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第3章

第3章

(1)

「えー、このようにですね。日本の文学史は変遷を遂げているわけですね」

週が明けて、ついに大学の授業が始まった。ようやくかって気もするが、大学に入っていきなり90分のクソ長い授業が始まるよりはマシなようにも思える。

人生初の大学生の授業に、最初のうちは張り切ってメモなんか取りながら聞いていたけど、半分の45分が過ぎたあたりで集中力が切れてきた。

いったい誰が大学の授業は90分だと決めたのかは知らないが、一言二言文句を言ってやりたい気分だ。

集中力が切れると、先生の話は左から右に耳をすり抜けて行って、関係ないことばかりが頭の中にあふれてきた。

辺りを見回してみるとみんな友達と授業を受けている奴らばかりだ。いい加減にサークルのことも本気で考えないと、マジで4年間ぼっちということもありえそうだ。

でも、俺のことはいい。しばらくはどこのサークルだって新歓をやってるだろうし、語学や体育だってある。いくらだって友達を作るチャンスはあるんだ。

片桐には、それすらない。学校に通えていなければ、同年代の人と会う機会が全くないのに、どうやって友達なんて作ればいいんだ。

そんなことを考えている間に、授業が終わる5分前になっていた。結局、後半の方はちっとも頭に入っていない。授業開始初日からこんな集中力じゃあ、先が思いやられる。

だけど、結論なら出た。

片桐にはもう一度、家族を取り戻してほしい。本人はきっと嫌がるだろうけど、やっぱり選択肢はこれしかない気がする。

もうきっと、失敗したりしない。下手にあの二人を引き合わせようとしたら、この前にみたいにお互いに拒絶しあってしまう。

慎重に、確実にやらないと取り返しのつかないことになる。家族といることを強要すれば、片桐はきっと俺を嫌いになる。そうなったら、俺が引っ越してくる前と変わらない。むしろ、あのころ以上の孤独を味わうことなるかもしれない。

チャイムが鳴って、授業の終了を告げる。教室にいた学生たちは一斉に荷物をもって立ち上がる。教室を出ていくその流れに身を任せて、俺も教室を後にする。

たぶんもう、午後からの授業を真面目に受けられるだけの集中力は残っていない。時間はちょうど昼休み、俺は昼食もとらずに人の少ない静かな場所へと向かった。

もう一度、立ち向かう。片桐のお母さんの、聞いただけで萎縮してしまいそうになる冷たい声に、俺は今度こそ立ち向かわなきゃいけない。

愛情なんて言うものとは遠く離れたように見えるようなあの人にも、心の奥にはきっと母親としての無償の愛が残されていると、信じるしかない。

どんな理由があったのかは知らないが、実の母親が心の底から自分の娘を嫌いになるわけがないと、性懲りもなく俺はまだ信じて疑っていない。

どうして二人はここまでお互いに拒絶するようになってしまったのか、その理由を知らないといけない。ベンチに腰を掛けて、カバンを下ろし、中から小さなメモ帳を取り出す。

メモ帳を開いたページに記されているのは、いくつかの数字の羅列。不規則なその数字は、携帯電話の番号。片桐の目を盗んで、携帯電話のアドレス帳に登録されていた母親の携帯番号を控えておいたのだ。いつかきっとあの人と連絡を取らなきゃいけない場面が来ると思ってメモしておいたけど、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。

携帯を取り出して、メモ帳に控えた番号を入力していく。あの冷たい声を思い出すと萎縮して指が震えてしまいそうになる。それでもひとつひとつ、ゆっくりと確実に入力する。

あとはもう勢いだ。番号を入力し終えると俺は、躊躇することもなくすぐに着信ボタンを押した。



「もしもし?」

明らかにこちらのことを不審に思っているような、冷たく疑心に満ちた声。そりゃあ、突然非通知から着信が来れば誰だって身構える。けど、それにしたってこの人の声は、何に怒っているのか不機嫌なように聞こえてくる。

「こんにちは。俺のこと覚えてますか?」

もう、下手には出ない。強気で攻めるんだ。

「……はあ?誰だか知らないけど、あんたみたいな声の人、私の知り合いには……いや、前にどこかで聞いたか?」

「覚えてませんか?そういえば、この前はまともに挨拶もしてませんでしたね。片桐惣乃の友達の、横山隆司です。娘の友達の名前くらい覚えてください」

俺が片桐の名前を口にした瞬間、携帯のスピーカーの向こうから、軽く舌打ちをした音が聞こえてきた。なんで、なんでそこまで片桐のことを嫌うのかが分からない。

「ホントうざいガキだな。私にそんな娘はいないって言ってるだろ?」

「名前、教えてくれませんか?僕だけ名乗るのはフェアじゃない気がするし、名前が分からないまま話すのも、ちょっとやりにくいんで」

「香織だ。間違ってもおばさんなんて呼ぶなよ?」

片桐の母は、予想に反してあっさりと自分の名前を教えてくれた。最悪名乗ってくれないかと思っていただけに、こんなにも簡単に教えてくれたのは意外だった。その予想外の展開に、思わず動揺してしまう。

「ああ、はい。ありがとうございます」

「自分で質問しておいて、なにを慌ててるんだよ。私が答えないとでも思ってたのか?」

「まあ、若干」

「まあどうせ私も暇だからさ。あんたが面白い話の一つでもしてくれるんなら、喜んで話し相手になってやるさ」

「は、はあ……」

なんだか、予想していた展開の斜め上をいく話の流れになっていった。考えてみれば、俺は香織さんのことを何一つ知らなかったんだから当たり前だ。名前さえ、今になってようやく知れたんだから。

「で?なんか面白い話はないのか?もうしばらくは私もやることないし、退屈をしのがせてくれよ」

「すいません。たぶん、香織さんが面白いと思えるような話はできないと思います」

「ふうん、切るよ?」

とたんに、最初の印象にあったような冷たい声に戻った。どうあっても、片桐のことは触れてほしくないと、そんな思いが伝わってくる。だからと言って、話をやめるつもりはない。遠慮していたら、いつまでたっても先へ進めない。

「どうして、そこまで惣乃のことを嫌うんです!?せめて、話だけでもしませんか?」

せめて、香織さんが片桐のことをどう思っているのかだけでも知れたら。なぜ二人が拒絶しあうのか、その理由を探るヒントだけでもつかまないといけない。

「言ったはずだぞ。つまらない話をするなら切るって」

けど、それすらも叶わない。香織さんの態度は頑なで、一向に心を開いてくれる様子すら見せない。このままじゃ、本当に先へ進めない。どんな言葉を伝えればこの人は俺の声を聞いてくれるのか。どれだけ考えても、俺の頭じゃ答えは出ない。

「頼むよ!!あいつは一人ぼっちで誰も頼れるやつがいないんだ!あんたが守ってやらないでどうするんだよ!」

「知るかよ。その女のことなんて、私には関係のない話だ。あんたが守ってやればいい。それが男の務めだろ?」

「それも、そうですけど……でも、俺一人じゃダメなんです!あんたが惣乃を受け入れなきゃ、意味がないんだ!」

上手い言葉なんて思いつかない。だからせめて、思いを届かせるために全力で叫ぶ。

「なんでそこまで私にこだわる?別にあんたがいれば、その子はそれでいいじゃないのか?」

「家族、だから。たとえ今は喧嘩をしてても、二人は家族なんだから助け合っていかなきゃダメなんだ」

今は喧嘩をしているけど、俺が二人の仲裁をすればきっとあるべき親子の姿に戻れると、そう信じていた。けど、携帯のスピーカー越しに香織さんの態度がどんどん固くなっていくのが分かる。俺の言葉はまるで届いていない。

「もうあんたの言いたいことは分かったよ。こんなつまらない話しかできないなら、もうこれ以上話を聞いてやる義理はないよな」

本当につまらなそうに、一つため息をついた。何一つ有益な情報を得られないまま、通話が終わろうとしている。不信感だけを抱かせて、もう一度こっちから電話を掛けるなんて、この状況でできる訳がない。

「香織さん、せめて惣乃と……!!」

俺の最後のあがきの言葉さえもさえぎるように、とどめの一言を告げられる。

「何度も言わせるなよ。私に、惣乃なんて娘はいない」

有無を言わせない、強い言葉。もうこれ以上食い下がることは、俺にはできなかった。なにか言わなければ会話が終わり、この電話は切られると分かっているのに。

「じゃあな。こんなつまらない話しかできないなら、もう二度とかけてくるなよ」

そして、それ以来携帯のスピーカーからはなんの音も聞こえてこなくなった。本当になんの収穫もないままに、無駄に印象だけを悪くして、少しも前になんて進めていない。片桐と香織さん、二人には仲のいい親子になってほしいのに、もうなにをどうしたらいいのか分からない。

これから二人のために何をしたらいいのか、次の手が全く思いつかない。やっぱり俺のしていることは二人のためになんてならなくて、俺が一人で片桐を守っていけばいいんだろうか。

何もわからないまま、静かなベンチの上に一人で座り続ける。昼休みだっていうのにちっとも食欲がわかずに、ご飯も食べずにただ時間が過ぎるのを待つ。なんだか午後の授業まで面倒くさくなってきてしまった。

もう一度、さっきまでの会話を思い出す。どうして二人は仲違いをすることになったのか、どうしてもそれだけが知りたかった。けど、どれだけ香織さんとの会話を思い出しても、その答えにつながりそうなヒントは見つからなかった。

でもどうしてか、なにかが引っかかる。

なんとなく違和感があった。ただ喧嘩してるだけというには、あまりにも片桐のことを恐れている。まるで片桐のことを思い出したくもないかのように……たぶん、片桐のいない今の暮らしがそれなりにうまくいってるんだと思う。

そして、最後に香織さんは言った。“私に、惣乃なんて娘は(・)いない”と。何気ない言葉だけれど、この言葉が引っかかる。まるで、惣乃じゃない娘もいるみたいだ。

片桐には姉妹がいる。

なんでずっと考えなかったんだろう。友達が作れなくても、親子で仲直りできなくても、まだ別の道があることを見落としていた。片桐の携帯のアドレス帳にはそれっぽい名前はなかったけれど、もし姉妹がいるならなにか突破口が開けるかもしれない。

気になり始めたら止まらない。俺は学校を抜け出して、家に急いだ。


(2)

「ん~~~、こんな早い時間から隆司さんが家にいてくれるなんて、私は最高に幸せです!とりあえず遊びましょう!ババ抜にしますか?じじ抜きにしますか?それとも大富豪にしますか?」

「なんで遊びがトランプ一択なんだよ……そして、特にその三つは、二人で遊ぶとゲーム性崩壊するからな?」

「じゃあ、ダウトにします?」

「それが一番ダメだ!永遠に終わらん!」

「永遠に隆司さんと遊んでいられるなんて、素敵じゃないですか。ふふふふ……」

口元は笑っているけど、目が笑っていない。冗談だと信じたいけど、顔が本気すぎて笑えない。まさか本気じゃないよな?

片桐は恐ろしい笑顔のまま、テーブルの上にトランプを広げ始める。当たり前に分かっていたことだが、遊ぶ気満々だ。こうなったら飽きるまで見逃してはくれない。なんのために授業を切り捨ててまで早く帰って来たのか、分からなくなりそうだ。

というか、片桐に姉妹がいるのかどうかを確認するために帰ってきたけど、どんな話の流れで聞けばいいんだ?普通に何の脈絡もなしにド直球に聞いたら、意外に勘のいい片桐はいろいろと余計なことを考えるだろう。

どう話を切り出していいかも分からなかったから、仕方なく片桐のトランプ遊びに付き合うことにする。話の切り出し方なんて遊びながら考えればいい。

「で、遊ぶって言っても結局なにするんだ?言っとくけど、ちゃんと二人でもゲーム性の保たれる遊びを提案しろよ?」

「うーん、難しい注文ですね……」

しばらくの間、片桐はうんうんと考えるそぶりを見せる。しばらくすると、何かをひらめいたのか突然ぴょんと飛び跳ねて叫んだ。

「スピードにしましょう!スピードって言うものをやってみたいです!!」

「まあ、確かにスピードなら二人でやるにはもってこいのゲームだけどさ」

俺の返事も待たずに、もうカードを赤と黒で分け始めている。スピードなんてやるのはいつ以来だろう。高校の時に修学旅行でやって以来か?

「さあさあ、早くやりますよ!隆司さんは黒ですからね」

「はいはい、分かった分かった」

ルール通りに場に4枚カードを並べて、準備万端。互いに手持ちのカードから一枚だけ右手に持って、開始の合図を待つ。子供の遊びとは言え、勝負事で負けたくはない。緊張感が部屋を支配する。

「では、行きます…………いっせーの、せ!!」

合図とともに最初の一枚を場に叩きつける。場に出たのは7とクイーン、自分の持ち場に6のカードがあったのを確認して、急いで手に取る。7のカードの上に重ねようと手を伸ばす。

――その時。

「うわああああああああああああああ!!!!!!!」

「へ?」

ものすごい雄叫びと共に、同じく7のカードを目指して迫りくる片桐に右手。だけど、その動きの速さは目で追えないほどの、想像を絶する速さだった。慌てて手を戻そうとしたが間に合うはずもなく、勢いそのままに俺たちの手は衝突した。

「ぐおおおおおおお!!!痛てええええ!!!」

「ううう。グキって、グキって言いましたあ……」

片桐は涙目になりながら、ひらひらと負傷した右腕を振っている。

「片桐、おまえ動き早すぎ。めちゃくちゃ痛いんだが」

「ぐす。私の動きがキレッキレすぎたばかりにすいません。でも、私もすごく痛いんで許してください~」

「いや、別にいいけどさ。それより、痛みが引くまで休憩するか?」

「い、いえ。まだやれます!私なら、大丈夫ですからっ」

やっぱりよっぽど手が痛かったのか、必死に涙をこらえながら手をさすっている。そんなに痛いのなら無理しなくてもいいのにと思うけど、片桐の遊びに対する欲望を侮ってはいけない。

「ったく、今度はちゃんと気を付けてやれよ?」

「もちろんです!私だって、あの痛みはもう味わいたくないですから」

トランプの束をシャッフルして、もう一度準備完了。4枚のカードを再びテーブルの上に並べる。

「じゃあ、仕切り直しだ。いっせーの、せ!」

合図とともに、最初のカードを場に広げる。その瞬間、片桐の目の色が変わる。

「てりゃああああ!!」

雄叫びと共に片桐はテーブルに向かって勢いよくカードを叩きつけていく。そのたびにテーブルからはみしみしと悲鳴が上げた。

さっきの衝突事故を、まるで反省していないかのような力強さで、次々とカードを叩きつけていく。間に割って入れる隙がまるでない。また指を負傷したくないし、結局流れが途切れるまで黙ってみていることしかできなかった。



「ふう、これで私の24勝負けなしですね!隆司さんももうちょっと頑張ってくれないと、張合いがなくてつまんないです」

そう言いながらも、遊び疲れたのかそのまま後ろに倒れて床に寝そべった。満足したような顔を浮かべて、近くにあったクッションをいじっている。

片桐の動きの速さは最後の最後まで切れることはなく、結局一勝もできないまま勝ち逃げされてしまった。別に勝ちたいわけじゃないし、あの片桐を相手にしたら指を何本折っていたかわからない。けど、勝ち誇った顔で時々こっちを見てくるのを見ると、無性に癇に障る。

ふと時計を眺めると、もう夕食を準備しなければいけない時間が近づいていた。片桐に姉妹のことを聞くのは、また夕食後になりそうだ。

「ねえ、隆司さん。私、スピード強かったですか?」

「おい、あれだけぼこぼこにいじめてくれたくせに、よくそんなこと言えるな。強くないやつがこれだけ勝ちつ続けられるかよ」

すると突然、寝転がるのをやめて正座の態勢になった。相変わらずクッションは膝に置いていじったままだけど、さっきまでとは違う穏やかな嬉しそうな顔を見せた。

「なら、よかったです。私、友達もきょうだいもいないし、一緒にトランプで遊んでくれるような人もいなくから、スピードなんてやるの初めてだったので、上手くできてるか心配でしたから」

「そっか。別にトランプくらい、いつだって……へ?」

適当に聞き流していたけど、なんとなくさらっと重大発言をされた気がする。聞き間違えじゃない限り、確かに今きょうだいがいないって言わなかったか?てっきり片桐には姉か妹いるもんだと勝手に推測ていたけど、間違いだったのだろうか。

「おまえ、一人っ子だったのか?」

「はい?そうですけど、そんなに意外ですか?」

「いや、そういうわけじゃないけど。なんとなくな、はは……」

片桐には姉妹がいると、半ば確信していただけに一人っ子だっていう事実はなかなかに堪えた。適当に乾いた笑いを浮かべてその場をやり過ごすしかなかった。片桐は少し不思議そうな顔をした後、再び床に倒れこんだ。

でも、本当に片桐に姉妹がいないのだとしたら、あの電話中に感じた違和感は何だったんだろう。ただの気のせいで片付けていいのか、いまいち判断がつかない。

ただ、片桐には兄弟がいないと分かった今、また八方ふさがりだ。次になにをしていいのか、まったく分からない。遊び疲れたのか、横になっていた片桐はいつの間にかすやすやと寝息を立てて眠っている。

考える。その寝姿を見守りながらただひたすら考える。今の俺には、いったい何ができるのか。手詰まりみたいに思える現実。

俺は、一つの結論を出した。


(3)

ありふれた平和な住宅街、似たような形をした一軒家が規則的に大量に立ち並び一つの住宅街として統一感のとれた風景を作っている。平日の昼下がりとあって家の外に出ている人は少なく、あたりはとても静かだ。駅からの距離も近かったしきっとそれなりに値段のする家なんだと推測できる。上流層、とまではいかないだろうけど、きっとそれなりにいい身分の人が住んでいる場所だ。そんな場所に片桐の生家はあるらしい。

この前と同じように、また片桐の携帯から住所を調べてメモをした。自分の家の住所まで登録されているとはあまり期待していなかったが、なかなかにラッキーだった。

電話越しに話をしていても何も変わらない。突然家に押しかけても、迷惑になるだけだっていうのは分かっていたけど、もうこれしか俺には思いつかなかった。直接会って話をすれば何かが変わるかもしれないと、そう信じるしかない。

片桐は、俺がこんなところに来ているということも知らずに、家で一人待っている。少しでも早く香織さんと話をつけて家に帰りたい。携帯で地図を開きながら該当する住所を探し出す。たぶん目的地はもうすぐそこ。携帯の画面を覗き込んでいた視線を前に上げ目の前の住宅街を睨みつける。間違いなくこの家が地図の示す目的地、片桐の生家だ。

「おかしい」

そのはずなのに。目の前の表札は嘘をついている。そこに刻まれた文字は、「片桐」でもなんでもない、全く見覚えのない苗字だった。予想外の出来事に、少しの間思考が止まった。

「どういうことだよ……」

どうして目の前の家の表札には片桐の名前がないのか、その理由を考える。

例えば、携帯電話に載っていた住所は古いもので、引っ越しをしてしまったとか。

例えば、最初から嘘の住所が登録されていたとか。

例えば、片桐なんて苗字はあいつの考えた偽名だったとか。

いろいろな可能性が頭をよぎったが、結局のところ本当の答えは分からない。例えば、携帯の中にあった住所は確かに合っていて、間違っているのが前提だとしたら。片桐と香織さんが実の親子だっていう、その前提が間違っているのだとしたら、いろんなことにつじつまが合ってしまう。信じたくはないけれど、そんな可能性だってある。

次にするべき行動が思いつかずに道の真ん中で立ち尽くしていると、近くの家から出て来た女性に不審な目で見られていることに気づいた。ひとまずこの場を離れようと、片桐の生家“かもしれない”家に背中を向けて歩き出す。

2,3歩歩いたその瞬間、すぐ後ろからドタバタと騒がしい音が聞こえてくる。音がした方角はもちろんあの家。反射的に音の方へ振り返ると、ガチャリと玄関のドアが開けられた。

――目があった。

別にどんな人がこの家に住んでいるのか予想していたわけじゃない。だが、今ちょうどこの家から出て来た人物を見て驚愕した。

幼稚園か、小学校低学年かそれくらい年端もいかない少女が、玄関の前で俺の目をじっと見つめている。どうしてか目をそらせない。この家は片桐とは何の関係もないと、これでもう分かったはずなのに、それでもまだここから離れられない。

女の子は俺の目を見ながら首をかしげる。そして目を合わせるのに飽きたのか、家の方を振り向いた。

「お母さーん。早く来てーー!!」

女の子は家の中の母親を呼ぶ。家の前で立っている若い男なんてどこからどう見てもただの怪しい人だ。しかも、こんな年端もいかない女の子を目の前にしているとなればなおさらだ。母親に見つかる前に退散しようと近くの交差点を曲がって死角に隠れた。

ギリギリ声は聞こえる位置で、少し顔を出せば家の前の様子も見える。

「ちょっと、勝手に一人で外に出るんじゃないよ!今行くから待ってて!」

家の中から母親のものだと思われる声が聞こえてくる。――が、その声を聞いて戦慄する。その声は明らかに聞き覚えのあるもので、そこから聞こえてきてはいけないはずの声だった。

バタバタと音を立てて母親と思われる女性が玄関の外に出てくるのが分かる。家の前にいる自分の娘を連れに来たのだ。今、少し顔を出して覗いてみれば、きっと見える。

向こうにばれないように恐る恐る、交差点の角から顔をのぞかせる。

俺はその女性の顔を知らない。スピーカーの向こうから聞こえる声と態度だけで形成されたイメージが頭の中にあるだけだ。けれど、一目見て確信した。間違いなく、この幼い女の子をあやしている女性こそ、俺が二度も電話で話をした女性だと。そして、片桐の母親であるはずの人間だ。

見た目だってあいつにそっくりで、聞こえてくる声は電話をしたときに聞いていた声そのものだ。なんでこの人が全く違う表札の家から出てくるのか。

そして、どうしてこんな年端もいかない女の子に“お母さん”と呼ばれているのか。

あいつはきょうだいなんていないと言っていたのに。

嫌な考えだけが頭の中を駆け巡る。これだけの事実を目の前にしても、俺はまだ認めたくなかった。ひょっとしたら、本当は片桐の家族はみんな引っ越した後で、今この家にいる母親はたまたま声が香織さんにそっくりで、見た目も片桐に似ているだけの、あいつとは何の関係もない人物かもしれない。

そんな限りなく低い可能性にすがりついてみても現状は変わらない。ほんの少し震える手を鼓舞し、ポケットから携帯を取り出して、その手で握り締める。

確かめなければいけない。この女性が本当に香織さんなのか。

携帯の画面を開き、通話記録のページを呼び出す。一番最新の通話記録、昨日香織さんと電話したのが間違いなく一番最近の記録だ。その番号にコールをかければ、全部はっきりする。けど、一度電話をかければ記録が向こうにも残ってしまう。前回が穏やかとは言えないような会話の幕切れだっただけに、電話をかけるのがためらわれる。

けど、それでも確かめなけばいけない。覚悟を決めて、震える手でボタンを押して着信をかける。家の前にいるあの女性の携帯電話が鳴りださないことを祈りながら、電話がつながるまでのわずかなタイムラグを待つ。

けど、祈ったところで未来が変わってくれるほど、現実は甘くない。そんなこと、本当は痛いほど分かっている。

たぶん初期設定のまま変えていないんだろう。デフォルトの着信音が少し離れた場所から聞こえてくる。

それだけでもう十分だった。香織さんがカバンから携帯を取り出す前に電話を切った。香織さんはいたずら電話だと思ったのか、いかにも不機嫌そうな顔をして、カバンをあさる手を止めた。舌打ちをする音がここまで聞こえてきそうだ。

答えは出た。

間違いなくあの女性は香織さん本人で、間違いなく片桐の母親なんだ。受け入れたくない事実が、はっきりと現実として突きつけられた。

じゃあ、あの女の子はなんなんだ?あの子は香織さんのことを“お母さん”と呼んでいたけど、本当に香織さんの娘なんだろうか。片桐は確かに姉妹はいないと言っていたはずなのに、どうしてあの子が存在するのか。

それだけじゃない。香織さんは確かに片桐の母親のはずなのにどうして片桐の性を名乗っていないのか。結局のところまだまだ分からないことだらけだ。

だけど、この二つの情報を合わせれば仮説くらい建てられる。なんの確証もない、ただの憶測に過ぎないけど、一つの答えが導き出される。

香織さんはきっと、片桐の知らない間に再婚をしている。だから苗字は変わっていて、片桐は片親の違う姉妹がいることを知らなかった。そう考えれば、この二つのことに説明がつく。

けど、だとしたら本当の父親はどこにいる?片桐の父親、今まで考えたこともなかったけど、今どこで何をしているのか全く分からない。連絡を取りたいけど、そういえば片桐の携帯を見たときアドレス帳に父親の名前はなかった気がする。たぶんこの家には暮らしていないだろうし、接触するのは難しそうだ。

まだ片手に携帯を握ったままなのに気づき、慌ててポケットにしまう。また通行人から怪しげな目で見られている。これ以上この場にいたってなんの情報も得られない。まだ玄関の前で話し続けている香織さんと女の子に背を向けて、片桐の待つ家に向かう。



(4)

「隆司さん―!!朝です!朝ですよ!朝が来ました!!」

誰かが身体を揺らし続ける。おなかのあたりがとても重くて、呼吸するのが難しい。上と下、涙で固まったまぶたを無理やりこじ開けると、目の前にドアップで片桐の顔が迫っていた。どうやら、俺の腹の上に馬乗りになって顔を覗き込んでいるみたいだ。

「あのなあ、そりゃ当たり前に朝は来るからな。いちいち朝が来たくらいで騒ぐなって……」

「なにを言ってるんですか!今日はただの朝じゃないです。なんてたって、日曜の朝ですよ!これはもう、これ以上寝ている理由はないです!」

日曜だからこうして寝ているんだよと、反論する元気すらでない。無視してこのまま寝続けようかとも思ったが、今度は体をゆすって起こしにかかってくる。

「なんだよ、飯か?適当に冷凍ごはん食ってくれ。日曜の朝くらい料理しないで休みたい」

「むう。ご飯じゃなくて、せっかくの日曜なんですからお出かけしましょうよ~」

片桐は何度も身体をゆすり続ける。おなかの上から降りてくれる気配もないし、たぶん俺が起きるまでこれは終わらないんだろう。一度小さく息を吐いた後、勢いよく身体を起こした。

「のわわわ!!」

お腹の上にいた片桐は俺が突然起き上がったことに慌てて真後ろにひっくりかえった。ひっくりかえった時に打った頭を押さえながら、恨めし気に睨んでいる。

「むうぅ。隆司さん、乱暴です。乱暴な人は、私嫌いです」

「うっせ。寝ている人間を無理やり起こすような奴の方がよっぽど乱暴だと思うけどな」

「それは、朝なのに起きない人が悪いんです。さらに隆司さんの評価が下がってます」

なんとなく狙いが分かってきた。相変わらずひっくり返ったまま、何かたくらむような顔をして怒ったふりを続けている。

「どうしたら許してくれる?」

俺の質問に、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた。

「ふっふっふ……」

不敵に笑う片桐は、おもむろに何か紙のようなものを取り出した。

「これです!これに連れていってくれたら、特別に許してあげます!!隆司さんにとっても悪い話じゃないと思うですけど、どうでしょう……?」

片桐が取り出した紙のようなものは、どうやらなにかのビラのようだ。詳しくビラの内容をチェックしてみると、それは地元のお祭りの宣伝ビラだった。

「なになに、これに行きたいのか?」

必死に何度もうなずいて、どれだけ行きたいのかアピールしてくる。引っ越してきたばかりの俺にはよく分からないが、ビラを見た限り結構大きなお祭りみたいだ。いろいろな屋台や出し物の宣伝がたくさん載っている。

実のところ、俺も少しお祭りは行ってみたかったけど、悟られないように「ったく、しょうがない」と一言前置きを入れた。

「お祭り、行くか?」

そう言うと片桐は満面の笑顔でうなずいた。

「はい!ぜひぜひ、絶対行きます!!」



「隆司さーん!早く早く~、こっちチョコバナナあります!」

「はあ、まったく。どれだけ食べるつもりなんだよ」

焼きそば、お好み焼き、たこ焼きに、大判焼き、会場についてから怒涛の勢いでいろいろな屋台を食い漁っている。

会場はやっぱり人がたくさんで、油断するとすぐに片桐を見失いそうになる。日曜の昼間なのだから人が多いのは当たり前だけど、かただか地域のお祭りにこれほどの人が集まってる光景に、改めて東京の恐ろしさを感じる。

「んん~、最高です!やっぱり甘いものは幸せになれますね」

片桐は本当に幸せそうな顔で、屋台で買ったデザートをむさぼり食っている。

「食べるのはいいけど、あんまり買いすぎるなよ?いくらお金もらってるとは言え、お互い少ない仕送りの貧乏人なんだから」

「まあまあ。せっかくのお祭りなんですから、そんな野暮なことは気にせずにとことん楽しみましょうよ♪隆司さんも食べますか?」

そう言って、少しかじったチョコバナナを差し出してくる。しばらく一緒に暮して分かっていたけど、こういうところは本当に鈍感だ。いくら三つくらい年下でも、どうしてもやっぱりドキドキしてしまう。年頃の男子にはなかなかの試練だ。同じ部屋で寝泊まりしているというのに、まるっきり耐性が付かないとは思いもしなかった。

「食べないんですか?別に私一人で全部食べるからいいですけど」

「……いや、食べます」

結局食べた。

ちょうど時刻は3時ごろで、甘いものを口に入れるには絶好の時間だった。今日片桐に誘われて家を出たのは結局お昼頃で、会場に着いた時にもう正午を回っていた。さすがに歩き続けて足が疲れてきた。

「隆司さん、次はなにを食べます?」

「おまえは食べることしか頭にないのかよ。もっといろいろやることあるだろ?」

「すいません、お祭り自体すごく久しぶりなもので……」

片桐は少ししょげた顔をして肩を落とす。たぶんきっと、本当に何年もお祭りって言うものに行ってないんだろう。このまま片桐の好きにさせていたら、今日一日ただご飯を食べ歩くだけで終わってしまう予感しかしない。それはちょっと、胃袋的にもお財布的にも気分的にもきつかった。

「しょうがないな、俺がお祭りの楽しみ方ってやつを教えてやるよ。ほら、行くぞ!」

せっかくお祭りまで来たのに、思い出がただご飯を食べただけっていうのも悲しすぎる。思わず片桐の手を握って、この人混みの中を歩き出していた。

そこからもずっと歩き続けた。お互いへとへとになるまでいろんなお店に行って、いろいろな出し物を見た。大学生にもなって恥ずかしいけど、水ヨーヨーすくいや金魚すくいもやった。金魚は一匹も取れなかったけど。

他にはゲストで来ていた地元歌手の歌を聞いたり、芸人のお笑いライブを見たり、できそうなことは全部やった。

そんな風に楽しんでいたら、もう辺りは真っ暗になっていた。あとは最後のイベント、夜の花火を見るだけだった。ほんの5分くらいのスケジュールで、きっと大した規模じゃないだろうけど、この日最後のビックイベントだった。

空気もだいぶ冷たくなって、辺りからはだいぶ人の姿も少なくなっている。閉店している出店がほとんどで、お祭りの終わりのムードを漂わせている。それでもやっぱり最後の花火を楽しみにしているのか、小さな子供を連れた親子もまだまだいる。

張り切って叫ぶ子供たちの声。別に子供の声なんて、お祭りにいれば当たり前に聞こえてくるし、さっきまではまるで気にならなかった。

そのはずなのに。

一人の女の子の叫び声が頭に響く。“お母さん”と呼ぶ声。別にこんな小さな女の子の知り合いなんていないのに、聞き覚えのある声だった。それはついこの間聞いたばかりの声。

声の方角を振り返ると、人混みの奥に見覚えのある3人組の親子が見えた。見間違いじゃない。一人は香織さんで、もう一人は父親であろう体格のいい見たこともない男の人、そしてその二人が連れているのは昨日香織さんの家の前で見た小さな女の子だった。

心臓が止まるかと思うくらい高鳴った後、どくどくと高速で脈打ち始める。まだあの3人と片桐は気づいていない。だけど、いつ気づかれたっておかしくない距離で片桐が気付くのも時間の問題だった。

もう考えている余裕もなかった。片桐の手をつかんで走り出す。事情の分からない片桐は困惑しているが、転ばないようになんとか合わせて走ってきてくれている。途中で何人もの人にぶつかりながら、人混みで視界の悪い中を走っていると、自分がどこにいるのか分からなくなった。

しばらく走ると、ようやく人混みを抜けて視界が開けた。たどり着いた先は、なんにもない小さな公園だった。

「こんなところがあったんだな……」

さっきまでの混雑が嘘みたいに、人ひとりいなくて静かな時が流れている。ひょっとしたら花火を見る穴場かもしれない。お互い乱れた息を整えるために、しばらく何にも話さずにただ荒い息を吐く。

「はあはあ。突然どうしたんですか。いきなり走り出すなんて、青春感じちゃったんですか?」

「うるさいな。大人には大人の事情ってのがあるんだよ」

もっともらしい言い訳も思いつかなくて、適当な言葉でごまかす。片桐は怪訝な顔をしながら、近くにあったベンチを腰を下ろした。

俺もそれに合わせて片桐のすぐ隣に腰を掛ける。夜の冷たい空気が火照った身体に心地いい。お互い何も言わずに空を見上げて、花火が打ちあがるのを待つ。やがて、間もなく打ち上げ開始だと近くのスピーカーからアナウンスが告げられた。

「ねえ、隆司さん?」

これから花火の打ち上げられる夜空を見上げながら、片桐は小さく俺の名をつぶやいた。俺も片桐のまねをして、夜空に向かって目を向ける。

「なんだ?花火始まるぞ?」

その瞬間、遠くで色とりどりの光が瞬く。ピューという気の抜けるような細長い音と共に、光が線を引いていく。光は力を蓄えるかのように一瞬だけ消えた。

そして。

「隆司さんに会えて、私はとってもとっても幸せ者です」

満面の笑顔が、大きな光の花と共に咲いた。

身体を震わせる轟音が光よりも遅れてやって来て、何度も何度も耳を叩いていく。花火の光に照らされた片桐の輝くような顔を見て、何一つ言葉が浮かばない。ただ、その表情を美しいとだけ思った。

なんとなく、永遠に花火が続くようなそんな錯覚がした。けれど、花火はお祭りを締めるためのおまけ。すぐに夜空を埋め尽くしていた光はすべて消え去って、代わりにお祭りの終わりを告げるアナウンスが聞こえてきた。

お祭りは終わったっていうのに、俺たちは二人ともベンチから立ち上がらずにさっきまで花火が上がっていた空を見上げ続けている

帰宅していく参加者たちががぞろぞろと帰り始めているのが分かる。けれど、ほとんどこの公園を通っていく人はいなくて、まるでここだけ別の空間として切り取られているみたいだ。

「なあ、片桐。お祭り満足できたか?」

「今さらなにを言ってるんですか。もう満足も大満足ですよ!」

こんなことが聞きたかったわけじゃない。俺が聞きたいのはもっと別のこと。

ちょうどその時、一組の親子が公園を横切っていった。父親は女の子を肩車して歩いている。恐れとか躊躇とか、そんな感情が一切消え去った。

「なあ、父親のこと聞かせてくれないか?」

その瞬間、自分でも驚くほどすんなりと言葉が出てきた。昨日からずっと聞きたかったけど、お祭りの雰囲気を壊してしまいそうでずっと聞けなかったこと。

俺がこの質問をすることで、片桐を悲しませることになるかもしれない。そんなことは分かっていた。そして、その予想結果を裏付けるように、いつまでたっても返事が聞こえてこなかった。

「悪い、変なこと聞いたな」

その間に耐えられなくなって、思わず謝る。すぐ隣で座る片桐はうつむいていて表情までは分からない。それでも、俺の無神経な質問で傷つけてしまったことだけは分かる。

片桐のすぐ隣に座っているのがどうしようもなく気まずくなって、ベンチから立ち上がろうとした。その瞬間に、何かが無理やり動きを止めた。腕を引く感触。

片桐が立ち上がろうとする俺の腕をつかんでいた。

「私、お父さんのこと話してもいいです」

片桐は相変わらずうつむいたままで、どんな表情をしているのかは分からない。片桐のあまりにも予想外の言葉に、思わず言葉を失った。

「私のこと、もっと知ろうって思ってくれてるんですよね?だったら、教えてあげてもいいです」

表情は分からないけど、すごく勇気を振り絞って話してくれているのが、この震えた声を聞いていると伝わってくる。

「でも、ただで教えるのは癪なので、一つだけ条件を出してもいいですか?」

「条件?あんまり無茶な要求じゃなければなんでもいいぞ」

「私のこと、名前で呼んでください。そうしたら話してもいいです」

あまりにも意外すぎる要求に少し戸惑った。考えてみれば、こんなの今更過ぎるくらいだ。返事をする代わりに、小さく微笑んで見せる。

「教えてくれ、惣乃。お父さんのこと」

ついに惣乃は顔を上げて目を合わせる。

「はい、隆司さんっ」

その顔は晴れ晴れとした笑顔だった。名前で呼んでもらうのがそんなにうれしいのか、ここまで喜ばれるとこっちが恥ずかしくなってくる。

けれど、その笑顔が惣乃の顔に浮かんでいたのもつかの間。もうすでにさっきまでそこにあったはずの笑顔はない。

どこまでも冷たい顔。無機質で何の感情も伝わらない顔に塗り替えられていた。

そして、語り始める。

多くを語ることを望まなかった惣乃の口から、俺のずっと知りたかった事実が語られる。ただ、その第一声はあまりのも残酷で、思わず耳を疑いたくなるような事実。

確かに惣乃はこう告げた。

「私のお父さんは、お母さんに殺されました」、と――


(5)

「ねえ、隆司さん。ひょっとして、今日のお祭りにお母さんが来てたんですか?」

「相変わらず勘のいい奴だな。ああ、確かに香織さんはお祭りに来てたよ」

お祭りが終わって、公園のベンチで惣乃の話を聞いた後、家に着いたころにはもう日付が変わる寸前だった。それぞれシャワーを浴びて寝る支度をしたけれど、どうにも寝る気分になれなかった。

「あれだけ慌ててたらバレバレです。隆司さんって、絶対に嘘をつけないようなタイプだと思います」

「ほっとけ、自分でも分かってるよ」

結局日付が変わっても俺たち二人は眠る気分にならなくて、公園での話の続きをしている。部屋の電気を一段階暗くして、二人ベットに並んで座って、いつでも眠れるよう準備をした。

「お母さんは誰と一緒にいました?」

「あの人は、一人だったよ……って、待て。ひょっとして、俺がおまえの母さんに会ってたことも知ってるのか!?」

そうだ、惣乃が知ってるのは俺と香織さんが電話で話していたところまでだし、香織さんに実際に会っても気づけるはずがないんだ。完全にはめられた。

「えへ、実はさっきの質問はちょっとカマかけてみただけでした!なんとなくとは思ってましたけど、やっぱり会ってたんですね」

さっきからずっと、俺は惣乃に好きに操られていたわけだ。見た目通りのバカじゃないってことは知っているけど、やっぱり見た目はバカっぽいからどうにも癪だった。

「あの。隆司さん、今すごく失礼なこと考えてません?」

「まさか。やっぱり惣乃は賢いなあって思ってたところだ」

惣乃はいわゆるジト目で俺を見つめて無言の抗議を送っている。惣乃にさえ信じてもらえないことがこんなに悲しいことだとは思わなかった。

「でも、会ったって言っても俺が一方的に見てただけで、別に話をしたとかそんなわけじゃないんだけどな」

「なんですかそれっ!一方的に見てるだけって、ストーカーですかっ!?人の母親相手に何してるんですか!」

「やかましい!俺だって、好きで声をかけなかったわけじゃないんだよ!ただ、ちょっと予定外があっただけで……」

あの女の子を見つけた瞬間のことを思い出す。香織さんに会いに行くつもりだっただけなのに、あの少女の存在はどこまでも予想外だった。

「まあ、別にいいですけど……お母さんは元気そうにしてましたか?」

「どうだろうな、たぶんあんまり元気では、ないと思う」

今日のお祭りと家の前で見かけた香織さんは、どっちもはっきり見たわけじゃないけれど、なにかに追われているようなやつれた顔をしていた。そんな顔していた理由までは分からないけど、きっと惣乃のことを忘れて切れていないんじゃないかとそう信じる。

「そう、ですか……」

「心配か?」

「うーん、よく分からないです。でも、もしあの人が今のん気に暮らしていたら、きっと私は不快になってると思います」

「そりゃお前からしたらそうだよな」

自分を捨てた母親が、自分を差し置いて勝手に幸せになっていたら誰だって不快に思う。けど、香織さんは今新しい家庭で新たな人生を見つけようとしている。

それを知ったら、惣乃はどんな顔をするだろう?思わずさっきは嘘をついた。香織さんは新しい家族と一緒にお祭りにいたのに、一人でいたと嘘をついた。今思えば一人でお祭りにいるなんておかしいし、友達のような人といたとかもっと上手な嘘をつけばよかった。

けど、いつかは話さなくちゃいけない。香織さんが守ろうとしている新しい家庭は、必ずしも惣乃と一緒に暮らす生活と両立できないわけじゃないはずだ。惣乃はいつかこの事実を受け入れなくてはいけない。

「俺、明日香織さんに会ってくるよ」

覚悟を込めて惣乃に告げる。さっき公園で話を聞いたときに確信できた。惣乃は本気で香織さんのことを、自分の母親のことを嫌いになってなんかいない。

「よろしく、お願いします」

惣乃は小さく頭を下げた。自分の母親と仲直りをするために、俺に仲介を頼んだのだ。今まで仲直りをすることに消極的だったあの惣乃が、だ。

「嬉しいこと言ってくれるじゃねえかよ……任せろ」

小さな声で、けど確かに力強く約束をした。すぐ隣に座る惣乃の頭をなでて、小さなぬくもりを感じる。

すると、肩に重みがのしかかる。惣乃は眠くなったのか俺に寄りかかり、体重を預けてきていた。俺もお返しに寄り添って、頭と頭をくっつける。

しばらくそうしていると、すぐ隣から小さな寝息が聞こえてきた。壁にもたれたままの惣乃をベットの上に寝かしつけると、「おやすみ」と一言だけ伝えて、起こさないように慎重に自分の布団に戻る。規則的に聞こえてくる寝息を聞いていると、知らないうちに眠りに落ちていた。


(6)

「ふんふ~ん」

朝、朝食を取り終わって未身支度を整えていると、鼻歌なんて歌ってご機嫌な様子で冷蔵庫の中を漁っている惣乃が目に入ってくる。普段ジュースを飲むときくらいしか冷蔵庫を開けないから、こんな光景は珍しい。

「えらくご機嫌だな。朝からどうしたよ?」

「ふっふっふ、聞いちゃいます?聞いちゃいます!?実はなんとおおおぉ!!??」

「あ、こっちの意思は関係ないのね……」

「なんと、今日は帰りは遅いですよね?そんな隆司さんのために、私の愛情こもった晩御飯を作ってあげます!」

惣乃の料理?どうしてだろうか、今からすごく嫌な予感がしてならない。はたしてちゃんと人間の食べられるものが出てくるのか、ゲテモノが出てくるのか。俺は後者に千円くらいかけよう。

「まあ、あれだ。覚悟しておくわ」

「期待してください!!」

でも、もしも食べられるレベルの料理が出てきたら、それはきっと奇跡と呼んでいいレベルだろう。

「それでですね、今見たら卵とか食材がほとんどなかったので、いろいろ買い出ししていいですか?」

「別にそれは構わないけど、余計なもん買うなよ?」

「むう。馬鹿にしないでください!主婦顔負けの買い物テクニックで、セール品買いまくってきます!」

「いや、欲しいものだけでいいから……」

惣乃は少し不満そうに眉を垂らす。こうして一人で買い物を頼むのは、実は今回が初めてかもしれない。年齢的には一人で買い物の一つくらいこなしてくれないとおかしいのだが、なにせ自称幽霊のとんでもないやつだ。買い物一つ任せるのも不安でしょうがない。

「ま、社会勉強がてら行ってこいよ。料理も期待してるから」

身支度は完了。今日も惣乃を一人残して家を出る。別にいつも通りのこと、けれどどうしてか玄関まで見送りに来てくれた惣乃をいつもより長く眺めていた。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもない。行ってくるな」

「はい、いってらっしゃいです!」

香織さんの家にはこの前と同じ、昼過ぎに着くように行こう。惣乃に見送られながら、そんなことを考える。

ドアを開けると、家の外はやけに暑かった。


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