
香織さんは、まだ惣乃を認められずにいる。惣乃は頑張って勇気を振り絞ったっていうのに、母親であるはずの彼女がどうしてくすぶっているのかと、そう伝えようとした。けど、惣乃は俺に目くばせをしてそれを制止した。
俺の助けは借りないと、自分ひとりの力でやりきって見せると、そう伝えてくるような力強い瞳で。
「私、家出をしたあの日から、小さなアパートの一室に一人で住んでしました。最初の夜、野宿を覚悟してたんですけど、たまたま誰もいない部屋を見つけたのでお借りしちゃいました。
そしたら、大家さんに見つかってなぜかお化けだと勘違いされちゃって、それ以来誰も私の部屋に近づかなくなりました。そんな風に暮らしているうちに、隆司さんが本当の入居者として、私の前に現れました」
惣乃は口を休めることもなく、ひたすら語り続ける。何を伝えようとしているのか、まだ見えて来ない。
「そうして隆司さんと出会って、一緒に暮らし始めるようになってようやく私は一人ぼっちじゃなくなりました。たった一人きりで、死んでいるみたいな人生を送っていた私に、隆司さんが命をくれたんです」
香織さんの知らない、俺と惣乃の出会い。その事実を告げられて、香織さんは明らかに戸惑っていた。自分が本当にもう一度母親になれるのか、本当に自分が求められているのか判断がつかないでいるように見える。
「よかったじゃないか、そうやって言えるだけのやつと出会えたんなら。だったら……」
「――でも!」
反論は許さないと言いたげな大きな声で、すぐさま香織さんの言葉をさえぎった。
「隆司さんに出会ってから、私はずいぶんわがままになっちゃったんです。私は、自分から家を出ていったくせに、隆司さんっていう理解者とも出会えたくせに、やっぱりまだお母さんのことを待ってたんです!いつか私のことを探しに来てくれるんじゃないかって、そう思ってました」
ずっと胸の内にため込んできた、自分自身ですら今まで気づけなかった想いを今、言葉に変えて解き放つ。
「さあ、言ってやれ」
あまりにも長すぎた親子げんかに、今こそ終止符を打とう。
「私は!誰からも認めてもらえなくて、幽霊みたいな人生を送ってきて、さらには本当のお化けになっちゃいました!それでも、誰かの中で生きていられたらそれだけでいいんです。私にとって大切な人に認めてもらえれば、それだけでいいんです!」
惣乃は一度ここで大きく息を吸った。そして叫ぶ。
「あの日、お母さんのこと大嫌いなんて言っちゃってごめんなさい!本当は、本当は大好きです!!だから!許してください。
お願いだから、お母さんの心の中でまで、片桐惣乃っていう存在を殺さないでください!!」
惣乃はもう一度、深々と頭を下げて全力でその想いを伝える。ずっとそのままの姿勢で、ただひたすら香織さんからの返事を待った。
香織さんは、観念したと言いたげに空を見上げ小さく息を吐く。そして、何年もの時を経て、ようやく自分の娘に対して語り掛けた。
「顔、上げなよ」
惣乃はゆっくりと顔を上げる。
「なあ、本当に私のことを待っていてくれたのか?」
「……うん」
「私のこと、今でも母親だと思ってくれてるのか?」
「……うん」
「大切な娘のことを何年間も放っておいた悪いお母さんだけど、許してくれるのか?」
「…………うん!!」
惣乃の力強い言葉を聞いた瞬間、香織さんの顔が崩れた。両目からは大粒の涙があふれだし、嗚咽し始める。まるで子供のように大げさになく彼女は、この瞬間間違いなく母親に戻れた。
「惣乃、バカなお母さんで本当にごめんさい!私も、本当はあなたのことが大好きだった!たくさん不自由かけて、長い間ずっと一人にしてごめんなさい」
その声に、もはやかつてのような、すべてを拒絶する冷たい印象はない。その声はもう、母親としての優しい声。
母と娘はしばらくの間、じっと見つめ合った。
「お母さん、最後に一つお願いがあるの」
「今まで散々我慢させてきたんだ、どんな願いだって叶えてみせるさ」
そう言って香織さんは小さく笑う。きっと今の彼女なら、本当にどんな願いでも叶えてくれそうな、そんな力強さがある。
惣乃は優しく微笑んで、その願いを告げる。
「私のこと、ずっと好きでいてください」
どんな無茶にも応じるつもりだった香織さんに対して、惣乃の願いはそんな簡単なものだった。けどそれは、ずっと惣乃が求めていたもの。自分のことを理解してくれる、認めてくれるかけがえのない相手。
やっと見つけられたのだろうか。
「惣乃。あんたは私の大好きな、最高の娘だよ」
そう言うと、惣乃の背中に腕を回して抱きしめた。それに応えるように、惣乃も腕を伸ばし負けじと抱きしめる。二人はお互いを確認するように抱き合って、やがてしばらくすると嗚咽が聞こえてきた。惣乃の目には大粒の涙が溢れているのが見える。幽霊の涙はいったいどこから来て、どこへ消えていくのだろうか。
ボロボロと涙をこぼす惣乃に対して、抱きしめる香織さんの顔はいつのまにか涙も引いて、いたって冷静な顔だった。
それは、俺が初めて目にした香織さんの表情だった。
こんな光景が見られる日を、俺はずっと待っていた。最初は惣乃のことをただの家出少女だと思って、どうにかして家に帰そうと思ってた。けど、すぐに家の中での仕打ちを知って、俺が惣乃のことを守ろうと決意した。ただ、それでも本当は家族と仲直りしてほしかった。家族とは、そうあるべきものだから。
そのために、いろいろと動いた。今思えばわざわざ顔も知らない人の家に出向いたり、よく頑張ったと思う。諦めかけた時もあったけれど、結果的にこうして二人が仲直りできたのなら、頑張っていた甲斐があったものだ。だからもう、俺の役割は終わった。
――そう思っていた。
「お家へ帰りましょう。隆司さん」
気づけば惣乃は抱き合うのをやめて、笑顔でこちらを見つめていた。
「どう、して……?」
もう惣乃の帰る場所はあんなアパートじゃない。そのはずなのに、まだあそこが自分の居場所だというのか。
「だって、あそが私のいるべき場所ですから。あの部屋の地縛霊として隆司さんと出会い、そして隆司さんが私に命をくれた。隆司さんと出会えなければ、こうしてお母さんと仲直りすることもできませんでしたから。今の私はあそこで生まれたようなものです」
だけど、それにしたって……
反論する言葉が、いまいち上手く浮かんでこない。
「おい!あんたになら、うちのとっておきの自慢の娘、託してやるよ」
そう言って香織さんは不敵に笑う。
「やりましたね、母親公認です!」
惣乃の少しあどけない、いたずらっぽい笑みをずいぶんと久しぶりに見た気がする。やっぱりそれでも迷いは消えない。家族は一緒にいるべきじゃないのかと。
ただ、二人にこれだけ背中を押されて断れるほど、俺は男として廃れていないはずだ。
「香織さん、ありがとうございますね」
決意の代わりに感謝の言葉を口にした。
「さ、帰ろうぜ。俺たちの家に」
もう一度惣乃の手を引いて、歩き始める。ついさっきもこうして家に向かって歩いたというのに、さっきとはまるで心境が変わっている。こんなにも心の中が満たされている感情を俺は初めて知ったかもしれない。この帰り道が永遠に続けばいいのに、そんな風にさえ思えてしまう。
「隆司さん、私こんなに満たされた気分生まれて初めてです。自分を認めてくれる人がいるって、こんなにも幸せなことだったんですね」
「そうだな、俺も惣乃がいてくれるからすっごく幸せだ」
――永遠を切に願う。
家に向かって歩みを進める惣乃の足は、駅のベンチで見た時よりもずいぶんと霞がかっていて、膝から下はもうほとんど見えていない。
今の惣乃はどこまでも儚げで、それゆえにどこまでも愛おしいと思う。
幸せな時間はあっという間に過ぎていくとはまさにその通りで、気が付けば俺たちのアパートは目の前に迫っていた。もうあの邪魔な男たち三人衆はいない。
「なあ、どうして惣乃は本当の幽霊としてこの世界に留まれたんだ?」
ずっと気になっていて、それでも聞けなかった質問。部屋に入る前に、どうしても聞いておきたかった。いつそうなったのかは分からないが、なんの理由もなしに幽霊になるとは思えない。
「うーん、どうしてですかね?私、そういう難しいことはさっぱりわかりませんっ!」
「分からないのに、なに胸を張ってるんだよ」
分からないと答えているだけなのに、どうしてか胸を張って堂々と答える惣乃に、思わず吹き出してしまう。
「だって、私なんにも覚えてないので……正直、未練とかもないし。まあ、そんな難しことを考えたってしょうがありません。“私が幽霊だったから”ってことにしておきましょう!」
考える気があるのかないのか、そんないたずらっぽい笑身を見ていると理由なんてどうでもよくなってくる。
「さあさあ、そんなことより早くお家に帰って夜食にしましょう!」
踊るようにアパートの階段を駆け上がっていく惣乃の姿は、目に見えて存在感が薄くなっている。もう、今にも消えてしまいそうなほどに。
惣乃の人生は、満足のいくものだったのだろうか?“お前の人生は幸せだったか”と聞けば、間違いなく迷わずにうなずいて見せるだろう。
惣乃は本当に幸せだったのか、そんなことは誰にも分らない。だけど、確かなことはただ一つ。
「俺は惣乃に出会えて幸せだったよ」
惣乃の耳にまで届かないように、そっとつぶやいた。
さあ、もう俺たちは玄関の前。鍵を差し込み、少し建てつけの悪い重いドアを開け放つ。俺たちが出会い、今の惣乃が生まれた場所に、俺たちは改めてあいさつをする。
「「ただいま」」と――
(8)
玄関のドアを閉めて、しっかりと施錠をする。家に着いたころにはもう、深夜と呼んでもいいほどの遅い時間で、部屋の中は真っ暗だった。手探りで電気のスイッチの場所を探り当て、部屋に明かりを灯す。
「なあ、惣乃。夜食はなにを食べようか?」
そんな風になにもない部屋に語りかけても、なんの返事も帰ってこない。
「なあ、惣乃……?」
どんなに語りかけてみても、狭い部屋の壁に反響した声がわずかに聞こえるだけで、それ以外の音は聞こえない。その静寂が、余計に心の空しさを掻き立てる。
「惣乃っ、惣乃おおおお!!!」
何がきっかけになったわけでもない。突然に、ただただ涙があふれ出てきて止まらない。嗚咽を零し、鼻水もたらして、子供のようにただ泣きじゃくる。
永遠のようにも思える長い夜を、ただひたすら一晩中泣いて過ごした。




